大学病院に勤めていた頃、外来の隣の診察室からベテラン精神科医の声が聞こえて来た。
「ここは人生相談に来るところじゃないからね。」
初診の患者さんに話しているらしい。
「病気の人が治療に来るところだよ。」
確かに、診断を付けて、薬物療法などの治療を行うことが医師の役目、病院の役目というのは、ごもっともなご意見である。
しかしそれを聞いて、私の中には何とも言えない違和感が残った。
「ここは人生の相談をするところじゃないんだ。」
その違和感がどこから来たかが後日、明確になった。
つまり、そのベテラン精神科医は、診断や処方はできても、人生に関する答えを持っていなかったのである。
だったら、そう言えばいいのに。
「私は答えを持っていません。」と。
そして近藤先生に出逢ったときに確信した。
「この人は答えを持っている。」
人が何のために生まれて、何をして生きて死ぬのかを知っている。
結局、人生の問題を解決してくれる薬物療法はなく(酒やドラッグに逃げるくらいか)、
精神療法というのも、治療におけるものは、本人が所属環境に適応して生きて行けるようになることぐらいしか目標としていないことがわかってしまった。
それじゃあ、人生の答えは持っていないわな。
よって、私が思う本当の精神療法を行うためには、人生の答えが要るんです。
そしておもしろいことに、同様のことが、最近の精神科クリニック界隈でも起きている。
初診者の内訳が変わって来ているのだ。
いくつかの最近の潮流があるが、そのひとつとして、はっきりとしたザ・精神障害があり、明確なザ・治療を必要とする人たちが減って、診断のつかない、そしてまさに人生相談に来るような人が増えているという。
それくらい精神科クリニック受診の敷居が低くなったことは有り難いことであるが、困るのは医療者の方で、人生の答えを持っていないのである。
残念ながら、そんなに自分自身のことも、自分の人生のことも見つめてはいないのだ。
サイコセラピーもカウンセリングも面接も、専門的知識と技術でちょろまかせるうちはいいが、本格的な人生の話となれば、医療者個人が人間として試されることになる。
人生の問題に正面から答えられるサイコセラピーやカウンセリングや面接が、
いや、人生の問題に正面から答えられる医療者が、
いや、人生の問題に正面から答えられる人間が必要とされているのである。