今日は「エラソーなヤツ」ではなく「エライ人」の話。

ホントに「エライ人」のことである。

最近、巷の親や、先生(医師、教師など)や、老人(敢えて高齢者ではなくこう呼ぶ)などについて“軽く”なったということがよく言われる。
確かに、明治、大正、昭和中盤までの親、先生、老人は軽くなかった(軽くない人が多かった)。 
重みがあった。
威厳があった。
一家言あった。
その人の中にブレない生き方の軸があった。
そういう意味で、ホンモノの「エライ人」がいたものである。

もちろん全員ではなく、その中にはただの「エラソーなヤツ」が混じっていたので、そういう連中は除く。ただ我が強いだけの勘違いヤローは別である。

最近の親や先生や老人たちの方が親しみやすく、話しやすく、分け隔てない感じになって来たのは、私も悪いことではないと思っている。
しかし、いざというときにね(いざというときだけでいいんですけど)、重みがない、頼りない、ブレない生き方の軸がないような気がする。
これはちょっと問題なんじゃないかな、と思う。

つまり、ことの本質は、軽いか重いではなくて、親や先生や老人という人生の先輩たちが、さまざまな体験を活かして、ブレない生き方の軸、それは即ち、本来の自分を生きることであったり、本当の意味で自分以外の人を愛することであったり、ミッションに生きて死ぬ覚悟であったり、そんな生き方を体得していないことにあるのである。

私には近藤章久という非常に有り難いモデルがあった。
普段は優しく、とても親しみやすい方であったが、いざとなると、万氣溢れる、ド迫力の方であった。
そして全くブレなかった。
それは軸というより不動の柱のようであった。
そして自分を生き、人を愛し、ミッションに生きて遷化された。

世の親である方々、先生である方々、老人である方々、成長は死ぬまで続く。
共に人間として成長して行こうではありませんか。
自分を生き、人を愛し、ミッションに生きて死ぬために。
そして、子どもたちは、生徒たちは、後進たちは、あなたの生きざまを観ています。


 

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