八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

これまでの面談経験、ワークショップの経験、そして、自分自身の経験から、
その人のこころを抑圧しているものが外れて来ると、
「独り言」と「鼻歌」が増える、という明らかな傾向がある。

子どもと高齢者を思い浮かべてほしい。
まだ抑圧の少ない子どもや、加齢によって脱抑制が起きて来た高齢者は、
考えているプロセスをみんなしゃべるし、すぐに歌い出す。

また、多くの人においても、アルコールが入ると、これまた抑圧が外れて来るので、
べらべら本音をしゃべったり、歌ったりし始めるのは、御存知の通りである。

年齢に関係なく、アルコールなどの力を借りなくても、
普段から、素面(しらふ)で、本当の自分を表出できるかどうかは、
その人が本来の自己を回復して来たかどうかを見極めるのに、非常に重要な目安になる。

ある期間以上、面談に通って来られている方たちや、
ワークショップにある回数以上参加されて来た方たちを見ていると、
その傾向は明らかだ。

面談で本音から話されるようになる(願わくば、本音の本音まで行きたいところだ)。
ワークショップで皆の前で歌えるようになる。
あ、そうそう。 
「独り言」と「鼻歌」だけでなく、「踊り」出す人もいる。

しゃべって、歌って、踊って。
あなたが解放される。
あなたがあなたになる。
あなたがあなたを取り戻す。

そこに至るまでに、いっぱい泣いたり、秘めた怒りに気づいたり、いろいろあるんだけどね。

こういうのが我が研究所の“芸風”なのかもしれない。
 

 

「依法不依人(えほうふえにん)」
という言葉がある。
「法に依りて人に依らず」
とよみ、その内容が真実かどうかに依るのであって、誰がその内容を説いたかに依らない、という意味である。

例えば、窃盗で前科十犯の犯罪歴があるお父さんが子どもに「人の物を盗んじゃいけないよ。」と教えたとする。
フツーなら「おまえが言うな!」と怒られそうなところであるが、そう言って良いのである。
何故ならば、人の物を盗んではいけない、というのは真実であるから、誰が言ったかに依らないのである。

ここまでは以前にも触れたことのあるお話。

しかし、娑婆においては
「依人不依法」
のときもある。
「人に依りて法に依らず」
凡夫はね、その内容がいくら真実であっても、信頼あるいは尊敬している人の言うことしか聴かないんです。
親であっても先生であっての先輩であっても専門家であっても、信頼あるいは尊敬する人が言うのでなければ聴かないんです。

…というわけで、
「依法不依人」が真諦=本当の真理、
「依人不依法」が俗諦=世俗的な真理、
ということになる。

両方をわきまえておかないと、真俗二諦に生きる凡夫は救われないのです。

 

 

凡夫は、愚かですので、言ってほしいことを言ってもらったり、してほしいことをしてもらうと嬉しいものです。

そんなとき起きているのは、我(が)が喜んでいるだけで、実にくっだらないことなのですが、それが全くないとへこたれちゃうんですよ、愚かな凡夫は。

従って、それが愚かな我の満足だとわかった上で(わかってないとダメですよ)、たまにはちょこっとね(いつもズブズブにはダメですよ)、言ってほしいことを言ってあげ、してほしいことをしてあげてると良いんです。

そうすると、我が喜ぶんです、凡情が満たされるんです。

生命(いのち)に、魂に響く言葉を下さりながら、ちょいちょいと我を満たす、凡情が喜ぶ言葉を下さるような方でした、近藤先生は。

その加減というか、塩梅(あんばい)が、絶妙な方でした。

そういうのを本物のサイコセラピストというか、俗世の中の導師というんでしょうね。

 

 

「私にとって煩悩という言葉は、少年期にはそんなになじみのある言葉ではありませんでしたが、私の祖父母は私に人間とは煩悩そのものなんだよと、よく話してくれました。しかし子どもには煩悩というのは、何のことかわかりません。わかりませんが、とにかく、そういうことをいってくれた祖父や祖母がいたわけです。…
いまごろの方々に煩悩といってもですね、ちょっとピンとこないところがあるのではないかと思いますので、私流に解釈させていただいて、できるだけわかるようにしたいと思います。
わかりやすくいいますと、私は煩悩というものは、人間のいろいろな欲望から出てくるのではないかと思います。欲望の結果が、いわゆるわずらいであり、悩みであり。それによって苦しみ、悩む。その苦しみ、悩む状態を煩悩と称するのではないかと思います。
一口に欲望といいましても、私たちは、つねにいろいろなことを考えます。たとえば、食欲、性欲、睡眠欲、それからはじまりまして、権力欲、獲得欲、所有欲、あるいは金銭欲、その他、いろいろな愛欲といったものが私たちの心のなかにあると思います。…
こういうようなことから考えますと欲望というのは、いろいろな種類があって、それが達せられないとき、それが得られないときに苦しみ、悩むのです。西洋の心理学は単純に、それをフラストレーションという言葉で片づけているわけです。欲求挫折ともいいますし、欲求不満ともいいます。…
日本は戦後何をやったかというと、とにかく生産を高めてその結果高度成長を成し遂げました。…いろんな欲望をどんどん加速度的に高めることによって、高度の成長を遂げたということになるわけですね。そこに流れているものは、欲望の肯定ということです。欲望というのは無限に大きくてよろしい。それに対して、その欲求を満足することこそ人間の幸福だというようなことが、おおっぴらにはいいませんが、少なくとも自然に私たちの気持ちとしてあるんですね。つまり、欲望の充足こそ最大の価値である、こういう考え方があると思うのです。
このように戦後の日本の社会は、欲望をあまりにも肯定して、少し以前の日本人はエコノミック・アニマルといわれたのに、最近はセクシャル・アニマルといわれています。そういう意味で、性的開放ということは、我々が現に直面している問題です。…
現代においては、むしろ性を謳歌し、肯定し、解放しているところがあります。はなはだ、どぎついようですが、私は性の事実は事実として正直にまっすぐに見たいのです。仏教でいう八正道(はっしょうどう)のなかの正見(しょうけん)ということは、とても大事なことですね。あるものをあるものとして見る、正しく見せる、その意味をはっきりさせる。やはり、これが出発点だと思うのです。その正見が、さらに発展して正思(しょうし)ということにいったとき、キリスト教徒にとっては、

 われキリストとともに十字架につけられたり
 もはやわれ生けるにあらず
 キリストわれに在りて生けるなり
 今われ肉体にありて生けるは
 われを愛してわがために己を捨てたまいし者すなわち神の子を信ずるによりて生けるなり
                                                                                                                   (ガラテヤ書 2・20)
の自覚になります。
いずれにしても人間の本質といいますか、本来の人間らしい人間、その上に人間関係を見るということを考えてみて、ほんとうの自分というものを考えることができます。
」(近藤章久『迷いのち晴れ』(春秋社)より)

 

我々の中にある欲望 ー それは我の思い通りにしたいということ。
よって、その欲望が文明を発展させて来たところもあるわけです。
しかし残念ながら、我々の欲望は無限ですので、常に思い通りにならないこともあることになります。
よって、苦しみ、悩む煩悩も尽きることがありません。
まずは自分に欲望があるという事実を正しく見ること(=正見)。
それがないことには始まりません。
そしてそれを正しく見た上で、正しく考えて行く(=正思)とき、その苦しみ、悩む煩悩を超えて行く道も示されて行くことになります。
われキリストとともに十字架につけられる、とは、仏教的に言うと、キリストの愛の贖罪によって、自分の我が死ぬこと。欲望、我欲の大元の我がなくなるということを意味しており、
そして我がなくなったときに現れるものがキリスト=神の子の働きということになります。
眼を逸らさず正面から見つめる=正見から始まり、正思へと展開して行く真実の世界がある、ということを改めて確認しておきたいと思います。

 

 

約三年の月日をかけて『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を読了した。
言わずと知れた道元の主著である。
しかし、これほど読者に“体験”を要求して来る著作も少ない。
いわゆる“体験”がないと何が書いてあるのかさっぱりわからないようにできているからである。

「あなたは『正法眼蔵』を読みましたか?」
と訊かれてなんと答えるか。
先ほど、「読了した」と書いたが、正確に言えば、
「字面(じづら)だけは。」
と付け加えざるを得ない。
何故ならば、道元と同等の“体験”がないと、本当の意味で「『正法眼蔵』を読んだ。」とは言えないからである。

いわゆる知識人たちによる『正法眼蔵』の現代語訳や解説、関連書籍などは無数に上梓されているが、「よく書けるな。」と思うことがほとんどである。
いや、むしろ自分がわかっていないことがわかっていないから書けるのであろう。
失礼を承知で申し上げれば、いわゆる知識人の方たちほど「霊的感性」の鈍い方が多い。
『正法眼蔵』は、理性や知性では読めないのである。
“体験”に基づいた「霊的感性」がないと読めないのが『正法眼蔵』である。

最近の方で、学者でありながら少しでも“体験”のある、珍しい方として、井筒俊彦氏と玉城康四郎氏が挙げられるが(残念ながら両氏とも他界された)、私は玉城氏の『正法眼蔵』全六巻(大蔵出版)を選んだ。

近藤先生は、戦後の書籍がない頃、『正法眼蔵』をむさぼるように読まれたという。
私なりに『正法眼蔵』の位置付けが感じられるようになって来た今、『正法眼蔵』についていろいろ伺いたかったなぁ、と思う。

師亡き今、それでも
「徧界(へんかい)、曾(かつ)て隠さず」
(この全宇宙には何物をも包みかくすことはない。真実はいたるところにありのままの姿を顕現している)
真実を感得できるか否かは、こちらにかかっているのである。

 

 

先日、年に一度の健康診断を受けて来た。

健康診断を受けるのが好きか?と訊かれれば、
そもそも検査を受けること自体、面倒臭いし、
健康診断の結果を聞くとき、何故か、苦手な科目のテスト結果が返って来るような気分になるので、
好きではない(キッパリ)。

しかし、健康診断もまた今の偽らざる自分と向き合う機会であるため、イヤであろうと何であろうと受けるのである。
私が逃げていたら、人様に「自分自身と向き合いなさい」と言う資格を失ってしまう。

先年、何かの酒席で、七十代の女性が
「わかったってわからなくったって結果は同じだから、健康診断なんて受けないの。」
と虚勢の笑顔で話していた。
そしてその眼には
「悪い結果が出たら恐いから逃げてるんです。」
と書いてあった。
だったらそう言えば良いのに。

また他日、知り合いの五十代の男性が
「健康診断って受けた方が良いんですかね?」
と訊いて来た。
訊いて来られるだけ逡巡が感じられた。
「受けた方が良いかどうかと訊かれれば、そりゃあ、受けた方が良いですよ。早くに見つかった方が早くに治りますから。」
と正論で答えながら、いつも申し上げている通り、この身はレンタル・バディですから、メンテして、いたわって、ちゃんと使い切ってお返ししましょうね、と心の中で思っていた(まだそんな話が通る関係性ではない)。

…というわけで、健康診断を受けることは、ひとつのワークになる。

それを踏まえた上で、

で、あなたは健康診断、受けてますか?

 

 

ご覧になった方もいらっしゃると思うが、ネットニュースに「自称カウンセラー」に警鐘を鳴らす記事が出ていた。

「カウンセリング」が業務独占ではなく、誰でもが「カウンセラー」と名乗れてしまうこと
資格として「公認心理師」か「臨床心理士」の資格取得者かどうかを確認すること
などを指摘。

ようやくこんな記事が出て来たかとホッとした。

個人的には「臨床心理士」の方を勧めるが(大半が「公認心理師」の資格も取得している)、何度も本欄でお話して来た通り、その資格取得はほんのスタートラインに過ぎない。
医師免許が、取っただけでは何の役にも立たないのと同じように、それからの研修・研鑽の積み重ねが実力を決めるのである。
また、いくら知識・技術の研修・研鑽を重ねても、自分自身を見つめ、自分自身の問題の解決に取り組み、解決して来た体験の積み重ねがなければ、ろくな「カウンセリング」「心理療法」「精神療法」はできない、というのが私の立場である。
逆の言い方をすれば、そうやってクライアントの半歩、一歩先を行きながら、共に成長して行くのが、「臨床心理士」「精神科医」なのである。

そしてもちろんこのことは「カウンセラー」だけでなく、対人援助職すべてに当てはまるものと信じる。

ホンモノを見極めましょう。
そして
ホンモノになりましょう。

 

 

 

平安時代の天台宗の僧・源信(げんしん)は、日本浄土教の祖とも言われ、浄土真宗においては七高僧の第六祖とされている。

早くに父を亡くした源信は、母の勧めもあって九歳で比叡山に入って早くから学才を表わし、十五歳のときには、村上天皇による法華八講の講師に選ばれたという。
その際、下賜された褒美の品を故郷の母親の許に送ったところ、母は源信を諫める和歌を添えてその品物を送り返した。

 「後の世を 渡す橋とぞ 思ひしに 世渡る僧とぞ なるぞ悲しき」 まことの求道者となり給へ
(迷える人々を浄土に渡す橋となってほしいと願っていたのに、世渡りのうまい僧になってしまったのが悲しい。本当の求道者になって下さい)

その和歌を読んだ源信は、名利を捨てて横川にある恵心院に隠棲し、念仏の生活を送ったという(それ故、恵心僧都(えしんそうず)とも呼ばれる)。
このエピソードを読み返す度、母からの和歌を読んだときの源信の思いが胸に迫る。
父はおらず、九歳で家を出て、まだ十五歳。
愛しい母が喜んでくれると思って送ったんだろうなぁ。

今日はその源信による『横川法語(よかわほうご)』の一節をご紹介したい。

「妄念はもとより凡夫の地体(じたい)なり。妄念の外(ほか)に別に心はなきなり。臨終の時までは、一向妄念の凡夫にてあるべきぞとこゝろえて念仏すれば、来迎(らいごう)にあづかりて、蓮台(れんだい)に乗ずるときこそ、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ。」

ズバリと言われてしまいました。
「妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別に心はなきなり。
そもそも凡夫の地は妄念なんだって。凡夫には妄念しかないんだって。
ここまで言われちゃあ、返す言葉がありません。
そしてその妄念の塊の凡夫が念仏によって、他力によって、救われるのです。

こんな言葉を残す源信さんは、間違いなく「まことの求道者」「念仏者」なのでありました。

 

 

「慙愧(ざんき)に耐えない」の「慙愧」という言葉がある。
また、「羞恥心(しゅうちしん)」の「羞恥」という言葉がある。
いずれも「はずかしい」気持ちを表す熟語であるが、「慙愧」の方が「羞恥」よりも深く「はじ入る」ニュアンスがある。

そしてその熟語を構成する四つの漢字、「慙」「愧」「羞」「恥」はいずれも「はずかしい」という意味であるが、これが二つのグループに分かれる(諸説あり)。

まず「慙」と「羞」。
これは自分で自分を省みて「はずかしい」と思う気持ちを指し、
それに対し、「愧」と「恥」は、
他人の眼から見て「はずかしい」と思う気持ちを指す。

となると、後者の「愧」「恥」は、いわゆる他人さま、世間さまから見てはずかしい、ということであり、厳密に言えば、「他者評価の奴隷」の域にある、ということになる。
さらに言えば、他人の眼がなければ何をやってもずかしくない、ということにもなり、他者から責めらる可能性がなければ、大災害のときに暴徒と化しても良いのであり、旅の恥はかきすて、でも良いというこことになる。
よって、私に言わせれば、「愧」「恥」の「はずかしさ」は底が浅く、あまり当てにならない。

それに対し、前者の「慙」「羞」は、自分で自分を省みて「はずかしい」と思う気持ちなので、他者不要というところからすると、こちらの方が「愧」「恥」よりも良さそうであるが、その意味はさらに二つに分かれる。

ひとつは幼少期から埋め込まれた「見張り番」=「~でなければならない」「~であるべきだ」から見て「はずかしい」と感じる気持ちである。
これは外から来たくせに、自分の価値観のような顔をして居ついているので要注意である。
それは決してあなたの価値観ではない。
そうではなくて、それらは親や大人たちから来たものであるから、実は「慙」「羞」のように見えて、限りなく「愧」「恥」に近い「はずかしさ」なのである。

従って、本当の「愧」「恥」とは、あなたがあなたとして生かされて生きて行く上で、その道を外れてた言動を取って生きているときに「はずかしい」と感じることを指しているのである。

逃げる、誤魔化す、ヘタレる、日和(ひよ)る、怯(ひる)む、媚(こ)びる、保身に走る、思い上がる、わかったような気になる、上から目線になる、威張る、エラソーになる、偽善者ぶる etc. etc.

あああああ、はずかしいっ!!!

ホンモノの「慙」「羞」でいきましょう。

それが「情けなさの自覚」の原点です。

 

 

大事な勘所を間違えないように。

当研究所の基本姿勢「情けなさの自覚」「成長への意欲」について、時々誤解がありますので、確認しておきましょう。

大前提として、我々は凡夫なので、問題山積みは最初から想定内です。
今さら隠したってしょうがない。
我々にはたくさんの神経症的問題があります。
それはまさしく“問題”ではあるけれど、事の本質から言えば、それは大した“問題”ではありません。

大切なのは、まずはそれをちゃんと見つめて、認められるか否か。
それがないことには話が始まりません。
それが「情けなさの自覚」です。

それなのに、散々やらかしておいて、それを認めない、隠蔽する、ちょろまかす、なかったことにしようとする御仁がいらっしゃる。
恐らく、子どもの頃から、やらかしたことを責められ、攻撃されて来た歴史があるのでしょう。
でも、それでは、少なくとも当研究所の対象ではありません。
やらかすのはしょうがない。
それを正面から認められるか否か。
そして、そのことを正面から話題にできるか否か。
どんなに恥ずかしい、なかったことにしたい内容でも。

私はやらかしたことは責めません、攻撃しません。
それを認めた上で、切実に超えて行こうとしようとする限り。
その姿勢を「成長への意欲」というのです。
それがあればなんとかなります。
必ず成長できます。

しかし、それをを認めない、隠蔽する、ちょろまかす、なかったことにしようとする、または、認めても、それを切実に超えて行こうとしないとき、私はそれを指摘します。
あるいは、面談をお断りします。
そんなことでは「情けなさの自覚」も「成長への意欲」もないわけですから、当研究所の対象外ということになります。

対象外なら、さようなら、です。それは致し方ない。
しかし、認めて超えて行こうとする人であれば、どこまでもどこまでも支え、応援して行きます。

それが八雲総合研究所の基本的スタンスです。
大事な勘所をどうぞ押さえておいて下さい。

 

 

「我々はいいとか、悪いとか、正しいとか、正しくないとか、人間のちっぽけな頭で考えたくだらない差別観で、お互いを見、自分のことを考えて、平気な顔をし、そして、他人のことをあげつらい、それが大事なことだと思ってるんですね。しかし一人ひとりのいのちが、一人ひとりの顔が違っているように、それぞれの意味を持ってこの世に生まれているということ、このいのちが与えられたたったひとつしかないいのちであるということを認識したとき、いったいこのいのちを我々は自己中心に生かしていいものかどうか。我々はいったい何のためにお互いにいのちを与えられたのか。この世界を支え、我々を動かし、我々を促しているものの、そういったものにおのずから、しからしめられる。そういうところに大きな生き方がある。そのときに、こだわりというものが我々から、はっきり離れていく。そして、いつかは知らないけれども、もっと大きな安定した、こだわろうとこだわるまいと、そこに安定した世界というものが開かれてくるのじゃないでしょうかね。…そこにはいろいろな自分の体験そのもの、人生の体験があります。そこに自分を超えた力、自分のはからいを超え、自分の計算を超え、自分の小知、そういったものを超えた力をあなた方は感じることが何度もあるだろうと思います。
それが、共感の世界です。共にそのなか生きる。共に同じようななかに生かされているということを感じ合う。これがほんとうの共感ということになります。人間対人間の共感であれば、そこには必ず打算があり、自己中心的なものがある。これをまず、はっきり認識することです。それを安易にいい加減に考え、感じたりすると、そこにいろんな問題が生じてくる。どのような人間の自己中心であろうと、自力主義であろうと、その最後において我々は行き詰る。そのなかにそれをも包含し、それさえも救ってくれるという大きな力があるということをお互いに知ること、そこにおいて大きな共感が成り立つことがはっきりわかる。…
すらりとして、安定して、こだわりというものに負けないというか、こだわらないで、こだわりにこだわらないで、さらさらと水のように流れて行くことができます。こだわってもいい。こだわってもいいのです。というのは、このね、大きな力を妨げるような、力強い、それほどの力強いこだわりはありません。そういうものに必ず乗っかる。ただ、それは、長い河のなかに、淵ができても、淀んだものは、必ず流れて行く。じっとそのなかで、その自分のこだわりを、じっと見つめ、はっきり認識するときに、おのずとそこで展開されるものが、おのずからしからしめられるものがあるというのです。そんなことを私は感じております。
」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

まず我々一人ひとりが何のために生命(いのち)を授かったのか、ということ。
その視点が持てただけでも、狭い私利私欲の視点から離れることができます。
そして、あなたもわたしも、それぞれに今回の人生において果たすべきミッションを与えられて、生かされているということ。
それを共に感じることを“共感”というのです。
失意の底にある人に向かって「お辛いですね。」などと言うのが“共感”ではないのです。
そんなペラッペラの情緒的同情ではなくて、あなたもわたしもそれぞれに与えらえたミッションを果たすために生かされているということを共に感じるのが“共感”なんです。
そうなれば、失意の底にある人を観ても、その人の存在の奥底に働いている生命(いのち)の力、そして自分の存在の奥底にも働いている生命(いのち)の力を感じることでしょう。
そして最後の「こだわらないで、こだわりにこだわらないでさらさらと水のように流れて行く」から「こだわってもいい。こだわってもいいのです。」というところは、まさに近藤先生の真骨頂でしょう。
それでも、おのずからしからしめられる力があるから心配するな、ということなのです。

「自然(じねん)」と書いて、「自(おの)ずから然(しか)らしめらるる」とよむ。

そのことに気がついて、近藤先生と歓談した日のことが、昨日のことのように思い出されます。

 

 

京都にある浄土宗のお寺、永観(えいかん)堂に「みかえり阿弥陀」という仏像があるのをご存知だろうか。

かつて寒さ厳しき2月、お堂の中で、僧・永観(ようかん:人名のときは「ようかん」、建物名のときは「えいかん」とよむそうです)が念仏しながら阿弥陀仏像のまわりをぐるぐると回る行道をしていたところ、突然、須弥壇(しゅみだん)に安置されていた阿弥陀仏像が壇を降り、永観を先導して、行道を始められたというのである。
呆気にとられていた永観に対し、阿弥陀仏が振り返って
「永観、遅し。(永観、遅いぞ)」
と声をかけられた。
そのお姿を現わしたのが「みかえり阿弥陀像」というわけで、これはなかなかユーモラスな仏像である。

しかし、私には些か異論がある。

阿弥陀さまが愚かな凡夫を一人残らず救い取って捨てない=「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」のイメージとして、親鸞が「摂」に訓をつけて「もののにぐるをおわえとる」と記している。
これは「
逃げる者を後ろから追いかけて捕まえる」という意味である。
即ち、どんなアンポンタンで、ろくでもない凡夫であっても、こっちから追いかけ回して捕まえて救ってやろうというのだから、阿弥陀さんの大悲の徹底ぶりには畏(おそ)れ入るばかりである。
そうなると、先行する阿弥陀さんが永観を振り返って“前から”「永観、遅いぞ。」と言うよりは、阿弥陀さんが“後ろから”「ほーら、永観、つかまえるぞー。」と永観を追い回している図の方がしっくり来る気がする。
そうなると、ちょっとホラーチックな仏像になるかもしれない。

…とここまで書いて来て、ふと気がついた。

ひょっとするとお茶目な阿弥陀さんが、永観をわざと追い越して、周回遅れの永観を振り勝って、「永観、遅いぞ。」と言ったのかもしれない。
そして永観が「なんでやねん!」
←よしもと祇園花月かいっ!
…阿弥陀はん、永観はん、堪忍しとぉくれやす。

しかし、どんな方法を使っても一人残らず凡夫を救おうという阿弥陀さんである。
ついつい視野狭窄になって悲愴な想いにとらわれがちな我々凡夫に対して、ちょっと肩の力の抜けるようなこともやって下さる阿弥陀さんに、改めて有り難いなぁ、と思うのでありました。

 

 

たまには、ぼーっとした時間を過ごしましょう。

そして、ただぼーっとするときに、お勧めなものがあります。
それは「火」と「水」。



まずは「火」。

焚き火の炎をずっと眺める。
キャンプで好きな方もいらっしゃるでしょう。
炎は常に燃えて燃えて燃えて、その構成要素=燃焼物質は一瞬たりとも留まっていないのに、炎は燃え続けている。

あなたの存在もそうなのです。
あなたを存在させている構成要素は刻々と入れ替わっているのだけれど、あなたという存在は継続して存在しているかのように見えている。
実は万物がそうなんです。
固定された存在なんてないんです。
それを感じること。

いくらでもぼーっとしていられます。

太い百目蝋燭の炎でもいいかもしれませんね。


次に「水」。

流れる川をずっと眺めている。
川もまた、その構成要素=水滴は刻々と入れ替わっているのに、ずっと川があるかのように見えている。
本質は「火」と同じ。

滝もいいかもしれません。 

寄せては返す海の波もいいでしょう。

ずっと眺めていると
その存在の中に動き続けるものがある。

それを感じる。

今の炎天下では勧めませんが、もう少し涼しくなった頃、是非是非「火」と「水」を感じてみて下さい。

それはとてもとても贅沢な時間になるでしょう。

 

 

面談をしていて、今が“勝負どき”の人が常に何人かおられる。

ある意味、今が“勝負どき”でない人は当研究所にひとりも来ておられないのだが、その中でも特に自分の中心的問題と真っ正面から勝負しなければいけないときがある。

私自身、何度も経験があるが、こればかりはどんなにしんどくても、勝負するより他、選択肢はない。
「選択肢はない」と申し上げたが、全員が全員、勝負するわけではなくて、中には、ちょろまかす人、逃げ出す人もいる。
いや、世の中にはそういう人たちの方が圧倒的に多いのだ。
そしてニセモノの自分を生きて行くことになるが、本人がそれを選ぶ以上、なんともしようがない。
当研究所とは縁がないか、もし来ておられれば脱落していくことになる。

そしてその勝負の持続期間についても、当面の問題を解決するのに、数回の面談で済む場合もあるが、1年~年単位かかることもフツーにある。
例えば、二十歳のときに面談に来られたとすれば、最大十七年間(三歳以降、ニセモノの自分を生きて来たと計算して)余計な塵埃や泥をかぶって生きて来たわけであるから。それを除去するのに十七年かかっても不思議はないわけである(実際にはそんなにかからないが)。
ここらも詰めが甘い人は、ちょっと楽になるとすぐに切迫さを失い、元の木阿弥と化することを繰り返す。
そういう人は、私の方からもう大丈夫でしょう、と言う前に自分の方から面談頻度を下げたりするのが特徴的である。
やはり問題は、情けなさの自覚の不足にあるのだ。

しかしね、本当の自分を生きるために生命(いのち)を授かったのに、ニセモノの自分を生きる人生があるはずはないのだ。
しんどくなったら、原点に戻って、根源的な問いを繰り返そう。

今回の人生、本当の自分を生きるの? それとも、ニセモノの自分を生きるの?

もし前者であれば、しんどいけれど一定期間の「辛抱」が必要である。
そしてその間、その人の問題に迫り続けるこちらにも「辛抱」が要る。

その人に向かって語り続けながら、その人の生命(いのち)に向かって祈り続ける、突破の門が開くまで。



ある人が父親の跡を継いで、家業の会社の社長になった。

やり手創業者の父親に比べ、「気ぃ遣いで気にしぃ」の息子は、古参の社員からも弱腰を批判されることが多かった。
彼としては面白くなかったが、どう頑張っても父親のようにグイグイと主導権を発揮することができるとは思えなかった。

そんな中で、幼馴染の親友一人だけは、彼を批判せず、
「それがおまえらしさなんだから、気ぃ遣いで気にしぃの社長でええやん。
と言ってくれた。
「流石、自分の理解者だ。」
と思い、
「ホッとした。」
という。

私はそうは思わない。

何故ならば、「気ぃ遣いで気にしぃ」の彼は、本当の彼ではないからである。
生まれつき「気ぃ遣いで気にしぃ」の子どもなんて存在しない。
恐らくは、会社でも家庭でも支配的な父親の下で、「気ぃ遣いで気にしぃ」の性格は後天的に作られたのであろう。
よって、これを引っぺがさなくては、本来の彼がどういう人なのか、わからないではないか。

かつて緩和ケアに関わっていた頃、「その人らしい最期を」ということがよく言われていた。
そこでも、ある配慮に富んだ高齢男性が緩和ケアを受けていた。
どっちがケアしてるんだかわからないくらい、その人は医師や看護師たちに対して行き届いた言動を繰り返し、スタッフたちも
「それが〇〇さんらしいよね~。」
と言っていた。
やがて病勢が進んで来ると、彼の言動は次第に喜怒哀楽に溢れ、いろんな要求もそのまま口にするようになった(念のために付け加えておくと、それは単なる脱抑制の反動ではない)。
いわゆる“良い患者”ではなくなったかももしれないが、そのままの“彼”になっていた。
とまどうスタッフに対し、
私は
「やっと〇〇さんが出ましたね。」
と言った。
こうなってこその「その人らしい最期」である。

人は自分自身を生きるために生れて来る。
後から身に付けたニセモノの自分のままでいいじゃないか、というわけにはいかない。
願わくば、死ぬまでに、できれば早いうちに、本来の自分で生きましょ。

 

 

近所のおばあさんから聞いた話。 

旦那さんが水虫になったそうな。
市販薬をつけてもなかなかよくならないので、近くの皮膚科を受診した。
すると、出て来た若くて綺麗な女医さんが、患部を素手で触って丁寧に診てくれ、薬を出してくれたのだという。
感激した旦那さんは、水虫はとうに治っているのに、何かとその皮膚科を受診するようになったそうだ。

これも何でも素手で触ればいいというものではなく(感染性のあるものに触ってしまうと自分が感染源になる恐れがある)、白癬菌は触っても洗えば大丈夫なので、その医学的知識があれば、触ることに何の支障もない。
それよりも、私に言わせれば、素手で触るということに精神療法的な意義があるのだと思う。
自分の一部を汚いものを見るかのように、エンガチョ扱いされるのは実に哀しいものである。
触れられるとそこに、現代風に言うならば、分断よりもつながりを感じる。

かつて精神科病院に勤めていたとき、その日不在の医師の患者さんの診察を頼まれたことがあった。
診ると、当時よく見られた接触性皮膚炎であったが、触診した後、手を洗って処方を出していたら、後ろに立っていた看護師さんが独り言のように言った。
「◯◯先生(主治医)は触らないのよね…。」

自慢話をしているのではない。
あなたの小さな子どもに何らかの皮膚疾患ができたら、きっとあなたは触るだろう。
やっぱり人と人とは、分断しているよりもつながってる方がいいんじゃないかな。

皮疹だけの話ではないのである。

 

 

ある東京ディズニーリゾート・ファンの人が
「ここにいるときだけ、イヤな現実を忘れられるんです。」
と言った。
それに対し、ある別のファンは
「東京ディズニーリゾートは逃げ場じゃないんです。」
と言った。
「私は東京ディズニーリゾートのお蔭で明日からの現実でも頑張れる。」
とも。

楽しみ方はそれぞれの自由だが、私は後者の発想は、東京ディズニーリゾートをそこだけのものにせず、日常に連れ帰っているようで、面白いと思った。

そしてそのとき私の頭の中には、神社の鳥居が浮かんだ。

一般に神社の鳥居は、神域と俗世を区切る結界としての意味を持っていると言われる。
従って、鳥居をくぐって神社に入るときは、神域に入るために一礼をする。
そこに異論はない。
しかし、反対に鳥居をくぐって神域から出るときのことは触れられていない。
俗世に向かって出るんだから、どうでもいい、というわけだろうか。

鳥居をくぐって神域に入り、拝殿で参拝して、また鳥居をくぐって俗世に帰る。
その間だけ清浄(しょうじょう)な心持ちになる=鳥居を出れば元の木阿弥であれば、それは先の東京ディズニーリゾートの前者の意見と同じである。
それではもったいなかろう。
そもそも参拝によって何を感じるのか。
折角、参拝によって「御霊(みたま)」の働き=あなたをあなたさせる大元の働きを感じたのであれば、その体験を鳥居の外へ、即ち、俗世へ、日常に持ち帰らなければもったいないではないか。
これは先の東京ディズニーリゾートの後者の意見をさらに徹底させたものとなる。
(空間的に)どこまでその体験を持ち帰れるか。
(時間的に)いつまでその体験を維持できるか。
つまり、本当のことを言えば、神社の帰りには鳥居がなくなる=俗世の全部が神域になっていくことが究極の目標である、と私は思っている。

もし次の機会がありましたら、そんなことを思いながら、神社に参拝したり(お寺や教会でも同じ)、東京ディズニーリゾートに行ってみることをお勧めしたいと思います。

 

 

「『こだわり』というテーマで話をすすめてきました。そこで何にこだわるかというと、男性も女性もそれぞれの価値があると思っている。価値は、自分自身を中心とする自己中心的なものです。その意味で、非常に傲慢なものです。傲慢なものであると同時に、傲慢に気づかない我々はおろか者であることもわかりますね。そうしたことを明確に認識することを私は自己認識と呼びたいんです。

それはどういうことかというと、我々は大部分の生活においていろんなものにこだわる。自分の価値に執着し、それを人に要求し、それがうまくいかなければ、恨み、憎む。そしてさらに自分の欲望の充足のためにすべての人がいるような感じを持ち、それを自分の知恵でもって、自分の頭でもってできるような妄想を抱く。そういう妄想だとか、その他もろもろの自分自身の僭越さに気がつかない、我々はそういう無知、おろかさというものを持っているということになります。
私は、いつも患者さんの訴えを聴いているときに、ちょうどそれは何か大きな音楽の流れを聴いてるような気がする。その人固有のシンフォニー。そこにはいろんな欲望の音がする。その音楽は必ずしも楽しく、美しいものではない。むしろ、どろんとした、ドロドロの泥のようなものを感じる。
そういうものをだれも持っている。もちろん私にもある。ああ人間なんて弱くておろかなのだ。そのおろかさをほんとうにわかったときに、お互いの共感の世界というものが開けてくる。人間が、きれいごとでお互いにわかりあうということは、僕には信じられないのです。

私に、昔、ひとりの少女がいいました。
『先生、私は十七のときに人工流産しました。これは、お父さんにも、お母さんにもいってないんです。彼はそのときに怖がっちゃって、どっかへ行ってしまいました。自分ひとりで私は産婦人科へ行きました。あのときの心細い思いはだれにもいえませんでした。子どもを堕ろしたあとで、こんなことですよ、と出されたものを見せられました。そのとき私は、なんという罪悪を犯したんだろうと思いました』きれいごとの告白ではありません。
けれどもそこには、ほんとうにひとりの少女が身をもってぶつかった悲しみと、苦しみと、苦悶と、はずかしさと、深い自分の罪の意識を、自分の汚さをそのまま出して、しかもはっきりそれに打ち勝っている少女の姿がありました。私はすばらしいと思います。十七歳の子どもがですよ。やったことはどうか、道義的になんとでも非難してよろしい。しかしその、起きたことをその子がひとりで背負ってるんです。人間が自分を、汚かろうが、どうであろうが、間違っていようが、悪であろうが、何であろうが、そのものをそのものとして見る勇気を持つとき、人間は気高い姿を見せます。そういうのを僕は、自分を見つめる、見るというんです。
私は、良かったね、いえて良かったね、といいました。その重荷はみんな僕がもらうよ、あなたはイヤなことはみんな忘れてね、と。たったひとりで彼女は耐えてきたんです。こういったことはね、男性にはわからないものなんです。男性にはわからないけど、しかし同じように、男にもだれにもいえないものがある。そうしたものをね、ほんとうに見つめて、そのまま聴く。正しく見る。その勇気、それが大事なんだな。
この少女の場合ね、私は勇気といいました。確かに勇気なんです。どうして与えられたのかというと、この少女は仕方がなかったんです。私が勇気といったのではじめて自分で、あっ、そうかと気がついたけれども、彼女はそのとき絶望の果て、やむをえないところにまで追いつめられていた。さっきいったように、自分の欲望は他の人がかなえてくれるんだとか、自分の頭でなんでもできるんだとか、そんな思いはどっかへ飛んじゃっていた。もう自分はほんとうに無力で、何にもできやしない、そういう状態で、心のやり場がなかったわけです。人間というものは、自分の知恵だとか、傲慢だとかが消え去ったときに、かえって強くなるんですね。そして、そのときの力は自分の力ではないんです。…
この少女は何もなくなったときに、自分自身の力がほんとうになくなったときに救われた。自分の力を捨てたときに、はじめて人間はほんとうに大きな力を感じることができる。これが私は一番大事だと思う。…

私たちが自分の悪智、悪いはからい、そういったいろんなおろかな考え方から抜けたときに、自分の無力さに気がついたときに、大きな力のなかに生かされている自分を発見することができると思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

「おろかさ」の自覚が、自分がどんなに愚かであるかということを認めることが、決して自己バッシングに終わらない、終わらないどころか、時に「気高く」さえあり、また、他の多くの人を救うことにさえなる、ということをこの文章から学ぶことができます。
というのは、この「ひとりの少女」のエピソードを読んだ何人もの女性から、辛い体験の告白を伺いました。
そして、この少女の告白のお蔭で、またこのエピソードを書かれた近藤先生のお蔭で、何人もの人間が救われました。
いや、そこに働いたのは、この少女の力でもなく、近藤先生の力でもありませんでした。
まさに「
そういったいろんなおろかな考え方から抜けたときに、自分の無力さに気がついたときに、大きな力のなかに生かされている自分を発見することができると思うのです。
その「大きな力」を感じたとき、我々の生きる悲しみを超えた、救いの涙がありました。
近藤先生の著作の中でも、(「情緒的」感動を超えた「霊的」感動をもたらすという意味で)名文中の名文のひとつだと思います。

尚、この「ひとりの少女」のエピソードは、当ホームページの「近藤章久先生のこと」に引用しています。

 

 

「調子に乗る」という。
どうも「調子に乗る」というと、一般にネガティヴなイメージがあるようだが、私はそう思っていない。
内発的な発露のままに生きるということは、自然であり、美しいことですらあると思っている。
むしろ「調子に乗って」生きなくて何の人生か!と思っている。

それを「調子に乗らず」「抑制が効いた方が」あるいは「理性的にコントロールされた方が」、「上等」「上品」と勘違いしている方が実に多いのだ。
それは多くの場合、イソップ寓話の「すっぱい葡萄」のように、自分を抑圧されて生きて来た人間が=自分を自由に出せない人間が、その方が「上等」「上品」と負け惜しみを言っているに過ぎない。

幼児たちを観よ。
彼ら彼女らの「調子の乗り方」は、実に「天真爛漫」である。
「天真」=天の真実に沿うことがおかしいはずがない。

確かに、「調子に乗る」と似て非なるものとして「悪乗り」がある。
これは注意を要する。
「悪乗り」はむしろ抑圧の反動として起こることが多く、「調子に乗る」に比べて、過剰な「垂れ流し」の臭みがあり、不自然感を否めない。
この「不自然」というところが「天真」と決定的に異なるのである。

改めて問う。
「調子に乗る」とは、何の調子に乗るのか。
天の促しに乗り、生命(いのち)の促しに乗るのである。
そうこなくっちゃあ、あなたはあなたを生きていることになりませんよ、と申し上げたい。

 

 

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