八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

「子どもは自分が生んだのだ、自分たちがつくったものだと考えるところから、いろいろと間違いが発生してきます。私の子ども、“私たちのもの”だから私たちの自由に育てよう、私の自由にしてもよい、と自然に、気がつかぬうちに物と同じように所有し支配する考えが生じてきます。恋人や夫婦の場合でも、『あなたは私のものよ』とか、『もうお前は俺のものだ』とか、普通の男女関係でも言うことがありますが、その途端に愛は転落します。愛が所有欲に変化するのです。自分が愛した者(人間)が物になってしまう。者が物になってしまいます。…
ノイローゼというのはいろいろ言われますが一言で言えば、子どもを自分の物だから大切にしたいと物扱いにしてしまって、人間としての能力を伸ばすことを忘れてしまうことから起こってくることが多いのです。子どもにとっては非常に不幸なことです。別に人間として発達しなくても、お父さん、お母さんにとってよい子であればよい。つまり親がある独断的なイメージを持って子どもをこういう人間にしようと強制し、押しつけようとすることから起こっているのです。…
しかし、もし親が、生命の不可思議なことをほんとうに感じ、子どもの生命は自分にたまたま授かったものと考えていれば、こんなふうに言えるでしょう、『私たちはお前を、こんな人間に生もうとか…性格をどうしようとか、前もって考えて自分勝手に生んだのではないのです。お前という生命を授けられて、それで責任をもって育てることになったんです。だからこそお前を大事にもするし、お前の生命が健やかに成長するようにいろいろと考えもするのです』という具合に落ち着いて話してやることもできます。…
そこでいろいろなことを言う子どもの外形にとらわれず、子どもの中に潜む生命に語りかけるつもりで正直に、誠実に話し合っていけばいのです。親がそういう態度であくまで子どもの中の生命を信じて、それをみつめて語るうちに、おのずから子どもは、そうした親の態度に信頼感を持つようになるものです。
ここにあるのは自分の子どもという一つの大切な生命であります。世界の中で、ただ一つの独自な生命を持っている者がわが子としてここに存在しているという、混じり気のない透徹した眼で子どもを見たいものです。これは英知の眼であると同時に、愛情の眼であり、生命に対する知恵と愛がそこにあるのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

小さい子どももダダこねをし、言うことをききません。
もう少し大きくなると、さらに主張は強くなり、なにかと反発して来ます。
思春期になると、体も大きくなり、口も立ち、その生意気さはピークに達して来ます。
生活全般を親に依存しているくせに、その態度にはチョーむかつきます。
しかし、それだけなら、子どもと子どもの喧嘩です。
それで終わりではなくて、本当の大人には、成熟した大人には、智慧と愛があります。

子どもの外側を覆っている我(が)は生意気で腹も立ちますが、それだけではない、子どもの存在の奥底にある生命(いのち)に対して畏敬の念を感じます。
それが生命(いのち)に対する智慧と愛なのです。
親も凡夫なので、相変わらずチョーむかついて、ドッカンドッカン怒りながらも、ふと感情が過ぎ去った後に、子どもの存在の根底にある生命(いのち)に対して、手を合わせて頭を下げたいと思います。
そして、そんなことを続けていると、最初の「チョーむかつき」も、何のやりくりも抑圧も使っていないのに、少しずつ少しずつ小さくなってくるかもしれませんよ。

 

普通は、生まれてから死ぬまでが一生と思っている。
常識的な考えである。

しかし、そうではないことを私は師から学んだ。

ほとんどの人は、夜になって眠るとき、明日の朝必ず目が覚めると思っている。
しかし実は、その保証はない。
その証拠に、私のまわりにですら、そのまま目が覚めなかった人がいる。
そう思うと、毎晩眠るときに死に、朝になってまた生まれ直す、と考えた方がいいのかもしれない。
「おはよう。」「Good morning.」という朝の挨拶は、今日もこうして生かされて逢えましたね、というお互いの生の讃嘆である。
そうなると、一日が一生となる。

さらに、呼吸法をやっていると、
ひと息ごとに
吐いて吐いて吐いて
(吸うというより)入って入って入って
をじっくりと体験する。
即ち、吐いて吐いて吐いて吐き尽くして死に
入って入って入って満たされて生まれ直す
という感覚がして来る。
そうなると、ひと息が一生となる。

なんとなく呼吸して
なんとなく一日を生きて
なんとなく一生を生きるのもいいけれど、
ああ、今を生きてるなぁ
ああ、まぎれもなく自分を生かされてるなぁ
と感じながら
一回だけの人生を
一日しかない今日を
二度と戻らない今を
生きていければ
生きることがどんなに濃いものになるだろうかと思う。

ときどきでいいから、この感覚に戻ってみることを私はあなたにお勧めしたい。

 

 

第一生命経済研究所によれば、いわゆる「ママ友」が一人もいない「ママ友ゼロ」の人は、20年前に約6%であったのが、最近は約半数にまで増加しているという。

皆さんはこれを聞いて、どんな想いを抱かれるであろうか。

そもそも何をもって「友だち」というか、という問題については、以前にも触れたことがある。
「どうでもいい話をしながらお茶かランチ、たまに飲みに行くだけの女子仲間」「仮面と仮面レベルでの演技的お付き合いの相手」「園や学校の情報源として活用するための顔見知り」などのことを「友だち」と言っている方が多いような気がする。
私に言わせれば、それは「友だち」ではなく「知り合い」である。

少なくとも私は、演技でなく本音で、仮面でなく直面(ひためん)で深い話をすることができ、大事な価値観が一致し、相互に信頼できる相手でなければ「友だち」とは呼ばない。
そうなると、そういうレベルの「友だち」がたくさんできるとも思えない。
子どもの園や学校を通じて一人できれば、むしろ上々であろう。
そう思うと、「ママ友ゼロ」が約半数というのは当然、いや、もうちょっと多くてもいいのではなかろうか。

時に「ママ友」に関して、子どものために園や学校の情報から切り離されることを心配するお母さん方がいらっしゃるが(そのために本当はくっだらないと思っている関係性を維持している場合もある)、そういう場合は、忙しいお母さん仲間たちに声をかけ、最初から「園/学校の情報共有のためだけのネットワーク」を作りましょう、と動い方がいた。
賢明な戦略だと思う。
「情報共有のためだけ」というところがポイントであり、最初から「知り合い」レベルの付き合いとわかっている。

そして最後に、心からの期待を持って付け加えるならば、「ママ友」レベルを超えて、世界中の人に否定されても自分たちだけは信頼し合え、支え合えるような「親友」レベル(=「ママ親友(まぶだち)」)の出逢いがあれば、これ以上の僥倖はないと言えよう。

 

 

「自分探し」という言葉が嘲笑的に使われることがある。

「いつまでも『自分探し』してんじゃねぇよ。正業に就いて働けよ。」

などというセリフはその典型だろうか。
しかし、その人の言う「正業」というのが、糊口を凌(しの)ぐための、人生の時間の切り売りだったりする。
それは、本当の意味での「正業」とは言いません。
その人はイヤな仕事を金のために我慢してやっているだけです。
そして、
そういう“頑張っている”自分を正当化したくって、「自分探し」している人間を非難しているのです。

しかし、「自分探し」している人間にも問題がある。
自分と向き合ってるんだか向き合ってないんだかはっきりしないまま、年ばかり重ねてフラフラしているようじゃあ、非難されてもしょうがないわな。
本気で「自分探し」するのなら、いつまでもお茶を濁していないで、正面から勝負しろよ、ぶつかってぶつかって掴み取れ、ということになる。
自分は本来何者なのか。
今回の人生において自分が果たすべきミッションは何なのか(本当はそれを「正業」というのです)。
「自分探し」というと表現がいかにも軽いが、「本来の自己の面目」となると、古来、人生の大問題であった。

やるなら、そこまでやんなさい。
そうでなければ、嘲笑されてもしょうがないわな。

本気の「自分探し」は、不可避の絶対命題である。

 

 

昨日11月14日(金)『“変な”人』の続編。

一緒に働いている医療スタッフから(それも働く姿勢が信頼できるスタッフから)
「松田先生は“変わって”ますよね。」
とよく言われた。

そう言った後、ちょっと考えて
「いや。“フツー”ですよね。」
と言い直される。

そしてまたちょっと考えてから
「人間として“フツー”であることが、“変わってる”と言わなくちゃいけないことがおかしいんですよね。」
と付け加えた。

即ち、彼によれば、今まで出逢って来た精神科医は、ろくでもない(←彼の意見ですよ)のが多く
その人たちに比べ、「マトモ」という意味では、“フツー”という表現になり、
その人たちに比べ、「少数派」という意味では、“変わっている”という表現になるのである。

だから下手をすると
「松田先生は“フツー”で“変わって”ますよね。」
という不思議な表現になる。

そして、そう言って下さるのは有り難いことであるが、
私も所詮は凡夫であり、自分を通して働く力に助けられて、それが“フツー”であろうと“変わって”いようと、授かったミッションを果たして行くのみである。

 

 

私の面談を受けに来ている人たちは、概ね“変な”人たちである。
もっと浅く、俗世に適応し、おもしろおかしく生きても、人生は回るのであるが(実際、世間の大多数はそんなふうに生きている)、
それでは生きていられない、または、そんなふうには生きたくない人たちが面談に来られている。
よって、冒頭に“変な”と表現したが、私の本音としては、至極“マトモな”人たちであると言える(ただ少数派だけれど)。

私の役目としては、その人たちが今回の人生で生命(いのち)を授かった意味と役割を明らかにし、本来の自分を生きることを応援することであるが、
有り難いことに、面談を続けていると、少しずつ少しずつ自分が自分であることの幹が太くなってくる。
そうすると、家族の中でも、職場の中でも、所属集団の中でも、本来の自分でいられるようになってくる。
そして段々と、その人ならではの“存在感”が出て来る。
“存在感”と言っても、鬱陶しい、押しつけがましい“存在感”ではなく、ただサクラが純度高くサクラしているような“存在感”である。

おもしろいことに、今度は、その“存在感”が周囲に影響を与えて来る。
具体的に申し上げると、「浅く、俗世に適応し、おもしろおかしく生き」ることに違和感を感じている人たち(それもまた所属集団の中では少数派だけれど)が段々と寄って来るようになるのである。

親族の中に一人ぐらい“変な”おじさん、おばさんがいることが、
職場の中に一人くらい“変な”上司・先輩がいることが、
所属集団の中に一人くらい“変な”人がいることが、

「浅く、俗世に適応し、おもしろおかしく生き」ることに違和感を感じている人たちにとって、
拠りどころとなり、モデルとなり、希望となるのである。

そして、八雲勉強会やワークショップは、その“変な”人たちの集いとなり(そこではなんと“変な”人が多数派になる!)、
さらに幹を太くして、それぞれの所属集団に帰って行くのである。

だから“マトモに”“変な”人たちこそが、この世界の愛すべき同朋たちなのである。
よって、自分が“変な”ことを恥じないように。
どうぞ誇りに思ってほしいと思う。


 

 

うつ病になりやすい病前性格についてはいろいろ言われて来たが、わかりやすい言葉で、主なものを挙げると、
(1)「~でなければならない」「~であるべきだ」という考え方にとらわれやすい
(2)他者の評価が気にかかる(いわゆる他者評価の奴隷)
の2点でないかと思う。

それらのために、自分のキャパ(capacity=容量)を超えて、「~でなければならない」「~であるべきだ」で頑張り過ぎたり、他者評価が気になってやり過ぎたりすることで、いつの間にかエネルギーを使い果たし、うつ病のスイッチが入ってしまうのである。

この二つの病前性格のうち、
(1)については、生来の発達特性(特に自閉スペクトラム(AS:autism spectrum)あるいは自閉スペクトラム症(ASD:AS disorder))が主の場合と、生育史の影響による後天的な神経的特性が主の場合があり(両方の場合もある)、
(2)については、概ね生育史の影響による後天的な神経症的特性である(生まれつき他者評価を気にする子どもはいない)。
(A)生来の発達特性については、まず自分で自分の特性をよく知った上で、先天的な発達特性は変えられないので、その特性との付き合い方、そして、その特性を持った上での他人や社会との付き合い方を学んで行く必要がある。
(B)それに対し、生育史の影響による後天的な神経症的特性については、まず自分で自分の特性をよく見つめた上で、その由来を知り、後天的な神経症的特性は変えられるので、現実生活の中で果敢に行動変容に挑んで行く必要がある。

しかし、いずれにしても、専門の精神科医や臨床心理士などの力を借りて取り組んで行っても、今の生き方が身につくまでには年季が入っているため、変えて行くにはそれ相応の時間がかかる。
そのため、その本格的な成果が表れるまでの“つなぎ”として、自分の今の「エネルギー残量」を感じ取れるようになることを私はお勧めしている。
上記(1)(2)のせいで、自分の今の「エネルギー残量」を無視してやり過ぎた結果、エネルギーが底を突いて、うつ病を発症しているのだから、まず自分の今の「エネルギー残量」を感じ取れるようになれば、「おっと危ない! ここでやめとかなくちゃ。」と踏みとどまることができるようになるのである。
ますはとにかく「今の自分の『エネルギー残量』はどれくらいかな。少なくなってないかな。」と立ち止まる練習を繰り返し、習慣化して行くこと。
経験上、それでも最初はぶっちぎって疲弊してしまう失敗をやらかす方も少なくないが、それも想定内。
体験を繰り返せば、人によって早い遅いの差はあるが、感度は上がっていく。
そうやって、自分の今の「エネルギー残量」を感じ取れるようになれば、少なくとも“大崩れ”はなくなって来る。
そしてその間に、上記(A)(B)に本格的に取り組むのである。
あくまでこっちが本命であり、ここと勝負しない限り根本的な解決はない。

これもまたひとつの臨床的経験智。
ご参考になれば幸いである。

 

 

「無気力、無感動と言われる若者たちがいます多くの場合、こうした若者たちは…知能は発達しているにもかかわらず、勉強にも遊びにもその他の生活にも、打ちこんだり感動することがないのです。感動がないというのは、人と会っても自然や物に触れても、自分の実感が湧かないということです。このような青少年は…まるで心の成長しない幼児のような感じを与えます。幼児的段階というのはいわば自分が未発達な状態のことで、赤ん坊のような非常に発達段階の低い状態です。赤ちゃんには、オギャオギャとただ生存しているだけという時期がありますが、あの赤ちゃんの心の中にはまだ挫折がありません。
ところがこの無気力、無感動には挫折があるわけです。つまり、自分がせっかく伸びようとする時にブツッと芽をつまれる。また伸びると鋏(はさみ)を入れられる。まるで盆栽のようにされている状態です。極端に言えば無気力、無感動は親や社会が寄ってたかって、パチン、パチンと鋏を入れてきたことの結果、出てきている状態と言ってよいでしょう。長い間、親の満足のための功利的な考え方や知識だけを詰め込む教育を受けた結果、次第に子ども自身が、いまここに生きている、生かされているという喜び、実感を失っている姿なのです。
つまり、成長する過程で周囲の事情でじかに物にふれて感じる ー 直接感覚の世界を知らなかったことから、結局感覚というものを発達させていないわけです。しかし人間は本来、深い心の内部で直接感覚を求めています。たとえどんなに抑圧されても求め続けているわけです。…
内部感覚というのは、自分の外側のものを直接に感覚する時に体の内に湧き起こっている感覚で、私は生命の感覚であると思っています。…ところがいまの若者のように平和で保護されて…何の危険もなく暮らしていると、危機感がないので自分の中の生命の動きというものの促しを感じること、言いかえれば内部感覚を感じる機会がない。要するに危機が全くないところに内部感覚の動きがなく、必然的にアパシーが生じます。…
苦を避け楽だけを望むということは誰しも持つ願望ですが、実際は到底できない相談なのです。苦も楽も共に人生の実相であり、その両面であります。苦があって楽を感じるのが現実です。そういう人生の現実を知らせることが大事だと思います。苦労があってはじめて本気になる、苦しんで考える、真剣になる。精神が集中できる。そのあとで苦悩を突破していく喜びが生まれる。生きてゆく自信が持てるのです。…
いずれにしても、これらの若者は『自分らしい自分』『ほんとうの自分』のもととなる内部感覚が触発されていなにので、アパシー状態になっているのです。しかしその心の中には『自分らしい自分』『本当の自分』を発見しようとする欲求が深く存在しているのです。…
さまざまな例からわかりますように、青少年の苦悩や無気力、いろいろな現象は、ひとつの危機の知らせというか、自分がほんとうに生きていないということを知らせている信号なのです。
こうした青年の姿は、本人ばかりでなく、同時に両親や社会に対してその価値観に反省を求め、危機を告げている姿と言ってもよいでしょう。ともあれ青少年の苦悶する姿の中には、ほんとうの自分を知ろうという内部感覚の促しによって生きようとする、痛切な願いがかくされているのです。
根本的に…親として、一個の生命にどう関わっていくのか、その生命力の活動を親の意志のもとに妨害するのか、あるいは真にわが子の内部感覚を呼びさまし、生命の活動する力を促すように関わっていくのか、親であることの責任をもう一度しっかりと腹を据えて考えてみる必要があります。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

「内部感覚」を発達させるためには、残念ながら、挫折や苦が必要である、思い通りにならないことが必要であるということ。
そして、そのような危機があって初めて「内部感覚」が発達し、その「内部感覚」によって「真の自己」を感じ取ることができるようになるということがまずひとつ。

そして、無気力、無感動は確かに問題ではあるけれど、それは単なる問題でなく、生命(いのち)からの信号、メッセージでもあるということ。
内部感覚を発達させ、「真の自己」を生きてくれ、という重要なメッセージ性があるのだ、ということを観抜かなければなりません。
無気力、無感動で満足している若者の生命(いのち)などあるはずがないのです。
そしてそういう若者に関わっていくためには、親にも大人にも、
「で、あなたの内部感覚は敏感に発達していますか?」
「あなたは『真の自己』を生きていますか?」
と問われることになります。
そうなるともう大人も子どもも一緒に成長していくしかありませんね。

 

 

日が暮れるのが早い。
暗い。

北風が冷たい。
寒い。

お腹が空いてきた。
ひもじい。

「暗い」「寒い」「ひもじい」
晩秋から冬にかけて、この三つが揃うと、とっても切ない気持ちになると以前から申し上げて来たが、
先日ある人が
「それに『さびしい』が加わると、さらに切ないよね。」
と言った。

私が挙げたのは、環境的な切なさと身体的な切なさ。
彼はそこに心理的な切なさを加えた。
ネグレクトされてきた経験のある彼の言葉にはうなづくしかなかった。

それならば、
この季節、

ライトを明るく点けて
しっかり暖房を効かせて
温かくて美味しい食事を
愛する人と一緒に(“推し”の写真でもいいですよ)食べましょうね。

 

 

根幹に関わる大事なことを端的に述べておきたい。

「『生の目的』は何か?」
と問われれば、
「生命(いのち)を育てることである。」
と即答する。

「では、『生命(いのち)を育てる』とはどういうことか?」
と問われれば、
「本来の自己を実現していくことを助けることである。」
と答える。

そして
「誰の、何の、生命(いのち)を育てるのか?」
と問われれば、
「まず第一に、自分自身の生命(いのち)を育てる。
 第二に、子どもの生命(いのち)を育てる。
 第三に、縁あって出逢った人の生命(いのち)を育てる。』
と答える。

まず自分自身の生命(いのち)を育てられなければ話にならない。
次に伸びて行こうとしつつもまだ弱い子どもたちの生命(いのち)を守り育てなければならない。
そして、パートナーとして、親友として、後輩・部下として、患者さんとして、利用者さんとして、クライアントとしてなど、縁あって出逢った生命(いのち)を育てなければならない。

そして、「本来の自己を実現する」とは、「今回の生において与えられたミッションを果たして行く」ということと同義なのである。

 

 

近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目に続いて16回目となった。

今回も、以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」について取り上げながら、段々最終コーナーにさしかかってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話であることを読み取っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(3)

さてこの様にして神経症的傾向は次第に理解されるが、通常最初に明らかになるのは、患者がそれでもって一応の葛藤を解決している方法であるところの神経症的傾向であろう。仮に自己拡大的方法を以て解決している場合は、彼の自由連想や、夢や、対人関係に、彼の自己拡大的な shoulds や claims を発見し、あとづけ、連関を考えて、次第に彼の神経症的構造の中核をなす「仮幻の自己」の明確化に迫って行くのである。
これらに関する理解が一応成熟して来た時、患者に対して、患者の意識に近い面から、適当な時期に ー この時期の判断が重要であるが ー 解釈を試みるのである。解釈は断言的でなくて、出来るだけ「でしょうか?」等の疑問の形をとって、患者自身による思考と省察に訴えたい。
と言うのは、解釈は分析者からの患者への呼びかけであり、その注意の喚起であり、自己認識への促しであり、患者の「真の自己」に自己表現の機会を与える方法であるからである。
と同時に又、疑問の形に応えて、決定し判断するのは患者であって、分析者は助力者であることを次第に明らかにして行く為でもある。
解釈が幸にも受入れられ、理解されると、それは、患者の自己認識への大きな照明となり、新しい分析への通路を開くことになる。
しかし、必ずしも受入れられない場合でも、分析者は、患者のそれに対する表現や反応によって、更に深い理解への手引きを得ることが出来る。
ともかく、この様なことを繰返しているうちに、患者は次第に過去の回想や現在の感動的な経験を再体験することによって、自分のとっている神経症的態度との連関を見出して行く。
もとより、始めのうちは、たとえ見出すにせよ、狭い特殊な状態との関係のみにとどまるか、或は漠然として一般的な形でしか見られないだろう。しかし、その様な関係を理解出来る事は洞察の一種である。その様な洞察は、回を重ねるにつれ遅かれ早かれ、現在の状況に於て自分の内に作用している色々な要素が、自分の場合に於て具体的にどの様な現象として現われ、どの様な結果をもたらしているかの現実的な洞察に導き、更にそこに動いている自分に固有な shoulds や claims を理解するに至るであろう。
そして更に自分の神経症的な pride に気付き、様々な曲折を経ながら、その背後にある「仮幻の自己」の存在を感じ始めるだろう。それと共に、一方に於て、前景にあって強く動いている。重要な解決方法としての神経症的態度の下に、抑圧された他の要求や誇りが存在する事実に面する様になる。例えば自己拡大的な主傾向の下に、依存的傾向や自己限定的傾向が抑圧否定されて存在することに気付くであろう。
そして、それらの諸傾向の間の矛盾や葛藤が露呈せられ、自分の神経症的性格の構造連関と、その間の力動関係が認識され洞察されるに至る。洞察は広く解すれば知的認識から情動的認識を含む(但し、オブザーバー的知的認識を除外する)。そして知的認識自体は必ずしも直ちに神経症的なものからの解放 ー 性格的変化 ー をもたらすとは言えないが、それは治療的な価値を持っている。
自分の悩んでいる症状に、はっきりした原因があると言うことを発見することは、少なくとも処置しようとすれば取扱える対象があると言う気持を与え、今迄の様に訳のわからないままに苦しんでいた状態にいなくてすむと言う希望を与えるのである。この意味で知識はやはり力である。そして、洞察が重なるにつれ、分析に対する信頼、積極的な態度が増大して来ると言う大きな効果がある。

 

クライアントの神経症的な問題を「解釈」して行くとき、どうしてもセラピストが一方的な、あるいは独断的な解釈をしがちである。そうではなくて、セラピーの過程においては、患者の「真の自己」に自己表現の機会を与えることが非常に重要であり、あくまでセラピストは助力者であることを忘れてはならない。
また、自己縮小的依存型の傾向、自己拡大的支配型の傾向、自己限定的断念型の傾向は、前景に出てわかりやすい一つの傾向の下に、他の二つが抑圧されて存在するという事実は、時にショッキングでありながらも、洞察を深めるためには避けて通れないプロセスである。
さて、今これを読まれているあなたは、自分自身においてお気づきでしょうか?
そして、洞察が、知的認識だけの話ではなく、深い洞察ほど実は情動的認識を含む、ということも見過ごせない事実である。
ただの冷静な「ああ、そうか。」ではなく、「ああ!そうだったのか!」という情動を伴うところに、その後の認知の変容や行動の変容がより強く期待できるのである。
いくら頭の先で「わかった」って、日々の具体的な「生き方」が変わらなければ意味はない。


 

過日、電車に乗ると、80代と思(おぼ)しきおじいさんが車椅子で優先スペースに乗車していた。
杖を持ち、キャップをかぶっているが、そのキャップに刺繍文字で何やら英語が書いてある。
私が立っている角度からは文末しか見えず、“… not alone.と読める。

それじゃあ、全文は
I am not alone.

We are not alone.
だろう。
そうだよ、じいさん。あんたは一人じゃないよ。

…と思っていたら、なんと全文は、
You are not alone.
であった。
孤独な立場に見えるじいさんが、自分以外の人にメッセージを発していたのである。

昔、子ども専門病院で研修を受けて来た知り合いの医師が、そこに入院していたアメリカ人少年の話を聞かせてくれた。
重体で余命幾ばくもない少年は、研修が終わり、別れを告げに行った知人に、声にならない声で何かを言ったそうだ。
傍らの看護師さんに訊くと、少年は
May God bless you.(あなたに神の祝福がありますように)
と絞り出すように言ったのだという。
涙目で「自分は祝福されていないのに、オレに向かってそう言ったんだよ。」と言う彼に私は反論した。
その少年を通して働く力がそう言わせたんだから、そのとき彼も祝福されたんだよ。

翻って、あのおじいさんはどうだろうか。
あのおじいさんもまた、自分を通して働く力によって“You are not alone.というキャップをかぶったとき、同時に自分はひとりではないことを感じたのだと思う。

時にそんな力が働くことがあると私は思っている。

 

 

たまにエアポケットのようにヒマになる時間がある。
ヒマだと困る。

と言っても、ガツガツ稼ぎたいわけではない。
もしそうであれば、精神療法家はやっていない。そもそも医者もやってない。
与えられた能力を駆使して、この娑婆の中で最低努力で最大収入を得られるような道をガツガツと進んだであろう。
そんなことのために仕事はしていない。というか、生きていない。

また、ワーカホリック(仕事中毒)なわけでもない。
何か生産的なことをしていないと、あるいは、他者貢献的なことをしていないと、自己無価値観に陥る人たちをワーカホリックと呼ぶ(その背景として、親に寄り添われずに育ち、そのままの自分では存在価値があると思えず、生産的になって、あるいは、他者貢献して初めて存在が許されると思っている人が多い)。
そんなことのために仕事はしていない。というか、生きていない。

そうではなくて、ミッションのために仕事をしている、生きているのである
それは人間の成長に関わるというミッションである。
よって、面談予約が空くと困る。
面談でなくても、人間の成長に関わるなら、研修、講義、ワークショップなどでもいいのだが、それもないと、なんだか胸のうちがスカスカしてくる。
やるべきデスクワークも山のようにあるので、いくらでもやることはあるのだが、それはあくまで“副務”であって“主務”ではない。
難しいのは、人間の成長に関わるなら何でも良いのかというと、そうもいかない。
そこに「縁」が絡む。
「縁」というのは「果たすべきミッションか否か」ということである。

よって、たまにヒマなとき、スカスカしながら、デスクワークをしながら、祈るしかない。

御心(みこころ)ならば、果たすべきミッションをお与え下さい、と。

 

 

昔は都内にいくつものカウンセリングスクールがあった。

近藤先生にも度々講師依頼があったが、割ける時間もなく、
「こういうスクールには核になってやる人が必要なんだよ。」
とよくおっしゃっていたのを思い出す。

時代も変わり、今は国家資格としての「公認心理師」もできたが、「業務独占」とまではいかず、今も無資格の自称「心理カウンセラー」が存在するが、良い意味で、無資格では段々と肩身が狭くなって来ている。
繰り返し申し上げている通り、最低でも「公認心理師」、できれば「臨床心理士」の資格がなければ、どういう教育・経験を積んで来たかに保証がなく、さらに臨床心理士が4年(学部)+2年(修士)の教育課程を終えたとしても、6年間の医学部卒の研修医が何の役にも立てないのと同じように、まだまだピヨピヨのヒヨコに過ぎない。

よって、現代に置き換えて言うと、臨床心理士の資格取得者を対象としたカウンセリングスクールが必要だと私は思っている。
当研究所では、臨床心理士の資格取得者が一人ひとり「人間的成長のための精神療法」を受けに来て下さっているので、些かカバーできているのではないかと思うが、誰かそういうスクールを立ち上げてくれないかしらん、という気持ちもある。
それが難しければ、せめて大学院2年間のうちに、基礎の基礎となる「人間観」「治療観/成長観」「人生観」「世界観」などだけでも叩きこめないかと思う(この基礎があるかないかがカウンセラー/サイコセラピストとしての一生を分けることになると私は本気で思っている)。

結局のところ、要は「スクール」云々という形よりは、人のこころに携わる仕事をしたければ、ホンモノのトレーニング=自分自身を見つめ、自分の問題解決をして行くという成長の経験の場が必要である、ということに行き着くのだと思う。

 

 

「一般に本能というものは食欲にしろ、睡眠にしろ、あるいは性欲にしろ、あるのが健康ではありますが、その欲求を充足する場合には、おのずから社会的なきまりというか、マナーがあります。…そして、食欲とか睡眠欲の場合は、小さいときから訓練を受けています。…ところが性に関してだけは、性の欲求がかなりあとの思春期になって出てくるものですから、それに関するしつけは全然できてないわけです。…言いかえれば、子どもたちは自分一人で、この問題についていろいろな試行錯誤をしなくてはならないのです。…
女の子の場合は、女性ホルモンが活発に出てきますと月経という現象がありますが、この頃から女の子は変わってきます。急にふっくらとして女らしく、なめらかな曲線が出てきます。…つまり女の子にとっては一般的に、成熟していくことが喜びなのです。性ホルモンの作用は、女性がもっぱら美しくやさしくなるように出てきます。
ところが男の子の場合には、極めて現実的には性欲としてはっきり出てきます。自分の体の中に、何だかわからないが、つき上げる衝動として荒々しく突然出てくるのです。
このような差異を頭に置いて…この時期によくある恋愛感情についてふれてみますと…恋愛を、心理的な側面と肉体的な側面とに分ければ、一般的には、女の子の方には心理的な面が強く、男の子には肉体的欲求の面が強いと言うことができます。このために、よく…行きちがいが起きるのですが…大人たちは、男の子と女の子の思春期におけるこうした点をよく認識した上で、それに対する教育的な準備を…するべきではないでしょうか。
もとより、若い生命ですから、男の子も女の子も…経験を通じて学び、成長していくことと思いますが、時として女の子には肉体的にも精神的にも大きな打撃となることが多いのです。…
また、この時代の男の子の問題に対して、母親だけではどうにもならないことがあるわけで、とかく、叱責するとか、見て見ぬ振りをするとかに終りがちですが、ここは一つ、父親が男性の先輩として暖かく、明るい態度で、誰しも青春の日に陥り易い傾向であること、それに耽りすぎないようにすること、エネルギーが余ったら体を動かして発散したらどうかなど、大らかに話して頂けたらどうかと思います。…
そして、この時代を乗りきって成長していくために…何よりも、自分の目標や中心をはっきりと持っていることが…必要だと思われます。…自分の生活に目標があり、中心がある時は、性の問題は少なくとも第一次の問題でなくて、第二次、第三次の問題となっていきます。もちろん、その目標や中心となっているものは、自分がほんとうに必要と認め、自分の内部感覚がほんとうに求め、興味を持っているものです。こうした目標や中心があると、それに対してエネルギーが向けられ、狭い意味での性的対象に向けられるエネルギーが少なくなります。…
いずれにせよ自分が本気で取り組めるものあれば、それはそれぞれの生命を生かし、成長させるものです。そればかりでなく、同じ目標や同じ興味を持つ仲間を次第に発見して、お互に刺激し合い、はげまし合い、楽しみ合っていく友情を発展させることができて、人間関係の上からも、場合によっては各人の生涯にわたる大きな収穫を得ることができるのです。
もとより、こうした中でも性的な衝動は自然にありますが、自分の生活に目標や中心がある場合、それと性の衝動とのはげしい葛藤の中で努力し苦闘することで、次第に鍛えられ、たくましく成長し、やがてこれが自分なのだ、自分はこう生きて行くのだという自覚が生まれて、ほんとうの大人として生きていくことになります。
このように性の問題は、青春期をゆるがす大きな問題でありますが、同時にそれは、若い生命の発展と成長のための機会となり、自己形成への飛躍台にもなる積極的意味を持っているものです。この時代の苦しみを通じて、本気に自分の取り組める興味や関心の対象を発見させる方向へ助力することに、この時代の親の役割があると思います。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

男女における性の発現の仕方の違いは、近藤先生が度々強調されて来たことです。
現代の性教育においても、医学的なことは説明されていても、男女が自分の性の発現の仕方の特徴、異性の性の発現の仕方の特徴、さらにその心理的特徴について、ちゃんと教育されているとは言い難いと思います。
そこを是非、お父さん・お母さん方、先生方、あるいは、年長の先輩方から思春期の子どもたちに教え伝える機会を設けていただきたいと思います(そのためにはもちろんお父さん・お母さん方、そして、年長の先輩方が真実をしっかり理解している必要があります)。
そしてその上で、性の問題をただの問題として扱うのではなく、性欲に支配されることなく、本来の自分を逞しく生きて行けるようになるための踏み台として活用して行くところに、事の本筋があるように思います。
そうすれば、この性欲を、名誉欲や金銭欲など他の欲望に置き換えても、当てはまる、即ち、どのような欲望にも支配されず、この人生において本来の自分を生きて行けるようになる、という大切な教えとなるのではないでしょうか。

 

ある人が訪問看護ステーションを立ち上げた。
開業当初は利用者が少なく、かなり遠方の人でも、この人は援助対象としてちょっと違うなと思う人でも、折角開業した会社を潰すわけにはいかないので、何でも引き受けた。
後に利用者が増えて来ると、当初無理をして引き受けた利用者が重荷になって来たが、今さら断ることもできなかった。

ある人が訪問看護ステーションを立ち上げた。
地域の病院で10年近く働き、地域の活動も関係諸機関と連携してやって来たので、開業してすぐに利用者がいっぱいになった。
以後も、会社から近い地域で密度の高い支援をすることができた。

だから、開業にはしっかりとした準備が要ると申し上げたいところであるが、かく言う私が開業したときも(近藤先生逝去後に動き出したこともあって)クライアントはとっても少なかった。
治療のための精神療法の依頼や、「情けなさの自覚」も「成長への意欲」もない面談の申し込みはあったが、あくまで開業当初の「対象」にこだわり、すべてお断りした。
最初はヒマでしょうがなかったし、収入面でも苦労したが、今になってみると、そこで踏ん張って来て本当に良かったと思う。
毎朝、面談の予約表を見て、ああ、今日はこの人がいらっしゃるのか、この人と面談するのか、と思うとき、一人残らず、楽しみなのである。
楽しみと言っても、面白おかしい楽しさではなく、大いに苦労する場合も多々あるが、やっぱり「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持っている方々との面談はやりがいがあるのである。
つくづく「対象」にこだわってやって来て本当に良かったと思う。

だからね、いろいろと苦しくても、ブレちゃいけないときがあるのです。
今、迷っている方にこそ、こう申し上げたい。
苦しくとも守ったからこそ得られるものと、
苦しくて変えてしまったからこそ失うものがあると。

 

 

昨日、今日とスポーツニュースは、MLBロサンゼルス・ダジャース(現地の発音はドジャースよりもこっち)のワールド・シリーズ優勝一色である。

球場では、背番号17や18のダジャースのユニフォームを着たファンたちが快哉を叫ぶ。
選手の出身地である岡山や岩手でのライブビューイングで、皆が郷土の誇りだと喜ぶ。
いやいや、ただ同じ日本人であるというだけで、なんだか晴れがましい気持ちになってくる。

おいおい、先日小欄に書いたことを思い出してみよう。
あなたは一球も投げていないし、一本も打っていないよ。
すべて「同一視」を起こして、他人が達成した成果を自分の手柄であるかのように勘違いしているだけのことなのである。
それならば、優勝を喜んでも良いけれど(かく言う私も「やったぁ!」と騒いでいる、ああ、自分は便乗しているんだな、という自覚をちょっとだけ持った方が良いかもしれない。
でないと、他の国の人や、岡山・岩手以外の人や、ダジャース以外のチームのファンの人に対して、優越感を持っちゃったりするアンポンタンが出て来るかもしれないからね。

そうでなくて、今回のダジャース優勝による健全な刺激の受け方があるとすれば、
山本由伸や大谷翔平が自らに与えられたミッションを果たして活き活きと生きているように、今回の人生でオレに/ワタシに与えられたミッションは何なのだろうかと本気で探し求め、一生をかけてその実現を追求して行くことではないだろうか。

紛れもなく、それがあなたのワールド・シリーズなのである。

 

 

対人援助やコミュニケーションの場面で
「こういうときにどう言ったら良いんですか?」
「こういうときにどうしたら良いんですか?」
と訊かれることがある。
申し訳ないが、求められた答えを言うわけにはいかない。
私ぐらいのキャリアになれば、その場にうまいこと対応する言動の引き出しがないわけではない。
しかし、安易にそれを教えることは、質問者を小手先のつまらない人間に堕落させることになる。

私は、セリフや行動といった「形」ではなく、その「出どころ」、即ち、どういう思いや姿勢の根源からその言動が出ているかを徹底的に重視している
どんな言動が出ようと、その「出どころ」に
相手の生命(いのち)への畏敬の念があるか
相手の存在への愛はあるか
それが根本的に重要なのであり、
それさえあれば、「形」=言動は二の次、三の次ということになる。

何故ならば、相手からその「出どころ」を観抜かれるからである。

荒い言葉使いに愛情いっぱいのときもある。
丁寧な態度に侮蔑の念満載ということもある。
そういう経験、ありませんか

最近のハラスメントの基準などは、この「形」に偏っている。
こういう言葉を使ってはいけない。
こういう態度を取ってはいけない。
「形」しか基準にできないというのは、「出どころ」を感じ取れない鈍感な人用の基準だからである。
確かに客観的「証拠」としては「形」しかないわな。

そうではなくて、
相手の存在の根本に対して、手を合わせて頭を下げる姿勢で臨みたいものである。
相手も表面は、塵や埃や泥や神経症的なものに覆われているかもしれない。
それを拝む必要はない。
嫌悪感を抱いたり、怒りを覚えても構わない。
しかしそれでも相手の生命(いのち)に対しては合掌礼拝(らいはい)するのである。

それが私が近藤先生から学んだ大事な教えである。

 

 

昨日10月31日(金)「軸があれば」の続き。

子どもが多数派でない道を選ぶとき、今度は親の方が試される。
果たしてブレないで我が子を応援できるだろうか。
そこでも大切なのはいつも、一番大切な原点に戻ること。
学校に行くだとか、適応するだとかといった表面的なことにとらわれず、
この子が何のために生れて来たのか、
この子が今回の人生で生命(いのち)を授かった意味と役割は何なのか、という視点を失わないことである。
そこを押さえておけば、この子が本当の自分を生きることができるようになるために登り道はいくらでもある、ということが観えて来る

しかし、そんなことを考えながら自分自身の人生を歩んで来た親はほとんどいない。
子どもが不登校になって初めて親も自分の生き方も見直すことになる(それでも見直す親御さんと見直さない親御さんとがいらっしゃるが…)。
見直す契機となれば、子どもの不登校は単なる不幸な出来事ではなく、親子共に人間として成長して行く大きなチャンスとなる。
よって、そのためには、その親を心理的に応援する人がいた方が良い。
若い親御さんの年齢で自分の生きる軸を(しかもホンモノの軸を)持っている人などほとんどいない、というか、私は逢ったことがない。

そうでなくても、特に子どもが低学年の場合、子どもの過ごす場所をどうするか、という問題も出て来る。
これは、子どもが少なくなっているのに不登校児が増えている、という現実を踏まえて、是非とも行政に頑張ってほしいと切に要望する。

で、話を元に戻すと、親子共に人間として成長して行くためには応援して行く人が必要、ということになるが、ここでもまた同じ問題が生じて来る。
応援しようとしているあなた、あなた自身は生きる軸を持っているんですか?
本来の自分を実現する人生を歩んでいるんですか?

だから、対人援助職者にもまた「人間的成長のための精神療法」が必要だ、という話になってくるのである。
みんな一緒に成長しましょ。

 

 

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