今回から「金言を拾うⅢ」、近藤章久『感じる力を育てる』に入ります。

「親の過保護とか過干渉とかいうものは…ものすごく残酷な結果をもたらすものですが、それを親は気がつきません。自分は愛情をもっていると独り決めして、この子のためにはこうすることがいちばんよいのだと思っています。こんなふうに自分は愛情をもったよい親であるという錦の御旗をもっていることに、実は問題があるのです。
親は愛情の名のもとに、自分たちの強制的な管理の下に自分の子どもを置いているわけです。…子どもは物ではないのです。人間なのです。…ところがその生命を持った人間である子どもを愛情の名のもとに、まるで物のように取り扱うところに問題があるのではないでしょうか。
…物とちがって人間は、生まれて一年もすると、なかなか親の思いどおりにはなりません。子どもは自分で歩きはじめる。そうすると親が『そっちへ行ってはいけません』というのにかえって、反対の方へ飛び出したりして、なかなかコントロールができない存在になってくるものです。
そこら辺から母親とか父親の間違いがはじまります。しつけなければならないと、いわゆるアメと鞭でもって、できるだけ自分たち大人の言うことをきくようにしつけようとします。そして、いろいろやった揚げ句、それが成功して、おとなしい子どもになったと安心した時には、子どもは自分の生命から自然に出る自発性を失っているわけです。自分が何を感じ、何を考えるかわからなくなっています。そして現実に面すると深い無力感を感じます。どうしていいかわからない。自分で考えることも、決めることもできなくなっているのです。…
親は自分の理想像を子どもに強制して、自分の考えどおりに子どもをコントロールしますが、事実は子どもの自由に発達するべき能力を伸ばさず、かえって退化させてしまって、せっかくの可愛い子どもを不幸にすることになるのです。
その不幸から子どもを救うためには、子どもには子どもの人生があり、親はその子どもに代って生きることができないという現実をよく認識して、ゆったりと大らかに子どもを見守り、子どもに接すること、子どもが自分で物事を感じとり、思考や感情を生き生きと伸ばして行くのを助けることから始めるより方法はありません。
ここで親は、自分の根本的な態度をもう一度、ありのままに見て、自分たちは子どもを自分の思いどおりにしようとしているかどうか、子どものありのままの姿をそのままに認めて、それを伸ばそうとしているかどうか、この際しっかりと検討してみることが何より大切です。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より

 

ちょっと厳しいことを申し上げるようですが、ここでも私は世の親御さんたちに「凡夫の自覚」を要求したいと思います。
親が子どもを産める年齢というのは、何故か、とても若いのです。
生物学的にそう決まっているから仕方ないのですが、精神的には、子どもが子どもを産むということになります。
即ち、若い親が授かるには、子どもの生命(いのち)というのは尊過ぎるのです。
ですから、親の基本的姿勢としては、「こんな未熟な親だけれど一所懸命に育てるから勘弁してね。」ということになります。
ここに謙虚さが生まれます。
「正しい親」が「何もわかっていない子ども」をコントロールしてやる、というような思い上がりは生まれないはずです。
ですから、ここでもまた、子どもの生命(いのち)に対して、どうか合掌礼拝(らいはい)するような気持ちで、子育てに当たっていただきたいと切に願います。


 

お問合せはこちら

八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。