八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

「思春期、青年期は…自分というものの発見に苦しむ時代です。
親が、小さい時から子どもの内部感覚(生命の湧き上がる感覚)を尊重し、子どもの生命をのびのびと健康に育てていると、この時期を通じて自分の個性、独自性に目覚め、自覚することは比較的楽ですが、それでもいままでの経験や考えではわからない、未知の問題が起こってくるたびに、青年たちはずいぶん苦労するものです。
特に、成長にともなう生命力は強く、それを感じる内部感覚はさまざまな形で、はげしく身内を衝き上げます。その量や経験が多いために、それを整理したり方向づけることがなかなか困難で、ともすれば混乱するものです。…
しかしこの時代は、人間が成長して自分自身になるために避けられない、通貨しなければならない時代です。まずそう覚悟していただきたいのです。…
また青年期は、親に知られぬ秘密を持つと言われます。…しかし私は、この秘密を持つところに、青年が自分の内部感覚によって自分の考えを明確にし、自分で判断し、確信と責任をもって行動する、独立人への第一歩を模索する姿をみます。
ともあれ、このように内部が敏感で不安で、自分がはっきりしていない状態にある時に、そこから脱する方法として最も手近でやり易いのは、自分を外側の他人と比べて、相対的に自分の価値を定めるやり方です。…
そこで青年は無自覚に、敏感な関心を外に向けて、他と自分とを比較して、自分の値打ちを決めようとします。しかしその場合、陥りやすい危険は、一つには自分のいちばん短所や弱点と思っているとことと、他人のいちばん優れていると感じていることとを比較することです。第二には、それを自分の致命的な弱点だと独りぎめすることです。第三には、そればかりに気を取られて、極端になると他のことを考えられなくなることです。…
自分と他人を比べて自分の欠点を過大視し、独断的に自分を価値のないものと感じるのを劣等感といいますが、一方では自分の長所を過大視して自惚(うぬぼ)れる優越感もあり、ともに青年期の多い現象です。そして一般的には、劣等感を感じて苦しむ方が多いのです。…
しかし根本的には、この時期の特徴は、青年の中に宿る生命が、その進路や方向を求めて、揺れ動き、不安に悩みながら真剣に模索している状態であると言えます。…しかしその苦悩の中で、もがき、耐え、努力する過程に成長があり、発展がうまれ、自分の中に宿る生命のほんとうの願いを見ることができるのです。…
この理解に立って、ただ親であるばかりでなく、共に一人の人間として人生を生きて行く先輩、友人として、暖かい共感とともに、ある距離を置いて、大きく見守る、寛容な態度を取ってもらいたいと思います。…
こうした親の理解は、別の言葉で言いますと、子どもに宿る生命の力を信ずるということです。当然なことに子どもたちは、信じられていることを感じるものです。信じられていることを感じますと、子どもたちの生命は生き生きと強く動いていきます。…
親のこうした深い理解に基づいた信頼の眼が注がれている時には、子どもの生命に内在する自然な回復力、健康な成長力は、必ず自分を生かす方向を見つけ、過去の苦しみの経験を生かして、力強く伸びていくものです。
」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹っ社より)

 

思春期・青年期の時代は疾風怒涛(しっぷうどとう:Strum und Drang)の時代と言われます。
しかし、どんなに荒れ狂う時代であっても、その中に、本来の自分を実現して行こうとする勁い力があることを、親が、大人が感じられるかどうか、信じられるかどうか、ということが最大のポイントとなります。
そしてそのためにはまず、親自身が、大人自身が、自分自身のことにおいて、内なる本来の自分を実現しようとする力を感じられているか、信じられているか、ということが非常に重要になります。
そうなんです。
やっぱりここでも、親と子の成長は同時、教師と生徒/学生との成長も同時、医療福祉関係者と患者さん/利用者さん/メンバーさんの成長も同時という根本原理に行き着くことになります。
どうか思春期・青年期の子どもたちに関わるときも、
そういう視点で、先輩・同朋として成長して行く苦悩とそれを上回る喜びとを共に体験して行きましょう。

 

 

かつて近藤先生がある講演の中で
「石にも生命(いのち)があるんだけどね。」
とポツリとおっしゃったことについてを書いた。

振り返るに、
人間に生命(いのち)があることは感じやすいし、わかりやすい。
また、それを動植物にまで拡大しても、そこに生命(いのち)があることは感じやすいし、わかりやすい。

しかし、それが石になると、無生物になると、感性の劣化した現代人は生命(いのち)を感じにくいのではなかろうか。
それではもったいない。
それではなさけない。
たとえそれが石であろうと、無生物であろうと、その存在を存在させしめている働きを感じれば、そこに生命(いのち)が感じられるのである。

古代においては、

小さくは、例えば、勾玉(まがたま)において、その形が胎児に似ていることもあり、生命(いのち)を感じやすいかもしれないが、実は元々、石そのものに対して、石が成育したり、数を増やしたり、自ら動いたりすることを感じる“感覚”があったのである。
これは、文字通り、見た目において、石が大きくなったり、数を増やしたり、自ら動いたりすることを意味するのではなく、その無生物の石を存在せしめている働きをリアルに感じた古代人の表現なのである。
中には、子持勾玉(こもちまがたま)といって、勾玉の周囲に小さな勾玉を付けたものまで存在する。

そして、大きくは、神の依代(よりしろ)(神が降臨あるいは憑依するもの)としての磐座(いわくら)=巨石信仰があり、和歌山・神倉(かみくら)神社のご神体・ゴトビキ岩、奈良・天之石立(あまのいしたて)神社の天の岩戸などが有名である。
特にゴトビキ岩には、岩なのに、無生物なのに、有無を言わさず、生きてると感じさせるものがあり、流石、熊野三山ができる以前からある聖地としての力を感じる。

こういうものをしっかり感じて行けば、翻(ひるがえ)って、人間において、自分自身において、自分以外の他人において、その存在を存在させしめている働き=生命(いのち)を感じることは、容易になるに違いないと思う。

 

 

ミラノコルティナ五輪が閉会した。

改めて
「金メダルとは何だったのか?」
と思う。

本当に金メダルを取った人はいいんです。
銀メダルを取った人もいいんです。
銅メダルを取った人もいいんです。
8位入賞した人もいいんです。
オリンピアンとしてオリンピックに出ることができた人もいいんです。

オリンピックに出場すらできなかった人がいます。
国内大会ですら、地方大会ですら成績を残せなかった人もいます。
レギュラーにすらなれなかった人もいます。

それでもね
他のことはすべて忘れて
一所懸命
朝から晩まで
寝ても覚めても
何なら夢の中でも
そのことだけ考えて練習して来た人がいます。

それは「趣味」じゃないです。
「求道」にも匹敵する
本気の一途な姿勢です。

たとえ有形の金メダルを取れなくても
人生において
そういう時間を体験できたことが
無形の金メダルを授かることであったのだ
と私は思います。

あなたのその生きざまを傍で見ていた人たち、そして、あなたを本当の意味で愛している人たちと一緒に、心からの敬意をもってあなたを祝したいと思います。

 

 

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」『葉隠(6)』『葉隠(7)』『葉隠(8)』『葉隠(9)』『葉隠(10)』『葉隠(11)』『葉隠(12)』『葉隠(13)』『葉隠(14)』に続いて、今回はいよいよ最終回『葉隠(15)』(上・聞書第一・二)

「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。圖に當らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上(のぼ)りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、圖に當るやうにわかることは、及ばざることなり。我人、生きる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。若し圖にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境(さかい)危ふきなり。圖にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道にて丈夫(じょうふ)なり。毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度(おちど)なく、家職を仕(つかえ)果たすべきなり。
(武士道というのは、死ぬことであると見極めました。(死ぬか生きるかの)二者択一の場では、早く死ぬ方に付くだけのことです。特別なこと何もありません。気持ちが据わって進むのです。計算通りに行かないのでは犬死だ、というのは、上方ふうの思い上がった武道でしょう。(死ぬか生きるかの)二者択一の場では、計算通りにわかることなど、人間には無理なことです。我々人間は生きる方が好きです。恐らくその好きな方に(それを正当化する)理屈が付くでしょう。もし計算がはずれて生き残ったならば、腰抜けになります。その境目(さかいめ)が危ういのです。計算がはずれて死んだならば、犬死や気違いと言われます。(しかし)恥にはなりません。それが武士道においては一人前のことなのです。朝ごとに、夕ごとに、改めて死んで死んで、常に死んだ身で生きているときは、武道においても自由を得、一生失敗もなく、家に与えられた職務にお仕えし切ることができるでしょう。)

 

我が身が可愛く、将来が自分の思い通りになるように計算をして、死にたくない、生きていたい、と思うのが偽らざる人間の我欲というものでしょう。
しかし、『葉隠』は「死ね」という。
武士道とは死ぬことであるという。
分別を捨て、私を捨て、命も捨てて、主君にご奉公することが武士道であると説くのです。

で、私はそれをさらに明確にしたいと思います。
即ち、「死ぬこと」を「我死(がし)」、我(が)が死ぬことと言いたいのです。
我を殺して、我が死んで、我を超えたものに、我を超えた働きにおまかせする。
そして大いなる働きのままに生かされ、与えられたミッション(肉体的に死ぬことも含めて)を果たして行く。
それこそが人間の真実の生き方、「自然(じねん)」=自(おの)ずから然(しか)らしめらるる(自然にそのようにさせられる)ままに生きる生き方なのではないでしょうか。

だから『葉隠』を読んできた最後に、私はこう申し上げたいと思います。
これは武士道だけのことではありません。

人の道といふは、死ぬ事と見付けたり。

 

 

ミラノコルティナ五輪・スピードスケート男子500mにおいて新濱立也(しんはまたつや)選手は決勝で6位という結果に終わった。

その試合を観戦していた妻の吉田夕梨花(よしだゆりか)さん(今回の五輪出場はならなかったが、カーリング、ロコ・ソラーレの選手でもある。交通事故で大ケガをした夫を支えて来たのも彼女だった)がインタビューを受けていたとき、試合を終えたばかりの夫・新濱選手がサプライズで現れた。

思わずハグし合う二人。
夕梨花さんの頬をつたう涙。
新濱選手「頑張った。ありがとう。」「出し切った。メダルは届かなかった。ごめん。」
夕梨花さん「いやいやいや。十分、十分。」

そして「インタビュー、受けて。」と言い残して夫が去って行った後、
それまでの話
が飛んでしまった涙目の夕梨花さんが
「なんでしたっけ?」
と訊いたのに対し、自分も感動していたはずなのに、中断前の話に戻すインタビュアー。

時々インタビュー場面を見て思う。
自分の感情を抑圧して、職務を遂行しようとする日本人インタビュアーが多いのに対し、
欧米の、特にイタリアのインタビュアーは、自分の職務を忘れて(二の次にして)、選手をハグしたり、想いを表現している人が多い。

私は後者の方が好きである。
(自分の感情を抑圧して理性的・中立的なフリをする態度は、似非セラピストを連想して気持ちが悪い)

だから、新濱選手と夕梨花さんがハグしたとき、ただカメラを回すだけで「これ以上インタビューできません。」と終了にしても良かったんじゃないかなと私は思う。
(本当はカメラも邪魔で野暮なんだけど、なんだかこの二人の愛情に溢れた姿は見ていたい気持ちになるのでありました)

 

 

「最近、いろいろな理由で動物性の食物を食べる傾向が増えてきていますから。どうしても女の子も体を動かし筋肉を使いたくなります。ですから運動させることが必要で。…また男の子の場合も、思春期の前にしつけておきたいのは、労働をさせることです。ちょうど体を動かしたくなる頃です。『勉強しろ、勉強しろ』と一日中、体を動かさないで勉強させていますが、これはよくありません。体を使っていろんなものを修繕させたり、責任を持ってお使いをさせたりする。例えば父親や母親を代表して、その代りに他家に使いにやるといいと思います。
いまは余りに勉強部屋に閉じこめすぎています。ちょうど湧き起こってくるエネルギーや、発達してくる筋肉を単に攻撃的に使わないで、建設的なことに使うようにしてほしいのです。そのために労働させてほしいと思います。働くこと、責任を持って仕事をすることには、やりとげる喜びが伴います。そういう喜びを子どもに感じさせてもらいたいと思います。…
ただ子どもに命令して労働させようとすると、『なんでこれを俺はやらなくちゃならないの』ということになります。そこで、代表してやらせるとか、何か使命を与えてやらせるようにしますと、自分の仕事として喜んでやるようになります。そして仕事をしてきたら褒めてやる。つまり、相手を活力に充ちた一個の生命として見て、その生命がある使命感や責任感を持ったならば、方向づけられてちゃんと働くものだ、という事実を認識することです。…
これらの、体を使って現実にあたり仕事をすることは、直接感覚とか、現実感覚を呼びおこすためのよい機会です。理屈でなく、自分の体でする経験は、知らず知らずのうちに内部に蓄積され、次第に自分というものの自覚につながってくるのです。女の子にも結婚の前に、ある程度責任をもった仕事の経験をさせてほしいと思います。現実を直接経験する機会を持たせてもらいたいのです。世の中の現実から学ぶことをしないと、とかく抽象的な、観念的な態度になってしまい、その人の人生が不安定で実り少ないことになると思うのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

「相手を活力に充ちた一個の生命として見て、その生命がある使命感や責任感を持ったならば、方向づけられてちゃんと働くものだ、という事実を認識すること」は、子どもの健やかな成長にとって必要なだけでなく、親の子育ての姿勢を育むためにも必要なことだと思います。
また、「世の中の現実から学ぶことをしないと、とかく抽象的な、観念的な態度になってしまい、」それがその後の神経症の温床になってしまいます。
体を使って現実にあたり仕事をすることは、直接感覚とか、現実感覚を呼びおこすためのよい機会です。理屈でなく、自分の体でする経験は、知らず知らずのうちに内部に蓄積され、次第に自分というものの自覚につながってくるのです
もう観念はいい、理屈もいい、外に出よ、体を動かせ、人と接しよう、直接体験を積み重ねて行こう、それが人間の成長にとって必要不可欠であることをくれぐれも肝に銘じておきたいと思います。

 

 

ミラノコルティナ五輪、スノーボード男子ビッグエアに出場した荻原大翔(おぎわらひろと)選手(20)のことに触れておきたい。

回転技を得意とし、「世界一回る男」「スピンマスター」と言われた荻原選手。
まずは男子ビッグエアの予選をトップの成績で通過。
まずこのときの、自分は0か100かどっちかしかないんで、というコメントが印象に残った。

そして臨んだ決勝であったが、残念ながら、2本続けての転倒。
その時点でメダルの可能性が消滅していたにもかかわらず、
「折角だしやろうかな。」
と3本目は横6回転半の超大技、ギネス認定の「バックサイド2340」に挑戦。
しかし、そこでまた転倒。
「0が出ちゃった。」
と12人中12位の最下位に終わった。

そしてそれにもめげず、次の競技、
「(男子)スロープスタイルで金を目指したい。」
と意欲を燃やしていたのだが、先のビッグエア3本目転倒の際に、実は足首を負傷。
さらにスロープスタイルの練習中に足首をさらに痛めてしまい、出場を断念、棄権となった。

何故、今回、荻原選手を取り上げたかというと、つい勝つための“計算”をしてしまう選手が多い中で、やらなくてもいい「バックサイド2340」に挑んで最下位になった上に、負傷までして男子スロープスタイルを棄権。
こういう“計算”のない、一か八かの姿勢が好きなんです、私。

そして今回の経験が、二十歳の荻原選手の今後にどんな影響を与えて行くのか。
願わくば、たとえ将来のオリンピックで金メダルを取ったとしても、“計算”高く、小さくまとまった、面白くもない大人になってほしくないなぁ、と秘かに願うのでありました。

 

 

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」『葉隠(6)』『葉隠(7)』『葉隠(8)』『葉隠(9)』『葉隠(10)』『葉隠(11)』『葉隠(12)』『葉隠(13)』続いて、今日は『葉隠(14)』(下・聞書第十一・二六)

「安藝(あき)殿子孫軍法承らざる様にと申され候(そうろう)事。『戦場に臨みては、分別が出来て、何とも止められぬものなり。分別ありては突き破る事成らず、無分別が虎口前の肝要なり。それに軍法などを聞き込みて居たらば、疑多くなり、なかなか埒(らち)明くまじく候。我が子孫、軍法稽古仕(つかまつ)るまじく。』と申され候由(よし)。
(安芸殿は自分の子孫は軍法=兵法学を学ばないように、と言われたとのこと。「(兵法学などを学ぶと)戦場に臨むときに分別が出て、何とも止められないものである。分別が出ては(敵を)突き破ることができない、(敵の)城の入り口前では無分別が大事である。そういうときに兵法学などを聞き込んでいると、疑いが多くなり、かえって埒が明かなくなる。私の子孫は、兵法学の勉強をしないように。」と言われたとのこと。

ここでもまた(『葉隠(11)』と同じように)武士にとって「分別」が忌み嫌われています。
戦(いくさ)で、これから命のやりとりをしようというのに、分別があってそんなことができようか、という話です。
人を斬ったり、人に斬られたり、それは無分別でなければできないことです。

但し、先にも触れたように、無分別というのは、単に分別がないことをいうのではありません。
それではただの馬鹿です。
人間の分別を超えたものにおまかせすることが無分別智であり、それは軍法=兵法学などという知識を超えたものなのであります。

 

さて、次回『葉隠』は最終回を迎えます。
最後にいよいよ「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。」を取り上げましょう。

 

 

妻が続けた。

仏教で「謗法(ほうぼう)」ってあるよね。
(「謗法」とは、誹謗正法(ひぼうしょうぼう)の略で、一般には、仏の正しい教えを謗(そし)ること、悪く言うこと、非難することなどを指すが、その中には、よくわかっていないくせに自分の考えで仏の教えを説くことも含まれる。謗法は五逆罪(①殺母(せつも)、②殺父(せっぷ)、③殺阿羅漢(せつあらかん)、④出仏身血(しゅつぶっしんけつ)、⑤破和合僧(はわごうそう))と並ぶ仏教の大罪とされる)
サミーがもし禅を「趣味」でやっているとしたら、少なくとも本気で「求道」している人たちに講義や講演で仏教を説くことがあるとすれば、それは「謗法」になるんじゃないかな。
私はあなたにそんなことをしてほしくない。

「趣味」どころじゃない、「謗法」か。
最低だな。
彼は深い溜め息をつくしかなかった。

二人には近所によく行く町中華の店があった。
今、飲食業が大変な中、老夫婦でなんとか切り盛りしてやっていた。
それでも旦那の深酒が過ぎたり、競馬ですったりして、お客の前でもよく夫婦喧嘩が始まった。
褒められたものではないが、老夫婦はそれを隠さなかった。
少なくとも良い格好をしなかった。

あの二人は深い精神世界のことなど、ひとことも言わないけど、遥かに正直に一所懸命に生きてる気がする。

絞り出すような声でそう言った妻の眼からも、うなだれた彼の眼からも、大粒の涙がぽたぽたと落ちた。

そして、根が真面目な彼は、言い逃れも、逆ギレもせず、長い沈黙の中で猛省した。

オレは良い格好をして、わかったようなことを言っていた。
そしてそれを死ぬほど情けないとも思ってなかった。
こころを入れかえるよ。
これからもくだらないことをやらかしちゃうと思うけど、少なくともそんな自分を情けないと思い、乗り越えて行きたいと願うよ。
口先でなく、少しでも生きざまで示せるように。
言ってくれてありがとう。

そして二人で泣いた。

彼女が覚悟を決めてそこまで言い出すのには、わけがあった。
その数日前、彼女の妊娠がわかったのである。

サミーにはホンモノの父親になってほしかった。

 

 

彼は新進気鋭の仏教学者。
30歳そこそこで大学の仏教学科の講師となり、将来の准教授、教授は約束されていると言っても過言ではない。
学会での評価も高く、若手ながら各地からの講演依頼も増えている。
専門は禅。
自らも参禅し、国内の主だった禅寺だけでなく、海外の仏教、キリスト教、イスラム教などの坐禅、瞑想施設も研究のため訪れている。
そして参禅で出逢った女性と結婚し、すべてが順風満帆に見えた。

しかし勝負のときが訪れた。
結婚生活が2年目に入ったとき、若い妻からこう指摘されたのである。
あなたが熱心に禅籍を読み、参禅もし、国内外の宗教施設に行って、その体験や感動を語るところは、見聞きして来て、尊敬も信頼もしている。
でも、ふとプライベートなことになると、人からどう思われるかをひどく気にしたり、いろんな人の陰口や悪口を長々としゃべったり、こうしなければならぬ・こうするべきだにとらわれていたり、全く違うあなたが出て来る。
私も聖人君子じゃないから、同じようなことをやってるけど、少なくともそんな自分に対して死ぬほど情けないと思うし、そんな自分を超えて成長して行きたいと毎日毎日祈ってる。
でも、あなたからはそれが感じられないの。
サミーにとって(彼は妻からサミーと呼ばれていた)、禅は趣味なの?

これは痛烈な一撃であった。
形の上で禅に熱心なように見えて、具体的な日常の生きざまはただの俗人だったのである。
いや、正確に言えば、俗人なのが問題なのではなく、それを自覚し、死ぬほど恥じ、それを超えて行こうという切実な姿勢がないことが大問題なのであった。
奥さんの言う通り、彼にとっての禅は「求道」ではなく「趣味」となっていた。
「趣味」どころか、それは「思い上がるための手段」「職業としての生活の糧(かて)」にさえなりかねない

国内外の坐禅・瞑想施設の探訪も、そういう意味では、観光旅行の延長線上と言われても仕方なかった。

サミーは茫然となった。

しかし、奥さんにはまだ二の矢があった。

 

 

「女の子にとって必要で意味のあることは、何かを愛し、可愛がるということです。…男女同権が、それぞれの独自性を互いに尊敬するというのではなく、結局、男の真似をすることになってしまっているわけです。
女の子の場合は、特に本能的に何かを可愛がりたいという気持を持っています。これはまだ未熟ではありますが、ほんとうの愛へと成長する萌芽です。ペットを飼う。あるいは草花を育てる。猫でも犬でも鳥でも花でもいい、何か生きものを可愛がる、そして育てるということが、女の子の成長にいちばん大切だと思います。それが人を愛するやさしい気持を育てていきます。…
植物を育てたり動物などを可愛がるのは、少なくとも小学校高学年から中学校のいわゆる思春期の前期、ちょうど体のかわる頃までには、やらせてほしいのです。そういう具体的なことを通して、やさしい気持を育てることができます。女の子は猫などに頬ずりしていますが、動物などを可愛がっていくこと、可愛いものに接触すること、手で触れることにより、自分も気持よくなり、やさしい気持が育ちます。
子どもだけでなく、女性というものは触感によって非常に心理的に影響されるのです。気持が慰められたり、解放されたりするものです。ところで触覚を広く考えれば、視・聴・嗅・味・触の五感全部が触覚といってよい。味は舌、目は網膜における触覚であり、音は耳の鼓膜による触覚です。特に掌の触覚とか肌の触覚に対して、女性は敏感なのです。これが満足されないと、とかくイライラしたり意地悪になったり、場合によると病気になりがちです。
触覚というのは感覚です。感覚というものから気分が生じます。…
そういう男女の違いを認識して、女の子が自然に示す生きものに触れたがる事実を事実として認識した上で、その特徴をどう育てていくか。そういうことを考えるのが知恵というものだと思います。いたずらに大人の要求を押しつけて、『犬猫を可愛がっても汚いだけです。花の世話をするより勉強しなさい』という態度はよくありません。
結局女の子には、触覚を中心にいろいろなものに触れさせること、接触させることが有益だと思います。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

近藤先生の渡米中はちょうど「ウーマンリブ」が盛んな時代でした。
ニューヨークにも、女性なのに、スーツ・ネクタイを着て、髪を七三に分けた、男装の女性活動家がいたそうです。
ホーナイ自身も、フロイトの男尊女卑的な分析観から解放したという意味で、当時はフェミニストの活動家の一人として扱われることがあったそうです(本人にその気はなかったようですが)。
女性が折角、差別され、抑圧されたいた状況から解放されるていくのに、よりによって、なんで愚かな(先行失敗例である)男のマネをするのか、というのは、よく近藤先生と話した話題でした。
行き着くところ、男であろうと女であろうとLGBTQであろうと、本当の自分を実現すること以上に重要なことはないのではないでしょうか。
その上で、それらを踏まえた上で改めて、女性にとって触覚が重要なことは(差別を超えた特性として)事実である、と私も思っています。
それにしても、「五感全部が
触覚といってよい」というのは、流石、近藤先生の炯眼です。

 

 

ニュースでご存知の通り、ミラノコルティナ五輪のスキージャンプ混合団体(丸山希+小林陵侑+高梨沙羅+二階堂蓮の4人が団体で競う)において、日本は銅メダルを獲得した。

やはりここで注目されたのは高梨沙羅選手。
4年前の北京五輪の同種目、高梨選手は1本目に会心のジャンプを飛んだ後、スーツ規定違反を指摘されて、まさかの失格。
チームも4位に終わり、泣き崩れて地面に突っ伏している姿を今も思い出す。
そこから4年かけてのリベンジであり、銅メダルである。
そして結果がわかった後、4年前共に戦った伊藤有希とのハグは見る者の涙を誘った。
まずは、沙羅ちゃん、良かったね、よく頑張ったね、と多くの日本人が思ったことであろう。
私もまたその一人であり、全く同感である。

しかし、競技は団体であり、高梨選手がいくら頑張っても、今回もメダルに手が届かなかったかもしれない。
また、ギリギリのパフォーマンスで挑戦している限りは、高梨選手自身が、不本意なジャンプに終ったかもしれない。
そんなこともあり得るのがオリンピックであり、現実なのだ。
問題は、それじゃあ、ダメなのか、という話である。

どこまで行ってもオリンピックは、他者比較評価の世界。
それはそういうふうに作られているので、良いも悪いもなく、そういうものなのだ。
だけれども、たまには変わったヤツがいて、オリンピック本番の結果を無視して、そこまでその人が歩んで来たプロセスを絶対的に評価する人間がいてもいいんじゃないかと思う。
恐らく、高梨選手の家族や、無条件で高梨沙羅を愛している人たちは、そう思っているんじゃないかな。

沙羅ちゃん、良かったね、よく頑張ったね。
それは、銅メダルが取れたからではなく、失格しないで飛べたからでもなく、4年前のリベンジができたからでもなく、高梨沙羅のこの4年間の一所懸命の日々に心からの讃辞を送りたいと思う。

 

 

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」『葉隠(6)』『葉隠(7)』『葉隠(8)』『葉隠(9)』『葉隠(10)』『葉隠(11)』『葉隠(12)』続いて、今日は『葉隠(13)』(下・聞書第十・一三○)。

今回は、江戸時代の臨済宗の禅僧・盤珪永琢(ばんけいようたく)の逸話をご紹介する。

「盤珪に律僧(りっそう)参りて、佛法を尋ね候(そうら)へば、『其方(そのほう)殺生戒を破りたり。佛性(ぶっしょう)を殺し居(お)るなり、佛性を殺さぬ道理申し候へ。』と申され候に付(つき)、則(すなわ)ち珠數(じゅず)を切り弟子になり申し候由(よし)。
(盤珪禅師のところに律宗(南都六宗のひとつ。鑑真和上で有名)の僧侶がやってきて、仏の教えについて尋ねると「あなたは殺生戒(仏教の根本的な戒律のひとつで、生きているものを殺してはいけないということを指す。不殺生戒ともいう
)を破っている。(仏より授かった)仏性(仏の性質)を(あなたは)殺してしまっているではないか。(もし自分は仏性を殺していないというのなら)仏性を殺していないということを説明してごらんなさい。」とおっしゃったので、すぐに数珠を切って(数珠を切るのは改宗するときの証(あか)し)、盤珪に弟子入りした。)

 

我々一人ひとりに与えられた仏の性質、それが「仏性(ぶっしょう)」。
今生(こんじょう)で私を生かし、私を私たらしめ、私が果すべき役割を果たさせる働きの大元、それが「仏性」である。
よって、これを近藤先生風に言うならば、まさに「生命(いのち)」と言えよう。
それを生かしていない。
いや、それどころか、それを殺している。
これ以上の、殺生があるだろうか。
盤珪がそれを指摘し、直ちにそれをさとった律僧は、盤珪に弟子入りしたのである。
こういう物言いは、いかにも盤珪らしい。
近藤先生と『盤珪禅師語録』を読んだ日々が懐かしく思い出された。

 

 

ニュースでご存知の通り、ミラノコルティナ五輪のフィギュアスケート団体(アイスダンス+ペア+女子シングル+男子シングルの予選/決勝の計8種目の合計点で競う)において、日本は銀メダルを獲得した。

女子シングルの坂本花織の演技で、首位のアメリカに追いつき、すべては最後の男子シングル・佐藤駿の演技に託された。
最終滑走の佐藤は、ノーミスの演技で自己ベストの得点を叩き出したが、アメリカのイリア・マリニンの得点に及ばず、団体の順位は2位に終わった。
しかし、自分の得点がわかったときに、泣き崩れて立ち上がれない佐藤に対して、普段からライバルであったはずの鍵山優真も、坂本花織も、他の選手も大粒の涙を流して、佐藤の健闘を称えた。
総得点からすれば、実はアイスダンスの点数も影響しているのだが、佐藤を責める人が一人もいないように、アイスダンスのペアを責める人も一人もいない。
全員が、そのときなりの、自分なりの、精一杯を果たして、ひとつになっていた。

こういうところが団体の良いところだと思う。
普段なら敵対すべき個と個のパフォーマンスが、団体戦となると、団体内がひとつになり、少なくともその中では他のメンバーのパフォーマンスが自分のパフォーマンスとなって、メンバー一人ひとりの区別を超え、日本代表がひとつになることができたのだと思う。

そして、これがもし地球vs火星の対戦であれば、国の区別を超えて、地球内がひとつになるであろうし、
(太陽系が所属する)天の川銀河系vsアンドロメダ銀河系の対戦であれば、天の川銀河系内がひとつになるであろう。
それを無限にまで拡大して行けば、いつか宇宙の全存在がひとつになれるのではないか、と一人で夢想していた。

フィギュアスケート団体戦の涙の感動と共に、人間が自他の区別を超えていける可能性の一端を見せてもらえた気がした。

 

 

近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目16回目17回目18回目に続いて19回目となった。

今回も、以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」について取り上げながら、いよいよ最終コーナーを回ってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話として読んで行っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(6)

はじめてここで、彼は、その悲しむべき自己疎外の根源が「仮幻の自己」であることを認識し、自分が今迄従順に奉仕していたこの病的な自己像に対して批判と反発の目を向ける。このことは又、今迄強大な拘束力を駆使して君臨していた「仮幻の自己」にとってはその存在への危機である。危機は不安を呼び起す。そして、この時点を境として、分析治療における最も大きな抵抗が生じて来るのである。
たしかに、この時期は、患者の中に、神経症的自己に対する批判と反抗がはじまったと言える。しかしそれは彼が今迄自分の安全の為に定立し、それによって生きて来たものなのである。それと一体化して生活して来た過去の惰性と、それのもたらした利益がある。その不安は、だからあたかも彼自身の不安として感じられる。しかも彼の「真の自己」はまだ本当に確立していない時期である。彼の殆(ほとん)ど自動的にとる態度は、したがって、その防衛である。
分析の経過の中で、大きな洞察の体験の後で、再び困難な時期が訪れるのはこうした理由によると考えられる。患者も希望と解放感を得た後で再び不安にゆすぶられる。分析者に対する疑いや敵意、不信が現れ、分析への嫌悪やそれからの逃避が生じる。
しかし一方で、彼の「真の自己」はもはやそれに盲従しはしない。その様な防衛の試みに対して反抗し戦うのである。この為に患者の状態は、或る時は本当の自分に触れた喜びを感じて生々(いきいき)とした生き甲斐のある気持になるかと思うと、次の瞬間は自分の卑小や無力を感じ不安や絶望を感じる。
患者は浮沈高低の甚だしい変化にさらされる。これは苦痛に満ちた時期である。しかし、この苦痛は成長の痛みであり、生みの苦しみである。分析者はこの時に、単なる傍観者、単なる聴手(ききて)、観察者であってはならないのである。
この危機的状況に応え、混乱の中にゆさぶられる患者に、彼の闘っている敵の正体を明確にし、彼が最後の戦を闘っていることをはっきりと告げなければならない。彼が戦の意味を悟り、そして不安や苦しみは彼自身の新しい誕生の為であることを感じる時、航海者が、正確な羅針盤を持って、安心して嵐と闘うことが出来る様に、彼は次第に確信をもって、神経症葛藤の中の最も根源的な葛藤 ー「仮幻の自己」対「真の自己」と言う決定的な戦いを闘い抜いて行くのである。

 

「仮幻の自己」が居着くには、それなりの理由があったのである。
それは間違った方法かもしれないが、少なくとも幼少期の自分を不安から守ってくれた。
よって、「仮幻の自己」を取り除こうとするとき、あの不安が台頭し、抵抗が生じるのである。
そして勝負時が訪れる。
これからも「仮幻の自己」という偽りの解決法で不安を解消し続けてて行くのか、
それとも、「真の自己」を取り戻し、不安の根本解決を図るのか。
選択肢は後者しかない。
セラピストが援軍となって、クライアントの「仮幻の自己」vs「真の自己」の最終決戦を戦い抜いて行くのである。

 

◆追伸◆
さて、次回3月8日(日)開催の第74回八雲勉強会は、年度末最後の勉強会であり、かつ、この「ホーナイの精神分析」もいよいよ最終回を迎える。折角の機会なので、ホーナイの考えに共鳴される方々の参加を期待している。

 

 

子どもの不登校の相談で、お母さんが精神科の外来を受診して来られる場合がある。
お子さんの話を伺うわけであるが、お聞きしているうちに、段々とお母さん自身の話も出て来ることになる。
その中に、お母さん自身の未解決の問題があれば、それを解決していくことになるし、特に問題がない場合でも、人間である限り、何らかの成長課題があるわけで、母親として、妻として、嫁として、娘として、働く女性として、そして自分自身としての成長課題があれば、それも重要な話題となる。
特に私のように、「治療」と「成長」を同一延長線上のものと思っている人間にとっては、それが必然の展開である。

そうすると、面白い現象が起きて来る場合がある(あくまで「場合がある」である)。
お母さんが解放されて、変化・成長して来られるのである。
それに子どもが気づく。
そういうところは子どもは極めて敏感である。
そうなると、どんな医者なのか、興味を持って来る。
そして、しば~らく経った頃、不意にお母さんと一緒に外来にやってくることがある(これもあくまで「ことがある」だが)。
そこに至るまで、本人に会わなくても、伝わっていくものがある。

同様のことが、引きこもりの青少年の往診に行くときにも起こる場合がある(あくまで「場合がある」である)。
往診に行っても本人は出て来ない。
そこでお母さんとお話することになる。
ここでも、お子さんの話を伺うわけであるが、お聞きしているうちに、段々とお母さん自身の話も出て来るようになる。
その中に、お母さん自身の未解決の問題があれば、それを解決していくことになるし、特に問題がない場合でも、人間である限り、何らかの成長課題があるわけで、母親として、妻として、嫁として、娘として、働く女性として、そして自分自身としての成長課題があれば、それも重要な話題となる。
そして何度も往診を重ねるうちに、笑い声や涙声が出て、それが部屋に閉じこもっている子どもの耳に届いたりする。
また、医者が往診から帰った後に、本人が母親の変化に気づく。
そういうところは子どもは極めて敏感である。
そうなると、ここでも医者に興味を持って来る。
そして、しば~らく経った頃、陰から医者とお母さんの様子を見に来たり、不意に話している部屋に入って来たりすることがある(これもあくまで「ことがある」だが)。
そこに至るまで、本人に会わなくても、伝わっていくものがあるのである。
(上記の「医者」を「訪問看護師」に、「往診」を「訪問看護」に変えても、同じ話になる)

現実には、そんなに簡単に事は運ばないことも重々承知しているが、上記のような場合が(稀でも何でも)実際にあるということを知っておいていただきたいと思う。

 

 

本当のことがわかるには相応の時間がかかるものです。

例えば、ある人に
「あなたのお母さんはどんな人でしたか?」
と尋ねると、しばしば
「いやぁ、特に。平凡な主婦でしたよ。」
などという答えが返って来る。
しかし、それをそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。

何度か面談を重ねるうちに、母親からは、あんなひどいことを言われた、こんなひどいことをされた、という話が出て来る。
それは当初、意識的に隠していた場合もあれば、
本人としては、隠している気はさらさらないが、無意識に隠している場合もある。特に母親に対する怒りや攻撃性が抑圧されている場合には、出て来るのに時間がかかる。

じゃあ、それで一件落着かというと、そうもいかない。
いろいろ話を伺っていくうちに、思い出すのもおぞましい、さらなる深い闇が明らかになってくる場合がある。
また、気づいていなかった母親からの意外な愛情に気づく場合もある。

母子関係についてだけを挙げても、こんなふうに話が二転三転することも珍しくはない。
昔から「薄皮を剥がすように」と言う表現があるが、セラピストとクライアントの共同作業によって、何枚も何枚も薄皮も厚皮も剥がれて行ってようやく、本当のこと=真実が明らかになってくるのである。
そのことは、対人援助職の人はよくわきまえておいた方がいいと思う。

そしてその前提として、クライアント-セラピスト間の信頼関係が必要となることは言うまでもない。
信頼がなければ、本当のことは話さない。
これもまた親子関係に傷がある人ほど、基本的な他者への信頼感が育っていないため、信頼関係ができるでに時間がかかるし、
セラピストの側も、できれば、クライアントの存在に対して畏敬の念を持って接し続けていただきたいと思う。

信頼関係というのもまた、クライアントとセラピストの共同作業によって初めて構築されるものなのである。

 

 

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」『葉隠(6)』『葉隠(7)』『葉隠(8)』『葉隠(9)』『葉隠(10)』『葉隠(11)』続いて、今日は『葉隠(12)』(下・聞書第十・一○五)。

増上寺において行われていた法事の最中、
「諸役人大勢列座の前を(内藤)和泉守(いずみのかみ)通られ候(そうろう)が、(永井)信濃守(しなののかみ)前に成り、『信濃守覚えたか。』と詞(ことば)をかけ、首打ち落され候。信濃守も小さ刀に手を懸け、すこし抜き懸けられ候由(よし)。その時傍(かたわら)に居り候人、抜打に和泉守の腕を峯打にて、脇差を打ち落され候。また一人立ち上り、『二の目を仕(つかまつ)る。』と聲(こえ)をかけ、和泉守の後に廻り、鰓(あぎと)に手をかけ引き立て投げ伏せ、懐中縄にて搦(から)め、勝手に引き立てられ候。…即刻上聞(じょうぶん)に達し、その夜青松寺にて和泉守切腹なり。」
(諸役の方々が大勢並び座っている前を内藤和泉守が通っておられたが、永井信濃守の前に来たところで、「信濃守、思い知れ!」と言葉をかけ、信濃守の首を斬り落とした。信濃守も小刀に手をかけ、少し抜きかけていたとのこと。その時、そばにいた一人の武士が刀を抜いて和泉守の腕を峰打ちにして、(和泉守が持っていた)脇差を打ち落ちした。またもう一人の武士は「二番目は私が致しましょう。」と声をかけ、和泉守の後に回り、顎に手をかけ、引っ張って投げ倒し、懐に持っていた縄で縛り、そのまま引っ立てられて行った。…すぐに主君の耳に入ることとなり、その夜、青松寺にて和泉守は切腹となった。)

 

『葉隠』では、この一件だけでなく、何かの行事の最中、いきなりある武士がある武士を斬り殺す、特に斬首するエピソードが出て来る。そんなことをすれば、良くて切腹、悪くすれば一族郎党にまで難が及ぶことは百も承知のはずなので、余程腹に据えかねた、覚悟の刃傷沙汰(にんじょうざた)と思われる。
恐らくは武士の面目を丸潰れにされるような出来事があったのであろうが(その仔細は書かれていない)、耐えて耐えて耐えて最後に何もかも投げ捨てて爆発するところが、いかいにも武士と言えば、武士らしいところである。
『葉隠』の文調も決して和泉守を責めるようにはなっていないところに、『葉隠』の隠れた意図が感じられるのである。

 

 

 

「人間として成長するために、子どもにとっては特に、友だちとの関係が重要です。友だちとの、遊び仲間の関係をできるだけ奨励してほしいのです。小さい頃から友だちと一緒に、泥んこになって遊ぶことが必要です。その中で自然と仲間遊びができるようになり、いろいろな人間関係も経験できます。…
やはり子どもには小さい時から…(喧嘩で)勝った負けたということがあり、勝つことも負けることもあることを経験させる方がいいと思います。…
また…子どもどうしでも、どちらが正しい、正しくないという問題がありますが、親としては、どちらが正しいとか正しくないとかということは言わない方がいいでしょう。というのは、結局せんじつめると、暴力行為をやるということは正しくないことなのです。暴力行為に正しい正しくないなどはおかしい。もともと正しくないのです。そういう正しい、正しくないというのは大人の論理であり、大人の倫理なのです。子どもにとっては勝った負けたが問題です。しゃくにさわるとか、そういう感情が主なのです。…
子どもの喧嘩に大人の論理を持ってくると、子どもは混乱します。現実と違うからです。むしろそれより、勝った負けたという時に起こりがちな劣等感を救ってやることが必要です。正しいとか正しくないとか言っていると、子どもは混乱してしまいます。そうして自分の劣等感を無理に合理化するために、『僕は負けたけど正しいんだ』と考えるようになってしまいます。これではどうもあとになって、神経症的な性格になってきます。負けた時は負けたで、『僕は体で負けた』と思っていいのです。『体が小さいから負けた、力が弱いから負けた』と思った方がいいのです。…
時と場合によっては、まず自らを守るために闘うことは必要なのです。…好むと好まざるとにかかわらず、力というものが世の中で現実的な力をもっているという現実を知らなければなりません。観念的に育ててはいけません。
子どもの世界にも、大人の世界とはちがった力の現実があります。そういう現実をふまえた上で、それに対してどういうふうにするかということを考え、実行できる人間に育てた方がいいと思うのです。そうしないと、現実には行動できないので、心の中に葛藤を持った人間になってしまいます。いつも心の中で劣等感を持っています。『負けたれどもしかし、僕は正しいんだ』と言いながら、割り切れない、不愉快な感じは拭(ぬぐ)いきれません。いつも『俺の正しいことが認められない』と陰で不平を言う人間になります。そしてこうし矛盾した気持ちのまま、葛藤を持ったままに成長していくわけです。これを防ぐためには、力の点で負けた時は、『自分は力でやっぱり負けたんだ』とはっきり認め、勝とうと思ったら『俺はもっと力をつけりんだ。それにはどうすればよいのだろう』と、具体的なことを考えさせた方がいいと思います。…
何事も平和主義で、『とにかく喧嘩はしない方がいいわよ』というのが最近のやり方ですが、私は戦う知恵を授けたいと思います。子どもたちもそういうことを経験することによって、戦う知恵や力が出てくるのです。大人になっても邪悪に対して戦うとか、陰険なものに対して戦う精神というのは必要なことです。ですから子どもたちにもそれをやらせる、そういう訓練の場を与えたいと思うのです。…
お母さんたちはみなさん喧嘩というものをいやがりますが…子どもは、勝っても負けても喧嘩を経験することが必要です。これも経験することによって現実を知る、実感の世界といっていでしょう。
よい子とか、りっぱな子とかいう建前の上での、観念的なあり方、きめられた枠にはまったような育ち方では、必ずあとになっていろいろとノイローゼ的な問題を起こします。ノイローゼの患者さんはとかく子どもの頃、ほとんど喧嘩をしたことのない人たちばかりです。いわば、長いあいだ敵意を抑圧してきた人が多いのです。…
なぐられれば腹が立ちます。まだ子どもなのですから腹が立つ時に怒って、相手に向かっていくのが自然なのです。その自然をあまり抑圧すると必ず問題が出てきます。…
敵意というものは、隠されて、蓄積されるのがいちばんいけません。敵意は軽いうちに早く出してしまわないと、内向して、自分自身を傷つけ、相手に対しても憎しみを深いものにしてしまいます。…
一般には攻撃欲というものを、何か人間の原罪みたいに考えて、『よくないことだ、直さなくてはいけない』と言われています。しかし攻撃欲それ自体をなくすことはできません。それよりも、攻撃欲というものをいかに転化していくか、を考えることが大事だと思います。攻撃を押さえつけるのではなく、別な面へ転化してゆくのです。
例えば、オリンピックで必死になって優勝を争う、あれもみんな攻撃欲のあらわれです。スキーの大回転とかジャンプ、スピード・スケートにしても、みな攻撃欲のあらわれです。南極や北極を探検するのも攻撃欲です。難しい問題を解決しようと努力するのも攻撃エネルギーの昇華です。このように攻撃欲自体を建設的なものにふりむけていけばよいのです。
つまり人間の攻撃欲自体の存在は認めて考える。そのかわりにそれをどういうぐあいに使うかを自覚させる。子どもをそういう方向に指導していった方がいいと思います。…
欲望などというのは、それこそ火と同じで、燃える時はカッカと燃えますが、そんなものは限度があるものだと早く悟ることです。それを不完全燃焼のままにしておくと、残ってしまうのです。とにかく子どもには…、子どもの集団の中で、できるだけいろいろな経験をさせることをぜひともおすすめしたいと思います。
」(近藤章久『感じる力を育てる』より)

 

どうであるべきだとか、どうであってはならないと観念的なことを言ったところで、怒りや敵意、攻撃欲といった感情は現にあるものです。
それを抑圧しないで、できるだけ早く、できるだけそのままに感じて、そのままに出す。もしそれを出すことがどうしても憚(はばか)られる場合には、他の形にして(社会的に受け容れられやすい形にして)昇華して出す。
そうすることによって、子どもたちは、怒りや敵意、攻撃欲などの出し方を覚え、また、現実にも戦える大人になっていくことができます。
そのために、子どもたちは集団や人間関係において、喧嘩などの体験を通して、それを練習して行くことになるのです。
それなのに、そういう機会が与えらず、怒りや敵意、攻撃欲などを抑圧するようになっててしまうと、子どもたちは段々と神経症的になっていってしまいます。
ちゃんと感じる、ちゃんと表現する。
そのために喧嘩は大いに役に立ちます。

 

 

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