八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

映画『国宝』のロングラン上映が続いている。
私も鑑賞し、先日、原作の吉田修一『国宝』上下も読了した。
映画、小説については、今さら私から申し上げることはないが、こと、歌舞伎となると、それにまつわるいろいろな思い出が蘇(よみがえ)って来る。

まずは歌舞伎好きだった亡母の話。 
母は、広島から上京して旧制女子専門学校を卒業後、何を思ったのか、日本舞踊の名取となり、さらにお師匠さんの内弟子にまでなって稽古に励んでいたという。
(ちなみにこの「お師匠さん」の江戸っ子の発音がすこぶる難しい。「おししょうさん」はもちろんダメで、「おしさん」と「おしょさん」の間ぐらいを行かなければならない。何故か私の発音によく母からダメ出しを喰らっていた)
そんな母が将来、舞踏家になりたかったのかどうかは訊かず仕舞いで、鬼籍に入ってしまった。

その母が生前、上京して来ると、舞踊の血が騒ぐのか、歌舞伎座に行こうと言い出すことがよくあった。
そして四人の息子のうち、そのお相手は何故かいつも私であった。
で、行くのは決まって通好みの一幕見席、歌舞伎座の4階にある自由席である。
今でも覚えているのは、かなり年輩の着物姿の白髪角刈りのおじいさんが最前列に陣取り、しかも立ったまま、ここぞという時に
「音羽屋っ!」「七代目っ!」「たっぷりだっ!」
などとこれまたよく通る渋い声をかけるのである。
不思議なのは、その左手に蓋つきの陶器の湯呑みを持っていたこと。
それを時々口にしてノドを潤しながら声をかけるのである。
どうやってそんなものを客席に持ち込んだのか?
今思えば、何らかの関係者だったのかもしれない。
そうなると、自分も声を掛けたくなるのが私の習性。
しかし、変なタイミングで声をかけると、「黙れっ!」「間抜けっ!」などと厳しい叱責を喰らうので(最近は若い女性客が「勸玄ちゃ~ん。」とか言っても許されるらしい)、ビギナーの私は最期、幕が下りるとき、誰でも言いたい放題のどさくさタイミングで声をかけていた。

そしていろいろな演目を見ていると、隣で粗筋の解説を始め、特に、私も連獅子を踊ったのよ、という自慢話は耳タコであった。
なんでも途中でお尻を床にドンと落とす場面があり、男性の歌舞伎役者なら思い切りやって良いが、若い娘がそれをやると子どもが産めない体になる、と言われたらしい。
産婦人科的にナゾーな話であるが、初心(うぶ)な私は、ほぉー、そういうものか、と拝聴していた。

その後、月日は経ち、とんと歌舞伎とは縁遠くなっていたが、結婚後、何が契機だったのか、今度は自分でぽつりぽつりと観に行くようにはなっていた。
そしてそんなときに始まったのが「歌舞伎座百年」(1988(昭和63)年)の記念興行である。
一年間毎月、トップクラスの歌舞伎役者がこれでもかと顔を揃え、歌舞伎十八番などを演ずる、贅沢この上ない興行だったのである。
ならば、行かずばなるまい。
私は意を決して、一年間毎月通ったのであります。

 

長くなるので、つづきは明日に…

 

 

「大人はとかく自分の本音は放り出しておいて、大義名分を言いたてます。自分の内心をふりかえると、それでは少しばかり恥ずかしくはないでしょうか。どうか無事で大過なくという言葉の裏には、得をしたい、少なくとも損は絶対にしないようにという気持がうかがえます。言いかえればそれは、功利的で打算的な気持です。…つまり親の功利的なプランで子どもを教育していることが少なくないのです。それが子どもに対する愛であるとと、言い分は立派です。たしかに親にとって愛があるという言い分はわかります。事実お子さんを愛しているでしょう。しかし愛というものをダシにして、自分勝手なプランを子どもに押しつけているところがありはしませんか? そういうことをはっきりお聞きしたいと思います。
親自身が安全第一主義で、事がなければ…間違いがなければいいとばかり考えて、ほんとうに人間を育てようという気持がみえません。…
親の一般的な考え方は大体において、世間がこうだから子どもをこんなふうにとか、全体の経済組織がこうだから子の進路はこうだとか、要するに世間に適応することばかり考える傾向があります。そのために子どもの人間性というか、ほんとうの生命の表現というものがいろんな意味で歪められ、抑圧されていくことに気がついていないのです。…
親は世間に合わすことばかり考えて、その子の個性とか能力とかを中心には考えません。…世間に通用しなければいけないと信じているのが本音です。しかも世間に通用するというのは、実は親が功利的に考えている世俗的な評価のことを言うのです。
子どもの能力といってもいろいろ多面的な能力があるわけです。ところが親御さんの言う能力は、簡単に言えば世渡り上手というか、世間でうなく、要領よく生きられるような能力で、そういう能力を発展さすことが大切だと思っているのです。うまく世間に適応するという、適応能力です。…
社会に、それぞれの制度に適したいろいろな職業があります。これらの職業はその時代、制度に合っており、その職業につけば効率のよい生き方にもなります。したがって社会の方でも、その必要に応じてそれに適した人間だけを取り入れようとし、個人の方も、できるだけそれに適応しようと努めるものです。その際重要なのは、その個人の人間としての独自性を尊ぶということではなくて、社会の側に役に立つかどうかなのです。つまり社会は強く適応を求めるのです。適応とは要するに、社会の要求に合うような人間になるという意味なのです。…
親はどんなに偉人でも、子どもよりも長く生きて、いつまでも保護し、その末を見届けることはできません。結局子どもは、自分の力で人生を生きるものです。子どもの独自性を認め、その望む生き方を尊重して、その子が自分の人生を選びとり、それに責任をもって力強く生きるように助力してやることが、親にとって必要なことではないせしょうか。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

「ほんとうに人間を育てようという気持がみえません」とは、近藤先生として珍しく、手厳しいことズバリとおっしゃいました、
反対に言えば、人間を育てる、生命(いのち)を育てる、というところに、親の大切な、いや、神聖にして重大な役割があるということができます。
いくら世俗的な適応がうまくいったところで、その子がその子でなくなってしまったら、その子の生命(いのち)が歪められてしまったら、その子がその子に生まれて来た意味が、甲斐がありません。
人は何のために生まれて来たのか、いつもその原点に戻って来る必要があります。
そして、繰り返し申し上げて来た通り、子どもの生命(いのち)をちゃんと見つめ、ちゃんと育てられるようになるためには、まず親自身が、大人自身が、自分の生命(いのち)をちゃんと見つめ、ちゃんと育てられるようになる必要があるのです。
そうすれば、私が私であるように、この子もこの子であったほしい、という願いは、明確になって行くに違いありません。

 

 

今までの『兵法家伝書(1)』『兵法家伝書(2)』『兵法家伝書(3)』に続いて、『兵法家伝書(4)』をお届けする。

「平常心(びょうじょうしん)是(こ)れ道(どう)…
弓射る時に、弓射るとおもふ心あらば、弓前(ゆみさき)みだれて定まるべからず。太刀(たち)つかふ時、太刀つかふ心らば、太刀前(たちさき)定まるべからず。物を書く時、物かく心あらば、筆定まるべからず。琴を引くとも、琴をひく心あらば、曲乱るべし。弓射る人は、弓射る心をわすれて。何事もせざる時の常の心(しん)にて弓を射ば、弓定まるべし。太刀つかふも、馬にのるも、太刀つかはず、馬のらず、物かかず、一切やめて、何もなす事なき常の心(しん)にて、よろづをする時、よろづの事、難なくするするとゆく也(なり)。道(どう)とて何にても、一筋(ひとずじ)是(これ)ぞとて胸にをかば、道(どう)にあらず。胸に何事もなき人が道者(どうしゃ)なり。」
(平常心が道である(唐の時代の禅僧・馬祖道一(ばそどういつ)の言葉) … 弓を射るときに弓を射ようと思う心があると、弓の先が乱れて定まりません。刀を使うときも、刀を使おうという心があると、剣先が定まりません。何かを書くときも、ものを書こうという心があると、筆が定まりません。琴を弾くときも、琴を弾こうという心があると、曲が乱れます。弓を射る人は、弓を射ようという心を忘れて、何もしようとしないときの平生(へいぜい)の心で弓を射れば、弓も定まります。剣を使うときも、馬に乗るときも、剣を使おうとせず、馬に乗ろうとせず、ものを書こうとせず、一切〇〇しようということをやめて。何かをしようというはからいのない平生の心で、すべてのことをするとき、すべてのことが難なくすたすらとできてしまうのである。道と言っても何であっても、はからった気持ちで、ひとつこれをやってやろうという気持ちが胸中にあれば、それは道ではない。胸中にはからう気持ちがない人のことを道のままに生きる人というのである。

 

「道」とは「何かが通るもの」ということ。
何が通るのか。
あなたをあなたさせ、万人を万人させ、万物を万物させる働きが通るのである。
と既に『兵法家伝書(2)』で述べた。
その働きのままの心が平常心(びょうじょうしん)であり、
その働きのままに生きるている人が道者なのである。
では、それを邪魔するものは何か。
それが「はからい」なのだ。
意識的に、意図的に「〇〇しよう」と思う心。
それがあると生きることが、生かされることが、乱れる。
よって、「はからい」がなく、我々を通して働く力のままの平常心(びょうじょうしん)が、そのまま道なのである。

 


 

ヒューマンエラー、人的ミスは絶対になくならないと言われている。
何故ならば、人間存在そのものがミスをするように作られているからである。
だからといって、ミスをしていい、ということにはならず、できる対策は打たなければならないが、いつも申し上げる通り、人間が元々、ポンコツでアンポンタンであるという自覚は持っておいた方が良いと思う。
その方が、人間が謙虚になる。

で、古人も、常に起こり得るミスについては、繰り返し警告を発して来た。

「猿も木から落ちる」
ウッキー!

「河童の川流れ」
泳ぎが巧みなはずの河童でさえ川の流れに流されることがある。

「天狗の飛び損ない」
特に得意になっていることでは油断しやすいかもしれない。

「弘法も筆の誤り」
日本三筆の一人、弘法大師・空海さんでも書き損じることがあるのだ。

英語もある。
Even Homer sometimes nods.”
あの偉大なギリシャ詩人ホメロスでさえ居眠りをすることがあった。

「釈迦の経の読み違い」
偉い人のミスほど、ああ、あの方でもか、と聞いてちょっとホッとするところがある。

以上は、有名どころであるが、先日、古今亭志ん生の落語を聴いていたら、「河童の川流れ」に続いて、次のひとことが出て来た。

 「ムカデもころぶ」
是非一度見てみたい。

皆さん、自分のポンコツぶりに自覚を持って、謙虚に、支え合って、助け合って、生きて行きましょうね。

 

 

電車で向かいに座り合わせた三人組の女性。
真ん中に五十代くらいの女性が座り、両脇は三十代か。
空いた車内で、聞くでもなく聞こえて来る会話。
どうやら三人は同じ職場のパート仲間らしい。

家事のよもやま話から、年配女性が語り出す。
「私、子どもたちの弁当を十八年作ったのよ。」
両脇の二人が代わる代わる言う。
「すごいですね。」
「お母さんの鑑ですね。」

五十代女性がさらに言う
「旦那の仕事も朝早くて、毎朝4時起きだったからね。」
両脇の二人も言葉を重ねる。
「信じられな〜い。」
「えら〜い。」

そして三回目。
「私、冷凍モノや買って来た惣菜は使わないから、朝から揚げ物もやってたのよ。」
そろそろ二人のうち一人が脱落して黙り、残りの一人が頑張って
「とてもマネできないわ。」
と大袈裟に言う。

ご満悦の五十代女性。

私は心中「もうやめてくれ。」と思いながら、目的駅に着いたのを幸いにとっとと下車した。

もうおわかりであろう。
全部これ見よがしの自慢話なのである。
まずそこが気持ちが悪い。
しかも当人は、私は◯◯している、としか言っていない。
「どうだ。すごいでしょ。」「これ、めっちゃ自慢です。」「褒めて褒めて。」
とは言っていないので、本人の中では自慢話をしていることを隠蔽できる(自覚しないで済む)。
その証拠に、もし誰かがこの人に、
「自慢話、やめなよ。」
と言えば、この人は真顔で
「え?なんのこと。」
と言うだろう。
ひょっとしたら、怒り出すかもしれない。
これが一層気持ち悪いのだ。

そしてさらに言えば、本人がいかにも言ってほしそうな言葉を察して言ってあげているこの二人の受け応えも問題と言えば問題である。
褒められるタネを蒔いておいて相手に褒めさせるという神経症的コミュニケーションを成功させてあげているのだから。
恐ろしいことに、対人援助職者の中に、この“よいしょコミュニケーション”を得意とする人が多く、しかも自分は良いことをしてあげているくらいに思っている。
嗚呼(ああ)、已(や)んぬる哉(かな)。

自分が神経症的なことをやらかしているのに、それに気づかないことを「無明(むみょう)」という。
全く
光がない、真っ暗という感じ。
そんな人たちが巷には溢れかえっている。

それを心底情けないと思い、もうこんなことやめたい、と切実に思った人からが、私の同朋である。
一緒に話そうね。

 

 

例えば、あなたの娘が算数で百点を取って来たとする。
えらいね。よく頑張ったね。
と褒めることに何の異論もない。

また例えば、あなたの息子が駆けっこで一等賞を取ったとする。
すごいね、よくやったね。
と褒めることに何の異論もない。

努力や頑張りをねぎらうことは大事であり、
子どもは親から褒められると、殊(こと)の外(ほか)、喜ぶ。

だから、である。
子どもは親の価値観を見抜き、あっという間に、点数や順位、他者評価の奴隷となってしまう危険性がある。

よって、時々で良いんだけれど、毎回でなくても良いんだけれど、
百点でも何点でも、大好きだよ。
一等でも何等でも、大切な私の子。
と面と向かって言い、ギュッと抱きしめてあげてほしいと思う。


無条件の存在そのものへの絶対的評価。


その体験があれば、大人になったときに、他者比較評価溢れる娑婆の中にいても、少しはタフに生きて行けるようになるかもしれない。

 

 

今までの『兵法家伝書(1)』『兵法家伝書(2)』に続いて、『兵法家伝書(3)』をお届けする。

「一太刀(ひとたち)打ってからは、はや手はあげさせぬ也(なり)。打ってより、まうかうよとおもふたならば、二の太刀は又敵に必ずうたるべし。爰(ここ)にて油断して負(まけ)也。うった所に心がとまる故、敵にうたれ、先(せん)の太刀を無にする也。うったる所は、きれうときれまひと、まま、心をとどむるな。二重、三重、猶(なお)四重、五重も打つべき也。敵にかほをもあげさせぬ也。
(最初の太刀を打ってからは、最早相手に(反撃の)手を上げさせてはならない。どうしようかなどと思っていたら、二の太刀をまた敵から必ず打たれてしまう。ここで油断して負けとなる。太刀を打ったところに心がとどまっているから、敵に打ち返され、最初の太刀を無駄にするのである。(太刀を)打ったところは、斬れようと斬れまいと、そのまま心をとどめてはならない。二の太刀、三の太刀、さらに四の太刀。五の太刀も入れるべきである。敵に顔を上げさせない(くらい続けて打ち込む)のである。)


これについては、私も申し上げて来たことがある。
従順で抑圧が強く、何も言い返せなかった人がいたとする。
その人がようやく言い返せるようになった。
しかし頑張ってひとこと言い返したのは良かったが、相手からさらに攻撃を喰らい、あえなく撃沈、という場合がある。
そういう時は、最初から、二の矢、三の矢を継ぐ気持ちで言うべし、と繰り返し申し上げて来た。
ボクシングでも、こちらのパンチが当たったら、相手が完全にマットに沈むまで、手を止めず、次々とパンチを繰り出せ、というそうだ。
流石、実際の斬り合いを経て来た新陰流である。
斬るときは徹底的に斬る、斬り切る。

 

 

「大体、近頃の親御さんはともすると、『とにかくこういう方が得よ』とか『こういうふうにうまく横領よくやった方がいいわよ』と言われる方たちが少なくないようです。いまの子どもはそういう環境の中で育ってきているわけです。親が、夫婦どうしの会話の中でも、妻が夫に『あなた、そんな時もっと要領よく、うまくやるのよ』などと子どもの前で言っていれば、子どもも自然にそういうことを考えるようになると思います。
そういう功利主義が徹底すれば、人間関係も要領よくしたほうがいいことになります。親自身がその相手によって、ああしたりこうしたり、いろんなその時に応じたマスク(仮面)をつけた人につき合っているのを子どもは見ています。親は先生と会う時はこうで、隣の人と話す時はこうで…とその時の相手によって態度を変えています。
だから子どももこれにならって、親がうるさい時はいいかげんにきき流し、先生の前ではちゃんとするというふうにすればよろしい。一応そうして、その場その場をうまくやって、あとはとにかく自分で好きなことをやっていればいいという具合に、非常にうまく立ち回っています。そうした子どもは、親も安心し、先生にも受けのよい、いわゆる『いい子』が多いのです。…
考えてみれば危険や困難を冒(おか)して、自分の目的として追求するものに到達し、それを獲得することは人間の歴史とともに古く、昔から多くの人々がそうした冒険をして、その結果いろいろな方面で進歩や発展が達成されたのです。それは人間の生命力の力強い発言であり、それが文化を作り歴史を動かしたと言えるでしょう。一方で人間の気持には、安易で楽な生活を好み。狭くても安全な状態に執着する傾向があります。それがともすれば保守と沈滞と頽廃を産み出して、人間の生命力を弱めていくことになります。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

世は功利主義の時代です。
コスパ(コスト・パフォーマンス)にタイパ(タイム・パフォーマンス)、要領よくやることが良いことです。

よって、功利主義的にやって得られるものは、皆さん、よく御存知です。
しかし、功利主義的にやっては得られないもの、むしろ非功利的にやらないと得られないものについては、余り御存じないように思えます。
危険や困難を冒す。地道な苦労を積み重ねる。自分以外の人のために時間とエネルギーを費やす。失敗や間違いから学ぶ。計算外、想定外の発見や喜びを見い出す。などなど。
安直に得ることで喜ぶのは我
苦労して得ることで喜ぶのは生命(いのち)
なのかもしれませんね。

 

 

新年度=令和8年度(令和8年4月~令和9年3月)の八雲勉強会についてお知らせします。

[1]令和8年度=第75回以降も、勉強会は2部構成とし、
(1)前半:新年度は、日本人の根底にある縄文文化の精神性について勉強します。今までは完成度の高い文献をテキストとして用いて来ましたが、今回は一般書籍(しかも恐らく大半の人は今まで余り縁のなかった分野の書籍)をテキストに使い、その内容を鵜呑みにするのではなく、あくまで叩き台として大いにツッコミながら、日本人の精神性のルーツに迫って行きたいと思っています。かなりチャレンジングな内容になると思いますが、参加者で深くかつ楽しくやって行きましょう。
尚、
テキストは予め郵送しますので(テキスト代は不要です。但し、新刊本が手に入らないため、中古本となることをご了承下さい)、一緒に読み進めながら、参加者でディスカッションして行きましょう。
(2)後半:まず参加者から、今の自分自身について感じたこと、気づいたこと、成長課題について話題提供していただき、その発表後、参加者全体で互いの成長のためにディスカッションして行きます。ミニワークショップ的な体験が味わえればと思っています。

[2]参加対象は、現在、八雲総合研究所に面談に来られている方(リモートも含む)です。

[3]令和8年度の八雲勉強会は、原則として Zoom による開催とします。

 

※「令和8年度 八雲勉強会 年度参加のご案内」および「4月 第75回 八雲勉強会 by Zoom」につきましてはこちらをご参照下さい。

 

 

昨日まで20回に渡って、近藤章久先生によるホーナイの精神分析』を取り上げて来た。

1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目16回目17回目18回目19回目20回目
このままただ終わるのではもったいないので、その中から重要と思われるものを10抽出して共有して、締め括りにしたいと思う。

この『ホーナイの精神分析』が、(自分自身も含めた)すべての人の「真の自己」の実現にとって、少しでも役立つものとなれば幸いである

 

[1]「彼女(=ホーナイ)の明るい洞察の眼は、人間の存在の中に、常に実現を求めて止まない成長と発展への衝動を発見し、その源泉として『真の自己』の概念を定立した
*フロイトの悲観的な人間観に対し、ホーナイの人間観は肯定的、いや、絶対的に肯定的である。何故ならば、彼女はその臨床体験を通じて人間の中に、その実現を求めて止まない「真の自己」を(「ひとつの説」ではなく「事実」として)発見したからである。

 

[2]「(あたか)も樫の実が大木に成長する可能性を何時もはらんでいる様に、人間は、常に『真の自己』を実現して行く能力を持っている
*どんぐりが松の木になる必要はない。なれもしないし、なってはいけない。どんぐりが樫の木に、しかも大木になっていくように、人間もまた一人ひとりに与えられた「真の自己」を実現して行く力を蔵しているのである。

 

[3]「Salzburg(ザルツブルク)の坑内の塩が ー Standal(スタンダール)の表現を借りれば ー つまらない枯枝を華麗な姿に変じる様に、その価値を核として、想像力が壮大な仮幻の自己を現出する

*恋愛が枯れ枝を美しい白い花に見せるように(スタンダール『恋愛論』)、その生育史が、ニセモノの自分、「仮幻の自己」をあたかも価値あるものであるかのように思わせるのである。

 

[4]「分析が進むにつれて、私達が知るのは、この様な彼の態度は、彼の本来の意志ではなく、幼少の時の様々な逆境の中に自己保全の為に止むを得ず取らざるを得なかった不幸な方法であり、彼も又苦しみ悩みつつ、成長を求めている人間であると言うことである
*小さくて弱い子どもは、精神的に生き残るために「仮幻の自己」を身につけるしかなかった。しかし、どんなに「仮幻の自己」に支配されてい
ようとも、その奥底に「真の自己」は必ず生きているのである。

 

[5]「大切なのは、治療者自身が『真の自己』による成長を経験しているかどうかである
*もしセラピスト自身が「真の自己」による成長を経験していれば、クライアントの中にある「真の自己」を信じ、感じることができるようになる。そして、それこそ治療の方向性を決める指針となるのである。

 

[6]「分析関係は相互的な関係と言ったが、根源的には患者の『真の自己』と分析者の『真の自己』との出会い ー 互いの呼びかけと応答の関係である
*あなたの「真の自己」とわたしの「真の自己」との感応道交なくして、ホンモノのセラピーが成立するわけがない。


[7]「神経症的な拘束がゆるんで、患者の『真の自己』が呼吸し始めたことを意味する
*この「『真の自己』が呼吸し始めた」という表現。これは文学的修辞ではなく、体験したことがある者にとっては紛れもなく“リアル”な表現なのである。


[8]「今迄強大な拘束力を駆使して君臨していた『仮幻の自己』にとってはその存在への危機である。危機は不安を呼び起す。そして、この時点を境として、分析治療に於ける最も大きな抵抗が生じて来る
*引き剥がされないようにしがみつこうとうる「仮幻の自己」。その「抵抗」は大きなピンチでありながらも、正面から立ち向かって行くことができたならば、それは、間違いなく、ホンモノの成長への大きなチャンスとなる。


[9]「不安や苦しみは彼(=患者)の新しい誕生の為であることを感じる時、航海者が、正確な羅針盤を持って、安心して嵐と闘うことが出来る様に、彼は次第に確信をもって、神経症葛藤の中の最も根源的な葛藤 ー『仮幻の自己』対『真の自己』と言う決定的な戦いを闘い抜いて行くのである
*「羅針盤」=「真の自己」からの声を感じることさえできていれば、「仮幻の自己」対「真の自己」という最大の戦いの中でも、進むべき方向を過(あやま)つことは絶対にない。

 

[10]「『真の自己』の成長と発展こそ人間の自分自身に対する責任であり、倫理である
*人は何のために生命(いのち)を授かって生まれて来たのか。「真の自己」の実現以外にその答えはない。

 

 

 

近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目16回目17回目18回目19回目に続いて20回目となった。
いよいよ今回が最終回である。

以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げる。
関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※今回の最終回もまた、折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話として読んで行っていただきたいと思う。

 

尚、明日、『ホーナイ学派の精神分析』全20回の中から抽出した抜粋集を取り上げる予定である。

 

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(7)

この様な経過を通じて弱まり行く「仮幻の自己」に対して「真の自己」は成長する。彼はもはや容易に「仮幻の自己」の命ずる shoulds か claim に動かされなくなり、たとえ、混迷に陥ったとしても、自分で混迷させるものを分明にすることが出来る自分の能力を感じる様になる。
分析者は彼にとって、はじめて明確に協力者、補助者として正しく認識され、理解される。彼は分析者に対する依存とか、敵意とか疎遠感から解放され、自分で自分の発展と成長をなし得る事に勇気と確信と希望を覚える。
もはや神経症的要求や尺度によって拘束されないので、彼は自分をありのままに受け入れ、徒(いたず)らな劣等感、罪悪感や無力感や、それにもとづく不安に陥らないで、自分自身について真実になり得る、そして、自分自身を吟味することを恐れない。彼の「現実の自己」は、嫌い、憎み、軽蔑するべきものではなく、それは「真の自己」の現れとして尊重すべきものとなり、ここに神経症的誇りに代って、健康な自尊心 ー 自信が生じる。
彼は世界の中に於ける自分の役割りを引受け、それに応える、強制でない、自発的な責任を感じ、それを受け入れ、果(はた)して行くところに喜びを覚え、ありのままの自然な、感情や思考や判断が、彼に自由と独立を感じせしめるのである。
この様にして、次々と、かつての神経症的悪循環に対して、建設的な成長の良循環が経験され、分析も、彼自身による成長のための厳密な再吟味と言う形を多く取る様になり、分析時間は減少し、患者が強く「真の自己」によって生きることが確実になった時、それに関する患者と分析者の相互に独立な評価が一致を見ると共に、遂に分析状況は終了するのである。
しかし、これは飽くまで、患者にとっては分析者を必要とする分析の終了を意味し、それまで患者であったのが、今や一個の自由な独立人である人間として、彼は更に大きな成長と発展の為の自己分析 ー それは治療の全過程に於て激励されたものだが ー を遂行して生きて行くのである。
と言うのは、人間の陥る過誤や錯覚の危険は不断に人生の途上に存在する。ともすれば人間の持つ色々な欲望の要求が人間を迷わせるのである。「真の自己」の成長と発展こそ人間の自分自身に対する責任であり、倫理であると Horney は言う。人間の錯誤や迷いに対して「真の自己」を闡明(せんめい)(それまではっきりしなかったことを明確にすること)し、失敗や過失から学んで成長する自己分析こそ、分析の痛苦に満ちた経過を経て、彼が身をもって学んだものであるだけに、彼の生涯を通じて止むことのない自己実現の為に役立ち続けるのである。

 

「現実の自己」=「真の自己」+「仮幻の自己」という図式の中で、
最初は「現実の自己」=「真の自己」であったものが、いつの間にかその生育史の中で、「仮幻の自己」に覆われて行った。
それが「仮幻の自己」からの脱却と「真の自己」の回復によって
「現実の自己」の大半が「真の自己」となり、私が私を生きることができるようになるのである。
しかも、その行程に終わりということはなく、「仮幻の自己」を引き起こす問題は尽きることなく起き、「真の自己」の成長・発展も無限だからである。
そして、そのプロセスがこそ、人間がこの世界に生きて行くということの本質なのである。

それでは最終回は、この言葉をもって締め括りたい。

「『真の自己』の成長と発展こそ人間の自分自身に対する責任であり、倫理である」

倫理とは人の進むべき道である。

読者の皆さまに佳き人生を。

 

 

「若さは若者に与えるにはもったいない」
(Youth is wasted on the young

アイルランド出身のイギリスの劇作家ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw)の言葉である。

自分が年を取って来たせいか、こういう言葉が実感を持って感じられるようになって来た。

例えば、若い女性の場合、
その肉体的美しさは、悪い男によって搾取され、
豊富な気力・体力・知力も、大して重要でないことに浪費されて行く。

そんな例を数え切れないくらい見て来た。

もったいないなぁ、と思うけれど、若い頃は、周囲がいくら忠告しても、そのもったいなさに気づくことができず、
その肉体的美しさも、気力・体力・知力も、衰え始めた頃になって初めて、真実に気づき始めるのである(いくつになっても気づかない人もいるが)。

原語の“Youth is wasted on the  young”を
「若さは若者に与えるにはもったいない」と意訳せずに、
「若者の若さは浪費されるものだ」と直訳した方が、その“宿命性”がはっきりするかもしれない。

でもね、
まだわからない(言葉が入らない)とわかっていても
年を取らないとわからない、とわかっていても
こうした方がいいんじゃないかな、こうしない方がいいんじゃないかな、
と言わないではいられないこともまた
やむにやまれぬ“宿命”なのである。

 

 

前回の『兵法家伝書(1)』に続いて、『兵法家伝書(2)』をお届けする。

「何程(いかほど)学問をし、文字多く知りても、道くらき人あり。書に向(むか)ひてはよくよみ、古人の注のごとくよみながせども、道理にくらければ、道をわが物にする事ならざる也(なり)。…学びずして、天然と道にかなふ人も有る也。」(『兵法家伝書』殺人刀(せつにんとう) 上)
(どれほど学問をし、言葉を多く知っていても、真実がわかっていない人がいる。書物に向かってよく読み、昔の人の注釈書を読むように読み流して行っても、真実がわかっていなければ、真実の道を自分のものにすることはできない。…(反対に)学ばないで、自然に真実の道にかなう(生き方ができている)人もいる。)

期せずして昨日の拙誌の内容に通ずるものとなった。
「道」とは「何かが通るもの」ということ。
何が通るのか。
あなたをあなたさせ、万人を万人させ、万物を万物させる働きが通るのである。
従って、「道をわが物にする」=「道がわが物になる」=「わたしをわたしさせる働きによって、わたしがわたしして生きて行く」こととなる。
その「働き」を“体験”“体得”することがなければ、ただの本読み=受け売り知識集めに終わる。
それならば、受け売り知識などを求めないで、直(じか)に“体験”“体得”に励む方が真実の道にかなう場合もあるかもしれない。
それが柳生宗矩にとっての新陰流でもあったのであろう。
机上ではなく、剣の上にそれを求めた。
ならば、あなたにとっての新陰流は何なのだろうか。
求むべし。そして、実践すべし。

 

 

ある有名ラーメン店に実際に行ったことがないのに、ネット上の情報を見ただけで、食べて来たようなことを言うような人ってフツーいないよね。
いれば、大ウソつきやろうだ。

ディスにーランドに実際に行ったことがないのに、テレビの特集番組を見ただけで、言って来たようなことを言うような人ってフツーいないよね。
いれば、とんだ知ったかやろうさ。

エべレストに実際に登ったことがないのに、登山家の記録を読んだだけで、登って来たようなことを言うような人ってフツーいないよね。
いれば、妄想級の虚栄心やろうさ。

でもね、精神世界に関心がある連中には結構いるんだよ、こういうヤツらが。

あなた、実際に無我の体験、あるの?
エセ坐禅のなんちゃって体験じゃなくてさ。

あなた、実際にこの世界の虚構性の体験あるの?
どこかのグルのパクリじゃなくてさ。

あなた、実際に時間が崩壊したときの体験あるの?
何かの聖典の受け売りじゃなくてさ。

実際に体験がある人間から観たら、そんなの一瞬でニセモノと観抜かれちゃうよ。

人生で大して“良いこと”のなかったあなたが、何か深い精神世界のことを自分はわかっていると示すことで、自分の存在価値を誇示しようとするような哀しいことはもうやめようよ。

ないんなら、ないんでいいんだよ。

わかりません。
知りません。
受け売りの知識だけで
体験がありません。

正直にそう言うか
ただ黙っていること。

そしてそんなことをしているヒマがあったら
一所懸命に本当の行に励みましょ。
そうすれば、ひょっとしたら、あなたが本当にほしかった、真実の安寧に辿り着けるかもしれないよ。

 

 

「現代の青少年の友だち関係は、機能的といいますか、遊びとか趣味では結ばれるけれども、ほんとうの意味でお互いに人間的に結ばれる関係が少なくなっています。…こうしたことの理由の一つは、子どもが自分の家で保護されて、必要な物は与えられて勉強しておればよい状態にあることです。…
こうした物に恵まれた状況を現代の子どもの幸せと言えば言えるでしょう。しかしこのように、自分の家では物を充分に与えられ、自分の思う通りにして楽しんでいられますが、いざ友だちと一緒にやるとなると相手のあることですから、いつも自分の思い通りにはならない事が起きます。すると面白くない、つまらない、一緒にやるのがいやになります。お互いにある程度興味が共通して、趣味が共通している間はいいのですが、それだけのものでその場限りになってきます。
ですからちょっとでも共通の趣味が無くなったら、もうお互いに全然興味がなくなっていしまいます。昔の場合は、他に娯楽がなくて、友だちと遊びを中心にしながらつき合っていくうちに、自然に人間関係のあり方を覚えたものです。例えば友だちがわがままを言っても、ある程度我慢するし、また自分の友だちも、自分のわがままを我慢していることに気づきます。こうしてお互いに将来必要な社会的な生き方の訓練が自然にでき上がってきます。またそのつき合いの中で、それぞれ相手の特徴もわかってくる、そのようにして、人間的な面に対する理解も遊びを通じながら養ってきたわけです。…
そういうことが、いまの子どもたちには少なくなり、機会もなく、そのまま過ぎてしまうことが多いのです。とすると、必然的に、他の人と何かを『ともにする』ということがほとんどなくなります。『ともに』する人が友だちなのです。…
そういう点では、友だち関係のいちばん深いものは運命共同体の中で生れるものでしょう。昔の戦友などというのはそうでした。生死を共にするような状態になってくると友情は深くなるわけです。運命を共同にするのですから非常に緊密になったものです。いまでは生死を共にし、運命を同じくするなどということは、全くといっていいほどありません。物質的、経済的に安定して何の危険もなく、すべて安全です。別に友だちがいなくても完全で、しかも楽しみはある。ちょっと淋しいと思った時にしゃべる友だちがあればよいという程度で、友情などもごく浅い、人間関係としても淡いものになってきました。」(近藤章久『感じる力を育てる』より)

 

令和の今の人間関係を先読みされたような近藤先生の洞察には驚かされます。
友だちいない。恋人いない。パートナーいない。別に欲しくもない。自分の中に小さく小さく閉じた世界の中での幸せ。
そう。自分以外の人間は思い通りにならないから面倒臭いのです。
だから、そうやって、一人の世界、小さな世界に閉じこもっていくのか、
それとも、思い通りにならない中で、面倒臭い中で、むしろそうだからこそ、揉まれながら手間暇かけながら培(つちか)って行く、深い人間関係というものを目指すのか。
以前、すぐに全部思い通りにならないとイヤ、というのを幼児的欲求と言いました。
思い通りにならないことも抱えて生きて行ける力のことを成熟した大人の力と言います。
それもただ抱えていくだけではありません。ラグビー選手が2、3人からタックルされても、引きずりながら前へ進んで行こうとするように、前へ前へ力勁く進んで行くのです。
現代は段々と幼児的な方に傾いて行っているんじゃないかと私も危惧していますが、その一方で、八雲勉強会やワークショップの仲間たちを見ていますと、まだまだ人と人との関係には希望があると感じています。

 

 

新選組の生き残りという人が残した言葉を読んだことがある。
正確な文言は忘れてしまったが、大意を言うと、

どんな大義があろうとも、人を斬れば、人間が荒(すさ)んでくる

ということであった。

拭(ぬぐ)っても拭っても落ちない血が手に残り、こころに残る

という。

やはり人は人を殺すようにはできていないのである。

 

アメリカとイスラエルがイランに奇襲攻撃をかけた。
そしてイランの報復攻撃も始まっている。

これもまた、どっちにどういう大義があろうとも
どう正当化しようとも
人殺しは人殺しである。
直接・間接に手を下した者たちの中には荒みが残る。

アウシュビッツ収容所でホロコーストに関わらされたドイツ兵の中には、精神に異常を来たす者が多くいたいう。

また、自宅に近い、安全なアメリカ国内の基地から、中東国内のドローンを遠隔操作して敵を殺すというハリウッド映画があった(『ドローン・オブ・ウォー』(原題はなんと“Good Kill”である)。この話は恐らくフィクションではなかろう)。
それだけの“距離”があっても、兵士は心を病む。

娑婆に生きていれば、兵士たちのように、いろいろな巡り合わせから、万止むを得ず、人を殺さざるを得ないことになることもあるかもしれない(例えば、我々においても、交通事故、失火、業務上過失致死など容易に想像できる)。
そして、その後の荒みは、浅薄なPTSD治療でなんとかなるとはとても思えない。
感情のレベルではなく、霊性のレベルで救われなければ、その荒みは癒えるはずがないのではなかろうか。
(緩和ケアでは随分浅く扱われているように思うが)これこそが霊的苦痛(spiritual pain)ではないかと私は思っている。

 

 

何年か同じ職場に勤めていると、「そろそろ〇〇くんも/〇〇さんも…。」ということで、なんらかの昇進がある=役職が付く場合がある。
昭和の終身雇用時代からの名残りではないかと思うが、実はその慣習がいろいろな問題を引き起こすことがある。

結論から言うと、人の上に立つことが向いていない人がいる。
場合によっては、人の上に立ってはいけない人もいる(なのに人の上に立ちたがる人もいる)。
具体的に言えば、その人が上に立ったばっかりに、下の者が力を発揮しにくい、やる気をなくしてしまう、さらには、病む、休職する、退職する事態にまで至ってしまう場合があるのである。

ある経営者は、
どんなに職歴が長くとも
どんなに業績を上げようとも
人望がなければ、昇進させない=役職に就けないという方針を取っている。
では、その人の功績に対して会社としてどう応えるのかというと、月給を上げ、ボーナスを上げるなど、経済的報酬で応えるのである。
これは優れた経営方針だと思う。

やっぱりね、人望がないのはダメなんです。
この人の下で働きたいと思ってもらえないようでは人の上には立てません、立ってはいけません。
(こう言うと、謙虚な人は尻込みされるかもしれないが、心配要りません。決めるのは、あなたではなく、あなたの後輩や同僚たちですから)

よって、経営者や人事権を持つ人は、現場の下の人たちの(本音の)意見をよく聴いておくことが非常に大切だと思います。

特に、会社の就業規則を作るとき、改訂するとき、会社の理念・方針を決めるとき、改訂するときなど、どうぞご一考あれ。

 

 

前回取り上げた『葉隠』の連載が、思いの外、ご支持をいただき、続編を望む声を頂戴した。
あれこれ思案の末、この度は、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の『兵法家伝書(へいほうかでんしょ)』を取り上げることとした。
『葉隠』よりは、短く、締まった引用になると思うが、
宮本武蔵の『五輪書』と並んで、近代武芸書の双璧とされる本書から学べるものは大いにあると思う。
まずは引用・解説を始めるに先立ち、本書の背景に触れておきたい。

柳生宗矩は、新陰流(しんかげりゅう)の剣術家であり、徳川将軍秀忠・家光の兵法師範として知られる。
また、臨済宗の禅僧・沢庵宗彭(たくわんそうほう)とも親交があり、時代劇などでは、父親の柳生石舟斎(宗厳(むねよし))や長男の柳生十兵衛(三厳(みつよし))が有名かもしれない。
宗矩自身は、後には幕府の大目付からさらに大名(大和・柳生藩初代藩主)にまで異例の出世を遂げ、その間に新陰流の集大成として完成させたのが、今回取り上げる『兵法家伝書』である。

 

そして今日の一文。

「兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと也(なり)。人をきるにはあらず、悪をころす也。一人の悪を殺して、万人をいかすはかりごと也。」(『兵法家伝書』殺人刀(せつにんとう) 上)
(兵法というものは人を斬ることだとばかり思うのは間違いである。人を斬るのではない、悪を殺すのである。(兵法とは、)一人の悪を殺して、万人を活かす工夫のことである)

実際に、大阪の陣では豊臣方の武者を斬ったと言われる宗矩である。
何故、そういう次第にならざるを得なかったのか、思わないではいられなかったであろう。
ただ己の栄達のために、疑問も持たずに人を斬れるほど宗矩は愚かではない。
ここも浅く読めば、一人を斬って殺しても、多くの人が幸せになれば良いじゃん、ということになる。
それではただの殺人(さつじん)の正当化の話になる。
そうではない。
己の運命に随(したが)って、己を通して働くものに随って、人を斬らざるを得なかったという思いが宗矩にはある。
それが「悪の一人を殺して」という表現を使わず、「一人の悪を殺して」というところに現れていると私は思う。

 

 

「思春期、青年期は…自分というものの発見に苦しむ時代です。
親が、小さい時から子どもの内部感覚(生命の湧き上がる感覚)を尊重し、子どもの生命をのびのびと健康に育てていると、この時期を通じて自分の個性、独自性に目覚め、自覚することは比較的楽ですが、それでもいままでの経験や考えではわからない、未知の問題が起こってくるたびに、青年たちはずいぶん苦労するものです。
特に、成長にともなう生命力は強く、それを感じる内部感覚はさまざまな形で、はげしく身内を衝き上げます。その量や経験が多いために、それを整理したり方向づけることがなかなか困難で、ともすれば混乱するものです。…
しかしこの時代は、人間が成長して自分自身になるために避けられない、通貨しなければならない時代です。まずそう覚悟していただきたいのです。…
また青年期は、親に知られぬ秘密を持つと言われます。…しかし私は、この秘密を持つところに、青年が自分の内部感覚によって自分の考えを明確にし、自分で判断し、確信と責任をもって行動する、独立人への第一歩を模索する姿をみます。
ともあれ、このように内部が敏感で不安で、自分がはっきりしていない状態にある時に、そこから脱する方法として最も手近でやり易いのは、自分を外側の他人と比べて、相対的に自分の価値を定めるやり方です。…
そこで青年は無自覚に、敏感な関心を外に向けて、他と自分とを比較して、自分の値打ちを決めようとします。しかしその場合、陥りやすい危険は、一つには自分のいちばん短所や弱点と思っているとことと、他人のいちばん優れていると感じていることとを比較することです。第二には、それを自分の致命的な弱点だと独りぎめすることです。第三には、そればかりに気を取られて、極端になると他のことを考えられなくなることです。…
自分と他人を比べて自分の欠点を過大視し、独断的に自分を価値のないものと感じるのを劣等感といいますが、一方では自分の長所を過大視して自惚(うぬぼ)れる優越感もあり、ともに青年期の多い現象です。そして一般的には、劣等感を感じて苦しむ方が多いのです。…
しかし根本的には、この時期の特徴は、青年の中に宿る生命が、その進路や方向を求めて、揺れ動き、不安に悩みながら真剣に模索している状態であると言えます。…しかしその苦悩の中で、もがき、耐え、努力する過程に成長があり、発展がうまれ、自分の中に宿る生命のほんとうの願いを見ることができるのです。…
この理解に立って、ただ親であるばかりでなく、共に一人の人間として人生を生きて行く先輩、友人として、暖かい共感とともに、ある距離を置いて、大きく見守る、寛容な態度を取ってもらいたいと思います。…
こうした親の理解は、別の言葉で言いますと、子どもに宿る生命の力を信ずるということです。当然なことに子どもたちは、信じられていることを感じるものです。信じられていることを感じますと、子どもたちの生命は生き生きと強く動いていきます。…
親のこうした深い理解に基づいた信頼の眼が注がれている時には、子どもの生命に内在する自然な回復力、健康な成長力は、必ず自分を生かす方向を見つけ、過去の苦しみの経験を生かして、力強く伸びていくものです。
」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹っ社より)

 

思春期・青年期の時代は疾風怒涛(しっぷうどとう:Strum und Drang)の時代と言われます。
しかし、どんなに荒れ狂う時代であっても、その中に、本来の自分を実現して行こうとする勁い力があることを、親が、大人が感じられるかどうか、信じられるかどうか、ということが最大のポイントとなります。
そしてそのためにはまず、親自身が、大人自身が、自分自身のことにおいて、内なる本来の自分を実現しようとする力を感じられているか、信じられているか、ということが非常に重要になります。
そうなんです。
やっぱりここでも、親と子の成長は同時、教師と生徒/学生との成長も同時、医療福祉関係者と患者さん/利用者さん/メンバーさんの成長も同時という根本原理に行き着くことになります。
どうか思春期・青年期の子どもたちに関わるときも、
そういう視点で、先輩・同朋として成長して行く苦悩とそれを上回る喜びとを共に体験して行きましょう。

 

 

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