八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

「母親になることは女の人にとって、すばらしい経験だと思います。私も医師として、何べんか分娩の際に立ち会ったことがありますが、そんな時いつも感じるのは、赤ちゃんを生んだときの女の人の顔くらい輝かしいものはないということです。夫が側にくると、『あなた』と言いながら夫を見つめるその顔は輝いて、ほんとうに大きな仕事をなしとげたという、満足感と歓びを感じているように見えます。それにつけてもあとになって、子どものことについていろいろと思い悩む時に、この時の心からの歓びを思い出してほしいと思います。
子どもにとって、特に幼児にとって母親は絶対のものです。母親の胸の中で膝の上で、お母さんの肌に触れつつ安心感を覚え、情緒的にも安定した子どもとして育っていくのです。…
人間がこの世に生まれてきて、はじめに母の懐に抱きとられた時のあの安心感と喜びは、いつまでも懐かしいふるさとであり、心のよりどころです。大きくなって世の中に出て、苦しいことにあった場合でも、もう一ぺんこの気持に帰って、また出直すことができます。このいちばんのもとになるものは、この頃の実感が基礎になっているのです。…
子どもを育てることに歓びを持つ母親の許で、はじめて子どもは安定感を持ち、それこそ伸びやかに育っていくわけです。そうやっていると、子どもと母親との関係は非常に安定したものになります。こうした安定感はまず何よりも、人間の一生の中でのいちばん基本的な財産だと思います。
それではこの時代に父親はどんなふうな協力ができるでしょうか。…幼児は母親とはもう一心同体のような感じですから、母親の感じるものを全部感じとるのです。ですから父親が ー 父というよりもこの時代はむしろ若い夫と言った方がいいでしょうが ー 喧嘩したり心配させたり、
焦々させたりすると、それがたちまち子どもに影響します。子どもが不安になり泣きわめいたりして、その安定感、安心感にに影響します。ですからその時期の男性の役割は、母親が子どもに安心感を与えられるように、夫として自分の妻に安心感を与えることが大事なのです。まずこれが、若い夫が父親としてしなければならない第一のことです。まあ、二歳から三歳までに「それが果されていれば、まず、建築でいえば、需要な礎石が造られたと言えましょう。」(近藤章久『感じる力を育てる』より)

 

実際の子育ての中で思い悩むことは多々あるものです。
そんなときいつも、近藤先生のおっしゃっている通り、その子が生まれたときの体験、感覚を是非思い出していただきたいと思います。
生命(いのち)を授かること、出産することは、一種の神事であり、神業(かみわざ)だと私は思っています。
その大きな働きの中にお母さんがいる。
だから出産のときのお母さんの顔はあんなに神々(こうごう)しいのです。
あのときの体験を感覚をどうか大切にして下さいね。
そうして、お父さん。
ここで近藤先生は、夫が妻に安心感を与えることの重要性を強調しておられます。
その言葉を変えますと、それは妻を愛してほしい、ということに他なりません。
夫は妻を愛し、子どもを愛する。
そして妻は夫を愛し、子どもを愛する。
それさえあれば大丈夫です。

 

 

ある浄土真宗のお寺のご住職。
普段からお念仏をこころがけて生きて来た真面目なお坊さんであった。
坊守さん(住職の妻)との関係も睦まじく、愛妻家としても知られていた。
それが妻を癌で亡くされ、後期高齢者になった頃から認知症症状が目立つようになり、遂に施設に入所された。
グループホームでは、妻が亡くなったことも忘れて、朝起きてから夜寝るまで奥さんを探し、「さっちゃん(奥さんの愛称)、さっちゃん。」と繰り返し繰り返し呼んでいた。

たまたまお寺の檀家であった人が職員としては働いていて、
「あんなに信心の篤(あつ)かったご住職が念仏を称(とな)えるでもなく、奥さんの名前ばかり呼ぶようになっちゃって…。」
と嘆いていたが、その話を聞いて、私はそうは思わなかった。

「そのご住職にとっては、奥さんの名前を呼ぶことが念仏なんですよ。」

南無阿弥陀仏と称えることだけが念仏ではない。
一遍上人のおっしゃる通り、

「よろづ生(いき)としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし」(『一遍上人語録』)
(ありとあらゆる生き物、山や川や草や木、吹く風・立つ波の音までも、念仏でないものはない)

私には、その「さっちゃん、さっちゃん。」が「寂しい」「辛い」「助けて下さい」と聴こえ、そのまま「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に、人間を超えた力におすがりします、おまかせします)」と聴こえて来るのである。

 

 

唯一の親友に教えられて、日本の小説を次々と読んだ時期があった。
彼は古典から現代のものまで読み尽くしている上に、その審美眼には敬服するものがあったため、非常に豊かな時間を持つことができた。
それが最近、若い方から日本の小説を読んでみたいが、どんなものを読めばいいか、との質問があり、久しぶりに振り返ってみることになった。

しかし、今どきの人にとって日本文学はかなり縁遠いものになっていると思われる。
その人も今までほとんど読んだことがないと言われる。
となると、どんなに良い作品をお勧めしても、活字に慣れてない人にとって読みにくい作品であれば、折角の関心を挫(くじ)いてしまうことになる。

よって、いろいろ思案した結果、私が日本最高峰と思う作家の一人、川端康成を紹介することとした。
世間的にもノーベル文学賞受賞者なので、名前だけは知られているだろう。
内容についての要らぬ解説は、初見で読む人の体験を邪魔してしまうので、それは省略し、ただひとつだけ、可能ならば、下記の順番で読んでほしい、と注文をつけた。

(1)まず最初に、『伊豆の踊子』と『雪国』。

(2)次に、『片腕』と『眠れる美女』。

(3)最後に、『山の音』。

予想通り、そんなに何冊も読むんですかぁ!?という反応であったが、川端の文章はまさに美しい日本語の代表であり(最近の芥川賞作家でも川端で文章を学んだという話は何度も聞いた)、折角チャレンジするのならば是非、とお勧めした。

拙欄をお読みの方々の中にも関心のある方がいらっしゃるかもしれないと思い、ここにご紹介する次第である。
もし(1)(2)(3)を読み終わった方があったら、面談のときにまたお話しましょう。
その読書体験はあなたの何かを刺激すると思いますよ。

 

 

『新約聖書』の中に、姦通罪で捕らえられた女が律法に従って石打ちの死刑に処せられそうになったとき、学者やパリサイ人から意見を求められ、イエスはこう答えている。
「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ石を擲(なげう)て」
(おまえたちの中で罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい)
これを聴いた彼らは良心の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれて、一人また一人と立ち去っていき、イエスと女だけになったという。

この有名な話を思い出す度、私にはこのイエスの言葉が
「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ人を咎(とが)め諭(さと)せ」
(おまえたちの中でやらかしたことのない者がまず他人のことを(上から目線で)非難し、(偉そうに)教え諭しなさい)
と聴こえて来る。

そもそも我々迷える仔羊は、相当にひどい存在である。
無数の悪行・罪過・背徳・裏切り・虚言・増長・傲慢などの罪を犯しながら、自分で気づいている/覚えているのはほんの氷山の一角に過ぎず(しかもそのほんの一部を認めて自分はなんと謙虚なのだろうと思い上がったりするくらいひどい)、
そのくせ自分のことは棚に上げて、
上から目線で他人のことをを非難したり、偉そうに他人を教え諭したりする。
他人を非難したり、他人を教え諭す資格が我々にあるかと問われれば、そのやらかしてきた行状を振り返る限り、
ないっ! 絶対にないっ! 微塵もないっ!
それが我々の偽らざる実態である。

それなのに思い上がって、勘違いして、
「先生」をやったり
「親」をやったり
「経営者/上司/先輩」をやったり
「専門職/専門家」をやったり
「権力者」をやったりしている。

ダメでしょ、それ。

しかし、じゃあ、全員がただ黙って他人に関わらないようにすれば良いのかというと、そうもいかない。
それだと誰もが成長しないままに終わる。

よって、こういうことになる。
我々凡夫には、間違っても、他人を非難したり、他人を教え諭したりする資格はないけれど、
我々を通して働く力にはその資格がある。
即ち、もし我々を通して神の御業(みわざ)が行われるならば、人を非難し、人を教え諭す資格が発生するのである。

即ち、わたしには資格がないけれど
わたしのこころの奥底に働く聖霊(仏教なら仏性、神道なら分御霊、精神分析なら宇宙的無意識)にはその資格がある。

そのときは、そのときだけは、言って(言わされて)良いのである。

 


 

最近、いろいろなところで「利他」という仏教由来の言葉が取り上げられているが、その内容が余りにお粗末であるため、ここで気がついたことを記しておきたい。
尚、拙欄で「利他」の本質を系統的に取り上げていく余裕はないので、気がついたところから記しておく。

[1]「利他」は一方的行為である。
時に「『利他』的な行為をしているとそれが巡り巡って自分の利益になる」的な解釈を散見する。
これは「利他」とは言わない。
それは“Give and take”と言う。
どこかで見返りを要求(計算)しているのである。
それはセコい。
全く何も返って来ない、場合によってはものすごく手を尽くし思いを尽くしたのに逆恨みされたりすることもある。
それでも一方的に行う行為を「利他」という。 
だから尊い。

[2]「利他」を行う主体は「私」ではない。
「利他」は人間の意図的・主体的行為ではない。
「人間を通して働く力」によって「思わず」行ってしまう、いわば、させられる行為である。
その「人間を通して働く力」のことを仏教では「仏力」とか「妙用(みょうゆう)」という。
「利他」の主語は「私」でも「人」でもない。「仏」であり「天」である。
だから尊い。
宗教用語がイヤな方は、敢えて精神分析的用語を使って「宇宙的無意識」でもよい。
そして、「私」が行っているのではないから、[1]に記したような見返りは求めない。
(「私」がやると、間違いなく、恩着せがましくなる)

[3]「自利利他」について
従って、「自利利他」という言葉を「『利他』的な行為をしているとそれが巡り巡って自分の利益になる」と解するのは全く間違っている。
「私」を通して「利他」が行われるとき、「人間を通して働く力」が「私」を貫く。
その力に「私」自身が満たされ、潤されているということになる。
それが有り難い。
これ以上の「自利」があるだろうか。
「利他」が行われるとき同時に「私」もまた恩恵を受けている。
「利他」が巡り巡って自分の利益になるのではなく、
「利他」が行われることが同時に「自利」なのである。

そしてさらに深めれば、「自他の区別を超える」というもう一段深遠な世界も開けて行くが、ここでは触れない。

まずは、こういう「利他」の基本を是非押さえておいていただきたいと思う。

 

 

あるダンスと音楽のテレビ番組がある。
一人のヴァイオリニストとトップダンサーたち(大抵は男女二人)が共演する5分間の短い番組である。
そのパフォーマンスは、超絶技巧ともいうべきもので、大いに見応えがある。

代わって、近所の公園。
保育園の子どもたちが先生に引率されて散歩にやってきた。
たまたま公園脇の道路を通りかかった車から大音量で洋楽が流れる。
すると、みるみる子どもたちが踊り出した。
そのダンスの面白いこと!

そこで両者を顧みた。

いかにトップダンサーの踊りであろうと、それがまだ意図的なうちは、この子どもたちの踊りに敵(かな)わない。
どうしてもはからいの臭みがにおう。
しかし、最初ははからいだったものも、
作り込んで作り込んで作り込んでいくうちに、最後はすべてを忘れて踊っているときがある。
そうなると、自力を尽くして他力に抜ける

そんなことが稀に起こる。
そういうとき、なんだか知らないけれど催されて踊らされている子どもたちの踊りに近づく。

「大巧(たいこう)は為(な)さざる所(ところ)に在(あ)り」(『荀子』)
(意図的に(自力で)しないところに人間を超えた(他力の)巧みさが与えられる)

これは踊りだけでない。
生き方の、人生の話。

 

 

あなたは、何かを「行うか行わないか」迷ったとき、それを決める自分独自の基準をお持ちだろうか?

今日はそのお話。

[1]まずそれを「行うべきか行うべきでないか」で決める場合がある。
その「行うべきか行うべきでないか」あるいは「行わなければならないか行ってはならないか」という基準は、あなたがいつの間にか親から/時代・文化・所属集団から/他者から埋め込まれた価値観によって決められていることが多い。
これを「埋め込まれた見張り番」による選択という。
よって、決める主体があなた以外にある、いわば、「他律的な選択」ということもできよう。
具体的に、あなたが自分以外の誰かの顔を思い浮かべながら決めるときは、この基準が使われている場合が多い。

[2]次に「行いたいか行いたくないか」で決める場合がある。
このとき、決める主体はあなた自身にある、いわば、「自律的/自立的な選択」ということができよう。
いわゆる「自己決定の原則」はここに属し、自分以外の誰かの影響によらない「主体的な選択」ということもできる。
欧米由来の個人主義的な選択基準ということになる。
これは現代日本においては優勢な基準ではなかろうか。
誰が何と言おうと我が道を行く、というわけである。

[3]そして最後に、「それを行うことがミッションかミッションでないか」で決める場合がある。
これが最も深いが、最も難しい。
このとき、決める主体は、あなた自身でも、あなた以外の人たちでもない。
あなたが「行いたいか行いたくないか」も、「行うべきか行うべきでないか」も、関係ないのである。
誤解を恐れずに申し上げるならば、それは、天が決める、あなたを通して働く力が決める、ということができる。
そしてそういうときに人は祈るしかない。
どこに天意があるのかを感じ取るために。

そしてそこにミッションがあれば、どんなにやりたくなくても、やらなければならない。やらない選択肢はない。
また逆に、ミッションがなければ、どんなにやりたくても、やってはならない。やる選択肢はない、ということになる。

いつも原点に戻る。そもそもに戻る。
我々が何のために生命(いのち)を授かったかというと、
自分以外の誰かから見て「生きるべき人生」を生きるためではなく、
自分が「生きたい人生」を生きるためでもなく、
ミッションを果たすためである、と私は思っている。

「天巧(てんこう)を亮(あき)らかにせよ」(『書経』)
((自らを通して働く)天の働きを明らかにしなさい)

とはそういうことである。

それを一生をかけて(試行錯誤しながら)実現していくのが我々の人生なのである。


 

「子どもは自分が生んだのだ、自分たちがつくったものだと考えるところから、いろいろと間違いが発生してきます。私の子ども、“私たちのもの”だから私たちの自由に育てよう、私の自由にしてもよい、と自然に、気がつかぬうちに物と同じように所有し支配する考えが生じてきます。恋人や夫婦の場合でも、『あなたは私のものよ』とか、『もうお前は俺のものだ』とか、普通の男女関係でも言うことがありますが、その途端に愛は転落します。愛が所有欲に変化するのです。自分が愛した者(人間)が物になってしまう。者が物になってしまいます。…
ノイローゼというのはいろいろ言われますが一言で言えば、子どもを自分の物だから大切にしたいと物扱いにしてしまって、人間としての能力を伸ばすことを忘れてしまうことから起こってくることが多いのです。子どもにとっては非常に不幸なことです。別に人間として発達しなくても、お父さん、お母さんにとってよい子であればよい。つまり親がある独断的なイメージを持って子どもをこういう人間にしようと強制し、押しつけようとすることから起こっているのです。…
しかし、もし親が、生命の不可思議なことをほんとうに感じ、子どもの生命は自分にたまたま授かったものと考えていれば、こんなふうに言えるでしょう、『私たちはお前を、こんな人間に生もうとか…性格をどうしようとか、前もって考えて自分勝手に生んだのではないのです。お前という生命を授けられて、それで責任をもって育てることになったんです。だからこそお前を大事にもするし、お前の生命が健やかに成長するようにいろいろと考えもするのです』という具合に落ち着いて話してやることもできます。…
そこでいろいろなことを言う子どもの外形にとらわれず、子どもの中に潜む生命に語りかけるつもりで正直に、誠実に話し合っていけばいのです。親がそういう態度であくまで子どもの中の生命を信じて、それをみつめて語るうちに、おのずから子どもは、そうした親の態度に信頼感を持つようになるものです。
ここにあるのは自分の子どもという一つの大切な生命であります。世界の中で、ただ一つの独自な生命を持っている者がわが子としてここに存在しているという、混じり気のない透徹した眼で子どもを見たいものです。これは英知の眼であると同時に、愛情の眼であり、生命に対する知恵と愛がそこにあるのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

小さい子どももダダこねをし、言うことをききません。
もう少し大きくなると、さらに主張は強くなり、なにかと反発して来ます。
思春期になると、体も大きくなり、口も立ち、その生意気さはピークに達して来ます。
生活全般を親に依存しているくせに、その態度にはチョーむかつきます。
しかし、それだけなら、子どもと子どもの喧嘩です。
それで終わりではなくて、本当の大人には、成熟した大人には、智慧と愛があります。

子どもの外側を覆っている我(が)は生意気で腹も立ちますが、それだけではない、子どもの存在の奥底にある生命(いのち)に対して畏敬の念を感じます。
それが生命(いのち)に対する智慧と愛なのです。
親も凡夫なので、相変わらずチョーむかついて、ドッカンドッカン怒りながらも、ふと感情が過ぎ去った後に、子どもの存在の根底にある生命(いのち)に対して、手を合わせて頭を下げたいと思います。
そして、そんなことを続けていると、最初の「チョーむかつき」も、何のやりくりも抑圧も使っていないのに、少しずつ少しずつ小さくなってくるかもしれませんよ。

 

普通は、生まれてから死ぬまでが一生と思っている。
常識的な考えである。

しかし、そうではないことを私は師から学んだ。

ほとんどの人は、夜になって眠るとき、明日の朝必ず目が覚めると思っている。
しかし実は、その保証はない。
その証拠に、私のまわりにですら、そのまま目が覚めなかった人がいる。
そう思うと、毎晩眠るときに死に、朝になってまた生まれ直す、と考えた方がいいのかもしれない。
「おはよう。」「Good morning.」という朝の挨拶は、今日もこうして生かされて逢えましたね、というお互いの生の讃嘆である。
そうなると、一日が一生となる。

さらに、呼吸法をやっていると、
ひと息ごとに
吐いて吐いて吐いて
(吸うというより)入って入って入って
をじっくりと体験する。
即ち、吐いて吐いて吐いて吐き尽くして死に
入って入って入って満たされて生まれ直す
という感覚がして来る。
そうなると、ひと息が一生となる。

なんとなく呼吸して
なんとなく一日を生きて
なんとなく一生を生きるのもいいけれど、
ああ、今を生きてるなぁ
ああ、まぎれもなく自分を生かされてるなぁ
と感じながら
一回だけの人生を
一日しかない今日を
二度と戻らない今を
生きていければ
生きることがどんなに濃いものになるだろうかと思う。

ときどきでいいから、この感覚に戻ってみることを私はあなたにお勧めしたい。

 

 

第一生命経済研究所によれば、いわゆる「ママ友」が一人もいない「ママ友ゼロ」の人は、20年前に約6%であったのが、最近は約半数にまで増加しているという。

皆さんはこれを聞いて、どんな想いを抱かれるであろうか。

そもそも何をもって「友だち」というか、という問題については、以前にも触れたことがある。
「どうでもいい話をしながらお茶かランチ、たまに飲みに行くだけの女子仲間」「仮面と仮面レベルでの演技的お付き合いの相手」「園や学校の情報源として活用するための顔見知り」などのことを「友だち」と言っている方が多いような気がする。
私に言わせれば、それは「友だち」ではなく「知り合い」である。

少なくとも私は、演技でなく本音で、仮面でなく直面(ひためん)で深い話をすることができ、大事な価値観が一致し、相互に信頼できる相手でなければ「友だち」とは呼ばない。
そうなると、そういうレベルの「友だち」がたくさんできるとも思えない。
子どもの園や学校を通じて一人できれば、むしろ上々であろう。
そう思うと、「ママ友ゼロ」が約半数というのは当然、いや、もうちょっと多くてもいいのではなかろうか。

時に「ママ友」に関して、子どものために園や学校の情報から切り離されることを心配するお母さん方がいらっしゃるが(そのために本当はくっだらないと思っている関係性を維持している場合もある)、そういう場合は、忙しいお母さん仲間たちに声をかけ、最初から「園/学校の情報共有のためだけのネットワーク」を作りましょう、と動い方がいた。
賢明な戦略だと思う。
「情報共有のためだけ」というところがポイントであり、最初から「知り合い」レベルの付き合いとわかっている。

そして最後に、心からの期待を持って付け加えるならば、「ママ友」レベルを超えて、世界中の人に否定されても自分たちだけは信頼し合え、支え合えるような「親友」レベル(=「ママ親友(まぶだち)」)の出逢いがあれば、これ以上の僥倖はないと言えよう。

 

 

「自分探し」という言葉が嘲笑的に使われることがある。

「いつまでも『自分探し』してんじゃねぇよ。正業に就いて働けよ。」

などというセリフはその典型だろうか。
しかし、その人の言う「正業」というのが、糊口を凌(しの)ぐための、人生の時間の切り売りだったりする。
それは、本当の意味での「正業」とは言いません。
その人はイヤな仕事を金のために我慢してやっているだけです。
そして、
そういう“頑張っている”自分を正当化したくって、「自分探し」している人間を非難しているのです。

しかし、「自分探し」している人間にも問題がある。
自分と向き合ってるんだか向き合ってないんだかはっきりしないまま、年ばかり重ねてフラフラしているようじゃあ、非難されてもしょうがないわな。
本気で「自分探し」するのなら、いつまでもお茶を濁していないで、正面から勝負しろよ、ぶつかってぶつかって掴み取れ、ということになる。
自分は本来何者なのか。
今回の人生において自分が果たすべきミッションは何なのか(本当はそれを「正業」というのです)。
「自分探し」というと表現がいかにも軽いが、「本来の自己の面目」となると、古来、人生の大問題であった。

やるなら、そこまでやんなさい。
そうでなければ、嘲笑されてもしょうがないわな。

本気の「自分探し」は、不可避の絶対命題である。

 

 

昨日11月14日(金)『“変な”人』の続編。

一緒に働いている医療スタッフから(それも働く姿勢が信頼できるスタッフから)
「松田先生は“変わって”ますよね。」
とよく言われた。

そう言った後、ちょっと考えて
「いや。“フツー”ですよね。」
と言い直される。

そしてまたちょっと考えてから
「人間として“フツー”であることが、“変わってる”と言わなくちゃいけないことがおかしいんですよね。」
と付け加えた。

即ち、彼によれば、今まで出逢って来た精神科医は、ろくでもない(←彼の意見ですよ)のが多く
その人たちに比べ、「マトモ」という意味では、“フツー”という表現になり、
その人たちに比べ、「少数派」という意味では、“変わっている”という表現になるのである。

だから下手をすると
「松田先生は“フツー”で“変わって”ますよね。」
という不思議な表現になる。

そして、そう言って下さるのは有り難いことであるが、
私も所詮は凡夫であり、自分を通して働く力に助けられて、それが“フツー”であろうと“変わって”いようと、授かったミッションを果たして行くのみである。

 

 

私の面談を受けに来ている人たちは、概ね“変な”人たちである。
もっと浅く、俗世に適応し、おもしろおかしく生きても、人生は回るのであるが(実際、世間の大多数はそんなふうに生きている)、
それでは生きていられない、または、そんなふうには生きたくない人たちが面談に来られている。
よって、冒頭に“変な”と表現したが、私の本音としては、至極“マトモな”人たちであると言える(ただ少数派だけれど)。

私の役目としては、その人たちが今回の人生で生命(いのち)を授かった意味と役割を明らかにし、本来の自分を生きることを応援することであるが、
有り難いことに、面談を続けていると、少しずつ少しずつ自分が自分であることの幹が太くなってくる。
そうすると、家族の中でも、職場の中でも、所属集団の中でも、本来の自分でいられるようになってくる。
そして段々と、その人ならではの“存在感”が出て来る。
“存在感”と言っても、鬱陶しい、押しつけがましい“存在感”ではなく、ただサクラが純度高くサクラしているような“存在感”である。

おもしろいことに、今度は、その“存在感”が周囲に影響を与えて来る。
具体的に申し上げると、「浅く、俗世に適応し、おもしろおかしく生き」ることに違和感を感じている人たち(それもまた所属集団の中では少数派だけれど)が段々と寄って来るようになるのである。

親族の中に一人ぐらい“変な”おじさん、おばさんがいることが、
職場の中に一人くらい“変な”上司・先輩がいることが、
所属集団の中に一人くらい“変な”人がいることが、

「浅く、俗世に適応し、おもしろおかしく生き」ることに違和感を感じている人たちにとって、
拠りどころとなり、モデルとなり、希望となるのである。

そして、八雲勉強会やワークショップは、その“変な”人たちの集いとなり(そこではなんと“変な”人が多数派になる!)、
さらに幹を太くして、それぞれの所属集団に帰って行くのである。

だから“マトモに”“変な”人たちこそが、この世界の愛すべき同朋たちなのである。
よって、自分が“変な”ことを恥じないように。
どうぞ誇りに思ってほしいと思う。


 

 

うつ病になりやすい病前性格についてはいろいろ言われて来たが、わかりやすい言葉で、主なものを挙げると、
(1)「~でなければならない」「~であるべきだ」という考え方にとらわれやすい
(2)他者の評価が気にかかる(いわゆる他者評価の奴隷)
の2点でないかと思う。

それらのために、自分のキャパ(capacity=容量)を超えて、「~でなければならない」「~であるべきだ」で頑張り過ぎたり、他者評価が気になってやり過ぎたりすることで、いつの間にかエネルギーを使い果たし、うつ病のスイッチが入ってしまうのである。

この二つの病前性格のうち、
(1)については、生来の発達特性(特に自閉スペクトラム(AS:autism spectrum)あるいは自閉スペクトラム症(ASD:AS disorder))が主の場合と、生育史の影響による後天的な神経的特性が主の場合があり(両方の場合もある)、
(2)については、概ね生育史の影響による後天的な神経症的特性である(生まれつき他者評価を気にする子どもはいない)。
(A)生来の発達特性については、まず自分で自分の特性をよく知った上で、先天的な発達特性は変えられないので、その特性との付き合い方、そして、その特性を持った上での他人や社会との付き合い方を学んで行く必要がある。
(B)それに対し、生育史の影響による後天的な神経症的特性については、まず自分で自分の特性をよく見つめた上で、その由来を知り、後天的な神経症的特性は変えられるので、現実生活の中で果敢に行動変容に挑んで行く必要がある。

しかし、いずれにしても、専門の精神科医や臨床心理士などの力を借りて取り組んで行っても、今の生き方が身につくまでには年季が入っているため、変えて行くにはそれ相応の時間がかかる。
そのため、その本格的な成果が表れるまでの“つなぎ”として、自分の今の「エネルギー残量」を感じ取れるようになることを私はお勧めしている。
上記(1)(2)のせいで、自分の今の「エネルギー残量」を無視してやり過ぎた結果、エネルギーが底を突いて、うつ病を発症しているのだから、まず自分の今の「エネルギー残量」を感じ取れるようになれば、「おっと危ない! ここでやめとかなくちゃ。」と踏みとどまることができるようになるのである。
ますはとにかく「今の自分の『エネルギー残量』はどれくらいかな。少なくなってないかな。」と立ち止まる練習を繰り返し、習慣化して行くこと。
経験上、それでも最初はぶっちぎって疲弊してしまう失敗をやらかす方も少なくないが、それも想定内。
体験を繰り返せば、人によって早い遅いの差はあるが、感度は上がっていく。
そうやって、自分の今の「エネルギー残量」を感じ取れるようになれば、少なくとも“大崩れ”はなくなって来る。
そしてその間に、上記(A)(B)に本格的に取り組むのである。
あくまでこっちが本命であり、ここと勝負しない限り根本的な解決はない。

これもまたひとつの臨床的経験智。
ご参考になれば幸いである。

 

 

「無気力、無感動と言われる若者たちがいます多くの場合、こうした若者たちは…知能は発達しているにもかかわらず、勉強にも遊びにもその他の生活にも、打ちこんだり感動することがないのです。感動がないというのは、人と会っても自然や物に触れても、自分の実感が湧かないということです。このような青少年は…まるで心の成長しない幼児のような感じを与えます。幼児的段階というのはいわば自分が未発達な状態のことで、赤ん坊のような非常に発達段階の低い状態です。赤ちゃんには、オギャオギャとただ生存しているだけという時期がありますが、あの赤ちゃんの心の中にはまだ挫折がありません。
ところがこの無気力、無感動には挫折があるわけです。つまり、自分がせっかく伸びようとする時にブツッと芽をつまれる。また伸びると鋏(はさみ)を入れられる。まるで盆栽のようにされている状態です。極端に言えば無気力、無感動は親や社会が寄ってたかって、パチン、パチンと鋏を入れてきたことの結果、出てきている状態と言ってよいでしょう。長い間、親の満足のための功利的な考え方や知識だけを詰め込む教育を受けた結果、次第に子ども自身が、いまここに生きている、生かされているという喜び、実感を失っている姿なのです。
つまり、成長する過程で周囲の事情でじかに物にふれて感じる ー 直接感覚の世界を知らなかったことから、結局感覚というものを発達させていないわけです。しかし人間は本来、深い心の内部で直接感覚を求めています。たとえどんなに抑圧されても求め続けているわけです。…
内部感覚というのは、自分の外側のものを直接に感覚する時に体の内に湧き起こっている感覚で、私は生命の感覚であると思っています。…ところがいまの若者のように平和で保護されて…何の危険もなく暮らしていると、危機感がないので自分の中の生命の動きというものの促しを感じること、言いかえれば内部感覚を感じる機会がない。要するに危機が全くないところに内部感覚の動きがなく、必然的にアパシーが生じます。…
苦を避け楽だけを望むということは誰しも持つ願望ですが、実際は到底できない相談なのです。苦も楽も共に人生の実相であり、その両面であります。苦があって楽を感じるのが現実です。そういう人生の現実を知らせることが大事だと思います。苦労があってはじめて本気になる、苦しんで考える、真剣になる。精神が集中できる。そのあとで苦悩を突破していく喜びが生まれる。生きてゆく自信が持てるのです。…
いずれにしても、これらの若者は『自分らしい自分』『ほんとうの自分』のもととなる内部感覚が触発されていなにので、アパシー状態になっているのです。しかしその心の中には『自分らしい自分』『本当の自分』を発見しようとする欲求が深く存在しているのです。…
さまざまな例からわかりますように、青少年の苦悩や無気力、いろいろな現象は、ひとつの危機の知らせというか、自分がほんとうに生きていないということを知らせている信号なのです。
こうした青年の姿は、本人ばかりでなく、同時に両親や社会に対してその価値観に反省を求め、危機を告げている姿と言ってもよいでしょう。ともあれ青少年の苦悶する姿の中には、ほんとうの自分を知ろうという内部感覚の促しによって生きようとする、痛切な願いがかくされているのです。
根本的に…親として、一個の生命にどう関わっていくのか、その生命力の活動を親の意志のもとに妨害するのか、あるいは真にわが子の内部感覚を呼びさまし、生命の活動する力を促すように関わっていくのか、親であることの責任をもう一度しっかりと腹を据えて考えてみる必要があります。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

「内部感覚」を発達させるためには、残念ながら、挫折や苦が必要である、思い通りにならないことが必要であるということ。
そして、そのような危機があって初めて「内部感覚」が発達し、その「内部感覚」によって「真の自己」を感じ取ることができるようになるということがまずひとつ。

そして、無気力、無感動は確かに問題ではあるけれど、それは単なる問題でなく、生命(いのち)からの信号、メッセージでもあるということ。
内部感覚を発達させ、「真の自己」を生きてくれ、という重要なメッセージ性があるのだ、ということを観抜かなければなりません。
無気力、無感動で満足している若者の生命(いのち)などあるはずがないのです。
そしてそういう若者に関わっていくためには、親にも大人にも、
「で、あなたの内部感覚は敏感に発達していますか?」
「あなたは『真の自己』を生きていますか?」
と問われることになります。
そうなるともう大人も子どもも一緒に成長していくしかありませんね。

 

 

日が暮れるのが早い。
暗い。

北風が冷たい。
寒い。

お腹が空いてきた。
ひもじい。

「暗い」「寒い」「ひもじい」
晩秋から冬にかけて、この三つが揃うと、とっても切ない気持ちになると以前から申し上げて来たが、
先日ある人が
「それに『さびしい』が加わると、さらに切ないよね。」
と言った。

私が挙げたのは、環境的な切なさと身体的な切なさ。
彼はそこに心理的な切なさを加えた。
ネグレクトされてきた経験のある彼の言葉にはうなづくしかなかった。

それならば、
この季節、

ライトを明るく点けて
しっかり暖房を効かせて
温かくて美味しい食事を
愛する人と一緒に(“推し”の写真でもいいですよ)食べましょうね。

 

 

根幹に関わる大事なことを端的に述べておきたい。

「『生の目的』は何か?」
と問われれば、
「生命(いのち)を育てることである。」
と即答する。

「では、『生命(いのち)を育てる』とはどういうことか?」
と問われれば、
「本来の自己を実現していくことを助けることである。」
と答える。

そして
「誰の、何の、生命(いのち)を育てるのか?」
と問われれば、
「まず第一に、自分自身の生命(いのち)を育てる。
 第二に、子どもの生命(いのち)を育てる。
 第三に、縁あって出逢った人の生命(いのち)を育てる。』
と答える。

まず自分自身の生命(いのち)を育てられなければ話にならない。
次に伸びて行こうとしつつもまだ弱い子どもたちの生命(いのち)を守り育てなければならない。
そして、パートナーとして、親友として、後輩・部下として、患者さんとして、利用者さんとして、クライアントとしてなど、縁あって出逢った生命(いのち)を育てなければならない。

そして、「本来の自己を実現する」とは、「今回の生において与えられたミッションを果たして行く」ということと同義なのである。

 

 

近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目に続いて16回目となった。

今回も、以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」について取り上げながら、段々最終コーナーにさしかかってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話であることを読み取っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(3)

さてこの様にして神経症的傾向は次第に理解されるが、通常最初に明らかになるのは、患者がそれでもって一応の葛藤を解決している方法であるところの神経症的傾向であろう。仮に自己拡大的方法を以て解決している場合は、彼の自由連想や、夢や、対人関係に、彼の自己拡大的な shoulds や claims を発見し、あとづけ、連関を考えて、次第に彼の神経症的構造の中核をなす「仮幻の自己」の明確化に迫って行くのである。
これらに関する理解が一応成熟して来た時、患者に対して、患者の意識に近い面から、適当な時期に ー この時期の判断が重要であるが ー 解釈を試みるのである。解釈は断言的でなくて、出来るだけ「でしょうか?」等の疑問の形をとって、患者自身による思考と省察に訴えたい。
と言うのは、解釈は分析者からの患者への呼びかけであり、その注意の喚起であり、自己認識への促しであり、患者の「真の自己」に自己表現の機会を与える方法であるからである。
と同時に又、疑問の形に応えて、決定し判断するのは患者であって、分析者は助力者であることを次第に明らかにして行く為でもある。
解釈が幸にも受入れられ、理解されると、それは、患者の自己認識への大きな照明となり、新しい分析への通路を開くことになる。
しかし、必ずしも受入れられない場合でも、分析者は、患者のそれに対する表現や反応によって、更に深い理解への手引きを得ることが出来る。
ともかく、この様なことを繰返しているうちに、患者は次第に過去の回想や現在の感動的な経験を再体験することによって、自分のとっている神経症的態度との連関を見出して行く。
もとより、始めのうちは、たとえ見出すにせよ、狭い特殊な状態との関係のみにとどまるか、或は漠然として一般的な形でしか見られないだろう。しかし、その様な関係を理解出来る事は洞察の一種である。その様な洞察は、回を重ねるにつれ遅かれ早かれ、現在の状況に於て自分の内に作用している色々な要素が、自分の場合に於て具体的にどの様な現象として現われ、どの様な結果をもたらしているかの現実的な洞察に導き、更にそこに動いている自分に固有な shoulds や claims を理解するに至るであろう。
そして更に自分の神経症的な pride に気付き、様々な曲折を経ながら、その背後にある「仮幻の自己」の存在を感じ始めるだろう。それと共に、一方に於て、前景にあって強く動いている。重要な解決方法としての神経症的態度の下に、抑圧された他の要求や誇りが存在する事実に面する様になる。例えば自己拡大的な主傾向の下に、依存的傾向や自己限定的傾向が抑圧否定されて存在することに気付くであろう。
そして、それらの諸傾向の間の矛盾や葛藤が露呈せられ、自分の神経症的性格の構造連関と、その間の力動関係が認識され洞察されるに至る。洞察は広く解すれば知的認識から情動的認識を含む(但し、オブザーバー的知的認識を除外する)。そして知的認識自体は必ずしも直ちに神経症的なものからの解放 ー 性格的変化 ー をもたらすとは言えないが、それは治療的な価値を持っている。
自分の悩んでいる症状に、はっきりした原因があると言うことを発見することは、少なくとも処置しようとすれば取扱える対象があると言う気持を与え、今迄の様に訳のわからないままに苦しんでいた状態にいなくてすむと言う希望を与えるのである。この意味で知識はやはり力である。そして、洞察が重なるにつれ、分析に対する信頼、積極的な態度が増大して来ると言う大きな効果がある。

 

クライアントの神経症的な問題を「解釈」して行くとき、どうしてもセラピストが一方的な、あるいは独断的な解釈をしがちである。そうではなくて、セラピーの過程においては、患者の「真の自己」に自己表現の機会を与えることが非常に重要であり、あくまでセラピストは助力者であることを忘れてはならない。
また、自己縮小的依存型の傾向、自己拡大的支配型の傾向、自己限定的断念型の傾向は、前景に出てわかりやすい一つの傾向の下に、他の二つが抑圧されて存在するという事実は、時にショッキングでありながらも、洞察を深めるためには避けて通れないプロセスである。
さて、今これを読まれているあなたは、自分自身においてお気づきでしょうか?
そして、洞察が、知的認識だけの話ではなく、深い洞察ほど実は情動的認識を含む、ということも見過ごせない事実である。
ただの冷静な「ああ、そうか。」ではなく、「ああ!そうだったのか!」という情動を伴うところに、その後の認知の変容や行動の変容がより強く期待できるのである。
いくら頭の先で「わかった」って、日々の具体的な「生き方」が変わらなければ意味はない。


 

過日、電車に乗ると、80代と思(おぼ)しきおじいさんが車椅子で優先スペースに乗車していた。
杖を持ち、キャップをかぶっているが、そのキャップに刺繍文字で何やら英語が書いてある。
私が立っている角度からは文末しか見えず、“… not alone.と読める。

それじゃあ、全文は
I am not alone.

We are not alone.
だろう。
そうだよ、じいさん。あんたは一人じゃないよ。

…と思っていたら、なんと全文は、
You are not alone.
であった。
孤独な立場に見えるじいさんが、自分以外の人にメッセージを発していたのである。

昔、子ども専門病院で研修を受けて来た知り合いの医師が、そこに入院していたアメリカ人少年の話を聞かせてくれた。
重体で余命幾ばくもない少年は、研修が終わり、別れを告げに行った知人に、声にならない声で何かを言ったそうだ。
傍らの看護師さんに訊くと、少年は
May God bless you.(あなたに神の祝福がありますように)
と絞り出すように言ったのだという。
涙目で「自分は祝福されていないのに、オレに向かってそう言ったんだよ。」と言う彼に私は反論した。
その少年を通して働く力がそう言わせたんだから、そのとき彼も祝福されたんだよ。

翻って、あのおじいさんはどうだろうか。
あのおじいさんもまた、自分を通して働く力によって“You are not alone.というキャップをかぶったとき、同時に自分はひとりではないことを感じたのだと思う。

時にそんな力が働くことがあると私は思っている。

 

 

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