八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

ある女性が、ずっと秘密にしていた自分の心の傷について話された。 
苛酷なその話をしながら、彼女の頬を涙がつたっていた。 
まずはその涙が悲しみの涙であることは誰にでもわかる。 
今まで抑えて来たその悲しみを存分に体験する必要がある。
いわば、悲しみをちゃんと悲しむために人は泣くのである。
悲しみをちゃんと体験するための涙。
それがひとつ。

そして、涙にはもうひとつの意味がある。
それは近藤先生のおっしゃった通り、人は受け入れ難いことを受け入れるときに泣くのである。
完全に受け入れられるまで何度も何度も泣く。
受け入れ難いことを受容するための涙。
そこにはただ受容するだけでなく、悲しみを超えて行こうとする働きが潜んでいる。
いわば、泣かなくていいようになるために泣くのである。
そのことが悲しいのではなく、
そんなことをいつまでも悲しんでいる自分が悲しいのだ。
そんなことで悲しんでいる自分を超えて行きたいと、その人の生命(いのち)は願っている。
そのために泣く。

我の涙と生命(いのち)の涙。
人間に起きるその涙の二重性をちゃんと感じ取る必要がある。

 

 

【注】自己憐憫の涙、注意獲得の涙は、神経症的な涙であり、ここには含めない。

 

 

今日は令和7年度4回目の「八雲勉強会」である。
近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目に続いて14回目となった。

今回も、以下に参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」に入り、終盤となってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話であることを読み取っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解

患者の神経症的傾向は、先に述べた様に、最初の面会の時から、囚(とら)われない観察と理解の眼をもってする時は、色々な患者の表現を通じて明らかになって来る。このことは、いよいよ分析が始まってからでも同様である。
患者が自分の症状、その他の事を語る態度の若干の例について先に述べたが、その語り方の順序や、強調の仕方、感情をこめたり、また繰返して述べる表現など、治療家に教えるところが多い。雄弁に自己の知識や才能を強調したりするのは、自己拡大型を暗示するし、単純に何か機械的な感じで整然と準備した様に述べるものは、自己限定型を疑わさせられるし、自分の症状の状態を哀れっぽく繰返し述べるものには、自己縮小型を考えさせられる。
同様に、患者が臥床(がしょう)の位置をとることに反応する仕方も注意されてよいことである。
ある患者は、臥床を拒否して言う。「私は無力にされ、侮辱される気がする」と。他の患者は好んで臥床したがる。時間に関してもそうである。或る患者は時間前30分分位も早く来る。又或る患者は遅く来て治療者を待たしたがる。時間が終ってもグズグズする患者もあるし、時間一寸(ちょっと)でも過ぎると分析者に謝罪する患者もある。
この様な患者の様々な態度に、それぞれの性格の内的傾向を反映している。それが、どの様なものの表現であるか、患者の理解の為に治療家は慎重に考察すべきものであろう。
自由連想が行われる時にでも、連想に当って或る患者は饒舌(じょうぜつ)であり、休むことなく語る。しかし、その語ることが表面的なことであったり、余りにも整然として統制がとれている時、その様な連想の態度が患者にとって、どういう意味を持っているか考えねばねるまい。ひょっとすると自由連想が、患者の心的現実の率直な ー 勿論その時に於ける可能の限りではあるが ー 反映というようりも、その隠蔽(いんぺい)に役立っている場合もあるからである。
或は又、自由連想を嫌がったり、困難を示す患者もある。勿論、自由連想そのものが、感情や思想の自由な吐露と言う、日常的な表現と異る性質をもっているから、困難であることは当然であるが、それと別に、ここにもそれぞれの神経症的性格の shoulds とか claim が表現されてはいないだろうかと問う必要がある。
同様なことは夢に対する態度についても言える。夢なんか馬鹿らしいと一笑にふするものもあるし、一ぺんも夢なんか見たこともないと言うものもいるし、記憶していないと言うのもあるし、又夢ばかり語りたがるものもある。
これらは参考にあげた例であるが、自由連想や夢そのものの内容から得られる理解と共に、治療家が患者の神経症的性格の構造を理解する手引きとなるものは言語的のみならず非言語的な表現の中にも無数に存在する。

 

近藤先生が懇切丁寧に神経症的人格構造の三つの型 ー ①自己縮小的依存型、②自己拡大的支配型、③自己限定的断念型に即して例示して下さっていますが、そもそものホーナイにしても、本当はこんな分類は要らなかったのです。
ホーナイや近藤先生においては、そんな知識不要で、クライアントから瞬時にライヴで感じ取っていました。
そうなのです。クライアントの言動の背後に何かおかしなもの=神経症的なものが動いていることをその場で感じ取れるか否かが、実際的な勝負なのです。
これらの三つの型は、言わば、ホーナイが、当時の精神分析医や知識人たち、そしてアイビーリーグ出身の“エリート”弟子たち(頭は良いが、感性の鈍い人たち)への説明用に作った体系に過ぎません。
しかし、いくら知識があっても、鈍ければ、結局、観抜けません。
近藤先生をして「ホーナイの弟子たちはIQは高いんだけど、肚Qが低い。」と言わしめたものは、そんなところにありました。
頭で「考える」のではなく、肚で、体で、存在で「感じる」こと。
よって、後に近藤先生も『感じる力を育てる』という本を書くことになります。
従って、この『ホーナイの精神分析』の勉強も、まずは「感じる」ことから。
そうして、その「感じ」を後から整理するためにこの体系がある、という順番を忘れないでいただきたいと思います。
 

 

知っている人にとっては当たり前、
知らない人にとっては、え!そうだったの?
というのが「緩和ケア」の定義。

WHOによる「緩和ケア」の定義の中に以下の一文がある(全文に関心のある方はこちらをどうぞ)

「病の早い時期から化学療法や放射線療法などの生存期間の延長を意図して行われる治療と組み合わせて適応でき、つらい合併症をよりよく理解し対処するための精査も含む」

長々とした一文だが、ポイントは「病の早い時期から」というところにある。
即ち、「緩和ケア」が「ターミナルケア(終末期ケア)」に限定したものではない、ということである。

よって、ごく初期の癌が見つかった場合でも、治療によってほぼ100%完治する癌の場合でも、「緩和ケア」は利用できる。
特に、心理的・精神的苦痛を“緩和”するためにメンタルケアが必要と感じた場合、「緩和ケア」を利用することに遠慮は要らない、ということをお伝えしておきたい。

具体的には、病院内に「緩和ケア科(緩和医療科)」があれば、すぐに相談して良いのである。
(但し、病院によっては、まだそこまで手が回らず、「ターミナルケア(終末期ケア)」しかやっていない「緩和ケア」も多いので、まずは問い合わせを。)
そして、緩和ケア医の出身はさまざまであり、内科や外科、麻酔科、精神科などいろいろで、四つの苦痛「身体的苦痛」「心理的苦痛」「社会的苦痛」「スピリチュアルな苦痛」に応じて得意分野が分かれるが、もし本格的なサイコセラピーを望まれるのであれば、個人的には、精神科出身の医師か臨床心理士に相談するのが良いと思う。
(勿論、院内に「精神科」があれば、最初からそこに相談しても良い。また、「スピリチュアルな苦痛」については、申し上げたいことは山のようにあるが今回は触れないでおく)

しかし、精神科医でも精神療法が専門なのは実はごく一部であり、最後は何科出身だろうと、人間として相性が良く信頼できる専門家(医師、臨床心理士)を選ぶのが良いと思っている。

今日のこの話題を通して何が申し上げたいかというと、こうして当たり前に最初から「緩和ケア」を利用することを通じて、メンタルケアの利用が国民にとって一般的になってほしい、ということである。

国民の半分が一度は癌に罹患する時代。
癌をきっかけとした「緩和ケア」の利用もまた、メンタルケア利用の大切な端緒となり得る。

 

 

 

今日のニュースで、我が国の100歳以上の高齢者(2025(令和7)年9月1日時点)が9万9763人に達した、と報道されていた。

1963(昭和38)年には100歳以上が153人であったのが、この62年間で飛躍的に増え、現在の日本の人口が1億2330万人(2025(令和7)年8月1日推計値)であるから、ざっくり言って、1000人に1人が100歳以上という割合に近づきつつある
いやぁ、寿命は伸びてるなぁ。

…という話から大抵は、ただ寿命を伸ばすだけでなく(平均寿命で、男性81.09歳、女性:87.13歳)、いかに「健康寿命」(健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間。男性:72.57歳、女性:75.45歳(2022(令和4)年))を伸ばすかという話に発展して行く場合が多いが、私は別の関連統計が目に付いた。

それは「親を亡くしたときの子の年齢」である。
皆さんは何歳くらいを想像されるだろうか。
第一生命の調査によ
れば、
父親の場合が平均39.1歳
母親の場合が平均46.4歳

であるという。
皆さんの感想は如何?

私は思ったよりも若いなぁと思った。

そこで今日の本題に入ると、親がまだ存命中であるということは、子が自分の死について本格的に考えないで済む、という影響があるということである。
親の生存が、自分の死と向き合うことの防波堤となっているのだ。
ということは逆に、親が亡くなったときから「次は自分の番だ。」という自覚がリアルになってくる。

そして、やがてそこに兄弟姉妹や同期生などの死などが重なって来れば、さらに自分の死が真実味を帯びてくる。

いくら目を背けても、先送りしても、死は万人に刻々と忍び寄っている。
だからこそ、この一回しかない人生をどう生きるかを、できるだけ早いうちから、ちゃんと見つめておいた方が良いんじゃないかと私は思う。

100歳以上の方が増えました。
それは親の余命も伸びたということだ。
しかしそれが却って、自分の死と向き合うことからの逃避を助長することになりませんように。


 

今日の東京は、線状降水帯が発生し、激しいゲリラ豪雨に襲われた。

そして豪雨と言えば、付きものなのが雷である。
今回もガラガラガッシャーンと何度も近辺に落ちた。
こうなって来ると、思い出すのが「落雷のワーク」である。

降雨も落雷も、可能ならぼ、実被害は御免被りたいところであるが、ただ黙して耐えるだけというのも癪に障る。
そんなときは「落雷のワーク」としての活用をお勧めする。
なんのことはない、いきなり落ちる雷に対して、いかに平気でいられるか、肚が据わっていられるか、を試すのである。
雷雲が近づくほど、雷鳴と落雷との時間差がなくなり、いきなりカリカリカリドーンと落ちる雷は、ワークとしては最適である。
ただ、危険回避のために、建物内でのチャレンジをお勧めする。

かつて、落雷の音どころか、車の急なクラクションやブレーキ、下手をすると後ろに立ったおっさんのくしゃみにさえ、ビクッ、ドキッとしていた私である。
それが丹田呼吸で、文字通り、“屁のカッパ”になったのだ。
今回も、平気で落雷を感じていられた、いやいや、楽しめていたのも丹田呼吸の賜物と言えよう。

予め準備のできない不意打ちがポイントなのだ。
それでも平気でいられるかどうか。
そうなって初めて、些か肚が据わって来た、と言えるのである。
しかし、これがね、丹田呼吸をサボるとすぐに劣化してしまうのだよ。
慢心、ご注意を。

 

 

「私の田舎は、へんぴなところで、瀬戸内海の真ん中の孤島みたいなところで、水清く、まったくの白砂青松(はくさせいしょう)で、のんびりした漁村です。そんなところで暮らしていたのが、急に東京にパッと出されて、しかも小学校へ行ったら、まず方言でみんなからあざけられたり、からかわれたりしたわけです。あんな、いやな気持ちはないですね。子どもを転学させる場合は、よっぽど気をつけてくださいよ。
私は、故郷のことが非常になつかしくなったものですから、作文に書いた。そうしたら、先生がそれをすごく認めてくれて、もう少ししたらさみしくなくなるからと、はげましてくれた。それで、私は助かったんですよ。いろいろな理屈をいいますけれど、人間が弱ったり、くたびれたり、心細くなったり、悲しくなったり、苦しんでいたりするときは、どうか、慰めてあげてくださいよ。やっぱり、それが人間同士ということではないかと思います。いろんなことで苦労して、悲しんで、苦しんでいるときはには、親鸞さんがおやりになったようにひとつお酒でもあたためて、一緒に飲んであげることもいいと思う。念仏を称えよとも、何をしろともいわないんだなー。ただ、お酒を一緒に飲んでと、そういうことなのです。私はそういうものだと思う。むずかしいことはいわなくとも、人間の気持ちは、お互いにやっぱり感じる力を持っているのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

9月4日(木)付けの拙文を読んでいただければ、この近藤先生のコメントの位置付けが、よりはっきりされるでしょう。
子どもたちに寄り添うとき、
娑婆で精一杯生きているフツーの人たち(即ち、俗人、凡夫)に寄り添うときは、
こういきたいものです。
そんなときは「念仏しなさい」なんて言わなくて良い。
分析も説明も要らない。
しかも、
「さあ、飲みたまえ。」
ではなく
「さあ、一緒に飲もう。」
なのである。

 

 

「面談の進め方」の基本については昨日述べた。

自らの問題や成長課題を誤魔化さず、真摯に見つめ、言葉にしていく「情けなさの自覚」。
そしてその問題や成長課題をなんとしても解決・突破していこうとする「成長への意欲」。
これが「面談」の根幹になることは間違いない。

それを踏まえた上で、今日はその「補足」を記しておきたい。

ひとつは、「自分が今まで生きて来た歴史上の問題点」に気づくこと。
特に親との関係や心の傷となった過去の出来事などが浮上して来る場合がある。
抑圧が外れ、封印が解かれて、直面化せざるを得なくなって来る。
だが、心配は要らない。
基本的に、向き合う準備ができていないことを思い出せないようにできているからである。
(即ち、思い出せるということは勝負できる準備が整ったということになるのだ)
過去の呪縛から脱し、あなたがあなたを生きていくために、そういった話題も繰り返し取り上げる必要がある。

そしてもうひとつは、「過去」のことではなく、「今」起きて来るさまざまな出来事がある。
そのうち、「特にあなたのこころを揺さぶる出来事」の中には、あなたの問題や成長課題を刺激するテーマが隠れている。
そこを見逃さないで、掴まえ、そのからくりをひも解いて行く。
「今」を扱いながら、そこにもまた「過去」が、過去の未解決の問題が潜んでいるのである。
これもまたあなたが解放され、成長していくために必要である。

そして最後に、
自らの「成長」が感じられて来ると、
「こんなことが感じられるようになりました。」
「こんなことが言えました。」
「こんなことができました。」
という発見もある。
こういった、あなたがあなたを取り戻していく「成長」の“喜び”も、是非共有したいものである。
しかし、経験した方はおわかりであろうが、その“喜び”も束の間、長く浸ってはいられない。
次々と新たな成長課題が見えて来るからである。
終わりなき「成長」が、この道の宿命なのだ。

その他、取り上げればキリがないので、まずはここまでにしておこう。
少しでも「面談」のイメージが整理できたのであれば幸いである。

 

 

「面談の進め方」というような「方」=“How to”な言い方は、死ぬほど嫌いであるが、
新しく面談に来られる方々のために
また
今、面談に来られている方々がそもそもの来談の原点を見直すために
今回、敢えて記しておこうと思った。
ご参考になれば幸いである。

まず何よりも、言わずと知れた当研究所の面談の基本姿勢は、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」である。

よって面談は、クライアントが自分自身についてどこをどう情けないと思っているか、という「情けなさの自覚」の独白から始まる。
言わば、自分で自分の問題提起をしていただくことになる。
私に言われて、ではなく、まず自分から、自分の問題を取り上げることに大きな意義がある。
これがないことには面談が始まらない。
実際、ちゃんと自分を見つめれば、1週間の間でも、「できなかったこと」「やらかしたこと」の三つや四つはすぐに見つかるはずである。

そして私はその独白を伺いながら、それが問題の核心を突いているか否か、それが浅いか深いか、などを観通して、フィードバックして行くことになる。
そうやって二人で「何が本当に問題なのか」を明らかにして行くわけである。

それが明確になって来ると、次にその問題をどう解決して行くか、どう乗り越えて行くか、という話になる。
問題を見つけただけでは何にもならない。
そこで下を向いてお通夜のように過ごしても何も変わらない。
「で、どーする?」 
の段階に進んで行くわけだ。
その根底に「成長への意欲」が働いていることは言うまでもない。
それについても、まずご本人の解決策、突破策を伺う。
実際にこう言ってみました、こうやってみました、でも良い。
(思いつくところからで構わない。何よりも自分で考えてみるという姿勢が大事なのである)

そして私はそういった案を伺いながら、それが本当に問題解決につながるか否か、それが浅いか深いか、などを観通し、フィードバックして行くことになる。
そうやって二人で「どうやって解決し、成長して行くか」という道を見い出して行くわけである。

こういうことを毎回繰り返すことによって、何を目指しているかというと、
自分ひとりで、自分の問題の核心を掴み、
自分ひとりで、本当に有効な解決策を見い出せる
ようになっていただくことである。

かつてホーナイが唱えた「自己分析」の本質がここにある。
クライアントのセラピスト(精神分析家)による被分析体験が、クライアントが自己洞察し、自己成長して行く力をはぐくんでいくのである。

もちろん上記のことが最初からスムーズに進んで行くわけではない。
必要な試行錯誤を繰り返しながら進んで行く。
むしろその試行錯誤に意味がある。
また、「自己分析」する力を付けるには(面談頻度にもよるが)最低、年単位の時間がかかる。
可能な範囲で構わないので、必要な時間をかけ、肚を据えて、取り組んでいただきたいと思う。

それであなたの人生が変わるならば、
少しでもあなたが本当のあなたを生きることができるようになるのであれば、
本気になってやってみる価値があると思いませんか?

 


 

今日は久しぶりに「講演」を行った。

新入職員研修などを除けば、「講演」がどれくらいぶりになるのか、記憶が定かではない。
新型コロナウイルス感染症拡大以降、「講演」自体が途切れていた上に、「講演・講義等のご依頼」にある通り、「対象」を明確にして来たため、今回のような開催は本当に久しぶりであった。

世間には、残念ながら、テキトーにやりくりしながらちょろまかし、わかったようなことを言っている人たち(特に専門職)が多い中で、今日のような方々を「対象」とした「講演」をしてみると、「反応」や「感想」も自分に引き付けて、良い格好しないで正直に発言されるので、ああ、これでこそ私の思う「講演」なんだよね、と強く思う。
そこに仲間の、同志の匂いがする。

今の私には、余計な色の着いていない新人たちか、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持った人たちかのどちらかに関わることに、はっきりとしたミッションが感じられるのである。
感じられるのだからしょうがない。

今日出逢った方々とは
またお逢いしましょう。
またお話しましょう。
そして
まだ見ぬ、お逢いすべきあなたとも。

 

 

当研究所の「人間的成長のための精神療法」の「対象」を、医療・福祉系の国家資格者から「一般市民」に再拡大してから1年以上が過ぎた。

有り難いことに、面談申込者の多くは、正確に「対象」=「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を理解して申し込んで来られ、再拡大して良かったと思っている。

面談に来ておられる方々は、どこかで私の講演を聴いた、私の講義を受けた、一緒に働いたことのある医療・福祉系の国家資格者の方が多いのだが、そんな中で、この『塀の上の猫』を読んだだけで面談を申し込まれる方が、「一般市民」の中には多く、不思議な縁を感じる。

当研究所は、松田精神療法事務所時代から、気軽な気持ちでわんさか面談申し込みがあるような開業スタイルではないが、申し込まれる方は本気で申し込まれる場合が多く、私としてもやりがいを感じている。

世の中では決して多数派ではないと思うけれど、それこそかつての私がそうであったように、真剣に悩んで、自分の成長課題や問題点を一所懸命に見つめて、成長・突破したいと心から願っている人がいないわけがないのだ。

そんな人がこの世の中にいるはずだ、と思っていること自体が、私の人間というものへの期待である。
この期待は捨てられない。

そんな“仲間”に逢って、共に成長して行きたい、とこれからもずっとずっと願い続けるだろう。

 

 

久しぶりに渋谷のデパートにでかけた。

ある買い物のためであったが、ついつい道行く人たちを眺めてしまう。
外国人観光客らしい人たちが多いなぁとか、
こういう人は渋谷や新宿にしかいないなぁとか、
眺めながら、
ちょっとお洒落をして来ている人たち ー デートかな、友だちとおでかけかな、はたまた観劇やライブやコンサートかな ー を見るのも良いもんだなぁと思った。

だからどうだってんだ、という話でもあり、
言ってしまえば、それもまた虚栄心なのかもしれないが、
ちょっと“気合い”の入ったファッションやメイクには、それはそれなりの“俗世の華”を感じるのである。
やっぱりそういうのもないとね、俗世は俗世でつまんないのよ。

思い起こせば、かく言う私も、講演や講義がないと、スーツも着ないし、ネクタイもしないわな。
ついつい楽な格好で済ませたくなっちゃうのよ。
そう言えば、たまに拝見する近藤先生の燕尾服姿はかっこよかったなぁ。

だから、皆さんもたまにはね(毎日でコッテリだとそれはそれで食傷気味になってくるが)、“気合い”の入ったファッションやメイクでおでかけしましょ。
なんかこの俗世の“場”がね、華やぐのでありました。

 

 

 

例えば、少年・少女が、失恋した、受験に失敗した、部活でレギュラーになれなかったなどで失意に沈んでいるとする。
それが彼ら彼女らの一所懸命なのであるから、寄り添って慰めてあげることが大切である。

そんなことにとらわれてどうする、などと詰める必要はない。
それが子どもである彼ら彼女らの精一杯なのだから。

そして大人の場合でも、我々のように内省的に生きている方が稀なわけであるから、失業した、離婚した、癌が見つかったというような場合、それでいっぱいいっぱいなので、その失意に寄り添うのが相応(ふさわ)しいと言える。
そんなことにとらわれてどうする、などと詰めるのは酷というものだ。
これまた、それがその人の精一杯なのだから。

しかし、「情けなさの自覚」を持ち、「成長への意欲」を持っているというのであれば、話が変わって来る。
向き合う準備ができているというのであるから、そんなことでよしよししてあげるわけにはいかない。
それは却って本人の可能性や伸びしろを潰すことになる。

よって詰める。
どこどこにあなたの成長課題、問題がある。

そして、そんなことにとらわれてしまう境地を超えて行こうと。

詰めるのか寄り添うのか。
その人がどの段階にいるのか、その見極めと自覚によって決まって行くのである。

 

 

「いままでお話した、色々の欲望の挫折というものを、西洋ではフラストレーションといってそれを、苦しみと一応は考えています。欲求の不満が苦しみ、欲求の挫折が苦しみということであります。しかし、私は、自分自身でずっと考えてみて、苦しみや悩みというものの分析については、仏教の右に出るものは他にないと思うのです。たとえば欲求不満というものを、仏教ではとっくの昔にいっているわけです。
 求不得苦(ぐふとっく)
 五陰盛苦(ごおんじょうく)
 愛別離苦(あいべつりく)
 怨憎会苦(おんぞうえく)
四苦八苦という言葉があるのをご存知でしょう。たとえば欲求不満というのをどのようにいっているかというと、求めて得ざる苦しみ、欲求が満たされないことでしょう。この欲求不満ということを、フロイトがいろいろいう前に仏教では、そういう苦しみがあるということを教えているわけです。『求不得苦』というとわからないけれど、これは「求めて得ざる苦しみ」ということです。もう少し仏教の分析を話したいと思います。先ほど、私がいった欲望を追求していきますと、だいたい私たちの欲求は感覚的なものです。それをどのようにいっているかといいますと、『五陰盛苦』といいます。五陰とは、五感ということで私たちの感覚ということです。その感覚からくる欲望が盛んだと、苦しむというわけです。このことは、改めて認識してもらいたいことだと思います。
自分の好きな、愛しているものから別れて離れなくてはならない。どんなに好きでも思い切らなくてはならない、好きでも一緒になれない苦しみ、そういうものがありますね。『愛別離苦』ー これは異性の場合だけではない。自分の父や母や子ども、すべて自分が愛情をかけてるもの、愛情を感じているものから別れていく、離れていくこの悲しみ、苦しみ、そういうことをいっているわけです。
こういうことは我々にとってよくあるでしょう。執着するから、愛執とか、愛着とかいいますね。それをにぎりしめて、所有して、どうしてもそれを奪われたくないという気持ちですね。しかし、いろいろなことで奪われる。自分の非常に大事な子どもを病気によって奪われていくとか、自分の愛人を人にとられるとか。いずれにしても日常茶飯におきている出来事のなかに、愛を中心とした執着、愛するものをなくす、また愛するものと別れる悲しみ、これらは私たちの生活における重要な苦しみなんですね。
それからもうひとつ、自分がうらんだり、憎んだりしている、いやな人と会わなければいけない苦しみ ー 姑と嫁もそうですね。毎日毎日顔をつき合わせて、お互いにいやだなあーと思っている。いやだなあーと思ってお互いに憎みあい、苦しみあっている。どうして私は、こんなに憎むのだろう。どうして私は、こんなに憎まれるのだろう。お互いに、うらみ、憎んでいる人と暮らさなくてはいけない。こういう現状から、ほんとうは離れたいのです。けれど、こういうことをよく考えてみると、現在この世で生きている我々は、そういった苦しみをはっきり体験していると思います。
これは大変な仏教の心理分析だと思うのです。仏教というものは、我々の生活における苦しみ、悲しみ、悩み、そういったものを人間の生存に必然的にあるものとして、認識し、そのところから出発しているところに、大きな意味があるように思います。私は、もういっぺん、このあたりを振り返ってみたいと思うのです。私はここでは、けっして西洋の心理学における苦しみとか、悲しみとか、そういう定理をいいません。なぜかというと、いろいろと私は経験した結果、この仏教の分類くらいはっきりしたものはないと思うからです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

フロイトによる無意識の発見が十九世紀末と言われますが、仏教においては既に4世紀に無意識について、しかも遥かに詳細に論じられています。
また、自我の思い通りにならないことに不満を感じることを西洋では当然のことと考えますが、仏教においては、思い通りにならないことに「苦」を感じる「自我」そのものをむしろ問題視していきます。

こういった事実について余り知られていないのは、非常に残念なことです。
かつて近藤先生の提案により、世親(せしん)による『阿毘達磨倶舎論(あびだるまくしゃろん)』の「隨眠品(ずいめんほん)」を読み進め、いわゆる“百八つの煩悩”を一緒に整理して行ったことを懐かしく思い出します。
例えば、我々の身に「愛別離苦」や「怨憎会苦」が起きたとき、悩み苦しんで、なんとか思い通りにしようかと悪戦苦闘して行くのか、思い通りにならないと気が済まない自分を超えて行こうとするのか、では決定的な差があることになります。
少なくとも欧米由来のほとんどのサイコセラピーが前者を前提に“治療”を考えているのに対し、仏教は後者に基づいて“救い”を考えていることを知っておいていただきたいと思います。

 

 

寄席ではあんなに愉快そうにしゃべるのに、プライベートではほとんどしゃべらない落語家がいる。
最近になって、その気持ちがわかるようになって来た。
高座に座って客席を眺め、お客の反応を敏感に感じ取りながら、刻々と噺の塩梅(あんばい)を変えて行く。
相当な集中力を要するものだと思う。
ならば、せめて高座から降りたときくらい、気を遣ってしゃべるのは勘弁してくれ、ということになるであろう。

かくいう私も面談中は、私なりの精一杯の“全集中”状態にある
クライアントが話される内容やそれを話すときの表情や所作は言うに及ばず、その裏に隠された本音や、さらに本人さえも気がついていない奥の奥まで感じ取らなければ、サイコセラピーとして深まらない。
それも意識することなく、自然にスイッチが入る。
それがいわゆる“求めている”人たち相手なら、望むところなのだが、困るのがプライベートの場面で俗世話や神経症的コミュニケーションを振られたときで、そんなときも自然にスイッチが入るため、いやぁ、ちょっと勘弁してくれ、という気持ちになってくる。

但し、プライベートでは誰でもダメというわけではなく、子どもたち(思春期前まで)や、大人でも正直・素直な人相手であれば、苦にならない。
いや、むしろ楽しく過ごせたりする。
しかし、世の中、そんな人ばかりではない。
“相手や状況に合わせて演技する社交性”は、近藤先生に出逢うまでに一生分使い果たしてしまったので、勘弁して下され。
そんなときは、そっとしておいていただけると有り難い。
その代わり、ミッションのときはフルマックスで働きまする。

 

 

城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』を読んだ。

『落日燃ゆ』『男子の本懐』などの経済小説で知られる城山氏が、長年連れ添った愛妻を亡くした後に書かれたエッセイである。
普段こういったジャンルの本を読むことはないのだが、ふと見かけて衝動買いしてしまった。

読んでみて個人的に思うのは、読者を選ぶ作品ではないかということである。
結婚して三十年(できれば四十年)以上共に暮らし、妻に助けられて来たという自覚のある男性が読むと、非常に情緒的に刺さる作品であると思う。
女性や若い人が読んでも感じるところはあると思うが、老年期に至った男のロマンチシズムという読者側の要素がないと、膨らみに欠けるかもしれない。

そう。
年輩の男性がこの表題を見たときから、その内容は走り始めているのである。

そんな本もあるのだな。

 

たまには“エモい”作品を読むのもいいかもしれない。

 

 

明日は9月1日。
子どもたちの自殺が一番多い日と言われる。
多くの学校で2学期が始まるからだ(地域差あり)。

学校でイジメられ、
家庭で虐待されている子は、
生きる場所がない
…と思いがちである。

実際には、学校と家庭以外にも生きる場所はいくらでもあるのだが、
それ以外の選択肢があることを知らない子どもたちは、死ぬしかない、と思い込んでしまう。

昔、担当していた自閉スペクトラム症の男の子で、
お父さんやお母さんに怒られると、
ひとりで児童相談所まで歩いて行き、
「保護して下さい。」
と願い出る子がいた。
小学校6年生の彼は、児童相談所の一時保護について自分で調べたらしい。
ご両親は苦笑するしかなかったが(実際には虐待相当の叱責ではなかった)、自ら第3の選択肢を見い出したのは大したものである。

There is enough room for all of us to live.
(すべての人に生きて行くスペースは用意されている)

そして、あなたがこの世に生命(いのち)を授かったからには、あなたには果たすべきミッションがある。

それを見い出し、果たすまでは死んでたまるか。

何か特別なことができるわけじゃないけど、私もまた縁あって出逢った子どもたちにはそのことを伝えて来たし、これからも伝えて行きたいと思う。

そして、皆さんからも是非伝えて行っていただきたい。

 

 

これまでの面談経験、ワークショップの経験、そして、自分自身の経験から、
その人のこころを抑圧しているものが外れて来ると、
「独り言」と「鼻歌」が増える、という明らかな傾向があると、常々申し上げて来た。

子どもと高齢者を思い浮かべてほしい。
まだ抑圧の少ない子どもや、加齢によって脱抑制が起きて来た高齢者は、
考えているプロセスをみんなしゃべるし、すぐに歌い出す。

また、多くの人においても、アルコールが入ると、これまた抑圧が外れて来るので、
べらべら本音をしゃべったり、歌ったりし始めるのは、御存知の通りである。

年齢に関係なく、また、アルコールなどの力を借りなくても、
普段から、素面(しらふ)で、本当の自分を表出できるかどうかは、
その人が本来の自己を回復して来たかどうかを見極めるのに、非常に重要な目安になる。

ある期間以上、面談に通って来られている方たちや、
ワークショップにある回数以上参加されて来た方たちを見ていると、
その傾向が確認できる。

面談で本音から話されるようになる(願わくば、本音の本音まで行きたいところだが)。
ワークショップで皆の前で歌えるようになる。
あ、そうそう。 
「独り言」と「鼻歌」だけでなく、「踊り」出す人もいる。

しゃべって、歌って、踊って。
あなたが解放される。
あなたがあなたになる。
あなたがあなたを取り戻す。

そこに至るまでに、いっぱい泣いたり、秘めた怒りに気づいたり、いろいろあるんだけどね。

こういうふうになっていくのが、我が研究所らしい“芸風”なのかもしれない。
 

 

「依法不依人(えほうふえにん)」
という言葉がある。
「法に依りて人に依らず」
とよみ、その内容が真実かどうかに依るのであって、誰がその内容を説いたかに依らない、という意味である。

例えば、窃盗で前科十犯の犯罪歴があるお父さんが子どもに「人の物を盗んじゃいけないよ。」と教えたとする。
フツーなら「おまえが言うな!」と怒られそうなところであるが、そう言って良いのである。
何故ならば、人の物を盗んではいけない、というのは真実であるから、誰が言ったかに依らないのである。

ここまでは以前にも触れたことのあるお話。

しかし、娑婆においては
「依人不依法」
のときもある。
「人に依りて法に依らず」
凡夫はね、その内容がいくら真実であっても、信頼あるいは尊敬している人の言うことしか聴かないんです。
親であっても先生であっての先輩であっても専門家であっても、信頼あるいは尊敬する人が言うのでなければ聴かないんです。

…というわけで、
「依法不依人」が真諦=本当の真理、
「依人不依法」が俗諦=世俗的な真理、
ということになる。

両方をわきまえておかないと、真俗二諦に生きる凡夫は救われないのです。

 

 

凡夫は、愚かですので、言ってほしいことを言ってもらったり、してほしいことをしてもらうと嬉しいものです。

そんなとき起きているのは、我(が)が喜んでいるだけで、実にくっだらないことなのですが、それが全くないとへこたれちゃうんですよ、愚かな凡夫は。

従って、それが愚かな我の満足だとわかった上で(わかってないとダメですよ)、たまにはちょこっとね(いつもズブズブにはダメですよ)、言ってほしいことを言ってあげ、してほしいことをしてあげてると良いんです。

そうすると、我が喜ぶんです、凡情が満たされるんです。

生命(いのち)に、魂に響く言葉を下さりながら、ちょいちょいと我を満たす、凡情が喜ぶ言葉を下さるような方でした、近藤先生は。

その加減というか、塩梅(あんばい)が、絶妙な方でした。

そういうのを本物のサイコセラピストというか、俗世の中の導師というんでしょうね。

 

 

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