八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

ある人が訪問看護ステーションを立ち上げた。
開業当初は利用者が少なく、かなり遠方の人でも、この人は援助対象としてちょっと違うなと思う人でも、折角開業した会社を潰すわけにはいかないので、何でも引き受けた。
後に利用者が増えて来ると、当初無理をして引き受けた利用者が重荷になって来たが、今さら断ることもできなかった。

ある人が訪問看護ステーションを立ち上げた。
地域の病院で10年近く働き、地域の活動も関係諸機関と連携してやって来たので、開業してすぐに利用者がいっぱいになった。
以後も、会社から近い地域で密度の高い支援をすることができた。

だから、開業にはしっかりとした準備が要ると申し上げたいところであるが、かく言う私が開業したときも(近藤先生逝去後に動き出したこともあって)クライアントはとっても少なかった。
治療のための精神療法の依頼や、「情けなさの自覚」も「成長への意欲」もない面談の申し込みはあったが、あくまで開業当初の「対象」にこだわり、すべてお断りした。
最初はヒマでしょうがなかったし、収入面でも苦労したが、今になってみると、そこで踏ん張って来て本当に良かったと思う。
毎朝、面談の予約表を見て、ああ、今日はこの人がいらっしゃるのか、この人と面談するのか、と思うとき、一人残らず、楽しみなのである。
楽しみと言っても、面白おかしい楽しさではなく、大いに苦労する場合も多々あるが、やっぱり「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持っている方々との面談はやりがいがあるのである。
つくづく「対象」にこだわってやって来て本当に良かったと思う。

だからね、いろいろと苦しくても、ブレちゃいけないときがあるのです。
今、迷っている方にこそ、こう申し上げたい。
苦しくとも守ったからこそ得られるものと、
苦しくて変えてしまったからこそ失うものがあると。

 

 

昨日、今日とスポーツニュースは、MLBロサンゼルス・ダジャース(現地の発音はドジャースよりもこっち)のワールド・シリーズ優勝一色である。

球場では、背番号17や18のダジャースのユニフォームを着たファンたちが快哉を叫ぶ。
選手の出身地である岡山や岩手でのライブビューイングで、皆が郷土の誇りだと喜ぶ。
いやいや、ただ同じ日本人であるというだけで、なんだか晴れがましい気持ちになってくる。

おいおい、先日小欄に書いたことを思い出してみよう。
あなたは一球も投げていないし、一本も打っていないよ。
すべて「同一視」を起こして、他人が達成した成果を自分の手柄であるかのように勘違いしているだけのことなのである。
それならば、優勝を喜んでも良いけれど(かく言う私も「やったぁ!」と騒いでいる、ああ、自分は便乗しているんだな、という自覚をちょっとだけ持った方が良いかもしれない。
でないと、他の国の人や、岡山・岩手以外の人や、ダジャース以外のチームのファンの人に対して、優越感を持っちゃったりするアンポンタンが出て来るかもしれないからね。

そうでなくて、今回のダジャース優勝による健全な刺激の受け方があるとすれば、
山本由伸や大谷翔平が自らに与えられたミッションを果たして活き活きと生きているように、今回の人生でオレに/ワタシに与えられたミッションは何なのだろうかと本気で探し求め、一生をかけてその実現を追求して行くことではないだろうか。

紛れもなく、それがあなたのワールド・シリーズなのである。

 

 

対人援助やコミュニケーションの場面で
「こういうときにどう言ったら良いんですか?」
「こういうときにどうしたら良いんですか?」
と訊かれることがある。
申し訳ないが、求められた答えを言うわけにはいかない。
私ぐらいのキャリアになれば、その場にうまいこと対応する言動の引き出しがないわけではない。
しかし、安易にそれを教えることは、質問者を小手先のつまらない人間に堕落させることになる。

私は、セリフや行動といった「形」ではなく、その「出どころ」、即ち、どういう思いや姿勢の根源からその言動が出ているかを徹底的に重視している
どんな言動が出ようと、その「出どころ」に
相手の生命(いのち)への畏敬の念があるか
相手の存在への愛はあるか
それが根本的に重要なのであり、
それさえあれば、「形」=言動は二の次、三の次ということになる。

何故ならば、相手からその「出どころ」を観抜かれるからである。

荒い言葉使いに愛情いっぱいのときもある。
丁寧な態度に侮蔑の念満載ということもある。
そういう経験、ありませんか

最近のハラスメントの基準などは、この「形」に偏っている。
こういう言葉を使ってはいけない。
こういう態度を取ってはいけない。
「形」しか基準にできないというのは、「出どころ」を感じ取れない鈍感な人用の基準だからである。
確かに客観的「証拠」としては「形」しかないわな。

そうではなくて、
相手の存在の根本に対して、手を合わせて頭を下げる姿勢で臨みたいものである。
相手も表面は、塵や埃や泥や神経症的なものに覆われているかもしれない。
それを拝む必要はない。
嫌悪感を抱いたり、怒りを覚えても構わない。
しかしそれでも相手の生命(いのち)に対しては合掌礼拝(らいはい)するのである。

それが私が近藤先生から学んだ大事な教えである。

 

 

昨日10月31日(金)「軸があれば」の続き。

子どもが多数派でない道を選ぶとき、今度は親の方が試される。
果たしてブレないで我が子を応援できるだろうか。
そこでも大切なのはいつも、一番大切な原点に戻ること。
学校に行くだとか、適応するだとかといった表面的なことにとらわれず、
この子が何のために生れて来たのか、
この子が今回の人生で生命(いのち)を授かった意味と役割は何なのか、という視点を失わないことである。
そこを押さえておけば、この子が本当の自分を生きることができるようになるために登り道はいくらでもある、ということが観えて来る

しかし、そんなことを考えながら自分自身の人生を歩んで来た親はほとんどいない。
子どもが不登校になって初めて親も自分の生き方も見直すことになる(それでも見直す親御さんと見直さない親御さんとがいらっしゃるが…)。
見直す契機となれば、子どもの不登校は単なる不幸な出来事ではなく、親子共に人間として成長して行く大きなチャンスとなる。
よって、そのためには、その親を心理的に応援する人がいた方が良い。
若い親御さんの年齢で自分の生きる軸を(しかもホンモノの軸を)持っている人などほとんどいない、というか、私は逢ったことがない。

そうでなくても、特に子どもが低学年の場合、子どもの過ごす場所をどうするか、という問題も出て来る。
これは、子どもが少なっているのに不登校児が増えている、という現実を踏まえて、是非とも行政に頑張ってほしいと切に要望する。

で、話を元に戻すと、親子共に人間として成長して行くためには応援して行く人が必要、ということになるが、ここでもまた同じ問題が生じて来る。
応援しようとしているあなた、あなた自身は生きる軸を持っているんですか?
本来の自分を実現する人生を歩んでいるんですか?

だから、対人援助職者にもまた「人間的成長のための精神療法」が必要だ、という話になってくるのである。
みんな一緒に成長しましょ。

 

 

児童専門外来をやっていたとき、まず驚いたのは、診断書があれば学校に行かない不登校の子でも中学までは卒業できるという事実であった。
「なんだ。学校に行かなくても中学までは卒業できるのか。」
あんなに頑張って学校に行っていたのが馬鹿らしくなった。

そして、高校に行かない、あるいは、中退した子たちの勉強に付き合っているうちに、半年くらいフツーに勉強すれば、高卒認定試験に受かることに気がついた。
「なんだ。学校に行かなくても高校卒業資格がそんなんで取れるのか。」
またもや、あんなに頑張って高校に行っていたのが馬鹿らしくなった。

いわゆる教科書の内容自体は、非常によくできているものが多いので、それは学んでおいた方が良いと思うが、どこで、誰から、誰と学ぶかについては、もっと自由で良かったのか、と今になって思う。

もしあの頃、自分に生きる軸があれば、学校に行かず(もちろん行きたい学校であれば行くが)、経済的に可能な範囲で、塾や予備校に行きながら勉強し、スポーツや英会話などのやりたいことも学べるところに行って学び、進路を見定めて大学受験をしただろうと思う。
実際、医学部の学生の中には各学年に一人くらい、高校に行っていないヤツがいた(今もいるんじゃないかな)。

よく「“通常の”集団生活を経験しないと“変な”大人になる」式の話を聞くが、私の経験から言うと、“通常の”集団生活を経験して来た大人たちの中に(特に過剰適応して来た大人たちの中に)十分に“変な”大人たちがいるというのは、どういうことであろうか。

今になってそう思うが、子どもの頃は、哀しいかな、自分の軸がなかった。
多数派と違う道を選ぶのは恐かった。
だから、そこは“軸のある”大人たちから応援してもらいたいと思う。

「どんな道を進んでも大丈夫だよ。」
「君は君を生きるために生れて来たんだから。」
「本当の自分を生きることを目指せば、登り道はいくらでもある。」

 

親の応援については明日述べる。

 

 あるお母さんが息子が医学部に合格したのを喜んでいた。
進みたかった道に進めた息子の喜びを我がことのように喜べる心情というのであれば、それは健全である。
しかしそれが、私の息子が医学部に通ったのよ、という自慢になってくると気持ち悪くなってくる。
あの〜、勉強したのは、あなたではなく、息子さんなんですけど。
中には、私が勉強させて合格させたんです、と居直る人もいるが、それでも勉強したのは息子さんである。
こういう人に、で、あなたの学歴は?と訊くと大抵、不機嫌になる。
たまに高学歴の親もいるが、
そもそも学歴=自己の存在価値という発想自体が、十分に神経症的であり、通俗的であることに気づいて、情けなくなるようでなければ、お話にならない。

こういうふうに自分以外の誰かにかこつけて、自分が偉くなったように思い込むことを「同一視」という。

皆さんのまわりにもいませんか?
有名人と撮った写真を飾っているような人。
トランプさんでも、高市さんでも、有名タレントでも、金メダリストでも、ノーベリストでも同じこと。
あなたの手柄は何もないんですけど、写真を撮った以外に…。

中には、大谷翔平の奥さんのお父さんを知っている、と自慢する人がいた。
そりゃあ、
随分、遠い同一視だなぁ。

あのね、虎の威を借る狐ではなく、そろそろ自分自身で勝負しましょうね。
それも、通俗的虚栄心ではなく、まぎれもなく自分に生れて来た意味と役割を果たすことで。

 

 

「いまの社会では大人も子どもも、特に子どもたちが非常に衝動的になっている傾向です。これは社会が自由という言葉で衝動的な行為を認めて、甘やかしているところにも原因があると思います。衝動的というのは何事でも、その時の自分の気分だけで実行してしまう。心の動きを制しきれず、感情だけですぐ短絡的に行為をしてしまうことを言います。…
その時の気分だけに従うのではなく、我慢すべきところは我慢して、衝動というものに短絡的に反応しないで耐える力を養うことを考えなくてはいけません。…
子どもは衝動的になりやすいのです。大人とちがって何も先を考えないからできるのです。むしろ理由らしい理由がないのにやるのです。…
衝動的になるということと、直接的な感覚とはどう違うかというと、衝動も直接的感覚には違いないのですが、そこに知恵が働いていないのです。子どもの場合にはいわゆる生の、原始的な生の衝動というか、生命力というか、生命的なエネルギーがあるのです。けれどいかんせん頭の方が未発達で、生命を健康に育てていく大脳の働きがまだ充分に育っていないのです。知恵がないわけです。…
自分を生かしていく、生命力を感じる知恵ができることをほんとうの成熟といいますが、子どもの場合はその点で未成熟なのです。また、子どもの時の特徴として、『自分の要求を、今すぐ、ここで、全部、容れられなければいやだ!』という気持ちがあります。これを小児的傾向といいますが、自分の欲求を先へのばして待つということがなかなかできないのです。…
問題は…親が子どもの生命力を生かす知恵を育てたかどうかということなのです。…
いまの子どもたちは困難と戦ったり、忍耐するということを世間からも親からも教わっていないようです。耐え忍ぶ力をつけること、現在の欲求満足を一時耐えて、不満の充足を将来に伸ばし得る能力を養っていくことが現実を生きる上で必要なことなのですが、それが少しも訓練されていません。大人は子どもに対して、拒絶する場合は静かに明るく、キッパリと拒絶するという、はっきりした姿勢とか態度が必要です。ところが親の方が腹が決まっていないのです。腹が決まっていないから結局、その時いちばん楽な方法 ー つまり子どもの言うなりにするという態度をとるわけです。そしてそれが愛情のあるやり方だと自分で信じこんでいることが多いのです。
私のいう愛情というのは、ある厳しさが含まれます。愛は…ただ甘いだけでなく、きびしさと忍耐を必要とします。つまりほんとうの愛は知恵を伴わなくてはなりません。したがってある厳しさが含まれているものです。
この点に関連して、子どもはうまく表現することはできなくとも、親の気持を敏感に感じ取り、見抜く力を備えていることを知っておいて下さい。親が無定見でただ甘えさせているのか、しっかりした考えをもって落ち着いた愛情で導いてくれるのかに対して、それぞれ正直に反応するものなのです。そしてそれが子どもの生きる態度を決定するのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

「自分の要求を、今すぐ、ここで、全部、容れられなければいやだ!」という“小児的傾向”。
これを持っている大人も多いですね。
子どもだけでなく、大人ももう一度鍛え直す必要があるかもしれません。
私が言う、逆風の中でこそ自分が自分である幹が太くなっていく、というのはそういうことなのです。
細い幹では、ちょっとした逆風でポキッポキッと簡単に折れてしまいます。
いや、その前に逃げ出してばかりになるかもしれません。
思い通りにならないことを抱えられる力。
逆風の中でも、何人もの相手選手に組み付かれながらも一歩でも半歩でも前へ進んで行こうとするラグビー選手のような“勁さ”を養うことが、大人の階段を昇るということなのです。
そしてその大切さをちゃんとわきまえておくのが“知恵”。
やはり子どもを育てるというのは、自分を育てるということ。
まず親から、大人から、自分から
始めましょう。

 

 

会社や病院などには、組織としての理念がある。
理念、社是、クレドなど、いろいろな言い方があるが、残念ながら、ただの「建前」になっている場合が多い。
よくて毎朝、朝礼で唱えたりするが、いざ「暗唱して。」と言われると「なんだっけ。」と詰まる人が多く、
中には、入社式でしか会社の理念を見たことがない、という人もいる。
経営者や働く人の本音が、うまいことやって、名利(みょうり)(=社会的評価や金)を得ることなのであれば、それも致し方ないと思う。

しかし、中には、大真面目に理念を考えている人もいる。
本気で、人間観、人生観、仕事(労働)観、企業(組織)観、世界観などについて考え尽くした上で、組織の理念を策定し、迷ったとき、困ったとき、いつもそこに立ち戻って、今目の前の仕事をどうするかを考えられるものを作ろうとするのである。
そしてそれは結局、一人ひとりの生き方にまで関係して来る、

亡くなったAさんが考えた理念がそうであった。
法人の理念を見直すときに相談があった。
この機会に、ホンモノの理念を作って、それを職員に浸透するものにしたいと。
相談を受けながら(余り「私の」理念の影響が入るとマズいので)「Aさんの」理念を大切にし、思いのこもったものができあがった。

そして、これはサイコセラピーやカウンセリングにおいても同じなのだ。
なんとなく病気が改善すればいい、会社や学校に適応できればいい、で職業的にやっている人が少なくない。
本当はその根底に、本気の、大真面目の
人間観、人生観、教育観、仕事(労働)観、世界観がないと、ホンモノのサイコセラピー/カウンセリングにはならないと私は思う。

そう申し上げて、
その通りだと思われるか。
そんなのなんだか面倒臭いと思われるか。

そこを共有できる人たちが、私の、八雲の仲間たちなのである。

 

 

夕飯は大きなタラバガニだった。
お父さんは一番旨い足の付け根だけを食べ尽くした。
そして残りを妻と二人の息子に与えた。
一事が万事、その調子であった。
数カ月後、妻と息子はいなくなった。
…実話である。

テレビでチョコのコマーシャルを見た。
プレミアムガーナ、ロッテのちょっと高級な季節限定チョコである。
キムタクの食べる様子が映し出されていた。
キャッチコピーは「言葉を失う、劇的一粒」。
これを見て、自分も食べてみたいと思う人は多いのではなかろうか。
そして(自分もまだ食べていないのに)これを食べさせてあげたいと誰かの顔が浮かんだ人は健全であると私は思う。

そして実際にプレミアムガーナを食べた人は是非、キムタクと同じく、目を閉じ、指をピロピロピロと広げ、自分の口に向けた人差し指をクルクルと回してほしいが、
個人的にはそれよりも、プレミアムガーナ食べさせた相手に向かって、指をピロピロピロと広げ、その人の口に向けた人差し指をクルクルと回して、鬱陶しがられてほしいと思う。

愛する照れ隠しに。

 

 

※ちなみに私は〈芳醇カカオ〉より白いパッケージの〈芳醇ミルク〉の方が好きである。

 

「わたしはネクラだから。」
「〇〇さんはネクラだね。」
と言う人がいる。

それは根本的に間違っている。

新生児室にいる赤ちゃんたちを想像してほしい。
私はネクラな赤ちゃんというものを見たことがない。
せいぜい大人しい、穏やかな赤ちゃんならばいるかもしれないが、人間存在が元々「根が暗い」ということはあり得ないのである。

もし「暗い」人がいるとしたら、それは二次的なもの、後天的なものの影響に違いない。
それでさえも、枝の先や葉っぱが「暗い」のであって、その人の大元=「根」は暗くない。

それはサイコセラピーにも直結した話である。
サイコセラピーの知識や技術についてごちゃごちゃ言う人が多いが、
私はサイコセラピストがクライアントの「根」を観通せなければ、サイコセラピーは始まらないと思っている。

ある人が面談に来られた。
「わたしはネクラですから。」
という。
わたしには、その人の幼児期のとびきりの笑顔が観える。
さらに、その存在の奥にある生命(いのち)の輝きが感じられる。
「随分明るい『ネクラ』ですね。」
そうして面談が始まる。



 

ヒューマンエラー、人的ミスは絶対になくならないと言われている。
何故ならば、人間存在そのものがミスをするように作られているからである。
だからといって、ミスをしていい、ということにはならず、できる対策は打たなければならないが、いつも申し上げる通り、人間が元々、ポンコツでアンポンタンであるという自覚は持っておいた方が良いと思う。
その方が、人間が謙虚になる。

 

で、古人も、常に起こり得るミスについては、繰り返し警告を発して来た。

 

猿も木から落ちる」
おっしゃる通り。

 

「河童の川流れ」
泳ぎが巧みなはずの河童でさえ川の流れに流されることがあるのである。

 

「天狗の飛び損ない」
特に得意になっていることでは油断しやすいかもしれない。

 

「弘法も筆の誤り」
日本三筆の一人、弘法大師・空海さんでも書き損じることがあるのだ。

 

英語もある。
“Even Homer sometimes nods.”
あの偉大なギリシャ詩人ホメロスでさえ詩を書きながら居眠りをすることがあった。

 

「釈迦の経の読み違い」
偉い人のミスほど、ああ、あの方でもか、と聞いてちょっとホッとするところがある。

 

以上は、辞書でも有名どころであるが、先日、古今亭志ん生の落語を聴いていたら、「河童の川流れ」に続いて、次のひとことが出て来た。

 

「ムカデもころぶ」

 

流石、志ん生である。
皆さん、自分のポンコツぶりに自覚を持って、謙虚に、支え合って、助け合って、生きて行きましょうね。

 

 

今、金木犀の花が香る。
香りが先で、あれ、どこで咲いているんだろう、と次に花を探す順番が、秋の楽しみのひとつでもある。

同じことが梅の花においても言える。
香りが先で、あたりに梅の花を探すのは、あたかも待ちかねた春を探すような風情がある。

東京では、よくジャスミンの花も香る。
ジャスミンは金木犀と同じモクセイ科の花である。
種類によって花期が長いため、春~秋のどの季節とは言い難いが、香りの王様と言われるほど香りが強い。
その分、樹勢の強いジャスミンを敢えて小さく育てるという人もいるそうな。
香りを愛でながら、あまり強い香りは好まない、というのは、いかにも日本的である。

…などと思っていたら、別の匂いを思い出した。

かつて八雲の近藤宅で開業していた頃、夕方最後の面談が終って面談室のドアを開けると、はるか長廊下奥の近藤家の台所から、美味しそうな夕餉(ゆうげ)の匂いが漂って来た。
いつも丁寧に出汁を取って作られていた料理であったため、その香りは空腹の食欲をそそるだけでなく、作り手の愛と団欒(だんらん)を感じさせるものであった。

そこにはホームの匂いがあった。
(ホームとは、その人が安心してその人でいられる場所を指す)

あの匂いもまた、私のサイコセラピーを後押ししてくれていたんだなぁ、と今になって気がついた。

 

 

映画『ジェシー・ジェームズの暗殺』(2007 アメリカ)は、ブラッド・ピット主演で、数々の賞も受賞しているため、ご存じの方も多いのではなかろうか。
西部劇というには余りにも心理描写の優れた作品である。
映画の楽しみ方は、人それぞれなので、むしろ私の視点は変わっているのかもしれない。
しかし、この映画を観て、ひと言申し上げたくなった。

それは、ブラッド・ピット演ずる冷酷な無法者ジェシー・ジェームズが放つ、独特の空気感が、わかる人にはビリビリとした実感を持って感じられるだろう、と思ったからである。
それは特に、本来は愛着を抱くはずの相手に、震え上がるような恐怖と共に煮えたぎるような殺意を感じたことのある人だけが肌感覚でわかるものと言って良いだろう。
例えば、典型的には、虐待親のもとで育った人、DV夫に君臨されて来た人などは当てはまると思うが、そこまでいかなくても、支配的な環境で育った人にはわかるものがあるのではなかろうか。

ジェシーの手下であるボブは、ジェシーに対して、一方では、強い愛着と憧れを抱きながら、他方では、全てを見透かされ、支配され、隷属させられている圧迫感と恐怖に苛まれている。
そしてそのアンビバレントな感情がピークに達したとき、ボブはジェシーの一番の良き奴隷からジェシーの暗殺者に変わる。
しかも、その殺戮の仕方までもが、丸腰で背中を向けているジェシーに対してボブが後ろから撃つことによって完遂される。
映画の原題が“The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford(臆病者ロバート(ボブ)・フォードによるジェシー・ジェームズの暗殺となっているのももっともなことである。
背中から丸腰の相手を撃つことは、限りなく卑怯でありながらも、その恐怖と殺意の折衷点がそこにしかないことが、体験のある人にはまるで我がことのようにわかるだろう。
ボブによる暗殺は、とても coward(臆病)なやり方でありながら、それまで屈従させられて来た人間にとっては、精一杯 brave(勇敢)なやり方でもあるのだ(私はボブが銃を構えた瞬間、「やれっ!」「躊躇するなっ!」と叫んでいた)。
そこに至るまでの、ジェシーのゾッとするほど独善的で傲慢な態度、そしてその一挙手一投足にヒリヒリとビクつくボブたちの心情、そしてその場を支配する暗く重い空気感。
そんなことが映画で示せるのかと感嘆した作品であった。

私の観方は、かなり変わっていると思うが、今、小欄を読んでどこか共感できるものを感じた方はどうぞご鑑賞あれ。

 

 

今回から「金言を拾うⅢ」、近藤章久『感じる力を育てる』に入ります。

「親の過保護とか過干渉とかいうものは…ものすごく残酷な結果をもたらすものですが、それを親は気がつきません。自分は愛情をもっていると独り決めして、この子のためにはこうすることがいちばんよいのだと思っています。こんなふうに自分は愛情をもったよい親であるという錦の御旗をもっていることに、実は問題があるのです。
親は愛情の名のもとに、自分たちの強制的な管理の下に自分の子どもを置いているわけです。…子どもは物ではないのです。人間なのです。…ところがその生命を持った人間である子どもを愛情の名のもとに、まるで物のように取り扱うところに問題があるのではないでしょうか。
…物とちがって人間は、生まれて一年もすると、なかなか親の思いどおりにはなりません。子どもは自分で歩きはじめる。そうすると親が『そっちへ行ってはいけません』というのにかえって、反対の方へ飛び出したりして、なかなかコントロールができない存在になってくるものです。
そこら辺から母親とか父親の間違いがはじまります。しつけなければならないと、いわゆるアメと鞭でもって、できるだけ自分たち大人の言うことをきくようにしつけようとします。そして、いろいろやった揚げ句、それが成功して、おとなしい子どもになったと安心した時には、子どもは自分の生命から自然に出る自発性を失っているわけです。自分が何を感じ、何を考えるかわからなくなっています。そして現実に面すると深い無力感を感じます。どうしていいかわからない。自分で考えることも、決めることもできなくなっているのです。…
親は自分の理想像を子どもに強制して、自分の考えどおりに子どもをコントロールしますが、事実は子どもの自由に発達するべき能力を伸ばさず、かえって退化させてしまって、せっかくの可愛い子どもを不幸にすることになるのです。
その不幸から子どもを救うためには、子どもには子どもの人生があり、親はその子どもに代って生きることができないという現実をよく認識して、ゆったりと大らかに子どもを見守り、子どもに接すること、子どもが自分で物事を感じとり、思考や感情を生き生きと伸ばして行くのを助けることから始めるより方法はありません。
ここで親は、自分の根本的な態度をもう一度、ありのままに見て、自分たちは子どもを自分の思いどおりにしようとしているかどうか、子どものありのままの姿をそのままに認めて、それを伸ばそうとしているかどうか、この際しっかりと検討してみることが何より大切です。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より

 

ちょっと厳しいことを申し上げるようですが、ここでも私は世の親御さんたちに「凡夫の自覚」を要求したいと思います。
親が子どもを産める年齢というのは、何故か、とても若いのです。
生物学的にそう決まっているから仕方ないのですが、精神的には、子どもが子どもを産むということになります。
即ち、若い親が授かるには、子どもの生命(いのち)というのは尊過ぎるのです。
ですから、親の基本的姿勢としては、「こんな未熟な親だけれど一所懸命に育てるから勘弁してね。」ということになります。
ここに謙虚さが生まれます。
「正しい親」が「何もわかっていない子ども」をコントロールしてやる、というような思い上がりは生まれないはずです。
ですから、ここでもまた、子どもの生命(いのち)に対して、どうか合掌礼拝(らいはい)するような気持ちで、子育てに当たっていただきたいと切に願います。


 

極端に簡略化して言えば、光の部分を闇が包んでいるのが、人のこころの実態である。
光が、その人本来のものを指し、
闇が、後からその人に付いたものを指す。
生まれたときは光しかなかったものが、段々と闇が降り積もって来たのである。

そんな状態で、皆さん、面談にいらっしゃる。
さて、どこから手をつけるかであるが、目指すゴールは決まっている。
闇を減じて光が顕わになることである。

そのために、決まったやり方があるわけではない。
払いやすい闇から斬って行くこともあれば、大物の闇から始末することもある。
また、闇ではなく、光の力の増幅から始めることもある。
そうすると、闇が勝手に落ちて行く場合もある。

その闇の部分の処理に精神分析などの知見が役に立つことがあるのだが、そんな闇=精神病理の分析ばかりやっていると、段々元気がなくなって来る。
だからといって、下手にクライアントの我をよいしょしてしまうと、何の役にも立たないどころか、簡単に思い上がってしまう。
よって、相手の我を褒めず、相手の本質を、即ち、光の部分の力を増すのが肝心ということになる。

そして、そのために何ができるかというと、その基本がまさに他者礼拝(らいはい)なのである。
これは何度強調しても強調し過ぎることのない基本中の基本である。

相手の光に対して、相手の生命(いのち)に対して手を合わせて頭を下げる。
こころの中でかまわない。
他者礼拝を繰り返し繰り返し行っていくとき、あなたを通して働く力が、相手の光の力を増幅して行くのである。

相手の光=相手の生命(いのち)への畏敬の念なしに、相手を分析したって、良くなる=本来の自己を実現して行けるようになるわけないでしょ。

いつもいつも、基本の基本、ここに戻ることをどうかお忘れなきように。
 

 

 

大学病院に勤めていた頃、外来の隣の診察室からベテラン精神科医の声が聞こえて来た。
「ここは人生相談に来るところじゃないからね。」
初診の患者さんに話しているらしい。
「病気の人が治療に来るところだよ。」
確かに、診断を付けて、薬物療法などの治療を行うことが医師の役目、病院の役目というのは、ごもっともなご意見である。
しかしそれを聞いて、私の中には何とも言えない違和感が残った。
「ここは人生の相談をするところじゃないんだ。」

その違和感がどこから来たかが後日、明確になった。
つまり、そのベテラン精神科医は、診断や処方はできても、人生に関する答えを持っていなかったのである。
だったら、そう言えばいいのに。
「私は答えを持っていません。」と。
そして近藤先生に出逢ったときに確信した。
「この人は答えを持っている。」
人が何のために生まれて、何をして生きて死ぬのかを知っている。

結局、人生の問題を解決してくれる薬物療法はなく(酒やドラッグに逃げるくらいか)、
精神療法というのも、治療におけるものは、本人が所属環境に適応して生きて行けるようになることぐらいしか目標としていないことがわかってしまった。
それじゃあ、人生の答えは持っていないわな。

よって、私が思う本当の精神療法を行うためには、人生の答えが要るんです。

そしておもしろいことに、同様のことが、最近の精神科クリニック界隈でも起きている。
初診者の内訳が変わって来ているのだ。
いくつかの最近の潮流があるが、そのひとつとして、はっきりとしたザ・精神障害があり、明確なザ・治療を必要とする人たちが減って、診断のつかない、そしてまさに人生相談に来るような人が増えているという。
それくらい精神科クリニック受診の敷居が低くなったことは有り難いことであるが、困るのは医療者の方で、人生の答えを持っていないのである。
残念ながら、そんなに自分自身のことも、自分の人生のことも見つめてはいないのだ。
サイコセラピーもカウンセリングも面接も、専門的知識と技術でちょろまかせるうちはいいが、本格的な人生の話となれば、医療者個人が人間として試されることになる。

人生の問題に正面から答えられるサイコセラピーやカウンセリングや面接が、
いや、人生の問題に正面から答えられる医療者が、
いや、人生の問題に正面から答えられる人間が必要とされているのである。

 

 

Aさんは面談に来る度、
まず前回の面談から今回の面談までの間に、自分がどれだけ情けない言動をして来たかについてつぶさに話される。
それが余りに容赦ない内省なので、私は黙って聴いているしかない。
そして話はそこで終わらず、
その今の自分を超えて行くためにどうしたらいいかを、これまた一所懸命に話される。
それがなかなか的を射ているため、これまた私は黙って頷いているしかない。
そして次回までに(口先だけでなく)必ず実践して、その結果がどうであったかを包み隠さず話される。
まさに「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を地で行く面談である。
こうなってくると、私の出番はほとんどなく、どんどんと自分で成長して行ける。
(また次の段階になってくると、私の新たな出番がでてくるが、それについては今回は触れない

しかし、Aさんも最初からそうだったわけでない。
当初は、自分の情けなさに気づかない、認めない、言い訳する、かなりひどかった。
よってこちらから指摘することにある。
そうすると、逃げる、誤魔化す、抗弁する、これまたかなりひどかった。
そして今の自分を超えて行くためにどうすればいいか、についても全く出てこない。
たまに出て来ても、全くの的外れであるため、何の役にも立たない。
そしてこちらが提案しても、申し訳程度にやってくるか、全く実践してこない。

これじゃあ、面談終了だな、と思い、もう一度本人の意志を確認する。
「自分がどれだけ情けないか、本気で向き合う気がありますか?」
そう訊かれて彼は必ず
「あります!」
というのである。
そうなると、面談が続くことになるが、本人がそう言った以上、私の指摘も段々と容赦ないものになってくる。

よって毎回彼はズタボロになる。
しかし、彼はまたやってくる。
毎週毎週やってくる。
何年も何年もやってくる。
よくイヤにならないな、と思うが、そういう厳しい面談が毎回続いていく。

実際、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を面談の条件としたはずなのに、
「自分がどれだけ情けないか、本気で向き合う気がありますか?それとも中退しますか?」
と訊かれて、
「中退します。」
と言ってやめた人は何人もいる。
でも、彼はやめなかった。
そして何年もかけて、頭記のような境地にまで達したのである。
そこを私が褒めると、決して愛想を崩すことなく、真顔で
「まだまだ全然お話になりません。」
と即答する。
これならさらに成長できる。

みんながみんな、同じ通り道をとおるわけではないが、突かれても突かれても踏ん張って踏ん張って成長した人もいる、という一例のお話である。
 

 

 

日頃、精神障害に関わる仕事をしていると、さまざまな差別に出逢うことがある。

障害者差別解消法もできたが、いまだに結婚や就職にまつわる差別から、施設コンフリクトなどの差別に至るまで、さまざまな場面に差別は影を落としている。
結局、ただの理念や思想では役に立たず(それらは建前に堕しやすい)、本音の本音でどうなのか、ということが試される。
(黒人差別を描いた映画『招かれざる客』を思い出す)

また、実はあからさまな差別主義者の方が(最初は大変であるが)本当に差別を乗り超えることができたならば、むしろ良き理解者になることが多く、
それよりも最初から理解者のようなフリをしている人たちの方が、いざというときにその差別観を露呈し、遥かに厄介なのだという話もよく耳にする。

精神医療福祉関係者の中でも、当事者やその家族の側に立った臨床や活動を長年熱心にしている人たちの中に(もちろん一部だが)どうしても胡散(うさん)臭さが払拭できない人たちがいる。
「自分は当事者の側に立ってますよ」的な言動すべてが、場合によってはその人の髪型からヒゲから笑い方からファッションまでもが、どうにもこうにも嘘くさいのだ。
そんなことを感じているのは自分だけかと思っていたら、あるベテランの精神保健福祉士の人で、私と全く同じ感触を抱いている人がいた。
やっぱりそうなんだよね。
(この感覚的なニュアンスが皆さんにも伝わっていればいいが…。)

多くの当事者や家族の方々は優しいので、そんな人間にも付き合って下さるかもしれない。
そして当人たちだけが、その偽善の本音が疾(と)うに見透かされてることに気がついていないのだろう。

 

最大の敵は味方の中にいる。

 

教訓とすべし。

 

 

来年の話をしましょう。

まずは待望のワークショップの再開です。
詳細はまだ未定ですが、来年は必ず開催します。
確かコロナ前、最後のワークショップは、2019(令和元年)秋だったと思うので(2020(令和2)年1月に国内で初めての新型コロナウイルス感染症患者が報告されたのでした)、6年以上ぶりの開催となります。
今は随分リモートでの勉強会にも慣れて来て、あのワークショップを共にして来た仲間であれば、リモートになってもすぐに“あのとき”の感覚に戻ることができますが、それでもやっぱり体験は少~しずつ劣化していくものです。
ここらで直(じか)に顔が見える、互いの存在に触れ合うことのできるワークを共にして、日常を超えた体験を、感動を通して、本来の自分を、純度の高い自分を取り戻す、大いなる機会にして行きましょう。
もちろん新たな仲間の参加も大歓迎です。
詳細決定まで、今しばらくお待ち下さい。

そして来年度(令和8年度)、八雲勉強会も新たなものにして行きます。
ちょうど来春3月には「ホーナイ派の精神分析」の勉強が終えられそうですので、4月から新たな勉強会をどのようにするのか思案中です。
こちらも
(1)新たなテーマや構成、開催形態
(2)出席者参加型を重視
(3)新しい仲間も参加しやすい形
などを考えていますが、ご希望・ご発案がありましたら、面談の際でも、勉強会の際にでも、どんどんとお知らせ下さい。

コロナ以降は、いつの間にか、活動を継続することが中心となっていた気がします。
来年は、本格的な活動再開からさらなる発展へ。
どうぞお楽しみに。

 

 

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八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。