エラソーなヤツがいる。
ホーナイ的に言えば、「自己拡大的支配型」の神経症的人格構造の持ち主であり、
DSM-5-TR的/フロイト的に言えば、「自己愛性パーソナリティ症」の人に多い。
しかし、そんな“専門的な”用語で語るよりも、エラソーで、上から目線で、支配的/圧政的で、自慢話/自己礼賛が多く、独善/独断的で、他罰/他責的で、傍にいて暑苦しくて/鬱陶しいヤツと言った方がイメージしやすいかもしれない。
「あぁ~、あいつみたいなヤツね。」とあなたのまわりにいる人の中でも、顔と名前が浮かぶだろう。
で、そんな人でも成長するのか、という話になる。
大抵は、「あんなヤツ、無理だよ。」「一生変わんねーよ。」ということになる。
しかしね、人間である限り、そんなヤツのこころの奥底にも「真の自己」(本来の自分)がある限り、成長する可能性があるのですよ。
但し、条件が二つ。
その二つとは何か。
結局、いつも申し上げている二つということになる。
一つは、「情けなさの自覚」。
自分自身で
「いつまでこんなくっだらない見栄を張ってんだろ。あ~あ。」
と思えて来れば、可能性の光が射して来る。
しかし、虚勢を張って、突っ張らかって生きて来た彼/彼女にとって、自分の非、劣ったところ、ダメなところを認めるのは大層難しい。
これが第一の関門。
心底の情けなさから、それまでの虚勢を捨てる覚悟ができて来るかどうか。
そして二つ目は、「成長への意欲。」
具体的な言動において、
一面では、自分の虚勢を張った言動を取り締まり(出ないように一つひとつ叩き潰す)、
もう一面では、自分の非、劣ったところ、ダメなところを積極的に公言する。
これができるどうか。
それが第二の関門。
これは余程の「成長への意欲」がないとできないことであるが、実践できればまわりに与えるインパクトは大きい。
「へぇ~、あの〇〇さんがねぇ。」
と周囲の見る眼が変わって来る。
但し、気を抜くとすぐにエラソーになるので要注意。
元の木阿弥的言動が出れば、
「やっぱり人間は変わらないよね。」
とダメなレッテルを貼られてしまう。
私の経験上でも、このタイプの人が変わるのは確かに難しい。
しかし、数は少なくとも、ちゃんと変わった人が現にいらっしゃるということも強調しておきたい。
「やっぱり人間は変わるんだ。」
「後から付いたニセモノの自分を払い落として、本当の自分を取り戻すことができるんだ。」
ということにおいて、難しいが故に、成功した人は後に続く者の希望の星となる。
よって、大事なポイントは、虚勢も張れないくらい行き詰まるかどうか、ということになる。
人間、やっぱり、弱った方が良いのよ。
人間は弱って初めて謙虚になり、本当の成長への道筋が見えて来るのである。