「そもそも私は、ほんとうは死んでいる人間なんです。
あれは、箱根で水上スキーをやっていたときのことでした。私は、五十いくつぐらいかのときよく水上スキーをやっていたのですが、そのときは自分のワイフに教えようと思ってやっていたのです。
モーターボートの運転手に『はい』と合図して、スピードがだんだん出てグーッとロープが引っ張られたとき、何が何だかわからないうちに、私は水中にひっくり返ってしまったのです。そして水をガブガブ飲んでしまったんです。あっ、これは死にそうだ、このままいったら死ぬなと思いました。ああいうときに、どうしてあんな気持ちがおきたのかわからないですけれど、どういうものか、私は水のなかで非常に静かな気持ちになっていました。すごく静かな気持ちです。自分はすごいスピードで水の中を引っ張られているのですが、目の前を通る水が見えるのです。静かな気持ちで見えるんです。見えると同時に自分の足が見えるんです。その足がスキーとモーターボートをつなぐロープにからまっているのがわかったのです。それを見て、このまま死ぬんだなと思ったときに、ふっとロープを手でつかめた。それでありがたいことに一本の足がロープからはずれたんです。それから次の足がはずれて。ポカッと水面に浮きあがったのです。太陽がサンサンと湖の上に照っている。すばらしく美しい。生きているとはすばらしいことだと思いました。
この体験以来、死ぬということはあんまりこわくない。『死』自体はね。もうひとつ私には死に近い体験があるのです。
戦時中のことです。私は通信兵としてその夜、沖縄に向かうことになっていました。昼に、穴掘り作業をやっていたのですが、そのとき私の戦友が少し気が変になって、ツルハシを振りまわしたんですね。それが私の手にあたって、手が麻痺してしまったんです。そうしましたら、おまえでは通信の役に立たない、だから連れていかないというので、他の人が行くことになったのです。私の部隊は深夜三時に沖縄に向けて出発しました。一緒に行くはずの私は見送ることになったのでした。自分としては沖縄に行くことは死ぬことだと思っていました。部隊は沖縄へ行く途中、南シナ海でアメリカの潜水艦に爆撃されて全滅です。あのとき、戦友がツルハシを振りまわしていなかったら、私はいまこうしていられませんね。
こういう人間という存在の意味を考えますと、人間が最初にいのちを与えられるとき、赤ん坊にも親にもわからないけれど、どんないのちにもその独自の生きる意味が与えられているということが私には強く感じられる。そして、その独自のいのちが持つ『使命』が完了したときに死が訪れるものだと思うのです。苦しんだり嘆いたり、つらい思いをしたり、どうしてこんな目に遭うのだろうと感じたりしますが、そこにその人のいのちの大きな意味がある。その意味を果たしたときに、私は死が訪れてくるのだと思うのです。そのときにはじめて、もうおまえは帰ってきていいよ、と生まれたところへ帰ってくる。ふるさとに帰ってくることができるのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

可能ならば、自分がいのちを与えらえた意味を知りたいと思います。
自分に与えられた使命を知りたいと思います。
そしてそれを生き、それを果たしてから死にたいと思います。
少なくともわたしはつよくつよくそう思うのです。
ニセモノの自分を生きて死ぬのはイヤです。
上っ面の満足で生きて死ぬのもイヤなんです。
ちょろまかしの人生でへらへ生きて死ぬなんてまっぴらです。
人間の「成長」とは、結局のところ、自分に与えられた使命を知り、それを果たして生きて死ぬことを指しているのだと思います。

 

 

お問合せはこちら

八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。