八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

「心が時々乱れるときがあるでしょう。そういうときには、ひとつ、自分の心を海の一番底だと思って下さい。で、あなたの上の方で、怒ったり、あるいは、イライラしたりするのは、風で波が騒いでいるようなイメージを持って下さい。だから、ああ、今、私の心は騒いでいる、それは事実なんです。騒いでいるのは騒いでいる。しかし、一番深いところに、私の、やっぱり、深いところでは、落ち着いたところがあるなってことが、自分で味わえるようになって下さい。そうなったら、とても楽になりますよ、と言います。」(近藤章久『心身平安への道』)

 

一番底。
それは我々の自我を超えた底。
そこから
自分の我を眺めるとき
相手の我を眺めるとき
ちょっと違って観えるんです。
ちょっと落ち着いて観えるんです。
そんな世界があるんです。
そんな境地があるんです。
こういうことをちょっと知っているかいないかで
対人援助の現場で働くとき
否、娑婆で働くとき
娑婆で生きるとき
何かがちょっと変わって来るんですよね。
なんだかちょっと楽になって
なんだかちょっと深くなって
なんだかちょっと大きくなって
あったかくなる。

そこに我々の我を超えた世界がある。
そのことを覚えておいて下さい。

 

 

昔、東京メトロ(地下鉄)の電車に乗車したら、男性の声で車内アナウンスが流れて来た
通常なら
「つぎは~、とらのもん(虎ノ門)~、とらのもん~。」
というところを
「あ、つぐぃはぁ~、は、とぅらぁのぅもぬぅ~、あ、とぅらぁのぅもぬぅぅぅ~。」(←精一杯表記してみたが実際はこんなもんではない)
というアナウンスが流れて、腰から崩れ落ちそうになった。
「何言ってんのか、全然わかんねーよ!
現在は、女性アナウンサーによる綺麗な録音音声になり、とても快適である。

そして先日、某電鉄の電車に乗車したら、男性の渋いバリトンの声で車内アナウンスが流れて来た。
今度はちゃんと聞き取れるのだが、完全に自分の声に酔いしれてしゃべっているのだ。
「つぎは~、〇〇~、〇〇~。」
と表記上は何の問題もないように見えるが、そのナルってる(=ナルシシストしてる)声の具合いが絶妙に気持ち悪く、思わず失禁しそうになった。
しかし事態はそれで終わらなかった。続いて英語アナウンスに入ったことで、これまた
「Next station is 〇〇~、〇〇~。」
と表記上は何の問題もないように見えるが、その独自の発音の上に、先のナルってる声の具合いが重なり、危うく脱糞しそうになった。
「フツーにしゃべれーっ!」

そして今日、某電鉄の電車に乗車したら、通常なら、
「間もなくドアが閉まります。閉まるドアにお気をつけ下さい。」
というところを
「間もなくドアが閉まります(←ここまでは良かった)。閉まるドアに…(段々声が小さくなる)……(おいっ!間が長いぞ!)……(急に聞き取れるかどうかの囁(ささや)き声になって)…気をつけて下しゃい。」
「車内アナウンスで囁くなっ! しかも何が『しゃい』だっ!」
お腹がヒクヒクして悶絶しそうになった。

鉄道勤務もいろいろあって大変なのかもしれないが、3人とも共通して言えるのは、自分の方を向いて(自分の世界で)仕事をしていることである。
乗客に貢献する仕事なのですから、聞かされるお客さんの身になって、お客さんの方を向いて仕事をしましょうね。
(尚、医療関係者における「どっち向いて、誰を向いて仕事してんだよ問題」についてはまたいつか触れるつもりである)

 

 

「引きこもり」の子どもたち、大人たちがいる。
彼ら彼女らは通常、自宅の中、自室の中に引きこもる。
しかし、引きこもるのは、自宅や自室ばかりではない。
18歳以上になると、時に海外に打って出る人たちがいる。
人と人との距離が近く、言動の表裏をデリケートに感じ取る日本のコミュニケーションに疲れ、
特に何らかのコミュニケーション障害(特に自閉スペクトラム症(ASD)や自閉スペクトラム(AS)に基づくコミュニケーション障害)がある人たちにとっては、文化の違う海外での暮らしの方が却って過ごしやすかったりする。
私はそれを「そとこもり」と呼んでいる。
そこでは、察することも要らない、忖度も要らない、暗黙のマナーやルールもわからなくて良い、何事も結論から、本音から言えば良いし、
自分のコミュニケーション障害を相手は文化の違いのせいだと思ってくれる。
これは有り難い。

時に海外在住の日本人に会ったとき、「ん?」と違和感を覚えるときがある。
それは現地に居住するうちに現地ナイズされたことによる違和感ではなく、その人が実は元々日本時代から持っていたコミュニケーション障害に基づく違和感だったりする。
それでも、その方が生きやすければ全然OKなのであるが、どんなに文化が違っても、人間と人間とのコミュニケーションとして万国共通の部分もある。
わかりやすい例を挙げれば、国際結婚をした際、パートナーはちょくちょく起こる行き違いについて、当初それが文化の違いによるものと思ってくれるが、やがて、それにしてもおかしいと気づき始める。
そして相手のコミュニケーション障害によるものだということを発見する。

だからやっぱり、「引きこもり」と同じく、「そとこもり」に走ったって良いのだけれど、やっぱりどちらもひとつの通過点であって、どこかでは自分のテーマと正面から向き合った方が良いんじゃないかと私は思う。
それが今日申し上げたいこと。

少なくとも発達障害がベースにある人たちに対しては、生きやすくなるための治療教育=療育が子どもや大人のために用意されているということを知っておいていただきたいと思う。

 

 

今日は新年度最初の「八雲勉強会」。
令和6年度4月から構成を変えて、(1)近藤先生の文献を使った精神療法に関するレクチャー(2)参加者による話題提供とディスカッションという(1)+(2)2本立てとした。
ついては(1)の内容として、まず「ホーナイ派の精神分析」を取り上げる。
今までもホーナイ全集をはじめ、いろいろな文献を取り上げて来たが、今回、折角よくまとまった文献を使うので、読者諸氏とも共有したいと思い、ここにその内容を掲載した。
非常に濃縮された文章であるが、ホーナイ派の精神分析に関心のある方々のご参考になれば幸いである。
(以下、表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は私の加筆である)
 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

1.人間の成長 ー「真の自己」の実現

Freud(フロイド)正統派の伝統の中に育ち、褒貶(ほうへん)をものともせず心的現実への追求を果敢に行った Freud の態度に惜しみない尊敬をささげながら、Horney もまた Freud に劣らない厳正さで心的現実を直視し、患者との長い臨床経験と不断の自己分析の経験を検討することによって Freud と全く異った見解に到達した。
彼女の明るい洞察の眼は、人間の存在の中に、常に実現を求めて止まない成長と発展への衝動を発見し、その源泉として「真の自己(real self)の概念を定立(ていりつ)したのである。この様な成長と発展への能力は、あらゆる人間に存在し、その素質や環境に応じて、各々の独自性に輝きながら、各自の「真の自己」を実現して行くものなのである。
(あたか)も樫(かし)の実が大木に成長する可能性を何時もはらんでいる様に、人間は、常に「真の自己」を実現して行く能力を持っているのである。しかし、人間も生体として、他の生物がそうである様に、生長して行く為に良好な環境条件を必要とする。
人間は、自分の感情や考えを生かし、自分を表現し得る内的な自由と安全を与えてくれる、自己実現の為の暖い環境が必要なのである。人々も好意や、協力や、指導、忠告、激励等が、どんなに私達が成熟した安定した人間になる為に必要なことであろうか。
また私達には一方に、他の人々との意見の交換や競争やその他の健康な刺激が成長に必要でもある。この様な関係に於(おい)て、私達は相共に人間として共感し合いながら、それぞれ独自の成長を遂げる事が可能となるのである。

 

 

新型コロナウイルス感染症拡大の第10波も、ようやく沈静化の様相を呈して来た。
それに合わせて、そろそろ「対面」のイベント開催を再開しようか、という考えがむくむくと起きて来ている。

八雲勉強会を「対面」と「リモート」の「ハイブリッド形式」にすることも考えているし(これは急いでおらず来年度くらいかなぁと思っている)、
それとは別に、久しぶりにテーマを決めて「対面」形式の勉強会/研修会を開催しようかとも思案中だ。
また参加対象も、今八雲で面談している人に限定せず、新しい人や若い人との出逢いの機会を作ってみようかと思っている。

まだまだ具体的な構想は固まっていないが、時は春、四月を迎えて「そろそろ」「そろそろ」と、「集団」でのリアルな「対面」の機会を求めて蠢(うごめ)くものがある。

いずれにしても、例によって、当研究所の企画は大規模なものではない。
小さくても自分自身の成長に向けて、大切な何かを感じて帰れるものにしたい、という願いは変わらない。

ご関心のある方は、当ホームページでの案内掲載をお待ちあれ。

 

 

昨夜午後8時頃、路線バス内にスマホを落としてしまった。
あちゃー、やっちまった!と思っていたが、
朝一で路線担当の営業所に問い合わせてみたところ、お昼前には私の手元に戻って来た。
有り難や、有り難や。
紛失物をちゃんと届けて下さるこの国の倫理性の高さに感謝である。

思い起こせば、路線バス内にガラケーを落としたことは既に2回あったが(おいおい)、それはいずれも15年以上前のことであった。
その後、私のガラケー(その後スマホ)はチェーンでバッグに繋がれ、15年以上紛失はなかった。
しかし、落とし穴があった。
いつものバッグを持たずに外出するとき、スマホを上着のポケットに入れてしまったのである。
そこにチェーンはない!
従って、運転手さんの後ろのちょっと高い一人座席に座ったとき、いつの間にか、ポケットから擦り落ちてしまったのだ。
(ちなみにこれまでの携帯電話紛失3回は、いずれもこの同じ座席であった

例によって、私の『やらかし対策辞書』に「次から気をつけます」の文字はない。
気をつけてもヒューマンエラーは必ず起こる。
従って、気をつけなくてもエラーが起きないようなシステムを構築しなければ、万全の対策とは言えない。
よって今回を機に、スマホからスラックスのベルトにつながるチェーンを作成した。
これでいつものバッグを使わないときでも大丈夫である。
スマホは私のベルトから離れない。
(スマホポーチ(スマホショルダー、スマホポシェット)も考えたが、荷物はできるだけ増やしたくない)

そして、こういうエラー対策システム構築のアイデアは全て、自閉スペクトラム症や注意欠如多動性障害などの子どもたち・大人たちの臨床経験から学んだものである。
療育のアイデアはすべての人に応用できる。
やらかすときはやらかすが、タダでは起きない私であった。

お騒がせ致しました。

 

 

“治療”の面談場面においては
クライアントの「沈黙」には大きな意味がある。
それこそ、対人援助職に対するテスティングに使われることもあれば、
クライアントの深い問題に触れて、クライアントが何かを心の奥底でじっくりと味わっているとき、あるいは、何かが結晶化して来るのを待っているときである。
しかし「沈黙」に弱い対人援助職は、その「沈黙」に耐えられず、ついベラベラと薄っぺらなことをしゃべり、クライアントの不信と失望を招く。
対人援助職には、悠々と「沈黙」に付き合う力量が必要である。
但し、クライアントが何かこちら(対人援助職)から話して(声をかけて)もらいたくて「沈黙」しているときもある。それがわからずこちらも「沈黙」していれば、それはクライアントに苦痛しか与えない。

近藤先生のクライアントで、半年間ひと言もしゃべらなかった外国人女性がいた。
週1回50分の面談である。
師は全く困らず、クライアントを大きな気で包んで、スッとそこに座っていた。
そして半年後「ドクター近藤、おまえは信用できる。」と言って、彼女は話し始めた。
そんなことがある。

“成長”の面談場面においては
ほぼ「沈黙」は存在しない。
クライアントは「情けなさの自覚」と「成長の意欲」を持って来ているはずだもの、自分の成長課題や問題の話をするのに50分で足りるはずがない。
あれもこれも課題だらけ問題だらけのはずであるから。
私が近藤先生のところに通っていた頃もとても1回50分では足りなかった。
準備をしなくても話したいことが次から次へと出て来た。
(もし出て来ない人がいたら準備した方が良いかもしれない。時間がもったいない)

唯一の例外は、“治療”の面談場面と同じく、クライアントの深い問題に触れて、クライアントが何かを心の奥底でじっくりと味わっているとき、あるいは、何かが結晶化して来るのを待っているときであろうか。
そんなときは私もただ“沈黙”に付き合う。
こころの中で祈りながら。

 

 

「僕の、そのときの、聞き方、態度、そういうことで、ちゃんと患者はテストしてる、その間に。それで、この人は話してもいいかな、悪いかな、どの程度まで話すかな、というようなことを考えるんです。おかしいけどね、ここ(近藤クリニック)へ折角来てるんだから。だけども、そういうことが自然に起きちゃう、…そういうのを聞いてるうちに、ああ、これは安心できるな、と思ったら…話してくれます。」(近藤章久『心身平安への道』)

 

テスティング、試すこと、つまり、試されること。
サイコセラピーなんてやっていると、そんなことがしょっちゅう起こります。
でもね、そんなの今さら、取り繕ったって、演じたって、どうしてもバレちゃうんですよ、こっちの本音がね。
だから、どう思われるかに右往左往しないで、テストに合格するかしないかに一喜一憂しないで、ただこの自分で勝負するしかないんです。

本音が変わることを成長といいます。
自分が磨かれて行くんです。
そうなると本音がバレることが恐くなくなります。
なんたって、それが本音なんだもの。

そしてこれがサイコセラピー場面だけの話ではなく
あらゆる人間関係 ~ 親子、夫婦、恋人、友人、同僚、上司部下などなど ~ にも当てはまることがわかりますよね。
そうなんです。
いつもあなたの本音は、互いにそうとは知らないうちに、試されているのです。

 

 

ある和食店で食事をしていたとき、そこの板前さんが東南アジアの某国の日本料理店で働いていた頃のことをお客さんに話していた。
その店の厨房で洗い物をするために雇われていたのが中近東某国出身の若い女性たちであったが、これが全く仕事をしない。
ずっとしゃべっているか、スマホをいじっているのだという。
で、現地のシェフはどうするかというと、その子たちに向かって、耳をつんざくような声で怒鳴り倒し、恐怖によって仕事をさせていた。
それを見て、流石にそれはおかしいと思った板前さんは、できるだけ彼女らに優しく接してみたが、そうするとあからさまに舐めて来て、さらに仕事をしないのだという。
その態度に嫌気がさし、また彼女らに舐められている自分の姿を嘲笑的に眺めている周囲の視線も気になった板前さんは、意を決して大声で怒鳴り上げ、ゴミ箱を蹴りまくって威嚇したのだという。
そうすると確かに彼女たちは働いた。
しかし、そうこうするうちに、こんなことを続けていたら、人間が荒(すさ)んでしまう、と感じた板前さんは、早々に日本に帰国したのだそうだ。
聞くでもなく聞こえて来た話だが、この板前さんは人間として感覚がマトモな人だと思った。

しかし、宿題が残された。
そんなとき、あなたならどうするか。私ならどうするか。
優しくすれば舐められる。
かといって、恫喝するのは最も安易な方法である。

近藤先生の姿が浮かんだ。

「寛にして畏(おそ)れられ、厳にして愛せらる」(朱子『宋名臣言行録』)
 優しいのにおっかない。厳しいけれど皆から愛される。

極めて難しい道であり、到達するのに長い年月を要する道ではあるが、
それ以外に正解はないと思った。

 

 

 

御存知の通り、アルコール依存症は誰でもがなり得る病気である。
特別に意志が弱い人がなるわけではなく、
アルコール依存症になってから(依存が成立してから)意志が弱くなるのである。

ちょっと何か辛いこと、イヤなことがあったとき、ちょっと一杯ひっかける。
誰でもがやりそうなことである。
それでちょっと楽になる。
抑制系精神作用物質であるアルコールは、あなたの心の“見張り番”を抑制するので、事態は何も解決していないのに、取り敢えず気持ちが楽になる。
だもんだから
、今度は昼間っからちょっと一杯やるようになる。
それがいつしか朝からになって、やがて一日中ずっとになる。

で、今日はアルコール依存症の話がしたいわけではない。
不安や心配で一日中アルコールを飲むくらいなら、ちゃんと精神科を受診して抗不安薬をもらった方がまだマシかもしれない。
ベンゾジアゼピン系抗不安薬(これも抑制系精神作用物質)だと、それはそれで依存性があるが、今は依存性の少ない非ベンゾジアゼピン系抗不安薬もあるし、抗うつ薬(不安障害などではこちらが第一選択薬となる)や抗精神病薬を使う方法もある。

しかし、なんと言っても、お勧めしたいのは、薬よりも精神療法である。
自分自身と向き合う。
自分の問題と正面から向き合って解決して行くのである。
余りに不安が強いときは、まず薬を併用しながらでも良いが、やっぱり自分の心の問題を解決しないことには、いつまで経っても薬をやめられないことになる。

多くの人たちにとって“悩み始め”の時期というものがある。
そのときにアルコールではらすのも良いけれど、もっと自分自身と、事の本質とちゃんと向き合いませんか、というのが今日お伝えしたい核心である。
それも早ければ早いほど良い。
逃げずに向き合うことは、時にしんどいけれど、やっぱり本当の成長はそこからしか生まれないんだよね。
それを応援するためにサイコセラピストやカウンセラーがいる(この段階なら、当研究所の出番もあるかもしれない)。
もちろん実力もピンキリ、相性もさまざま、なので選ぶ必要はあるが、良い出逢いがあれば、あなたの人生は変わるかもしれない、根本から、アルコールや薬抜きで。

 

 

泣くことは病気ではありません。

悲しくて泣くこと。
嬉しくて泣くこと。
悔しくて泣くこと。
感動して泣くこと。
感情が動くときに涙は出るものです。

そうそう。
演技的に泣くことだけは病気かもしれません(注意獲得的、操作的という意味で)。
そんなのはすぐにバレちゃいますから。

そうでない涙は問題ありません。
涙が出るときは(「出す」んじゃなくて「出る」んですから)、八雲でいくらでも泣いて下さい。

それは
悲しくても
嬉しくても
悔しくても
感動しても
広い意味で、安心の涙なのです。

安心して泣いて下さい。
安心してそのときのあなたになって泣いて下さい、何回でも。
そして必ず止まりますから(これもまた「止める」んじゃなく「止まる」んです)。

 

 

皆さんは、「ニセ科学」というのを御存知だろうか?
「科学を装っているけれども、実は科学でないもの」
あるいは
「見かけは(科学に)よく似ていながら、内実は科学的でないもの」
を指し、「疑似科学」とか「トンデモ科学」とも呼ばれている。

最近では、新型コロナウイルス感染症について、ワクチンがどうの、マスクがどうのと、いろいろな「ニセ科学」が横行したことが記憶に新しい。

そしてもちろんこの「ニセ科学」に引っかからない=「真実」を掴むための対策としては、「ホンモノの科学」的検討が必要だ、ということで識者の意見は一致しているように見える。
(尚、「ニセ科学」について学びたい人には、この記事がよくまとまっていてわかりやすい)

今日私がお話したいのは、そこからの話で、その「真実」を掴むには「ホンモノの科学」しかないのかということである。
以前、小欄で『分析延々、直観一瞬』ということを書いた。
それがここでも当てはまるのではないか、ということが申し上げたいのである。

例えば、食べ物の〇〇が体に良い、という話がよくある。
食べ物の話は、ある意味、「ニセ科学」の宝庫であると言える。
〇〇は良い、□□が良い、という、ちょっと“怪しい”話は巷(ちまた)に溢れている。

私も昔、玄米菜食をやったことがあるが、その際、辟易したのが、「ニセ科学」で滔々と説明して来るその筋の人たちであった。
あるとき、有機栽培の蕎麦を使った手打ち蕎麦のイベントがあった。
参加した私はとても美味しい蕎麦を堪能し、非常に満足であったが、傍らで「ニセ科学」的効能を説く人たちには、新興宗教の説法を聞かされるようで、心底うんざりしていた。
すると、蕎麦を打ってくれたおじさんが(この人はただゲストで呼ばれた蕎麦打ちのおじさんである)
「難しいことはよくわかんないけど、この蕎麦、うまいよな。」
と言ったのが非常に明快であった。

その「ニセ科学」に対して「ホンモノの科学」のエヴィデンスを示して徹底的に論破しても良いのだけれど、
ただ、食べてうまいかどうか。
食べて体が喜んでいるかどうか。
それで決めれば良いじゃん、と私は思った。
いわば、「科学延々、直観一発」である。

もし体に悪いものを食べて 
美味しいと感じたり
体が喜んでいると感じたりしたら
その責任はあなたが取りなさいよ、というだけのことである。

または、
その話をしているその人自身が信頼できるかどうか
胡散(うさん)臭いかどうか
を直観で観抜いて決めるのもありかもしれない。

 

【例】コーヒーに利尿作用があると言われている。
暑い時期にコーヒーを飲むと却って利尿作用が進み脱水になりやすいから控えた方が良い、ということが言われる。
私は、例えば、通常1回150~200mlと言われる平均排尿量がコーヒー1杯を飲むことによって、どれくらい増えるのか、調べてみたくなった。
それが100ml増えるなら大変だが、10ml増しくらいなら大したことないじゃん、と思ったのである。
調べた結果見つけたのは、コーヒーを飲んだ前後での総体水分は、ただの水を飲んだ前後での総体水分と比べて差がない、ということが書かれた論文であった。

なんじゃ、そりゃ。
これもまた、関連論文を網羅して科学的に白黒つける「ホンモノの科学」的解決法もあるだろうが、どうも私には迂遠に思えてならない。
私としては、これからも自分の体に訊いてみて、飲むか飲まないかを決めてみようと思っている。
それでもし自分の鈍感さのせいで脱水になったのだったら、自業自得で結構である。

 

 

「医学的に見ても、皮膚接触がない人間はダメなんです。人間の皮膚は神経と同じ細胞で形成されているのです。だから、皮膚感覚のことを触れ合いとも言うでしょう。皮膚感覚というのは非常にコンタクトなもので、心の触れ合いです。人間には触れ合いという感覚が大切なのです。」(近藤章久対談『人間を育む心』)

この文章を読んでいて、学生の頃習った発生学を思い出しました。
確かに、体の一番表面にある皮膚と体の一番奥にある脳神経系は、受精卵が細胞分裂することにによってできた胚の中の、同じ外胚葉から発生したものです。
そうすると皮膚感覚が特別な深さを持つのは当たり前ですね。

皆さんは普段からハグやタッチをしていますか?
親子はもちろん、パートナー同士でも、恋人同士でも、皮膚接触はとても大切です。
文化的に日本では皮膚接触する習慣がとても少ないように思います。

せめてあなたにとって大切な人とは、日常的に触れることをお勧めします。
(反対に、余り触れなくなったら(触れたくなくなったら)、それは心の距離が遠くなったのかもしれません)

以前、ある人が Phyllis K. Davis の絵本『Please Touch Me』を紹介してくれました。
(邦題『わたしにふれてください』訳:三砂ちづる 絵:葉祥明 大和出版)
触れることの大切さがそのまま描いてある本です。
関心のある方は読んでみて下さい。

(面談室の本棚にありますから、ご希望の方にはお見せしましょう)

そしてもし今、いろいろな事情から触れることのできる相手のいない方には、
可能ならば、ペットを撫でることもお勧めです。
勘の良い方なら、お気づきでしょう。
ペットの頭を撫でているあなたの手の平は、ペットの頭に撫でてもらっているのです。
また、泳いだり、温泉に入ったりすることもお勧めです。
肌を水やお湯で撫でられることは、脳を、いや、心を撫でられることでもありますから。

我々の五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の中では、触覚が一番深いところに届くものだと私は思っています。

 

 

昨日お話した「成長の四段階」の話の中でも特に、「服従」→「逃避」に進む人の方が、魂を売ってうまいこと「服従」し「適応」できている人たちよりも、実は健全なのだということを今日は特に追記しておきたい

なんだか「逃避」だとか「うまく適応できない(=不適応、適応障害)」だとかというと、どうも弱っちくてダメなもののように思われがちであるが、私に言わせれば、おかしな環境に魂を売れなかったからこそそうなったのであり、むしろその健全さを見逃してはならないと思う。

本当は、魂を売ってうまいこと「服従」して「適応」している人たちの方が、魂を売らないで「逃避」したり「適応障害」になっている人たちに対して、秘かな“劣等感“を抱いているために、彼ら彼女らに対して見下すような言動を取っていることが多々あるのである
「子どもだな。」「弱っちいな。」「もっと大人になれよ。」「ダメだな。」「いつまで自分探ししてんだよ。」などなど。
実は自分の方が感覚麻痺やちょろまかしを使ってうまいこと立ち回ってるだけのヘタレだとはバレたくないからね。

自分がもし「服従」から「逃避」に至ったならば、その本当の意味をちゃんと掴んでおこう。
「服従」するのがまっぴらだから、魂を売りたくないから、

できるだけイヤなヤツに会わないようにする。
家出する。
不登校になる。
ひきこもる。
出社拒否する。休職、退職、転職する。
それも一歩。

そしてその上で、あくまでも「逃避」が通過点であることもちゃんと押さえておくことだ。
通過点としての「逃避」は大いに結構だが、いい年こいて何十年も「逃避」では埒(らち)が明かない。
残念ながら
パラダイスのような家庭はない。
パラダイスのような学校もない。
パラダイスのような会社もない。

だからこそ、「逃避」の次に、堂々と「反撃」できるようになる段階が待っている。

そうして初めて、逆境を蹴散らしながら、本当の自分を生きることのできる、幹の太い人間になって行けるのである。
上っ面を漂流し続けるような「自分探し」ではなく、「本来の自己の面目」としての、本当の「自分探し」とその実現がそこにある。

そのためにも今はまず、ちゃんと逃げて、体制を立て直して、さあて、反撃の準備をじっくりと始めましょうか。
ゆっくりでいいよ。
でも、いつか、必ず。


 

 

最近、「人間の成長段階」には「四段階」あるんじゃないか、ということをつらつらと思っている。
と言っても、「成長段階」の切り口はさまざまあるので、以下はひとつの観方と思って読んでいただければと思う。

四段階の第一、
まず一番弱い人間というのは「服従」するしかない。
その背景に「恐怖」がある。
小さくて弱い子どもは、大きくて強い親に従うしかない。
いじめっ子にも、おっかない先生にも従うしかない。
権力を振るう上司、経営者にも従うしかないのである。
そうやってなんとかかんとか生き延びる。

四段階の第二、
これがもう少し強くなって来ると、「服従」するのがイヤで「逃避」するようになる。
「逃避」は不服従であり、「怒り」の芽でもある。
できるだけイヤなヤツに会わないようにする。
家出する。
不登校になる。
ひきこもる。
出社拒否する。休職、退職、転職する。
「逃避」する方が「服従」するよりはマシである。

四段階の第三、
そしてもう少し強くなって来ると、「反撃」に出るようになる。
そこには明らかな「怒り」がある。
口答えする。
押し返す。

必要とあらば、手が出る、足が出る(暴力は勧めないが)。
言わば、いつでも刀が抜ける、という状態になる。
「反撃」できる方が「逃避」するよりも強い。
その上さらに経済的、精神的に自立できるようになれば、完全自由は近い。

「服従」→「逃避」→「反撃」、通常はここまでで十分であり、外圧をブッ飛ばして自分を生きるこができるようになる。
しかし、これで終わりではない。
それから先もある。

四段階の第四、
それは敵対すべき相手を「愛する」あるいは「育てる」ことである。
これは並大抵のことではない。
そもそも人間業(わざ)では無理だと思う。
そういうミッションを与えられなければ無理だと思う。
人間を超えた働きがないと無理だと思う。
「汝らの仇(あた)を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。」(『新約聖書』)とは、やはり神業なのだ。
だからそれに続いて「これ天にいます汝らの父の子とならん為なり」となる。
「父の子」でないと無理なのだ。

それでも、「愛」という四段階目もあるのだな、ということを頭の隅に覚えておいていただきたい、と思う。
 


 

過日、ある病院で新規採用職員研修を行って来た。
医療職だけでなく、全職種の新規採用職員対象である。
テーマは「メンタルヘルスについて」。

例によって、ただの情報棒読み睡眠誘発研修になるのはイヤなので、興味を持っていただきやすいテーマに絞り、動画や朗読の演出を加え、今日メンタルヘルスが日常的かつ身近な話題であること、できるだけ早く相談機関や医療機関を利用することの重要性や、自分の心を見つめることが万人にとってより良き人生を送るためにとても大切であることなどをお伝えした。

そして精神科医である私が新規採用職員の前に“露出”することもとても重要だと思っている。
願わくば、精神科医というものに対して、ネガティブイメージでなく、とっつきやすいイメージを持っていただければ幸いである。
但し、私自身が「変」でないかと言えばかなり「変」だし、「変わっている」と言えばかなり「変わっている」ので、せめて「どうも悪い人ではないらしい」と思っていただければ上出来である。
「情報」や「知識」も重要だが、「印象」「心証」というものも時にさらに重要なのだ。

尚、研修資料も、敢えてプリントアウトし、配布、持ち帰っていただいている。
そうでないと、記憶と共に去りぬ、で、あれ、何の話だったっけ?になりやすい。
将来もし困ったときに、そういえば、なんかプリントがあったよな、と思って、見ていただければ意外と役に立つかもしれない。

というわけで、こういう機会もひとつの結縁(けちえん)なのかしらん、と有り難く思っている。
職員だけでなく全国民にとっても、今回話したことが当たり前になると良いなぁ。

 

 

本日で松田精神療法事務所から八雲総合研究所に法人化して満13年になる。
ここまでお役目を務めさせていただいたのも、つくづく有り難いことだと思う。
振り返れば、私の人生にも何度かの大きな転機があったが、いつも絶対の自信や確信があって新たな道に踏み出したわけではない。
その度に、これがミッションであれば続くだろうし、ミッションでなければ続かないだろうな、と思いながらやって来た。
実際にピンチがなかったわけではないが、その度に、何とも言えない“救いの手”が予想外の方向から差し出されて、乗り越えることができた。
ミッションに沿ったことをやっていれば、守られるのかな、とも思った。
しかし、思い通りに行くことだけがミッションではないことも知っている。
私自身の成長のために、艱難辛苦が与えられることもあるであろう。
それも甘受するしかない。
それでも、もうしばらくは、縁ある“あなた”に出逢って面談できる歓喜(よろこび)を味あわせていただきたいと願う。
今面談している方々も、これから面談するであろう方々も、どうぞ宜しくお願い致します。
合掌礼拝

 

そして早速の改訂である。
昨日(2024(令和6)年3月31日(日)付けの当所感日誌で、

「ついては、読者の方々が、私が改訂したかどうかわかるように、改訂した場合には、表題の下に改訂の日付を入れることにした。
例えば「2024(令和6)年3月31日(日)『〇〇〇』」の下に「2024-04-01」とあれば、2024(令和6)年4月1日に改訂をしたな、ということである。
改訂内容は、句読点ひとつの改訂でも反映されるため、そのときそのときでさまざまである。
また1回でなく何度も改訂されることも少なくない。
もし気になる内容のものがあれば、適宜、改訂日付をチェックしてみて下され。」

と書きましたが、改訂した日付を表示しようとすると、掲載の順番が変わる(古い日付の所感日誌がトップに表示されてしまう)ことが発覚しました。
よって、昨日の今日ですが、改訂した日付表示をすることは断念させていただきます。
しかし、内容についての改訂作業はこれからも続けて行きますので、ご関心のある方は、古い日付の所感日誌をご覧になったとき、あれ、前に読んだときと記載が違うな、と気づかれましたら、ああ、改訂したんだな、と思って下さい。

 

 

この「主宰者の所感日誌『塀の上の猫』」も、本年2月3日(近藤先生の命日)から毎日書き続けて来たが、我ながらよく今日まで続いているものだと思う。
強迫的に(あるいは執着して)やっているわけではないので、いつ途切れてスローペースになるかわからないが、このところ、以前はよくやっていた記載内容の「改訂または削除」がほとんど行えていないことが気になっている。

「主宰者の所感日誌『塀の上の猫』」の冒頭、「はじめに ~『塀の上の猫』について ~」の中で
(5)最後に、『塀の上の猫』は適宜、改訂または削除することがある。
自分として完成度に納得しない場合は、何度も同じテーマで書き直すこともある。
これは自分自身のためである。」
と記(しる)した
通り、今後は過去の所感日誌について、適宜、改訂または削除を行っていくつもりである。
これはあくまで自分なりに少しでも納得のいく内容にして行くための作業である。

ついては、読者の方々が、私が改訂したかどうかわかるように、改訂した場合には、表題の下に改訂の日付を入れることにした。
例えば「2024(令和6)年3月31日(日)『〇〇〇』」の下に「2024-04-01」とあれば、2024(令和6)年4月1日に改訂をしたな、ということである。
改訂内容は、句読点ひとつの改訂でも反映されるため、そのときそのときでさまざまである。
また1回でなく何度も改訂されることも少なくない。
もし気になる内容のものがあれば、適宜、改訂日付をチェックしてみて下され

尚、削除については、ある日付の所感日誌が、ある日突然消えることもあるため、ご容赦を。
後日、内容を温め直して、類似内容で再掲する場合があるかもしれない。
これもまた自分として納得のいく内容にするための作業であることをご了解下さい。

以上、お知らせまで。

 

※上記、赤字部分は削除します。

 

 

ある患者さん(Aさん)が、過去の辛い出来事について話し始めた。
それに対して、対人援助職のBさんはどう応えるか。
それにワンパターンの答えなどあるはずがない。
例えば、それは「ただ話を聞いてほしい」だけかもしれない。
ならば、一所懸命に話を聴けば良い。
例えば、それは「慰めの言葉がほしい」のかもしれない。
ならば、誠実に慰めの言葉を言えば良い。
例えば、それは「未来に向かってのアドバイスがほしい」のかもしれない。
ならば、真摯に未来に向かってのアドバイスを言えば良い。
他にもいろいろな可能性が考えられるが、いずれにしてもAさんが過去の辛い出来事の話を「何のためにするのか」を見抜かなければ対応できない。

と言うと、「じゃあ、Aさんに『ただ話を聞いてほしいんですか?』『慰めの言葉がほしいんですか?』『未来に向かってのアドバイスがほしいんですか?』と訊けば良いじゃないですか。」と言ったすっとこどっこいがいる。
本人がわかってしゃべってることは非常に少ない。
そこを見抜くのが対人援助職の仕事である。

このように、Aさんが過去の辛い出来事について話す真意がどこにあるかを理性的に「分析」し始めると、それだけでもこんなに延々とした話になる。

これが「直観」だと一瞬で終わる。
「あ、こうしてほしいのね。」
しかし、これがそう簡単ではない。
鈍いのに、あるいは、偏っているのに、自分は「直観」が発達している、自分の「直観」が当たると思っているへっぽこがいる。

あのね、「直観」が働くようになるためには、あなたの心に後から付いた神経症的な曇りや歪みを除去しないと、「直観」が当たるようにはならないのだよ。
曇ったガラスを通して、あるいは、歪んだガラスを通して真実が見えるわけないよね。
そのために対人援助職者には、自分の神経症的問題を解決して行くトレーニングが要るわけです。
例えば、まだ自分の他者評価の奴隷の問題も解決していないのに、他人の真意が見抜けるわけがないよね。そこに投影が起こるに決まっているから。

そしてさらにもう一歩踏み込んでおこう。
最初に挙げたAさんの話は、いわば、Aさんの秘められた「真意」を見抜く話であるが、その「真意」というのは、残念ながら、まだまだ「浅い真意」である。
「ただ話を聞いてほしい」にしても、「慰めの言葉がほしい」にしても、「未来に向かってのアドバイスがほしい」にしても、それらはせいぜいAさんの秘めた「我の真意」である。
確かに、それに応えてあげるとAさんの「我」は喜ぶかもしれない。
しかし、そのもっともっと奥にAさんの「生命(いのち)の真意」があることを忘れてはいけない。
その「生命(いのち)の真意」を観抜けなくっちゃあ、本当の「直観」が働いているとは言えないのである。
ひょっとしたら、その生命(いのち)の声は、「いつまでも過去の出来事なんかにとらわれていないで、自分を通して働く大きな生命(いのち)の力を感じて、のびのびと本当の自分を生きて行きたい」と言っているかもしれないのである。

だから
「直観」磨くべし。
「神経症的問題」解決すべし。
私もすーっとずーっと修行中である。
そして最後に、この行程は同時に自分自身の「生命(いのち)の真意」が観えて来る道でもあるのである。

 

 

 

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