八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

「父親は子どもにとって、手本ともなり鑑ともなる、一つのしっかりした像でありたいと思います。…
父親が社会の現実について、子どもにしっかりした情報を与えることができる。また人生の生きる上で、どうしたらよいかの信念を持っている。こうした父親に子どもは信頼感を持ちます。…
第二次大戦のあと…制度上も観念的にも、尊敬の対象としても父親像が一ぺんに失われてしまいました。父親の権威と権力が一ぺんになくなってしまったわけです。
それでは、いまの父親に権力意識がないかというと、ストレートには出ませんが、隠れた形であるわけです。昔はどうかというと、私の父などは、二言目には『何だお前、俺の言うことがきけないのか!』と権力意識丸出しでした。けれどもいまの親は、自分はまるで権力意識がないような言葉遣いをして、しかも裏に権力欲を持ちながら接するからおかしなことになります。
子どもは虚偽というのが嫌いです。これはほんとうは、大人でも嫌いでしょう。たとえ使っている言葉は丁寧でも、底に親の権力欲がみえ、結局自分の考えを強制的に押しつける時、子どもはそこに虚偽を感じとってしまうのです。…
男の子は男の親とほんとうに人間として真剣に対決する時があります。そうしてほんとうの男性になり、人間になっていくものです。理解だとか相互の対話なども大切なことですが、こうした対決も成長の上で必然的なことであり、それを通じて父親は子どもを鍛え、成長させていくものです。…
最近、特に親子の理解とか、人間どうしの理解が叫ばれ、たやすく『理解』という言葉を使いますが、理解などということは決して簡単なことではありません。自分の子どもですら、公平無私な愛情をもって理解するなどということはなかなかできません。…理解できないというのは互いに悲しいことであり、つらいことではありますが、理解できないことは、理解できないという事実として認めなければなりません。お互いに事実を認めることにおいて、そこに共感が成り立つのです。その時には、理解できなかった。それでは理解するために何が解決になるかというと、簡単に言えば、よく言うところの時間が解決することが少なくないものです。時間が解決するとはどういうことかというと、時間をかけてお互にいろんなことを経験し合うことによって、理解に近づいていくということです。いわゆる時熟とか時節因縁ということでしょう。
私は職業がら、親子関係がうまくゆく方法をよく聞かれます。ところが、うまくいかないのが親子関係なのです。それをうまくやろうというのは不自然なことです。うなくいかない、そこにほんとうの真剣さを要求されるものがあるのです。…
子どもが成長して、ある時期、親に刃向かってくる時があります。このような時、親はその攻撃から逃避したり、妥協してうまくやろうというのではなく、子どものために、剣道で言えばけいこ台になってやるくらいの気持がなければなりません。けいこ台であっても、いい加減に相手をすることはできません。時には激しく打ち込む場合もあるでしょう。
その時すぐには、子どもはその一撃を、親の愛情として受けとめることができないかもしれません。しかし、親にほんとうの愛情があれば、あとになって必ずわかってもらえるものです。
底流、アンダートーンという言葉がありますが、深い愛は底流のようなものです。
浅い愛は目に立つが、すべて深いものはかくれてわからないもので、あとになってからほんとうに深くわかるものです。その意味でも待つことが必要であります。はげしい対立のあとに感じられる理解のうれしさは、深く流れる底流があったればこそ味わえるものでしょう。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

「子どもは虚偽というのが嫌いです。
またもや近藤先生は大事な真理をあっさりとおっしゃるものです。
だからこそ大人が子どもに接するとき、嘘偽りのない姿勢が要求されます。
そして、親子の相互理解の難しさ。
時には激しく対立するときもあります。
そのときも親は真剣に誠実に子どもと向き合うということ。
そしてすぐに安易な解決を求めず、時熟を待つ、必要な時間をかけて本当の相互理解が深まっていくのを待つ姿勢が必要となります。
ここでもまた、思い通りにならないことを抱える力、(小児的態度ではなく)成熟した大人の力が要求され、さらに、子どもへの、心の深いところを流れるような、深い愛が要求されるわけです。
そういう時を経て、相互理解できないことに本気で苦しみ、真剣に対立した後だからこそ、味わえる深い喜びと相互信頼があるわけです。
そしてこのことは、親子関係においてだけではなく、すべての深い人間関係において共通の真実と言うことができるでしょう。

 

 

前回の『葉隠(1)』『葉隠(2)』に続いて『葉隠(3)』(上・聞書第二・八四)。

 

「正徳三年十二月二十八日夜夢の事。志強くなる程夢の様子段々變(=変(かわ))り申し候(そうろう)。有體(ありてい)の例は夢にて候。夢を相手にして、精を出し候がよきなり。」
(志が強くなるほど、夢の様子が段々変わって行きます。ありのままに出るのが夢です。夢を相手にして精を出すのが良いでしょう)

 

最初の「志が強くなるほど」というときの「志」の意味は、自分の主観的な思いのことではありません。
「志」という漢字は「心」が「士」を下から支えています。
つまり、その人を下から支えている力が働いているものが「志」であり、「志が強くなるほど」とは、その人をその人させる力が強くなるほど、という意味になります。
そうなってくると、夢が変わってくる。

そもそも(余程浅い夢を除いて)「ありのままに出るのが夢」であり、夢にはその人の今の本音=今の問題や成長課題、そして成長段階がよく現れます。

そして、「夢を相手にして精を出す」というのは、何も夢を相手にして、ああいう夢を見ますように、こういう夢を見ますようにと頑張ることではなく(そんな意識的なものは夢に反映されません)、夢が変わっていくかどうかを目安にしながら、自分自身の問題や成長課題と向き合って行きましょう、ということを言っているのです。

本音が変わると夢が変わる、というのは実は、自分の真の成長度を測る上で非常に役に立つ現象なのです。

 

 

お子さんがいらっしゃる方は経験がおありであろう。

1歳半頃から3歳頃にかけて(個人差あり)、いわゆる「イヤイヤ期」が到来する。
自我主張が強まり、思い通りにならないとすぐに癇癪を起こし、「魔の〇歳児」と呼ばれることもある
親御さんとしてはなかなか子育てが大変な時期である。

そして子どもがさらに大きくなってくると、問題がなくなるどころか、今度は「思春期」がやってくる。
体格は大きくなり、自分でも自分を持て余した不安定な言動は、エネルギーが大きい分だけ周囲を翻弄することになる。

この二期「イヤイヤ期」「思春期」に対して(他にも子育てにおいて大変な時期は無数にあるが)、いわゆる「対処法」なるものがいろいろ説かれている。
しかし、今日の本題はそこではない。
どんな「対処法」が説かれようとも、対応する親もまた生身の人間である。
気持ちに余裕がないと、わかっちゃいるけど
やめられないで、一番言っちゃいけないことを言い、やっちゃいけないことをやって、親子関係は惨状を呈することとなる。

そこでやはり強調したいことは、小手先のハウツーよりも、まず親自身が愛されることである。
そうでないと気持ちの余裕は生まれない。
そのためには、何よりもまず夫婦同士が愛し合うことであり、
もし可能ならば、信頼できる人からも愛される=自分の存在を大切に思ってもらうことである。

シャンパンタワーを想像していただきたい。
まず一番上のシャンパングラスにシャンパンが注がれ、そこから溢れたシャンパンが下のシャンパングラスを満たして行く。
これが愛が注がれる順番。
自分が満たされていないのに、難しい年頃の子どもを愛そうとすることはなかなか厳しいのだ。

ハウツーなどに走る前に、まず親自身が潤うことをお勧めしたい。
 

 

今の世の中、「推し活」が盛んである。
夢中になれるものがあることは大変結構なことである。
それに全く異論はない。

そんな中、ちょっと気になるのは、「推し活」を楽しむ前に、あなた自身の個人生活は、仕事は、人生はどうですか?ということである。
それが充実していないと、「推し活」は単なる逃避か、ちょろまかしか、代理満足に堕してしまう危険性がある。
それでは哀しい。

「推し活」しているときだけはイヤなことを忘れられる、というのはよく聞くセリフであるが、そのときだけ忘れても現実はまた帰ってくる。
「推し活」を楽しみつつ、自らの現実生活とも向き合って、現実生活を少しでも生き甲斐のあるものにして行くことが、「推し活」に勝るとも劣らず大切なのではなかろうか。

その意味では、やっぱり一番の「推し」は自分自身なのかもしれない。
それは決して利己的な意味ではなく、まずは世界に一人の私が、一回しかない人生を生きる私が、のびのびと私して生きられるように「推し」て、その上で、私以外の存在の「推し」も成立するのではなかろうか。

自分も「推し」て、相手も「推し」て、「推し推し」の生活はとてもとても豊かなんじゃないかなと思う。

 

 

ラジオで聞いた話。

夫が何かをやらかしたことから夫婦喧嘩が起きたとする。
すると翌日、夫は必ず
妻のためにスウィーツを買って来たり
家事を率先してやったりして
あからさまに妻のご機嫌を取ろうとする。
それでも妻の機嫌が直らないと、最後に
「ごめんねダンス」というものを踊り出すのだ。
これが始まるとと、妻の方はそれが作戦だとわかっていても、つい笑って許してしまうことになるそうな。
ラジオなので、残念ながら、その「ごめんねダンス」の実態はわからなかったが、この夫もなかなかやるな、と思った。

何かにとらわれた気持ちをほぐすのに、却ってそれを強調して表現するというのは、なかなか面白い方法である。

例えば、あなたも何かに腹を立てたとき、「激高マンボ」を踊るといいかもしれない。
何か悲しい想いがしたとき、「雨のさめざめブルース」を歌うといいかもしれない。
何かでやる気が失せてしまったとき、「浪曲・太宰治のトカトントン」を唸(うな)るといいかもしれない。

但し、ちゃんと自分と向き合わなければいけないときには、上記の方法は「禁じ手」となる。
自分の人間的成長のために勝負しなければならない問題に対しては、ヒィヒィ言いながら、ど真ん中を正面突破して行くのが当たり前である。
上記はあくまで、つまらない想いにとらわれたときの気分転換であることをお間違えなきように。

 


 

テレビをつけたら、懐かしい時代劇の再放送をやっていた。
萬屋錦之介主演の『破れ奉行』である。
皆さんはご覧になったことがあるだろうか。
萬屋錦之介扮する深川奉行が、法の目をかいくぐって悪事を重ねる時の権力者や悪党どもを将軍拝領の刀で叩っ斬って成敗するという痛快娯楽時代劇である。

最後に、萬屋錦之介が
「やかましゃい!この野郎!」
と叫んで刀を抜き、斬りまくるところが最高の見せ場である。

十代の頃、双子の弟と私の間でこの「破れ奉行ごっこ」が流行り、一方が悪人役、他方が萬屋錦之介役となり、最初は悪人役が散々に萬屋錦之介をいたぶり回した挙句、最後に堪忍袋の緒が切れた萬屋錦之介が「やかましゃい!この野郎!」と叫んで、悪人役を斬りまくるというのがお定まりの展開であった。

この溜めて溜めて溜めて最後にドカーンとキレるというのは、実は幼少期からの私のパターンであり、周囲からもよく指摘されていた。
しかし、今にして思えば、それは私の持って生まれた気質ではなく、あの松田家の支配的雰囲気の中での鬱屈した思いが溜まりに溜まって爆発するという形を取って表われていたのである。
よって、『破れ奉行』のストーリー展開に、当時の私がはまるのも当然であった。

近藤先生のお蔭で、今は本音をむやみに溜め込むこともなく、自分の思いをいつでも表出できるようになったため、溜めて溜めて溜めて最後にドカーンというパターンはなくなったが、久しぶりに『破れ奉行』を見て、実に懐かしく感じたのである。

ちなみに、放送途中からこの名セリフ「やかましゃい!この野郎!」が、何故か「てめぇら、斬る!」に変えられてガッカリしたのを覚えている。
やっぱり「やかましゃい!この野郎!」でないと雰囲気が出ない。
また、今回調べていて発見したのは、この『破れ奉行』の第1話などの脚本を書いたのが池田一朗という脚本家であり、それはなんと、あの『吉原御免状』を書いた小説家・隆慶一郎その人であった。
私が気に入るはずである。

ご関心のある方は是非一度ご覧あれ。
但し、「やかましゃい!この野郎!」パターンで。

 

 

前回の『葉隠(1)』に続いて、『葉隠(2)』(上・聞書第一・五十)。

ある武士が酒席で失態を演じた。
この者の処遇をどうするかが議論されたとき、大方は「立身無用」、即ち、こんなヤツに今後出世の機会はないようにするべきだ、と決しかけたが、ひとりの武士が、一度間違いを犯したの方が後悔し、お役に立つようになる、むしろ出世させるべきだ、自分が請け合う、と申し出た。
何故そこまで請け合うのか、と訊かれたその武士の答え。

「誤(あやまり)一度もなきものはあぶなく候(そうろう)。」
(過ちを一度も犯していない者は危のうございます

先日拙欄で取り上げた『新約聖書』の

「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ石を擲(なげう)て」
(おまえたちの中で罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい)

を連想する。

過ちを犯したことのある者、そういう人間の弱さを知っている者こそが、
過ちを犯したことのない者、正確に言えば、過ちを犯したことがあるくせにそれに気づいてない者よりも、
はるかに信用できるのである。

 

 

「父親が、子どもとできるだけ行動を共にすることが非常に大切だと思います。…そういうふうな触れ合いをとおして、お父さんはこんなことを感じているんだとか、考えているんだとかいうようなことが自然に耳に触れる。お父さんの行動や考え方が、以心伝心で膚(はだ)で触れるというふうな感じ、そういうようなものがやはり子どもにとって、子どもの実感をつくっていくのに役に立つのではないかと思うのです。…
私はどうしても教育の本来の形は、はじめは親子の間にあったと思います。これは私の持論です。教育とは親子の間の関係にできるだけ近いものにすることが大切ではないかと思うのです。実感ということも、共感の中の実感というか、実感を共感するというか、そういう関係の中で経験することができます。…
実感を分かち合うことがコミュニケーションなのです。コミュニケーションの『コム』というのは『共に』という意味です。実感を共にすることです。私はそれが親子関係では、いちばん大事なことではないかと思います。…
お義理の家族サービスではない、父親自身がそのことを楽しんでいる姿が、子どもと行動を共にしながら喜んでいるその姿が、子どもにおのずからよい影響を与えることになるのです。
次に父親にとって大切なことは、やはり時々、自分のための暇を作るということでしょう。…
それは自分の内部感覚、自分の生命の呼び声、深い所からの促しを聞くために必要なのです。…
例えば、庭いじりでも日曜大工でも、音楽をきくことでも静かに瞑想することでも、ゆっくりくつろぐことでも何でもいいのです。その中で、一個の人間として自分の命を感じてほしいのです。自分の命が息づいているのを感じる、内部感覚の実感が非常に大切です。
こうした自分自身になった父親の姿を子どもは敏感に感じとります。『何だかお父さんは楽しそうだなぁ』と、それだけでも子どもは安心感と信頼感をもって受けとめるのです。
ところで、自分自身の声をきき、内部感覚を感じ、自分自身になるために、いつでもどこでもできるいちばん簡単な方法は、肩の力を抜いて、ゆっくりとすわってみることです。
ゆったりとしながら…自分の中に湧き起こってくるいろいろな気持を、『ああ、なるほど』と、静かに感じ、見ていく余裕をもつことです。…
自分の声を聞いている。自分の中に起こる状態の在りのままの姿を素直に見ているのですから、いちばん正直であり、最も倫理的な姿であると言えます。倫理の根本は自らを欺かないことです。自らの内なる声に、内部感覚に素直に耳を傾ける、ここからほんとうに自分にとっての正直な行動、落ち着いた態度が生まれてきます。…
自分の内部感覚を尊重し、生命の声に気づいて、その上で自分自身の眼をとおして社会や文化を眺め、人間の生命をほんとうに生かすものかどうか判断し、感じとっていかなければ「ならないと思います。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

順番としては、まずお父さん自身が、自分の時間を持ち、内部感覚を磨いて、自分の中の生命(いのち) の声を聴けるようになること。それがあってはじめて、自分の生命(いのち)を本当にいかすことができるようになります。
「倫理の根本は自らを欺かないことです。
なんと深いことをさらりとおっしゃるのでしょう。
倫理=ひとの道とは、自らを欺かないで生きること=自分の生命(いのち)を本当にいかして生きることなのです。

そしてそういう「感じる力」を持って、今度は、子どもと「行動を共にする」時間を持つこと。
そうすると、ひとつには、子どもはこのお父さんの内面の変化・成長を感じ取ります。それが子どもに影響を与えることは間違いありません。
そしてふたつには、お父さんは、自分の中の生命(いのち)の声を聴けるようになるだけでなく、子どもの中の生命(いのち)の声も聴くことができるようになります。そうして子どもの生命(いのち)を本当にいかすことも可能になってくるわけです。
やはり親子の成長は同時なのです。

 

 

ある日、面談の申し込みが届く。

「予約フォーム」の「あなたはセラピストの松田と面識がありますか?」の欄を見ると、
「ああ、あのときの教え子の〇〇さん。」
とか
「ああ、そのときのワークショップ/勉強会に参加していた□□さん。」
とか
「ああ、あのときの講演に来ておられたのね。」
と懐かしく思い出すことがしばしばある。

私の中では、それが何年前でも何十年前でも、一度でも教えたことがある相手は永遠に教え子だ、と思っているところがあり、その意味では、ワークショップや勉強会の参加者や講演の聴き手もそれに準ずる出逢いだと思っている。
そのとき何か心に響いたものがなければ、私に関する記憶などとっくの昔に消えてしまっただろう。
そこに縁の分かれ目がある。
「その後」も、このホームページを見てみようという気持ちになるところに、何かが働いている気がする。

かねがね申し上げてきた通り、一生のうちに、ある程度以上深い話をすることのできる相手は限られている。
1億人も2億人も相手に話してはいられない。
しかも当研究所の「対象」を満たす人に限られている。
そんな中で、縁ある人、それは即ち、私がその人の成長に関わることになっている人からの面談申し込みがある度、私の中では、なんとも言えない、ミッション遂行の機会が与えられた気持ちになるのである。

これからも今回の人生で授かったミッションを果たして、生きて死にたいと思っている。

 

 

ときどき精神科医や臨床心理士の精神療法/心理療法の内容を聴いて愕然とすることがある。

それってただのおにいちゃん/おねえちゃん、おじちゃん・おばちゃん個人の我流の見解でしょ。
それを精神療法/心理療法と言っちゃダメでしょ。

そうでなければ、ちょっとどこかで読んだか聞きかじった専門家“らしい”見解でしょ。
それを精神療法/心理療法と言っちゃダメでしょ。

ちょっと頑張って、国内外の専門機関で専門家から個人的に学んで来た精神療法/心理療法でも、結局、それはただの“専門的”知識・技術の受け売りでしょ。
それを精神療法/心理療法と言っちゃダメでしょ(これには抵抗がありそうである)。

あなたの人柄は、人格は、人間性はどうなのか。
それを棚上げした“専門的”知識・技術って何なのか、そんなものに何の意味があるのか。

私がいわゆる“訓練分析”を受けて来たはずの人たちと話して驚いたのは、例えば、自分の虚栄心、自己顕示欲、金銭欲、名誉欲、傲慢さ、尊大さ、自己中心性などといった問題が全く解決されていないのである。
あなたたちは一体何を受けて来たのでしょうか?

そして近藤先生に出逢ったみたら、そこにはホンモノの精神療法があったのでありました。

そして、それを教わることができた以上、私には死ぬまでに、一人でも多くの人にそれを伝えて行く使命を与えられたのであります。

但し、自分自身と向き合うことになるため、誰でもいい、というわけにはいきません。
「情けなさの自覚」と「成長への意欲」がないと進めないのです。
それがある人はどうぞどうぞ八雲へ。
私のミッションを果たさせて下さいな。

 

 

ある当事者の方が書いた文章を読んだ。

統合失調症は、ただ薬を飲んで寝ていれば回復するというものではない、という。

「人薬(ひとぐすり)」、即ち、「人」との付き合い、交流が回復をさせてくれるのであり、

『薬」というのは、あくまで対症療法であって、本当に回復してくれるのは「人」との付き合い、交流である。

そしてその人は、自分は出逢う「人」、周囲の「人」に恵まれていた、と感謝した上で、

人間にとって一番大切なのは、やはり「人間」だと思う。「人」は統合失調症にかかわらず、「人」と「人」との間で磨かれ、鍛えられて「人格」が向上する、と言われる。

本当におっしゃる通りで、頭が下がる思いがした。

この言葉を、精神医療保健福祉関係者には是非知っておいていただきたいと思う。

我々は果たして利用者さんから、自分は「人」に恵まれていた、と言ってもらえるだろうか。

薬や知識や技術だけに逃げないで、それらを隠れ蓑にしないで、あくまで核の核である、人間と人間、人格と人格とで勝負していきたい、と私は切に願う。

 

 

五カ月ほどかけて、岩波文庫の『葉隠(はがくれ)』(上)(中)(下)三冊を少しずつ少しずつ読み進め、ようやく昨晩読了した。

『葉隠』は、江戸時代、鍋島藩士であった山本常朝(つねとも)の話を聞き書きした田代陣基(つらもと)が編集したもので、武士道の精神的要諦を示す一書である。

『葉隠』と言えば
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」
という一文が有名であるが、今回、本書を読もうと思ったきっかけも、まさにその真意を見い出すためであった。
その結果は後日示すとして、折角読了した『葉隠』の内容を私の胸の内に留めておくのももったいないと思い、心に響いたものを何回かに渡って記すこととした。

 

まずは今日の一節(上・聞書第一・四七)。

「物識りの道に疎(うと)き事は、東に行く筈(はず)の者が西へ行くがごとくにて候(そうろう)。物を知るほど道には遠ざかり候。その仔細(しさい)は、古(いにしえ)の聖賢の言行(げんこう)を書物にて見覚え、咄(はなし)にて聞き覚え、見解高くなり、はや我が身も聖賢の様に思ひて、平人は蟲(むし)の様に見なすなり。これ道に疎き所にて候。道と云(い)ふは、我が非を知る事なり。念々に非を知って一生打ち置かざるを道と云ふなり。聖の字をヒジリと訓(よ)むは、非を知り給(たま)ふ故(ゆえ)にて候。佛は知非便捨の四字を以(もっ)て我が道を成就すると説き給ふなり。心に心を付けて見れば、一日の間に悪心の起ること數(=数(かず))限りなく候。我はよしと思ふ事はならぬ筈なり。」(江南和尚)

まず物知り=受け売り知識の思い上がりを戒め、「道と云ふは、我が非を知る事なり」(道というのは自分がダメだということを知ることである)、「聖の字をヒジリと訓むは、非を知り給ふ故なり」(聖という字をヒジリとよむのは、自分の非を知っている(自分がどれだけダメかを知っている)からである)、「心に心を付けて見れば、一日の間に悪心の起ること數限りなく候」(ちゃんと気をつけてみれば、一日のうちに悪しき心が起こるのは数え切れないほどである)。
即ち、私が常々申し上げている「凡夫の自覚」(自分がどれだけポンコツでアンポンタンかの自覚)のことを指摘しているのである。
時代を超えて、我が意を得たり、という言葉に出逢うのは嬉しいものである。

 

 

ある居酒屋に入ったら、かかっていた曲。

T字路s 『涙のナポリタン』

いつしか♪ナポリタ~ンと歌っていた。
そしてこのボーカルが女性とは、調べるまでわからなかった。

魚の旨い店だが、何故かその夜は客がおらず貸し切り状態。
白髪ロン毛、訳アリ風の大将の選曲を聴いている状態となった。

ここから発展して行くのにルートが二つ。

[1]ひとつは、このT字路s のボーカルの伊東妙子に発展して行くルート。

知る人ぞ知る人らしい。

『愛の讃歌』  恐れ入りました。

『これさえあれば』  聴けば聴くほどただものでないことがわかる。

[2]そしてもうひとつのルートは、「ナポリタ~ン」から連想する“連呼曲”問題。
同じフレーズをリフレインしていく曲である。

となれば、伝説のフォークの名曲『カツ丼』がある。
あなたはご存知だろうか。

これは一か八かの曲であり、初めて聴いたときに受けるか受けないかですべてが決まる。
二回目以降は面白くもなんともない。
かつて中学生の頃、ある夜、弟と聴いて、文字通り、抱腹絶倒したのを思い出す。
しかし、今回、哀しいかな、あのときあのままの音源を見つけられなかった。

せめてその一部が伝わってくるのがこれ。

中島田鶴雄『カツ丼』(開いた画面の「カツ丼」のところをクリックして下さい)

元々の歌詞は「カツ丼」のみで、ただ「カツ丼」の“言い方”をあれこれ変えるだけで勝負する曲なのだ(上記の動画ではごじゃごじゃ言っていてかつてのキレがない。悲しい…)。
そして原曲では、最後の最後に宿便を捻り出すように叫ぶ「かっ、かっ、くゎ、くゎ、くゎっつど~~~ん!!!」が最高であった。
(あのザ・ぼんち、おさむ師匠の「おさっ、おさっ、あぁっ、あっ、おさっ、おさむちゃんでぇーす!」に近づく。→ご存知ない方はこちら(但し、これまたおさむ師匠自身の動画で良いものが見つからず、おさむ師匠をモノマネしたものです)。)

これ、いろんな言葉でやれば、ワークに使えるかもしれない。

 

 

ちっくしょー!

コウメ太夫ではない。 

生きていれば、何かがうまくいかず、悔しい思いをするときがある。
しかし、同じ悔しい思いをするのにもニ通りある。

ひとつは、自分の思い通りにいかなくて悔しいとき。
これば、いわゆる我(が)が悔しがっているのである。
思い通りにならないのが悔しい、面白くないのである。
それでさらに頑張る(=我を張る)人もいるが、この頑張りには執着のイヤ〜な臭いがあり、もしそれで成功したとしても、そこにエラソーな自負が付いて来る。
そんな人たちはよく、悔しかったら頑張れ!という。
体育会系や熱血系に多い気がする。

そんなのは要らない。

それに対して、本来の自分を実現できなくて悔しい場合がある。
私が私でいられないのが悔しいのである。

そのときに悔しがっているのは、我々の我(が)ではなく、我々の生命(いのち)である。
そういうときの悔しさはむしろ、そうこなくっちゃ、という気がして来る。
あなたはあなたを生きるために、あなたに与えられたミッションを果たすために、生命(いのち)を授かった。
これは是非とも挽回する=自分が自分であることの幹を太くする=いつでもどこでも誰の前でも自分でいられるようになる=自分のミッションを果たせるようになる必要があるのだ。

二つの悔しさ、我(が)の悔しさと生命(いのち)の悔しさ、ゆめゆめ間違ってはなりませんぞ。

 

 

「母親になることは女の人にとって、すばらしい経験だと思います。私も医師として、何べんか分娩の際に立ち会ったことがありますが、そんな時いつも感じるのは、赤ちゃんを生んだときの女の人の顔くらい輝かしいものはないということです。夫が側にくると、『あなた』と言いながら夫を見つめるその顔は輝いて、ほんとうに大きな仕事をなしとげたという、満足感と歓びを感じているように見えます。それにつけてもあとになって、子どものことについていろいろと思い悩む時に、この時の心からの歓びを思い出してほしいと思います。
子どもにとって、特に幼児にとって母親は絶対のものです。母親の胸の中で膝の上で、お母さんの肌に触れつつ安心感を覚え、情緒的にも安定した子どもとして育っていくのです。…
人間がこの世に生まれてきて、はじめに母の懐に抱きとられた時のあの安心感と喜びは、いつまでも懐かしいふるさとであり、心のよりどころです。大きくなって世の中に出て、苦しいことにあった場合でも、もう一ぺんこの気持に帰って、また出直すことができます。このいちばんのもとになるものは、この頃の実感が基礎になっているのです。…
子どもを育てることに歓びを持つ母親の許で、はじめて子どもは安定感を持ち、それこそ伸びやかに育っていくわけです。そうやっていると、子どもと母親との関係は非常に安定したものになります。こうした安定感はまず何よりも、人間の一生の中でのいちばん基本的な財産だと思います。
それではこの時代に父親はどんなふうな協力ができるでしょうか。…幼児は母親とはもう一心同体のような感じですから、母親の感じるものを全部感じとるのです。ですから父親が ー 父というよりもこの時代はむしろ若い夫と言った方がいいでしょうが ー 喧嘩したり心配させたり、
焦々させたりすると、それがたちまち子どもに影響します。子どもが不安になり泣きわめいたりして、その安定感、安心感にに影響します。ですからその時期の男性の役割は、母親が子どもに安心感を与えられるように、夫として自分の妻に安心感を与えることが大事なのです。まずこれが、若い夫が父親としてしなければならない第一のことです。まあ、二歳から三歳までに「それが果されていれば、まず、建築でいえば、需要な礎石が造られたと言えましょう。」(近藤章久『感じる力を育てる』より)

 

実際の子育ての中で思い悩むことは多々あるものです。
そんなときいつも、近藤先生のおっしゃっている通り、その子が生まれたときの体験、感覚を是非思い出していただきたいと思います。
生命(いのち)を授かること、出産することは、一種の神事であり、神業(かみわざ)だと私は思っています。
その大きな働きの中にお母さんがいる。
だから出産のときのお母さんの顔はあんなに神々(こうごう)しいのです。
あのときの体験を感覚をどうか大切にして下さいね。
そうして、お父さん。
ここで近藤先生は、夫が妻に安心感を与えることの重要性を強調しておられます。
その言葉を変えますと、それは妻を愛してほしい、ということに他なりません。
夫は妻を愛し、子どもを愛する。
そして妻は夫を愛し、子どもを愛する。
それさえあれば大丈夫です。

 

 

ある浄土真宗のお寺のご住職。
普段からお念仏をこころがけて生きて来た真面目なお坊さんであった。
坊守さん(住職の妻)との関係も睦まじく、愛妻家としても知られていた。
それが妻を癌で亡くされ、後期高齢者になった頃から認知症症状が目立つようになり、遂に施設に入所された。
グループホームでは、妻が亡くなったことも忘れて、朝起きてから夜寝るまで奥さんを探し、「さっちゃん(奥さんの愛称)、さっちゃん。」と繰り返し繰り返し呼んでいた。

たまたまお寺の檀家であった人が職員としては働いていて、
「あんなに信心の篤(あつ)かったご住職が念仏を称(とな)えるでもなく、奥さんの名前ばかり呼ぶようになっちゃって…。」
と嘆いていたが、その話を聞いて、私はそうは思わなかった。

「そのご住職にとっては、奥さんの名前を呼ぶことが念仏なんですよ。」

南無阿弥陀仏と称えることだけが念仏ではない。
一遍上人のおっしゃる通り、

「よろづ生(いき)としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし」(『一遍上人語録』)
(ありとあらゆる生き物、山や川や草や木、吹く風・立つ波の音までも、念仏でないものはない)

私には、その「さっちゃん、さっちゃん。」が「寂しい」「辛い」「助けて下さい」と聴こえ、そのまま「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に、人間を超えた力におすがりします、おまかせします)」と聴こえて来るのである。

 

 

唯一の親友に教えられて、日本の小説を次々と読んだ時期があった。
彼は古典から現代のものまで読み尽くしている上に、その審美眼には敬服するものがあったため、非常に豊かな時間を持つことができた。
それが最近、若い方から日本の小説を読んでみたいが、どんなものを読めばいいか、との質問があり、久しぶりに振り返ってみることになった。

しかし、今どきの人にとって日本文学はかなり縁遠いものになっていると思われる。
その人も今までほとんど読んだことがないと言われる。
となると、どんなに良い作品をお勧めしても、活字に慣れてない人にとって読みにくい作品であれば、折角の関心を挫(くじ)いてしまうことになる。

よって、いろいろ思案した結果、私が日本最高峰と思う作家の一人、川端康成を紹介することとした。
世間的にもノーベル文学賞受賞者なので、名前だけは知られているだろう。
内容についての要らぬ解説は、初見で読む人の体験を邪魔してしまうので、それは省略し、ただひとつだけ、可能ならば、下記の順番で読んでほしい、と注文をつけた。

(1)まず最初に、『伊豆の踊子』と『雪国』。

(2)次に、『片腕』と『眠れる美女』。

(3)最後に、『山の音』。

予想通り、そんなに何冊も読むんですかぁ!?という反応であったが、川端の文章はまさに美しい日本語の代表であり(最近の芥川賞作家でも川端で文章を学んだという話は何度も聞いた)、折角チャレンジするのならば是非、とお勧めした。

拙欄をお読みの方々の中にも関心のある方がいらっしゃるかもしれないと思い、ここにご紹介する次第である。
もし(1)(2)(3)を読み終わった方があったら、面談のときにまたお話しましょう。
その読書体験はあなたの何かを刺激すると思いますよ。

 

 

『新約聖書』の中に、姦通罪で捕らえられた女が律法に従って石打ちの死刑に処せられそうになったとき、学者やパリサイ人から意見を求められ、イエスはこう答えている。
「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ石を擲(なげう)て」
(おまえたちの中で罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい)
これを聴いた彼らは良心の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれて、一人また一人と立ち去っていき、イエスと女だけになったという。

この有名な話を思い出す度、私にはこのイエスの言葉が
「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ人を咎(とが)め諭(さと)せ」
(おまえたちの中でやらかしたことのない者がまず他人のことを(上から目線で)非難し、(偉そうに)教え諭しなさい)
と聴こえて来る。

そもそも我々迷える仔羊は、相当にひどい存在である。
無数の悪行・罪過・背徳・裏切り・虚言・増長・傲慢などの罪を犯しながら、自分で気づいている/覚えているのはほんの氷山の一角に過ぎず(しかもそのほんの一部を認めて自分はなんと謙虚なのだろうと思い上がったりするくらいひどい)、
そのくせ自分のことは棚に上げて、
上から目線で他人のことをを非難したり、偉そうに他人を教え諭したりする。
他人を非難したり、他人を教え諭す資格が我々にあるかと問われれば、そのやらかしてきた行状を振り返る限り、
ないっ! 絶対にないっ! 微塵もないっ!
それが我々の偽らざる実態である。

それなのに思い上がって、勘違いして、
「先生」をやったり
「親」をやったり
「経営者/上司/先輩」をやったり
「専門職/専門家」をやったり
「権力者」をやったりしている。

ダメでしょ、それ。

しかし、じゃあ、全員がただ黙って他人に関わらないようにすれば良いのかというと、そうもいかない。
それだと誰もが成長しないままに終わる。

よって、こういうことになる。
我々凡夫には、間違っても、他人を非難したり、他人を教え諭したりする資格はないけれど、
我々を通して働く力にはその資格がある。
即ち、もし我々を通して神の御業(みわざ)が行われるならば、人を非難し、人を教え諭す資格が発生するのである。

即ち、わたしには資格がないけれど
わたしのこころの奥底に働く聖霊(仏教なら仏性、神道なら分御霊、精神分析なら宇宙的無意識)にはその資格がある。

そのときは、そのときだけは、言って(言わされて)良いのである。

 


 

最近、いろいろなところで「利他」という仏教由来の言葉が取り上げられているが、その内容が余りにお粗末であるため、ここで気がついたことを記しておきたい。
尚、拙欄で「利他」の本質を系統的に取り上げていく余裕はないので、気がついたところから記しておく。

[1]「利他」は一方的行為である。
時に「『利他』的な行為をしているとそれが巡り巡って自分の利益になる」的な解釈を散見する。
これは「利他」とは言わない。
それは“Give and take”と言う。
どこかで見返りを要求(計算)しているのである。
それはセコい。
全く何も返って来ない、場合によってはものすごく手を尽くし思いを尽くしたのに逆恨みされたりすることもある。
それでも一方的に行う行為を「利他」という。 
だから尊い。

[2]「利他」を行う主体は「私」ではない。
「利他」は人間の意図的・主体的行為ではない。
「人間を通して働く力」によって「思わず」行ってしまう、いわば、させられる行為である。
その「人間を通して働く力」のことを仏教では「仏力」とか「妙用(みょうゆう)」という。
「利他」の主語は「私」でも「人」でもない。「仏」であり「天」である。
だから尊い。
宗教用語がイヤな方は、敢えて精神分析的用語を使って「宇宙的無意識」でもよい。
そして、「私」が行っているのではないから、[1]に記したような見返りは求めない。
(「私」がやると、間違いなく、恩着せがましくなる)

[3]「自利利他」について
従って、「自利利他」という言葉を「『利他』的な行為をしているとそれが巡り巡って自分の利益になる」と解するのは全く間違っている。
「私」を通して「利他」が行われるとき、「人間を通して働く力」が「私」を貫く。
その力に「私」自身が満たされ、潤されているということになる。
それが有り難い。
これ以上の「自利」があるだろうか。
「利他」が行われるとき同時に「私」もまた恩恵を受けている。
「利他」が巡り巡って自分の利益になるのではなく、
「利他」が行われることが同時に「自利」なのである。

そしてさらに深めれば、「自他の区別を超える」というもう一段深遠な世界も開けて行くが、ここでは触れない。

まずは、こういう「利他」の基本を是非押さえておいていただきたいと思う。

 

 

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