八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

日が暮れるのが早い。
暗い。

北風が冷たい。
寒い。

お腹が空いてきた。
ひもじい。

「暗い」「寒い」「ひもじい」
晩秋から冬にかけて、この三つが揃うと、とっても切ない気持ちになると以前から申し上げて来たが、
先日ある人が
「それに『さびしい』が加わると、さらに切ないよね。」
と言った。

私が挙げたのは、環境的な切なさと身体的な切なさ。
彼はそこに心理的な切なさを加えた。
ネグレクトされてきた経験のある彼の言葉にはうなづくしかなかった。

それならば、
この季節、

ライトを明るく点けて
しっかり暖房を効かせて
温かくて美味しい食事を
愛する人と一緒に(“推し”の写真でもいいですよ)食べましょうね。

 

 

根幹に関わる大事なことを端的に述べておきたい。

「『生の目的』は何か?」
と問われれば、
「生命(いのち)を育てることである。」
と即答する。

「では、『生命(いのち)を育てる』とはどういうことか?」
と問われれば、
「本来の自己を実現していくことを助けることである。」
と答える。

そして
「誰の、何の、生命(いのち)を育てるのか?」
と問われれば、
「まず第一に、自分自身の生命(いのち)を育てる。
 第二に、子どもの生命(いのち)を育てる。
 第三に、縁あって出逢った人の生命(いのち)を育てる。』
と答える。

まず自分自身の生命(いのち)を育てられなければ話にならない。
次に伸びて行こうとしつつもまだ弱い子どもたちの生命(いのち)を守り育てなければならない。
そして、パートナーとして、親友として、後輩・部下として、患者さんとして、利用者さんとして、クライアントとしてなど、縁あって出逢った生命(いのち)を育てなければならない。

そして、「本来の自己を実現する」とは、「今回の生において与えられたミッションを果たして行く」ということと同義なのである。

 

 

近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目に続いて16回目となった。

今回も、以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」について取り上げながら、段々最終コーナーにさしかかってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話であることを読み取っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(3)

さてこの様にして神経症的傾向は次第に理解されるが、通常最初に明らかになるのは、患者がそれでもって一応の葛藤を解決している方法であるところの神経症的傾向であろう。仮に自己拡大的方法を以て解決している場合は、彼の自由連想や、夢や、対人関係に、彼の自己拡大的な shoulds や claims を発見し、あとづけ、連関を考えて、次第に彼の神経症的構造の中核をなす「仮幻の自己」の明確化に迫って行くのである。
これらに関する理解が一応成熟して来た時、患者に対して、患者の意識に近い面から、適当な時期に ー この時期の判断が重要であるが ー 解釈を試みるのである。解釈は断言的でなくて、出来るだけ「でしょうか?」等の疑問の形をとって、患者自身による思考と省察に訴えたい。
と言うのは、解釈は分析者からの患者への呼びかけであり、その注意の喚起であり、自己認識への促しであり、患者の「真の自己」に自己表現の機会を与える方法であるからである。
と同時に又、疑問の形に応えて、決定し判断するのは患者であって、分析者は助力者であることを次第に明らかにして行く為でもある。
解釈が幸にも受入れられ、理解されると、それは、患者の自己認識への大きな照明となり、新しい分析への通路を開くことになる。
しかし、必ずしも受入れられない場合でも、分析者は、患者のそれに対する表現や反応によって、更に深い理解への手引きを得ることが出来る。
ともかく、この様なことを繰返しているうちに、患者は次第に過去の回想や現在の感動的な経験を再体験することによって、自分のとっている神経症的態度との連関を見出して行く。
もとより、始めのうちは、たとえ見出すにせよ、狭い特殊な状態との関係のみにとどまるか、或は漠然として一般的な形でしか見られないだろう。しかし、その様な関係を理解出来る事は洞察の一種である。その様な洞察は、回を重ねるにつれ遅かれ早かれ、現在の状況に於て自分の内に作用している色々な要素が、自分の場合に於て具体的にどの様な現象として現われ、どの様な結果をもたらしているかの現実的な洞察に導き、更にそこに動いている自分に固有な shoulds や claims を理解するに至るであろう。
そして更に自分の神経症的な pride に気付き、様々な曲折を経ながら、その背後にある「仮幻の自己」の存在を感じ始めるだろう。それと共に、一方に於て、前景にあって強く動いている。重要な解決方法としての神経症的態度の下に、抑圧された他の要求や誇りが存在する事実に面する様になる。例えば自己拡大的な主傾向の下に、依存的傾向や自己限定的傾向が抑圧否定されて存在することに気付くであろう。
そして、それらの諸傾向の間の矛盾や葛藤が露呈せられ、自分の神経症的性格の構造連関と、その間の力動関係が認識され洞察されるに至る。洞察は広く解すれば知的認識から情動的認識を含む(但し、オブザーバー的知的認識を除外する)。そして知的認識自体は必ずしも直ちに神経症的なものからの解放 ー 性格的変化 ー をもたらすとは言えないが、それは治療的な価値を持っている。
自分の悩んでいる症状に、はっきりした原因があると言うことを発見することは、少なくとも処置しようとすれば取扱える対象があると言う気持を与え、今迄の様に訳のわからないままに苦しんでいた状態にいなくてすむと言う希望を与えるのである。この意味で知識はやはり力である。そして、洞察が重なるにつれ、分析に対する信頼、積極的な態度が増大して来ると言う大きな効果がある。

 

クライアントの神経症的な問題を「解釈」して行くとき、どうしてもセラピストが一方的な、あるいは独断的な解釈をしがちである。そうではなくて、セラピーの過程においては、患者の「真の自己」に自己表現の機会を与えることが非常に重要であり、あくまでセラピストは助力者であることを忘れてはならない。
また、自己縮小的依存型の傾向、自己拡大的支配型の傾向、自己限定的断念型の傾向は、前景に出てわかりやすい一つの傾向の下に、他の二つが抑圧されて存在するという事実は、時にショッキングでありながらも、洞察を深めるためには避けて通れないプロセスである。
さて、今これを読まれているあなたは、自分自身においてお気づきでしょうか?
そして、洞察が、知的認識だけの話ではなく、深い洞察ほど実は情動的認識を含む、ということも見過ごせない事実である。
ただの冷静な「ああ、そうか。」ではなく、「ああ!そうだったのか!」という情動を伴うところに、その後の認知の変容や行動の変容がより強く期待できるのである。
いくら頭の先で「わかった」って、日々の具体的な「生き方」が変わらなければ意味はない。


 

過日、電車に乗ると、80代と思(おぼ)しきおじいさんが車椅子で優先スペースに乗車していた。
杖を持ち、キャップをかぶっているが、そのキャップに刺繍文字で何やら英語が書いてある。
私が立っている角度からは文末しか見えず、“… not alone.と読める。

それじゃあ、全文は
I am not alone.

We are not alone.
だろう。
そうだよ、じいさん。あんたは一人じゃないよ。

…と思っていたら、なんと全文は、
You are not alone.
であった。
孤独な立場に見えるじいさんが、自分以外の人にメッセージを発していたのである。

昔、子ども専門病院で研修を受けて来た知り合いの医師が、そこに入院していたアメリカ人少年の話を聞かせてくれた。
重体で余命幾ばくもない少年は、研修が終わり、別れを告げに行った知人に、声にならない声で何かを言ったそうだ。
傍らの看護師さんに訊くと、少年は
May God bless you.(あなたに神の祝福がありますように)
と絞り出すように言ったのだという。
涙目で「自分は祝福されていないのに、オレに向かってそう言ったんだよ。」と言う彼に私は反論した。
その少年を通して働く力がそう言わせたんだから、そのとき彼も祝福されたんだよ。

翻って、あのおじいさんはどうだろうか。
あのおじいさんもまた、自分を通して働く力によって“You are not alone.というキャップをかぶったとき、同時に自分はひとりではないことを感じたのだと思う。

時にそんな力が働くことがあると私は思っている。

 

 

たまにエアポケットのようにヒマになる時間がある。
ヒマだと困る。

と言っても、ガツガツ稼ぎたいわけではない。
もしそうであれば、精神療法家はやっていない。そもそも医者もやってない。
与えられた能力を駆使して、この娑婆の中で最低努力で最大収入を得られるような道をガツガツと進んだであろう。
そんなことのために仕事はしていない。というか、生きていない。

また、ワーカホリック(仕事中毒)なわけでもない。
何か生産的なことをしていないと、あるいは、他者貢献的なことをしていないと、自己無価値観に陥る人たちをワーカホリックと呼ぶ(その背景として、親に寄り添われずに育ち、そのままの自分では存在価値があると思えず、生産的になって、あるいは、他者貢献して初めて存在が許されると思っている人が多い)。
そんなことのために仕事はしていない。というか、生きていない。

そうではなくて、ミッションのために仕事をしている、生きているのである
それは人間の成長に関わるというミッションである。
よって、面談予約が空くと困る。
面談でなくても、人間の成長に関わるなら、研修、講義、ワークショップなどでもいいのだが、それもないと、なんだか胸のうちがスカスカしてくる。
やるべきデスクワークも山のようにあるので、いくらでもやることはあるのだが、それはあくまで“副務”であって“主務”ではない。
難しいのは、人間の成長に関わるなら何でも良いのかというと、そうもいかない。
そこに「縁」が絡む。
「縁」というのは「果たすべきミッションか否か」ということである。

よって、たまにヒマなとき、スカスカしながら、デスクワークをしながら、祈るしかない。

御心(みこころ)ならば、果たすべきミッションをお与え下さい、と。

 

 

昔は都内にいくつものカウンセリングスクールがあった。

近藤先生にも度々講師依頼があったが、割ける時間もなく、
「こういうスクールには核になってやる人が必要なんだよ。」
とよくおっしゃっていたのを思い出す。

時代も変わり、今は国家資格としての「公認心理師」もできたが、「業務独占」とまではいかず、今も無資格の自称「心理カウンセラー」が存在するが、良い意味で、無資格では段々と肩身が狭くなって来ている。
繰り返し申し上げている通り、最低でも「公認心理師」、できれば「臨床心理士」の資格がなければ、どういう教育・経験を積んで来たかに保証がなく、さらに臨床心理士が4年(学部)+2年(修士)の教育課程を終えたとしても、6年間の医学部卒の研修医が何の役にも立てないのと同じように、まだまだピヨピヨのヒヨコに過ぎない。

よって、現代に置き換えて言うと、臨床心理士の資格取得者を対象としたカウンセリングスクールが必要だと私は思っている。
当研究所では、臨床心理士の資格取得者が一人ひとり「人間的成長のための精神療法」を受けに来て下さっているので、些かカバーできているのではないかと思うが、誰かそういうスクールを立ち上げてくれないかしらん、という気持ちもある。
それが難しければ、せめて大学院2年間のうちに、基礎の基礎となる「人間観」「治療観/成長観」「人生観」「世界観」などだけでも叩きこめないかと思う(この基礎があるかないかがカウンセラー/サイコセラピストとしての一生を分けることになると私は本気で思っている)。

結局のところ、要は「スクール」云々という形よりは、人のこころに携わる仕事をしたければ、ホンモノのトレーニング=自分自身を見つめ、自分の問題解決をして行くという成長の経験の場が必要である、ということに行き着くのだと思う。

 

 

「一般に本能というものは食欲にしろ、睡眠にしろ、あるいは性欲にしろ、あるのが健康ではありますが、その欲求を充足する場合には、おのずから社会的なきまりというか、マナーがあります。…そして、食欲とか睡眠欲の場合は、小さいときから訓練を受けています。…ところが性に関してだけは、性の欲求がかなりあとの思春期になって出てくるものですから、それに関するしつけは全然できてないわけです。…言いかえれば、子どもたちは自分一人で、この問題についていろいろな試行錯誤をしなくてはならないのです。…
女の子の場合は、女性ホルモンが活発に出てきますと月経という現象がありますが、この頃から女の子は変わってきます。急にふっくらとして女らしく、なめらかな曲線が出てきます。…つまり女の子にとっては一般的に、成熟していくことが喜びなのです。性ホルモンの作用は、女性がもっぱら美しくやさしくなるように出てきます。
ところが男の子の場合には、極めて現実的には性欲としてはっきり出てきます。自分の体の中に、何だかわからないが、つき上げる衝動として荒々しく突然出てくるのです。
このような差異を頭に置いて…この時期によくある恋愛感情についてふれてみますと…恋愛を、心理的な側面と肉体的な側面とに分ければ、一般的には、女の子の方には心理的な面が強く、男の子には肉体的欲求の面が強いと言うことができます。このために、よく…行きちがいが起きるのですが…大人たちは、男の子と女の子の思春期におけるこうした点をよく認識した上で、それに対する教育的な準備を…するべきではないでしょうか。
もとより、若い生命ですから、男の子も女の子も…経験を通じて学び、成長していくことと思いますが、時として女の子には肉体的にも精神的にも大きな打撃となることが多いのです。…
また、この時代の男の子の問題に対して、母親だけではどうにもならないことがあるわけで、とかく、叱責するとか、見て見ぬ振りをするとかに終りがちですが、ここは一つ、父親が男性の先輩として暖かく、明るい態度で、誰しも青春の日に陥り易い傾向であること、それに耽りすぎないようにすること、エネルギーが余ったら体を動かして発散したらどうかなど、大らかに話して頂けたらどうかと思います。…
そして、この時代を乗りきって成長していくために…何よりも、自分の目標や中心をはっきりと持っていることが…必要だと思われます。…自分の生活に目標があり、中心がある時は、性の問題は少なくとも第一次の問題でなくて、第二次、第三次の問題となっていきます。もちろん、その目標や中心となっているものは、自分がほんとうに必要と認め、自分の内部感覚がほんとうに求め、興味を持っているものです。こうした目標や中心があると、それに対してエネルギーが向けられ、狭い意味での性的対象に向けられるエネルギーが少なくなります。…
いずれにせよ自分が本気で取り組めるものあれば、それはそれぞれの生命を生かし、成長させるものです。そればかりでなく、同じ目標や同じ興味を持つ仲間を次第に発見して、お互に刺激し合い、はげまし合い、楽しみ合っていく友情を発展させることができて、人間関係の上からも、場合によっては各人の生涯にわたる大きな収穫を得ることができるのです。
もとより、こうした中でも性的な衝動は自然にありますが、自分の生活に目標や中心がある場合、それと性の衝動とのはげしい葛藤の中で努力し苦闘することで、次第に鍛えられ、たくましく成長し、やがてこれが自分なのだ、自分はこう生きて行くのだという自覚が生まれて、ほんとうの大人として生きていくことになります。
このように性の問題は、青春期をゆるがす大きな問題でありますが、同時にそれは、若い生命の発展と成長のための機会となり、自己形成への飛躍台にもなる積極的意味を持っているものです。この時代の苦しみを通じて、本気に自分の取り組める興味や関心の対象を発見させる方向へ助力することに、この時代の親の役割があると思います。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

男女における性の発現の仕方の違いは、近藤先生が度々強調されて来たことです。
現代の性教育においても、医学的なことは説明されていても、男女が自分の性の発現の仕方の特徴、異性の性の発現の仕方の特徴、さらにその心理的特徴について、ちゃんと教育されているとは言い難いと思います。
そこを是非、お父さん・お母さん方、先生方、あるいは、年長の先輩方から思春期の子どもたちに教え伝える機会を設けていただきたいと思います(そのためにはもちろんお父さん・お母さん方、そして、年長の先輩方が真実をしっかり理解している必要があります)。
そしてその上で、性の問題をただの問題として扱うのではなく、性欲に支配されることなく、本来の自分を逞しく生きて行けるようになるための踏み台として活用して行くところに、事の本筋があるように思います。
そうすれば、この性欲を、名誉欲や金銭欲など他の欲望に置き換えても、当てはまる、即ち、どのような欲望にも支配されず、この人生において本来の自分を生きて行けるようになる、という大切な教えとなるのではないでしょうか。

 

ある人が訪問看護ステーションを立ち上げた。
開業当初は利用者が少なく、かなり遠方の人でも、この人は援助対象としてちょっと違うなと思う人でも、折角開業した会社を潰すわけにはいかないので、何でも引き受けた。
後に利用者が増えて来ると、当初無理をして引き受けた利用者が重荷になって来たが、今さら断ることもできなかった。

ある人が訪問看護ステーションを立ち上げた。
地域の病院で10年近く働き、地域の活動も関係諸機関と連携してやって来たので、開業してすぐに利用者がいっぱいになった。
以後も、会社から近い地域で密度の高い支援をすることができた。

だから、開業にはしっかりとした準備が要ると申し上げたいところであるが、かく言う私が開業したときも(近藤先生逝去後に動き出したこともあって)クライアントはとっても少なかった。
治療のための精神療法の依頼や、「情けなさの自覚」も「成長への意欲」もない面談の申し込みはあったが、あくまで開業当初の「対象」にこだわり、すべてお断りした。
最初はヒマでしょうがなかったし、収入面でも苦労したが、今になってみると、そこで踏ん張って来て本当に良かったと思う。
毎朝、面談の予約表を見て、ああ、今日はこの人がいらっしゃるのか、この人と面談するのか、と思うとき、一人残らず、楽しみなのである。
楽しみと言っても、面白おかしい楽しさではなく、大いに苦労する場合も多々あるが、やっぱり「情けなさの自覚」と「成長への意欲」を持っている方々との面談はやりがいがあるのである。
つくづく「対象」にこだわってやって来て本当に良かったと思う。

だからね、いろいろと苦しくても、ブレちゃいけないときがあるのです。
今、迷っている方にこそ、こう申し上げたい。
苦しくとも守ったからこそ得られるものと、
苦しくて変えてしまったからこそ失うものがあると。

 

 

昨日、今日とスポーツニュースは、MLBロサンゼルス・ダジャース(現地の発音はドジャースよりもこっち)のワールド・シリーズ優勝一色である。

球場では、背番号17や18のダジャースのユニフォームを着たファンたちが快哉を叫ぶ。
選手の出身地である岡山や岩手でのライブビューイングで、皆が郷土の誇りだと喜ぶ。
いやいや、ただ同じ日本人であるというだけで、なんだか晴れがましい気持ちになってくる。

おいおい、先日小欄に書いたことを思い出してみよう。
あなたは一球も投げていないし、一本も打っていないよ。
すべて「同一視」を起こして、他人が達成した成果を自分の手柄であるかのように勘違いしているだけのことなのである。
それならば、優勝を喜んでも良いけれど(かく言う私も「やったぁ!」と騒いでいる、ああ、自分は便乗しているんだな、という自覚をちょっとだけ持った方が良いかもしれない。
でないと、他の国の人や、岡山・岩手以外の人や、ダジャース以外のチームのファンの人に対して、優越感を持っちゃったりするアンポンタンが出て来るかもしれないからね。

そうでなくて、今回のダジャース優勝による健全な刺激の受け方があるとすれば、
山本由伸や大谷翔平が自らに与えられたミッションを果たして活き活きと生きているように、今回の人生でオレに/ワタシに与えられたミッションは何なのだろうかと本気で探し求め、一生をかけてその実現を追求して行くことではないだろうか。

紛れもなく、それがあなたのワールド・シリーズなのである。

 

 

対人援助やコミュニケーションの場面で
「こういうときにどう言ったら良いんですか?」
「こういうときにどうしたら良いんですか?」
と訊かれることがある。
申し訳ないが、求められた答えを言うわけにはいかない。
私ぐらいのキャリアになれば、その場にうまいこと対応する言動の引き出しがないわけではない。
しかし、安易にそれを教えることは、質問者を小手先のつまらない人間に堕落させることになる。

私は、セリフや行動といった「形」ではなく、その「出どころ」、即ち、どういう思いや姿勢の根源からその言動が出ているかを徹底的に重視している
どんな言動が出ようと、その「出どころ」に
相手の生命(いのち)への畏敬の念があるか
相手の存在への愛はあるか
それが根本的に重要なのであり、
それさえあれば、「形」=言動は二の次、三の次ということになる。

何故ならば、相手からその「出どころ」を観抜かれるからである。

荒い言葉使いに愛情いっぱいのときもある。
丁寧な態度に侮蔑の念満載ということもある。
そういう経験、ありませんか

最近のハラスメントの基準などは、この「形」に偏っている。
こういう言葉を使ってはいけない。
こういう態度を取ってはいけない。
「形」しか基準にできないというのは、「出どころ」を感じ取れない鈍感な人用の基準だからである。
確かに客観的「証拠」としては「形」しかないわな。

そうではなくて、
相手の存在の根本に対して、手を合わせて頭を下げる姿勢で臨みたいものである。
相手も表面は、塵や埃や泥や神経症的なものに覆われているかもしれない。
それを拝む必要はない。
嫌悪感を抱いたり、怒りを覚えても構わない。
しかしそれでも相手の生命(いのち)に対しては合掌礼拝(らいはい)するのである。

それが私が近藤先生から学んだ大事な教えである。

 

 

昨日10月31日(金)「軸があれば」の続き。

子どもが多数派でない道を選ぶとき、今度は親の方が試される。
果たしてブレないで我が子を応援できるだろうか。
そこでも大切なのはいつも、一番大切な原点に戻ること。
学校に行くだとか、適応するだとかといった表面的なことにとらわれず、
この子が何のために生れて来たのか、
この子が今回の人生で生命(いのち)を授かった意味と役割は何なのか、という視点を失わないことである。
そこを押さえておけば、この子が本当の自分を生きることができるようになるために登り道はいくらでもある、ということが観えて来る

しかし、そんなことを考えながら自分自身の人生を歩んで来た親はほとんどいない。
子どもが不登校になって初めて親も自分の生き方も見直すことになる(それでも見直す親御さんと見直さない親御さんとがいらっしゃるが…)。
見直す契機となれば、子どもの不登校は単なる不幸な出来事ではなく、親子共に人間として成長して行く大きなチャンスとなる。
よって、そのためには、その親を心理的に応援する人がいた方が良い。
若い親御さんの年齢で自分の生きる軸を(しかもホンモノの軸を)持っている人などほとんどいない、というか、私は逢ったことがない。

そうでなくても、特に子どもが低学年の場合、子どもの過ごす場所をどうするか、という問題も出て来る。
これは、子どもが少なっているのに不登校児が増えている、という現実を踏まえて、是非とも行政に頑張ってほしいと切に要望する。

で、話を元に戻すと、親子共に人間として成長して行くためには応援して行く人が必要、ということになるが、ここでもまた同じ問題が生じて来る。
応援しようとしているあなた、あなた自身は生きる軸を持っているんですか?
本来の自分を実現する人生を歩んでいるんですか?

だから、対人援助職者にもまた「人間的成長のための精神療法」が必要だ、という話になってくるのである。
みんな一緒に成長しましょ。

 

 

児童専門外来をやっていたとき、まず驚いたのは、診断書があれば学校に行かない不登校の子でも中学までは卒業できるという事実であった。
「なんだ。学校に行かなくても中学までは卒業できるのか。」
あんなに頑張って学校に行っていたのが馬鹿らしくなった。

そして、高校に行かない、あるいは、中退した子たちの勉強に付き合っているうちに、半年くらいフツーに勉強すれば、高卒認定試験に受かることに気がついた。
「なんだ。学校に行かなくても高校卒業資格がそんなんで取れるのか。」
またもや、あんなに頑張って高校に行っていたのが馬鹿らしくなった。

いわゆる教科書の内容自体は、非常によくできているものが多いので、それは学んでおいた方が良いと思うが、どこで、誰から、誰と学ぶかについては、もっと自由で良かったのか、と今になって思う。

もしあの頃、自分に生きる軸があれば、学校に行かず(もちろん行きたい学校であれば行くが)、経済的に可能な範囲で、塾や予備校に行きながら勉強し、スポーツや英会話などのやりたいことも学べるところに行って学び、進路を見定めて大学受験をしただろうと思う。
実際、医学部の学生の中には各学年に一人くらい、高校に行っていないヤツがいた(今もいるんじゃないかな)。

よく「“通常の”集団生活を経験しないと“変な”大人になる」式の話を聞くが、私の経験から言うと、“通常の”集団生活を経験して来た大人たちの中に(特に過剰適応して来た大人たちの中に)十分に“変な”大人たちがいるというのは、どういうことであろうか。

今になってそう思うが、子どもの頃は、哀しいかな、自分の軸がなかった。
多数派と違う道を選ぶのは恐かった。
だから、そこは“軸のある”大人たちから応援してもらいたいと思う。

「どんな道を進んでも大丈夫だよ。」
「君は君を生きるために生れて来たんだから。」
「本当の自分を生きることを目指せば、登り道はいくらでもある。」

 

親の応援については明日述べる。

 

 あるお母さんが息子が医学部に合格したのを喜んでいた。
進みたかった道に進めた息子の喜びを我がことのように喜べる心情というのであれば、それは健全である。
しかしそれが、私の息子が医学部に通ったのよ、という自慢になってくると気持ち悪くなってくる。
あの〜、勉強したのは、あなたではなく、息子さんなんですけど。
中には、私が勉強させて合格させたんです、と居直る人もいるが、それでも勉強したのは息子さんである。
こういう人に、で、あなたの学歴は?と訊くと大抵、不機嫌になる。
たまに高学歴の親もいるが、
そもそも学歴=自己の存在価値という発想自体が、十分に神経症的であり、通俗的であることに気づいて、情けなくなるようでなければ、お話にならない。

こういうふうに自分以外の誰かにかこつけて、自分が偉くなったように思い込むことを「同一視」という。

皆さんのまわりにもいませんか?
有名人と撮った写真を飾っているような人。
トランプさんでも、高市さんでも、有名タレントでも、金メダリストでも、ノーベリストでも同じこと。
あなたの手柄は何もないんですけど、写真を撮った以外に…。

中には、大谷翔平の奥さんのお父さんを知っている、と自慢する人がいた。
そりゃあ、
随分、遠い同一視だなぁ。

あのね、虎の威を借る狐ではなく、そろそろ自分自身で勝負しましょうね。
それも、通俗的虚栄心ではなく、まぎれもなく自分に生れて来た意味と役割を果たすことで。

 

 

「いまの社会では大人も子どもも、特に子どもたちが非常に衝動的になっている傾向です。これは社会が自由という言葉で衝動的な行為を認めて、甘やかしているところにも原因があると思います。衝動的というのは何事でも、その時の自分の気分だけで実行してしまう。心の動きを制しきれず、感情だけですぐ短絡的に行為をしてしまうことを言います。…
その時の気分だけに従うのではなく、我慢すべきところは我慢して、衝動というものに短絡的に反応しないで耐える力を養うことを考えなくてはいけません。…
子どもは衝動的になりやすいのです。大人とちがって何も先を考えないからできるのです。むしろ理由らしい理由がないのにやるのです。…
衝動的になるということと、直接的な感覚とはどう違うかというと、衝動も直接的感覚には違いないのですが、そこに知恵が働いていないのです。子どもの場合にはいわゆる生の、原始的な生の衝動というか、生命力というか、生命的なエネルギーがあるのです。けれどいかんせん頭の方が未発達で、生命を健康に育てていく大脳の働きがまだ充分に育っていないのです。知恵がないわけです。…
自分を生かしていく、生命力を感じる知恵ができることをほんとうの成熟といいますが、子どもの場合はその点で未成熟なのです。また、子どもの時の特徴として、『自分の要求を、今すぐ、ここで、全部、容れられなければいやだ!』という気持ちがあります。これを小児的傾向といいますが、自分の欲求を先へのばして待つということがなかなかできないのです。…
問題は…親が子どもの生命力を生かす知恵を育てたかどうかということなのです。…
いまの子どもたちは困難と戦ったり、忍耐するということを世間からも親からも教わっていないようです。耐え忍ぶ力をつけること、現在の欲求満足を一時耐えて、不満の充足を将来に伸ばし得る能力を養っていくことが現実を生きる上で必要なことなのですが、それが少しも訓練されていません。大人は子どもに対して、拒絶する場合は静かに明るく、キッパリと拒絶するという、はっきりした姿勢とか態度が必要です。ところが親の方が腹が決まっていないのです。腹が決まっていないから結局、その時いちばん楽な方法 ー つまり子どもの言うなりにするという態度をとるわけです。そしてそれが愛情のあるやり方だと自分で信じこんでいることが多いのです。
私のいう愛情というのは、ある厳しさが含まれます。愛は…ただ甘いだけでなく、きびしさと忍耐を必要とします。つまりほんとうの愛は知恵を伴わなくてはなりません。したがってある厳しさが含まれているものです。
この点に関連して、子どもはうまく表現することはできなくとも、親の気持を敏感に感じ取り、見抜く力を備えていることを知っておいて下さい。親が無定見でただ甘えさせているのか、しっかりした考えをもって落ち着いた愛情で導いてくれるのかに対して、それぞれ正直に反応するものなのです。そしてそれが子どもの生きる態度を決定するのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

「自分の要求を、今すぐ、ここで、全部、容れられなければいやだ!」という“小児的傾向”。
これを持っている大人も多いですね。
子どもだけでなく、大人ももう一度鍛え直す必要があるかもしれません。
私が言う、逆風の中でこそ自分が自分である幹が太くなっていく、というのはそういうことなのです。
細い幹では、ちょっとした逆風でポキッポキッと簡単に折れてしまいます。
いや、その前に逃げ出してばかりになるかもしれません。
思い通りにならないことを抱えられる力。
逆風の中でも、何人もの相手選手に組み付かれながらも一歩でも半歩でも前へ進んで行こうとするラグビー選手のような“勁さ”を養うことが、大人の階段を昇るということなのです。
そしてその大切さをちゃんとわきまえておくのが“知恵”。
やはり子どもを育てるというのは、自分を育てるということ。
まず親から、大人から、自分から
始めましょう。

 

 

会社や病院などには、組織としての理念がある。
理念、社是、クレドなど、いろいろな言い方があるが、残念ながら、ただの「建前」になっている場合が多い。
よくて毎朝、朝礼で唱えたりするが、いざ「暗唱して。」と言われると「なんだっけ。」と詰まる人が多く、
中には、入社式でしか会社の理念を見たことがない、という人もいる。
経営者や働く人の本音が、うまいことやって、名利(みょうり)(=社会的評価や金)を得ることなのであれば、それも致し方ないと思う。

しかし、中には、大真面目に理念を考えている人もいる。
本気で、人間観、人生観、仕事(労働)観、企業(組織)観、世界観などについて考え尽くした上で、組織の理念を策定し、迷ったとき、困ったとき、いつもそこに立ち戻って、今目の前の仕事をどうするかを考えられるものを作ろうとするのである。
そしてそれは結局、一人ひとりの生き方にまで関係して来る、

亡くなったAさんが考えた理念がそうであった。
法人の理念を見直すときに相談があった。
この機会に、ホンモノの理念を作って、それを職員に浸透するものにしたいと。
相談を受けながら(余り「私の」理念の影響が入るとマズいので)「Aさんの」理念を大切にし、思いのこもったものができあがった。

そして、これはサイコセラピーやカウンセリングにおいても同じなのだ。
なんとなく病気が改善すればいい、会社や学校に適応できればいい、で職業的にやっている人が少なくない。
本当はその根底に、本気の、大真面目の
人間観、人生観、教育観、仕事(労働)観、世界観がないと、ホンモノのサイコセラピー/カウンセリングにはならないと私は思う。

そう申し上げて、
その通りだと思われるか。
そんなのなんだか面倒臭いと思われるか。

そこを共有できる人たちが、私の、八雲の仲間たちなのである。

 

 

夕飯は大きなタラバガニだった。
お父さんは一番旨い足の付け根だけを食べ尽くした。
そして残りを妻と二人の息子に与えた。
一事が万事、その調子であった。
数カ月後、妻と息子はいなくなった。
…実話である。

テレビでチョコのコマーシャルを見た。
プレミアムガーナ、ロッテのちょっと高級な季節限定チョコである。
キムタクの食べる様子が映し出されていた。
キャッチコピーは「言葉を失う、劇的一粒」。
これを見て、自分も食べてみたいと思う人は多いのではなかろうか。
そして(自分もまだ食べていないのに)これを食べさせてあげたいと誰かの顔が浮かんだ人は健全であると私は思う。

そして実際にプレミアムガーナを食べた人は是非、キムタクと同じく、目を閉じ、指をピロピロピロと広げ、自分の口に向けた人差し指をクルクルと回してほしいが、
個人的にはそれよりも、プレミアムガーナ食べさせた相手に向かって、指をピロピロピロと広げ、その人の口に向けた人差し指をクルクルと回して、鬱陶しがられてほしいと思う。

愛する照れ隠しに。

 

 

※ちなみに私は〈芳醇カカオ〉より白いパッケージの〈芳醇ミルク〉の方が好きである。

 

「わたしはネクラだから。」
「〇〇さんはネクラだね。」
と言う人がいる。

それは根本的に間違っている。

新生児室にいる赤ちゃんたちを想像してほしい。
私はネクラな赤ちゃんというものを見たことがない。
せいぜい大人しい、穏やかな赤ちゃんならばいるかもしれないが、人間存在が元々「根が暗い」ということはあり得ないのである。

もし「暗い」人がいるとしたら、それは二次的なもの、後天的なものの影響に違いない。
それでさえも、枝の先や葉っぱが「暗い」のであって、その人の大元=「根」は暗くない。

それはサイコセラピーにも直結した話である。
サイコセラピーの知識や技術についてごちゃごちゃ言う人が多いが、
私はサイコセラピストがクライアントの「根」を観通せなければ、サイコセラピーは始まらないと思っている。

ある人が面談に来られた。
「わたしはネクラですから。」
という。
わたしには、その人の幼児期のとびきりの笑顔が観える。
さらに、その存在の奥にある生命(いのち)の輝きが感じられる。
「随分明るい『ネクラ』ですね。」
そうして面談が始まる。



 

ヒューマンエラー、人的ミスは絶対になくならないと言われている。
何故ならば、人間存在そのものがミスをするように作られているからである。
だからといって、ミスをしていい、ということにはならず、できる対策は打たなければならないが、いつも申し上げる通り、人間が元々、ポンコツでアンポンタンであるという自覚は持っておいた方が良いと思う。
その方が、人間が謙虚になる。

 

で、古人も、常に起こり得るミスについては、繰り返し警告を発して来た。

 

猿も木から落ちる」
おっしゃる通り。

 

「河童の川流れ」
泳ぎが巧みなはずの河童でさえ川の流れに流されることがあるのである。

 

「天狗の飛び損ない」
特に得意になっていることでは油断しやすいかもしれない。

 

「弘法も筆の誤り」
日本三筆の一人、弘法大師・空海さんでも書き損じることがあるのだ。

 

英語もある。
“Even Homer sometimes nods.”
あの偉大なギリシャ詩人ホメロスでさえ詩を書きながら居眠りをすることがあった。

 

「釈迦の経の読み違い」
偉い人のミスほど、ああ、あの方でもか、と聞いてちょっとホッとするところがある。

 

以上は、辞書でも有名どころであるが、先日、古今亭志ん生の落語を聴いていたら、「河童の川流れ」に続いて、次のひとことが出て来た。

 

「ムカデもころぶ」

 

流石、志ん生である。
皆さん、自分のポンコツぶりに自覚を持って、謙虚に、支え合って、助け合って、生きて行きましょうね。

 

 

今、金木犀の花が香る。
香りが先で、あれ、どこで咲いているんだろう、と次に花を探す順番が、秋の楽しみのひとつでもある。

同じことが梅の花においても言える。
香りが先で、あたりに梅の花を探すのは、あたかも待ちかねた春を探すような風情がある。

東京では、よくジャスミンの花も香る。
ジャスミンは金木犀と同じモクセイ科の花である。
種類によって花期が長いため、春~秋のどの季節とは言い難いが、香りの王様と言われるほど香りが強い。
その分、樹勢の強いジャスミンを敢えて小さく育てるという人もいるそうな。
香りを愛でながら、あまり強い香りは好まない、というのは、いかにも日本的である。

…などと思っていたら、別の匂いを思い出した。

かつて八雲の近藤宅で開業していた頃、夕方最後の面談が終って面談室のドアを開けると、はるか長廊下奥の近藤家の台所から、美味しそうな夕餉(ゆうげ)の匂いが漂って来た。
いつも丁寧に出汁を取って作られていた料理であったため、その香りは空腹の食欲をそそるだけでなく、作り手の愛と団欒(だんらん)を感じさせるものであった。

そこにはホームの匂いがあった。
(ホームとは、その人が安心してその人でいられる場所を指す)

あの匂いもまた、私のサイコセラピーを後押ししてくれていたんだなぁ、と今になって気がついた。

 

 

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