八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

「大体、近頃の親御さんはともすると、『とにかくこういう方が得よ』とか『こういうふうにうまく横領よくやった方がいいわよ』と言われる方たちが少なくないようです。いまの子どもはそういう環境の中で育ってきているわけです。親が、夫婦どうしの会話の中でも、妻が夫に『あなた、そんな時もっと要領よく、うまくやるのよ』などと子どもの前で言っていれば、子どもも自然にそういうことを考えるようになると思います。
そういう功利主義が徹底すれば、人間関係も要領よくしたほうがいいことになります。親自身がその相手によって、ああしたりこうしたり、いろんなその時に応じたマスク(仮面)をつけた人につき合っているのを子どもは見ています。親は先生と会う時はこうで、隣の人と話す時はこうで…とその時の相手によって態度を変えています。
だから子どももこれにならって、親がうるさい時はいいかげんにきき流し、先生の前ではちゃんとするというふうにすればよろしい。一応そうして、その場その場をうまくやって、あとはとにかく自分で好きなことをやっていればいいという具合に、非常にうまく立ち回っています。そうした子どもは、親も安心し、先生にも受けのよい、いわゆる『いい子』が多いのです。…
考えてみれば危険や困難を冒(おか)して、自分の目的として追求するものに到達し、それを獲得することは人間の歴史とともに古く、昔から多くの人々がそうした冒険をして、その結果いろいろな方面で進歩や発展が達成されたのです。それは人間の生命力の力強い発言であり、それが文化を作り歴史を動かしたと言えるでしょう。一方で人間の気持には、安易で楽な生活を好み。狭くても安全な状態に執着する傾向があります。それがともすれば保守と沈滞と頽廃を産み出して、人間の生命力を弱めていくことになります。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

世は功利主義の時代です。
コスパ(コスト・パフォーマンス)にタイパ(タイム・パフォーマンス)、要領よくやることが良いことです。

よって、功利主義的にやって得られるものは、皆さん、よく御存知です。
しかし、功利主義的にやっては得られないもの、むしろ非功利的にやらないと得られないものについては、余り御存じないように思えます。
危険や困難を冒す。地道な苦労を積み重ねる。自分以外の人のために時間とエネルギーを費やす。失敗や間違いから学ぶ。計算外、想定外の発見や喜びを見い出す。などなど。
安直に得ることで喜ぶのは我
苦労して得ることで喜ぶのは生命(いのち)
なのかもしれませんね。

 

 

新年度=令和8年度(令和8年4月~令和9年3月)の八雲勉強会についてお知らせします。

[1]令和8年度=第75回以降も、勉強会は2部構成とし、
(1)前半:新年度は、日本人の根底にある縄文文化の精神性について勉強します。今までは完成度の高い文献をテキストとして用いて来ましたが、今回は一般書籍(しかも恐らく大半の人は今まで余り縁のなかった分野の書籍)をテキストに使い、その内容を鵜呑みにするのではなく、あくまで叩き台として大いにツッコミながら、日本人の精神性のルーツに迫って行きたいと思っています。かなりチャレンジングな内容になると思いますが、参加者で深くかつ楽しくやって行きましょう。
尚、
テキストは予め郵送しますので(テキスト代は不要です。但し、新刊本が手に入らないため、中古本となることをご了承下さい)、一緒に読み進めながら、参加者でディスカッションして行きましょう。
(2)後半:まず参加者から、今の自分自身について感じたこと、気づいたこと、成長課題について話題提供していただき、その発表後、参加者全体で互いの成長のためにディスカッションして行きます。ミニワークショップ的な体験が味わえればと思っています。

[2]参加対象は、現在、八雲総合研究所に面談に来られている方(リモートも含む)です。

[3]令和8年度の八雲勉強会は、原則として Zoom による開催とします。

 

※「令和8年度 八雲勉強会 年度参加のご案内」および「4月 第75回 八雲勉強会 by Zoom」につきましてはこちらをご参照下さい。

 

 

昨日まで20回に渡って、近藤章久先生によるホーナイの精神分析』を取り上げて来た。

1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目16回目17回目18回目19回目20回目
このままただ終わるのではもったいないので、その中から重要と思われるものを10抽出して共有して、締め括りにしたいと思う。

この『ホーナイの精神分析』が、(自分自身も含めた)すべての人の「真の自己」の実現にとって、少しでも役立つものとなれば幸いである

 

[1]「彼女(=ホーナイ)の明るい洞察の眼は、人間の存在の中に、常に実現を求めて止まない成長と発展への衝動を発見し、その源泉として『真の自己』の概念を定立した
*フロイトの悲観的な人間観に対し、ホーナイの人間観は肯定的、いや、絶対的に肯定的である。何故ならば、彼女はその臨床体験を通じて人間の中に、その実現を求めて止まない「真の自己」を(「ひとつの説」ではなく「事実」として)発見したからである。

 

[2]「(あたか)も樫の実が大木に成長する可能性を何時もはらんでいる様に、人間は、常に『真の自己』を実現して行く能力を持っている
*どんぐりが松の木になる必要はない。なれもしないし、なってはいけない。どんぐりが樫の木に、しかも大木になっていくように、人間もまた一人ひとりに与えられた「真の自己」を実現して行く力を蔵しているのである。

 

[3]「Salzburg(ザルツブルク)の坑内の塩が ー Standal(スタンダール)の表現を借りれば ー つまらない枯枝を華麗な姿に変じる様に、その価値を核として、想像力が壮大な仮幻の自己を現出する

*恋愛が枯れ枝を美しい白い花に見せるように(スタンダール『恋愛論』)、その生育史が、ニセモノの自分、「仮幻の自己」をあたかも価値あるものであるかのように思わせるのである。

 

[4]「分析が進むにつれて、私達が知るのは、この様な彼の態度は、彼の本来の意志ではなく、幼少の時の様々な逆境の中に自己保全の為に止むを得ず取らざるを得なかった不幸な方法であり、彼も又苦しみ悩みつつ、成長を求めている人間であると言うことである
*小さくて弱い子どもは、精神的に生き残るために「仮幻の自己」を身につけるしかなかった。しかし、どんなに「仮幻の自己」に支配されてい
ようとも、その奥底に「真の自己」は必ず生きているのである。

 

[5]「大切なのは、治療者自身が『真の自己』による成長を経験しているかどうかである
*もしセラピスト自身が「真の自己」による成長を経験していれば、クライアントの中にある「真の自己」を信じ、感じることができるようになる。そして、それこそ治療の方向性を決める指針となるのである。

 

[6]「分析関係は相互的な関係と言ったが、根源的には患者の『真の自己』と分析者の『真の自己』との出会い ー 互いの呼びかけと応答の関係である
*あなたの「真の自己」とわたしの「真の自己」との感応道交なくして、ホンモノのセラピーが成立するわけがない。


[7]「神経症的な拘束がゆるんで、患者の『真の自己』が呼吸し始めたことを意味する
*この「『真の自己』が呼吸し始めた」という表現。これは文学的修辞ではなく、体験したことがある者にとっては紛れもなく“リアル”な表現なのである。


[8]「今迄強大な拘束力を駆使して君臨していた『仮幻の自己』にとってはその存在への危機である。危機は不安を呼び起す。そして、この時点を境として、分析治療に於ける最も大きな抵抗が生じて来る
*引き剥がされないようにしがみつこうとうる「仮幻の自己」。その「抵抗」は大きなピンチでありながらも、正面から立ち向かって行くことができたならば、それは、間違いなく、ホンモノの成長への大きなチャンスとなる。


[9]「不安や苦しみは彼(=患者)の新しい誕生の為であることを感じる時、航海者が、正確な羅針盤を持って、安心して嵐と闘うことが出来る様に、彼は次第に確信をもって、神経症葛藤の中の最も根源的な葛藤 ー『仮幻の自己』対『真の自己』と言う決定的な戦いを闘い抜いて行くのである
*「羅針盤」=「真の自己」からの声を感じることさえできていれば、「仮幻の自己」対「真の自己」という最大の戦いの中でも、進むべき方向を過(あやま)つことは絶対にない。

 

[10]「『真の自己』の成長と発展こそ人間の自分自身に対する責任であり、倫理である
*人は何のために生命(いのち)を授かって生まれて来たのか。「真の自己」の実現以外にその答えはない。

 

 

 

近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目16回目17回目18回目19回目に続いて20回目となった。
いよいよ今回が最終回である。

以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げる。
関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※今回の最終回もまた、折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話として読んで行っていただきたいと思う。

 

尚、明日、『ホーナイ学派の精神分析』全20回の中から抽出した抜粋集を取り上げる予定である。

 

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(7)

この様な経過を通じて弱まり行く「仮幻の自己」に対して「真の自己」は成長する。彼はもはや容易に「仮幻の自己」の命ずる shoulds か claim に動かされなくなり、たとえ、混迷に陥ったとしても、自分で混迷させるものを分明にすることが出来る自分の能力を感じる様になる。
分析者は彼にとって、はじめて明確に協力者、補助者として正しく認識され、理解される。彼は分析者に対する依存とか、敵意とか疎遠感から解放され、自分で自分の発展と成長をなし得る事に勇気と確信と希望を覚える。
もはや神経症的要求や尺度によって拘束されないので、彼は自分をありのままに受け入れ、徒(いたず)らな劣等感、罪悪感や無力感や、それにもとづく不安に陥らないで、自分自身について真実になり得る、そして、自分自身を吟味することを恐れない。彼の「現実の自己」は、嫌い、憎み、軽蔑するべきものではなく、それは「真の自己」の現れとして尊重すべきものとなり、ここに神経症的誇りに代って、健康な自尊心 ー 自信が生じる。
彼は世界の中に於ける自分の役割りを引受け、それに応える、強制でない、自発的な責任を感じ、それを受け入れ、果(はた)して行くところに喜びを覚え、ありのままの自然な、感情や思考や判断が、彼に自由と独立を感じせしめるのである。
この様にして、次々と、かつての神経症的悪循環に対して、建設的な成長の良循環が経験され、分析も、彼自身による成長のための厳密な再吟味と言う形を多く取る様になり、分析時間は減少し、患者が強く「真の自己」によって生きることが確実になった時、それに関する患者と分析者の相互に独立な評価が一致を見ると共に、遂に分析状況は終了するのである。
しかし、これは飽くまで、患者にとっては分析者を必要とする分析の終了を意味し、それまで患者であったのが、今や一個の自由な独立人である人間として、彼は更に大きな成長と発展の為の自己分析 ー それは治療の全過程に於て激励されたものだが ー を遂行して生きて行くのである。
と言うのは、人間の陥る過誤や錯覚の危険は不断に人生の途上に存在する。ともすれば人間の持つ色々な欲望の要求が人間を迷わせるのである。「真の自己」の成長と発展こそ人間の自分自身に対する責任であり、倫理であると Horney は言う。人間の錯誤や迷いに対して「真の自己」を闡明(せんめい)(それまではっきりしなかったことを明確にすること)し、失敗や過失から学んで成長する自己分析こそ、分析の痛苦に満ちた経過を経て、彼が身をもって学んだものであるだけに、彼の生涯を通じて止むことのない自己実現の為に役立ち続けるのである。

 

「現実の自己」=「真の自己」+「仮幻の自己」という図式の中で、
最初は「現実の自己」=「真の自己」であったものが、いつの間にかその生育史の中で、「仮幻の自己」に覆われて行った。
それが「仮幻の自己」からの脱却と「真の自己」の回復によって
「現実の自己」の大半が「真の自己」となり、私が私を生きることができるようになるのである。
しかも、その行程に終わりということはなく、「仮幻の自己」を引き起こす問題は尽きることなく起き、「真の自己」の成長・発展も無限だからである。
そして、そのプロセスがこそ、人間がこの世界に生きて行くということの本質なのである。

それでは最終回は、この言葉をもって締め括りたい。

「『真の自己』の成長と発展こそ人間の自分自身に対する責任であり、倫理である」

倫理とは人の進むべき道である。

読者の皆さまに佳き人生を。

 

 

「若さは若者に与えるにはもったいない」
(Youth is wasted on the young

アイルランド出身のイギリスの劇作家ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw)の言葉である。

自分が年を取って来たせいか、こういう言葉が実感を持って感じられるようになって来た。

例えば、若い女性の場合、
その肉体的美しさは、悪い男によって搾取され、
豊富な気力・体力・知力も、大して重要でないことに浪費されて行く。

そんな例を数え切れないくらい見て来た。

もったいないなぁ、と思うけれど、若い頃は、周囲がいくら忠告しても、そのもったいなさに気づくことができず、
その肉体的美しさも、気力・体力・知力も、衰え始めた頃になって初めて、真実に気づき始めるのである(いくつになっても気づかない人もいるが)。

原語の“Youth is wasted on the  young”を
「若さは若者に与えるにはもったいない」と意訳せずに、
「若者の若さは浪費されるものだ」と直訳した方が、その“宿命性”がはっきりするかもしれない。

でもね、
まだわからない(言葉が入らない)とわかっていても
年を取らないとわからない、とわかっていても
こうした方がいいんじゃないかな、こうしない方がいいんじゃないかな、
と言わないではいられないこともまた
やむにやまれぬ“宿命”なのである。

 

 

前回の『兵法家伝書(1)』に続いて、『兵法家伝書(2)』をお届けする。

「何程(いかほど)学問をし、文字多く知りても、道くらき人あり。書に向(むか)ひてはよくよみ、古人の注のごとくよみながせども、道理にくらければ、道をわが物にする事ならざる也(なり)。…学びずして、天然と道にかなふ人も有る也。」(『兵法家伝書』殺人刀(せつにんとう) 上)
(どれほど学問をし、言葉を多く知っていても、真実がわかっていない人がいる。書物に向かってよく読み、昔の人の注釈書を読むように読み流して行っても、真実がわかっていなければ、真実の道を自分のものにすることはできない。…(反対に)学ばないで、自然に真実の道にかなう(生き方ができている)人もいる。)

期せずして昨日の拙誌の内容に通ずるものとなった。
「道」とは「何かが通るもの」ということ。
何が通るのか。
あなたをあなたさせ、万人を万人させ、万物を万物させる働きが通るのである。
従って、「道をわが物にする」=「道がわが物になる」=「わたしをわたしさせる働きによって、わたしがわたしして生きて行く」こととなる。
その「働き」を“体験”“体得”することがなければ、ただの本読み=受け売り知識集めに終わる。
それならば、受け売り知識などを求めないで、直(じか)に“体験”“体得”に励む方が真実の道にかなう場合もあるかもしれない。
それが柳生宗矩にとっての新陰流でもあったのであろう。
机上ではなく、剣の上にそれを求めた。
ならば、あなたにとっての新陰流は何なのだろうか。
求むべし。そして、実践すべし。

 

 

ある有名ラーメン店に実際に行ったことがないのに、ネット上の情報を見ただけで、食べて来たようなことを言うような人ってフツーいないよね。
いれば、大ウソつきやろうだ。

ディスにーランドに実際に行ったことがないのに、テレビの特集番組を見ただけで、言って来たようなことを言うような人ってフツーいないよね。
いれば、とんだ知ったかやろうさ。

エべレストに実際に登ったことがないのに、登山家の記録を読んだだけで、登って来たようなことを言うような人ってフツーいないよね。
いれば、妄想級の虚栄心やろうさ。

でもね、精神世界に関心がある連中には結構いるんだよ、こういうヤツらが。

あなた、実際に無我の体験、あるの?
エセ坐禅のなんちゃって体験じゃなくてさ。

あなた、実際にこの世界の虚構性の体験あるの?
どこかのグルのパクリじゃなくてさ。

あなた、実際に時間が崩壊したときの体験あるの?
何かの聖典の受け売りじゃなくてさ。

実際に体験がある人間から観たら、そんなの一瞬でニセモノと観抜かれちゃうよ。

人生で大して“良いこと”のなかったあなたが、何か深い精神世界のことを自分はわかっていると示すことで、自分の存在価値を誇示しようとするような哀しいことはもうやめようよ。

ないんなら、ないんでいいんだよ。

わかりません。
知りません。
受け売りの知識だけで
体験がありません。

正直にそう言うか
ただ黙っていること。

そしてそんなことをしているヒマがあったら
一所懸命に本当の行に励みましょ。
そうすれば、ひょっとしたら、あなたが本当にほしかった、真実の安寧に辿り着けるかもしれないよ。

 

 

「現代の青少年の友だち関係は、機能的といいますか、遊びとか趣味では結ばれるけれども、ほんとうの意味でお互いに人間的に結ばれる関係が少なくなっています。…こうしたことの理由の一つは、子どもが自分の家で保護されて、必要な物は与えられて勉強しておればよい状態にあることです。…
こうした物に恵まれた状況を現代の子どもの幸せと言えば言えるでしょう。しかしこのように、自分の家では物を充分に与えられ、自分の思う通りにして楽しんでいられますが、いざ友だちと一緒にやるとなると相手のあることですから、いつも自分の思い通りにはならない事が起きます。すると面白くない、つまらない、一緒にやるのがいやになります。お互いにある程度興味が共通して、趣味が共通している間はいいのですが、それだけのものでその場限りになってきます。
ですからちょっとでも共通の趣味が無くなったら、もうお互いに全然興味がなくなっていしまいます。昔の場合は、他に娯楽がなくて、友だちと遊びを中心にしながらつき合っていくうちに、自然に人間関係のあり方を覚えたものです。例えば友だちがわがままを言っても、ある程度我慢するし、また自分の友だちも、自分のわがままを我慢していることに気づきます。こうしてお互いに将来必要な社会的な生き方の訓練が自然にでき上がってきます。またそのつき合いの中で、それぞれ相手の特徴もわかってくる、そのようにして、人間的な面に対する理解も遊びを通じながら養ってきたわけです。…
そういうことが、いまの子どもたちには少なくなり、機会もなく、そのまま過ぎてしまうことが多いのです。とすると、必然的に、他の人と何かを『ともにする』ということがほとんどなくなります。『ともに』する人が友だちなのです。…
そういう点では、友だち関係のいちばん深いものは運命共同体の中で生れるものでしょう。昔の戦友などというのはそうでした。生死を共にするような状態になってくると友情は深くなるわけです。運命を共同にするのですから非常に緊密になったものです。いまでは生死を共にし、運命を同じくするなどということは、全くといっていいほどありません。物質的、経済的に安定して何の危険もなく、すべて安全です。別に友だちがいなくても完全で、しかも楽しみはある。ちょっと淋しいと思った時にしゃべる友だちがあればよいという程度で、友情などもごく浅い、人間関係としても淡いものになってきました。」(近藤章久『感じる力を育てる』より)

 

令和の今の人間関係を先読みされたような近藤先生の洞察には驚かされます。
友だちいない。恋人いない。パートナーいない。別に欲しくもない。自分の中に小さく小さく閉じた世界の中での幸せ。
そう。自分以外の人間は思い通りにならないから面倒臭いのです。
だから、そうやって、一人の世界、小さな世界に閉じこもっていくのか、
それとも、思い通りにならない中で、面倒臭い中で、むしろそうだからこそ、揉まれながら手間暇かけながら培(つちか)って行く、深い人間関係というものを目指すのか。
以前、すぐに全部思い通りにならないとイヤ、というのを幼児的欲求と言いました。
思い通りにならないことも抱えて生きて行ける力のことを成熟した大人の力と言います。
それもただ抱えていくだけではありません。ラグビー選手が2、3人からタックルされても、引きずりながら前へ進んで行こうとするように、前へ前へ力勁く進んで行くのです。
現代は段々と幼児的な方に傾いて行っているんじゃないかと私も危惧していますが、その一方で、八雲勉強会やワークショップの仲間たちを見ていますと、まだまだ人と人との関係には希望があると感じています。

 

 

新選組の生き残りという人が残した言葉を読んだことがある。
正確な文言は忘れてしまったが、大意を言うと、

どんな大義があろうとも、人を斬れば、人間が荒(すさ)んでくる

ということであった。

拭(ぬぐ)っても拭っても落ちない血が手に残り、こころに残る

という。

やはり人は人を殺すようにはできていないのである。

 

アメリカとイスラエルがイランに奇襲攻撃をかけた。
そしてイランの報復攻撃も始まっている。

これもまた、どっちにどういう大義があろうとも
どう正当化しようとも
人殺しは人殺しである。
直接・間接に手を下した者たちの中には荒みが残る。

アウシュビッツ収容所でホロコーストに関わらされたドイツ兵の中には、精神に異常を来たす者が多くいたいう。

また、自宅に近い、安全なアメリカ国内の基地から、中東国内のドローンを遠隔操作して敵を殺すというハリウッド映画があった(『ドローン・オブ・ウォー』(原題はなんと“Good Kill”である)。この話は恐らくフィクションではなかろう)。
それだけの“距離”があっても、兵士は心を病む。

娑婆に生きていれば、兵士たちのように、いろいろな巡り合わせから、万止むを得ず、人を殺さざるを得ないことになることもあるかもしれない(例えば、我々においても、交通事故、失火、業務上過失致死など容易に想像できる)。
そして、その後の荒みは、浅薄なPTSD治療でなんとかなるとはとても思えない。
感情のレベルではなく、霊性のレベルで救われなければ、その荒みは癒えるはずがないのではなかろうか。
(緩和ケアでは随分浅く扱われているように思うが)これこそが霊的苦痛(spiritual pain)ではないかと私は思っている。

 

 

何年か同じ職場に勤めていると、「そろそろ〇〇くんも/〇〇さんも…。」ということで、なんらかの昇進がある=役職が付く場合がある。
昭和の終身雇用時代からの名残りではないかと思うが、実はその慣習がいろいろな問題を引き起こすことがある。

結論から言うと、人の上に立つことが向いていない人がいる。
場合によっては、人の上に立ってはいけない人もいる(なのに人の上に立ちたがる人もいる)。
具体的に言えば、その人が上に立ったばっかりに、下の者が力を発揮しにくい、やる気をなくしてしまう、さらには、病む、休職する、退職する事態にまで至ってしまう場合があるのである。

ある経営者は、
どんなに職歴が長くとも
どんなに業績を上げようとも
人望がなければ、昇進させない=役職に就けないという方針を取っている。
では、その人の功績に対して会社としてどう応えるのかというと、月給を上げ、ボーナスを上げるなど、経済的報酬で応えるのである。
これは優れた経営方針だと思う。

やっぱりね、人望がないのはダメなんです。
この人の下で働きたいと思ってもらえないようでは人の上には立てません、立ってはいけません。
(こう言うと、謙虚な人は尻込みされるかもしれないが、心配要りません。決めるのは、あなたではなく、あなたの後輩や同僚たちですから)

よって、経営者や人事権を持つ人は、現場の下の人たちの(本音の)意見をよく聴いておくことが非常に大切だと思います。

特に、会社の就業規則を作るとき、改訂するとき、会社の理念・方針を決めるとき、改訂するときなど、どうぞご一考あれ。

 

 

前回取り上げた『葉隠』の連載が、思いの外、ご支持をいただき、続編を望む声を頂戴した。
あれこれ思案の末、この度は、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の『兵法家伝書(へいほうかでんしょ)』を取り上げることとした。
『葉隠』よりは、短く、締まった引用になると思うが、
宮本武蔵の『五輪書』と並んで、近代武芸書の双璧とされる本書から学べるものは大いにあると思う。
まずは引用・解説を始めるに先立ち、本書の背景に触れておきたい。

柳生宗矩は、新陰流(しんかげりゅう)の剣術家であり、徳川将軍秀忠・家光の兵法師範として知られる。
また、臨済宗の禅僧・沢庵宗彭(たくわんそうほう)とも親交があり、時代劇などでは、父親の柳生石舟斎(宗厳(むねよし))や長男の柳生十兵衛(三厳(みつよし))が有名かもしれない。
宗矩自身は、後には幕府の大目付からさらに大名(大和・柳生藩初代藩主)にまで異例の出世を遂げ、その間に新陰流の集大成として完成させたのが、今回取り上げる『兵法家伝書』である。

 

そして今日の一文。

「兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと也(なり)。人をきるにはあらず、悪をころす也。一人の悪を殺して、万人をいかすはかりごと也。」(『兵法家伝書』殺人刀(せつにんとう) 上)
(兵法というものは人を斬ることだとばかり思うのは間違いである。人を斬るのではない、悪を殺すのである。(兵法とは、)一人の悪を殺して、万人を活かす工夫のことである)

実際に、大阪の陣では豊臣方の武者を斬ったと言われる宗矩である。
何故、そういう次第にならざるを得なかったのか、思わないではいられなかったであろう。
ただ己の栄達のために、疑問も持たずに人を斬れるほど宗矩は愚かではない。
ここも浅く読めば、一人を斬って殺しても、多くの人が幸せになれば良いじゃん、ということになる。
それではただの殺人(さつじん)の正当化の話になる。
そうではない。
己の運命に随(したが)って、己を通して働くものに随って、人を斬らざるを得なかったという思いが宗矩にはある。
それが「悪の一人を殺して」という表現を使わず、「一人の悪を殺して」というところに現れていると私は思う。

 

 

「思春期、青年期は…自分というものの発見に苦しむ時代です。
親が、小さい時から子どもの内部感覚(生命の湧き上がる感覚)を尊重し、子どもの生命をのびのびと健康に育てていると、この時期を通じて自分の個性、独自性に目覚め、自覚することは比較的楽ですが、それでもいままでの経験や考えではわからない、未知の問題が起こってくるたびに、青年たちはずいぶん苦労するものです。
特に、成長にともなう生命力は強く、それを感じる内部感覚はさまざまな形で、はげしく身内を衝き上げます。その量や経験が多いために、それを整理したり方向づけることがなかなか困難で、ともすれば混乱するものです。…
しかしこの時代は、人間が成長して自分自身になるために避けられない、通貨しなければならない時代です。まずそう覚悟していただきたいのです。…
また青年期は、親に知られぬ秘密を持つと言われます。…しかし私は、この秘密を持つところに、青年が自分の内部感覚によって自分の考えを明確にし、自分で判断し、確信と責任をもって行動する、独立人への第一歩を模索する姿をみます。
ともあれ、このように内部が敏感で不安で、自分がはっきりしていない状態にある時に、そこから脱する方法として最も手近でやり易いのは、自分を外側の他人と比べて、相対的に自分の価値を定めるやり方です。…
そこで青年は無自覚に、敏感な関心を外に向けて、他と自分とを比較して、自分の値打ちを決めようとします。しかしその場合、陥りやすい危険は、一つには自分のいちばん短所や弱点と思っているとことと、他人のいちばん優れていると感じていることとを比較することです。第二には、それを自分の致命的な弱点だと独りぎめすることです。第三には、そればかりに気を取られて、極端になると他のことを考えられなくなることです。…
自分と他人を比べて自分の欠点を過大視し、独断的に自分を価値のないものと感じるのを劣等感といいますが、一方では自分の長所を過大視して自惚(うぬぼ)れる優越感もあり、ともに青年期の多い現象です。そして一般的には、劣等感を感じて苦しむ方が多いのです。…
しかし根本的には、この時期の特徴は、青年の中に宿る生命が、その進路や方向を求めて、揺れ動き、不安に悩みながら真剣に模索している状態であると言えます。…しかしその苦悩の中で、もがき、耐え、努力する過程に成長があり、発展がうまれ、自分の中に宿る生命のほんとうの願いを見ることができるのです。…
この理解に立って、ただ親であるばかりでなく、共に一人の人間として人生を生きて行く先輩、友人として、暖かい共感とともに、ある距離を置いて、大きく見守る、寛容な態度を取ってもらいたいと思います。…
こうした親の理解は、別の言葉で言いますと、子どもに宿る生命の力を信ずるということです。当然なことに子どもたちは、信じられていることを感じるものです。信じられていることを感じますと、子どもたちの生命は生き生きと強く動いていきます。…
親のこうした深い理解に基づいた信頼の眼が注がれている時には、子どもの生命に内在する自然な回復力、健康な成長力は、必ず自分を生かす方向を見つけ、過去の苦しみの経験を生かして、力強く伸びていくものです。
」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹っ社より)

 

思春期・青年期の時代は疾風怒涛(しっぷうどとう:Strum und Drang)の時代と言われます。
しかし、どんなに荒れ狂う時代であっても、その中に、本来の自分を実現して行こうとする勁い力があることを、親が、大人が感じられるかどうか、信じられるかどうか、ということが最大のポイントとなります。
そしてそのためにはまず、親自身が、大人自身が、自分自身のことにおいて、内なる本来の自分を実現しようとする力を感じられているか、信じられているか、ということが非常に重要になります。
そうなんです。
やっぱりここでも、親と子の成長は同時、教師と生徒/学生との成長も同時、医療福祉関係者と患者さん/利用者さん/メンバーさんの成長も同時という根本原理に行き着くことになります。
どうか思春期・青年期の子どもたちに関わるときも、
そういう視点で、先輩・同朋として成長して行く苦悩とそれを上回る喜びとを共に体験して行きましょう。

 

 

かつて近藤先生がある講演の中で
「石にも生命(いのち)があるんだけどね。」
とポツリとおっしゃったことについて書いた。

振り返るに、
人間に生命(いのち)があることは感じやすいし、わかりやすい。
また、それを動植物にまで拡大しても、そこに生命(いのち)があることは感じやすいし、わかりやすい。

しかし、それが石になると、無生物になると、感性の劣化した現代人は生命(いのち)を感じにくいのではなかろうか。
それではもったいない。
それではなさけない。
たとえそれが石であろうと、無生物であろうと、その存在を存在させしめている働きを感じれば、そこに生命(いのち)が感じられるのである。

古代においては、

小さくは、例えば、勾玉(まがたま)において、その形が胎児に似ていることもあり、生命(いのち)を感じやすいかもしれないが、実は元々、石そのものに対して、石が成育したり、数を増やしたり、自ら動いたりすることを感じる“感覚”があったのである。
これは、文字通り、見た目において、石が大きくなったり、数を増やしたり、自ら動いたりすることを意味するのではなく、その無生物の石を存在せしめている働きをリアルに感じた古代人の表現なのである。
中には、子持勾玉(こもちまがたま)といって、勾玉の周囲に小さな勾玉を付けたものまで存在する。

そして、大きくは、神の依代(よりしろ)(神が降臨あるいは憑依するもの)としての磐座(いわくら)=巨石信仰があり、和歌山・神倉(かみくら)神社のご神体・ゴトビキ岩、奈良・天之石立(あまのいしたて)神社の天の岩戸などが有名である。
特にゴトビキ岩には、岩なのに、無生物なのに、有無を言わさず、生きてると感じさせるものがあり、流石、熊野三山ができる以前からある依代としての力を感じる。

こういうものをしっかり感じて行けば、翻(ひるがえ)って、人間において、自分自身において、自分以外の他人において、その存在を存在させしめている働き=生命(いのち)を感じることは、容易になるに違いないと思う。

 

 

ミラノコルティナ五輪が閉会した。

改めて
「金メダルとは何だったのか?」
と思う。

本当に金メダルを取った人はいいんです。
銀メダルを取った人もいいんです。
銅メダルを取った人もいいんです。
8位入賞した人もいいんです。
オリンピアンとしてオリンピックに出ることができた人もいいんです。

オリンピックに出場すらできなかった人がいます。
国内大会ですら、地方大会ですら成績を残せなかった人もいます。
レギュラーにすらなれなかった人もいます。

それでもね
他のことはすべて忘れて
一所懸命
朝から晩まで
寝ても覚めても
何なら夢の中でも
そのことだけ考えて練習して来た人がいます。

それは「趣味」じゃないです。
「求道」にも匹敵する
本気の一途な姿勢です。

たとえ有形の金メダルを取れなくても
人生において
そういう時間を体験できたことが
無形の金メダルを授かることであったのだ
と私は思います。

あなたのその生きざまを傍で見ていた人たち、そして、あなたを本当の意味で愛している人たちと一緒に、心からの敬意をもってあなたを祝したいと思います。

 

 

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」『葉隠(6)』『葉隠(7)』『葉隠(8)』『葉隠(9)』『葉隠(10)』『葉隠(11)』『葉隠(12)』『葉隠(13)』『葉隠(14)』に続いて、今回はいよいよ最終回『葉隠(15)』(上・聞書第一・二)

「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。圖に當らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上(のぼ)りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、圖に當るやうにわかることは、及ばざることなり。我人、生きる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。若し圖にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境(さかい)危ふきなり。圖にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道にて丈夫(じょうふ)なり。毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度(おちど)なく、家職を仕(つかえ)果たすべきなり。
(武士道というのは、死ぬことであると見極めました。(死ぬか生きるかの)二者択一の場では、早く死ぬ方に付くだけのことです。特別なこと何もありません。気持ちが据わって進むのです。計算通りに行かないのでは犬死だ、というのは、上方ふうの思い上がった武道でしょう。(死ぬか生きるかの)二者択一の場では、計算通りにわかることなど、人間には無理なことです。我々人間は生きる方が好きです。恐らくその好きな方に(それを正当化する)理屈が付くでしょう。もし計算がはずれて生き残ったならば、腰抜けになります。その境目(さかいめ)が危ういのです。計算がはずれて死んだならば、犬死や気違いと言われます。(しかし)恥にはなりません。それが武士道においては一人前のことなのです。朝ごとに、夕ごとに、改めて死んで死んで、常に死んだ身で生きているときは、武道においても自由を得、一生失敗もなく、家に与えられた職務にお仕えし切ることができるでしょう。)

 

我が身が可愛く、将来が自分の思い通りになるように計算をして、死にたくない、生きていたい、と思うのが偽らざる人間の我欲というものでしょう。
しかし、『葉隠』は「死ね」という。
武士道とは死ぬことであるという。
分別を捨て、私を捨て、命も捨てて、主君にご奉公することが武士道であると説くのです。

で、私はそれをさらに明確にしたいと思います。
即ち、「死ぬこと」を「我死(がし)」、我(が)が死ぬことと言いたいのです。
我を殺して、我が死んで、我を超えたものに、我を超えた働きにおまかせする。
そして大いなる働きのままに生かされ、与えられたミッション(肉体的に死ぬことも含めて)を果たして行く。
それこそが人間の真実の生き方、「自然(じねん)」=自(おの)ずから然(しか)らしめらるる(自然にそのようにさせられる)ままに生きる生き方なのではないでしょうか。

だから『葉隠』を読んできた最後に、私はこう申し上げたいと思います。
これは武士道だけのことではありません。

人の道といふは、死ぬ事と見付けたり。

 

 

「最近、いろいろな理由で動物性の食物を食べる傾向が増えてきていますから。どうしても女の子も体を動かし筋肉を使いたくなります。ですから運動させることが必要で。…また男の子の場合も、思春期の前にしつけておきたいのは、労働をさせることです。ちょうど体を動かしたくなる頃です。『勉強しろ、勉強しろ』と一日中、体を動かさないで勉強させていますが、これはよくありません。体を使っていろんなものを修繕させたり、責任を持ってお使いをさせたりする。例えば父親や母親を代表して、その代りに他家に使いにやるといいと思います。
いまは余りに勉強部屋に閉じこめすぎています。ちょうど湧き起こってくるエネルギーや、発達してくる筋肉を単に攻撃的に使わないで、建設的なことに使うようにしてほしいのです。そのために労働させてほしいと思います。働くこと、責任を持って仕事をすることには、やりとげる喜びが伴います。そういう喜びを子どもに感じさせてもらいたいと思います。…
ただ子どもに命令して労働させようとすると、『なんでこれを俺はやらなくちゃならないの』ということになります。そこで、代表してやらせるとか、何か使命を与えてやらせるようにしますと、自分の仕事として喜んでやるようになります。そして仕事をしてきたら褒めてやる。つまり、相手を活力に充ちた一個の生命として見て、その生命がある使命感や責任感を持ったならば、方向づけられてちゃんと働くものだ、という事実を認識することです。…
これらの、体を使って現実にあたり仕事をすることは、直接感覚とか、現実感覚を呼びおこすためのよい機会です。理屈でなく、自分の体でする経験は、知らず知らずのうちに内部に蓄積され、次第に自分というものの自覚につながってくるのです。女の子にも結婚の前に、ある程度責任をもった仕事の経験をさせてほしいと思います。現実を直接経験する機会を持たせてもらいたいのです。世の中の現実から学ぶことをしないと、とかく抽象的な、観念的な態度になってしまい、その人の人生が不安定で実り少ないことになると思うのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

「相手を活力に充ちた一個の生命として見て、その生命がある使命感や責任感を持ったならば、方向づけられてちゃんと働くものだ、という事実を認識すること」は、子どもの健やかな成長にとって必要なだけでなく、親の子育ての姿勢を育むためにも必要なことだと思います。
また、「世の中の現実から学ぶことをしないと、とかく抽象的な、観念的な態度になってしまい、」それがその後の神経症の温床になってしまいます。
体を使って現実にあたり仕事をすることは、直接感覚とか、現実感覚を呼びおこすためのよい機会です。理屈でなく、自分の体でする経験は、知らず知らずのうちに内部に蓄積され、次第に自分というものの自覚につながってくるのです
もう観念はいい、理屈もいい、外に出よ、体を動かせ、人と接しよう、直接体験を積み重ねて行こう、それが人間の成長にとって必要不可欠であることをくれぐれも肝に銘じておきたいと思います。

 

 

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」『葉隠(6)』『葉隠(7)』『葉隠(8)』『葉隠(9)』『葉隠(10)』『葉隠(11)』『葉隠(12)』『葉隠(13)』続いて、今日は『葉隠(14)』(下・聞書第十一・二六)

「安藝(あき)殿子孫軍法承らざる様にと申され候(そうろう)事。『戦場に臨みては、分別が出来て、何とも止められぬものなり。分別ありては突き破る事成らず、無分別が虎口前の肝要なり。それに軍法などを聞き込みて居たらば、疑多くなり、なかなか埒(らち)明くまじく候。我が子孫、軍法稽古仕(つかまつ)るまじく。』と申され候由(よし)。
(安芸殿は自分の子孫は軍法=兵法学を学ばないように、と言われたとのこと。「(兵法学などを学ぶと)戦場に臨むときに分別が出て、何とも止められないものである。分別が出ては(敵を)突き破ることができない、(敵の)城の入り口前では無分別が大事である。そういうときに兵法学などを聞き込んでいると、疑いが多くなり、かえって埒が明かなくなる。私の子孫は、兵法学の勉強をしないように。」と言われたとのこと。

ここでもまた(『葉隠(11)』と同じように)武士にとって「分別」が忌み嫌われています。
戦(いくさ)で、これから命のやりとりをしようというのに、分別があってそんなことができようか、という話です。
人を斬ったり、人に斬られたり、それは無分別でなければできないことです。

但し、先にも触れたように、無分別というのは、単に分別がないことをいうのではありません。
それではただの馬鹿です。
人間の分別を超えたものにおまかせすることが無分別智であり、それは軍法=兵法学などという知識を超えたものなのであります。

 

さて、次回『葉隠』は最終回を迎えます。
最後にいよいよ「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。」を取り上げましょう。

 

 

妻が続けた。

仏教で「謗法(ほうぼう)」ってあるよね。
(「謗法」とは、誹謗正法(ひぼうしょうぼう)の略で、一般には、仏の正しい教えを謗(そし)ること、悪く言うこと、非難することなどを指すが、その中には、よくわかっていないくせに自分の考えで仏の教えを説くことも含まれる。謗法は五逆罪(①殺母(せつも)、②殺父(せっぷ)、③殺阿羅漢(せつあらかん)、④出仏身血(しゅつぶっしんけつ)、⑤破和合僧(はわごうそう))と並ぶ仏教の大罪とされる)
サミーがもし禅を「趣味」でやっているとしたら、少なくとも本気で「求道」している人たちに講義や講演で仏教を説くことがあるとすれば、それは「謗法」になるんじゃないかな。
私はあなたにそんなことをしてほしくない。

「趣味」どころじゃない、「謗法」か。
最低だな。
彼は深い溜め息をつくしかなかった。

二人には近所によく行く町中華の店があった。
今、飲食業が大変な中、老夫婦でなんとか切り盛りしてやっていた。
それでも旦那の深酒が過ぎたり、競馬ですったりして、お客の前でもよく夫婦喧嘩が始まった。
褒められたものではないが、老夫婦はそれを隠さなかった。
少なくとも良い格好をしなかった。

あの二人は深い精神世界のことなど、ひとことも言わないけど、遥かに正直に一所懸命に生きてる気がする。

絞り出すような声でそう言った妻の眼からも、うなだれた彼の眼からも、大粒の涙がぽたぽたと落ちた。

そして、根が真面目な彼は、言い逃れも、逆ギレもせず、長い沈黙の中で猛省した。

オレは良い格好をして、わかったようなことを言っていた。
そしてそれを死ぬほど情けないとも思ってなかった。
こころを入れかえるよ。
これからもくだらないことをやらかしちゃうと思うけど、少なくともそんな自分を情けないと思い、乗り越えて行きたいと願うよ。
口先でなく、少しでも生きざまで示せるように。
言ってくれてありがとう。

そして二人で泣いた。

彼女が覚悟を決めてそこまで言い出すのには、わけがあった。
その数日前、彼女の妊娠がわかったのである。

サミーにはホンモノの父親になってほしかった。

 

 

彼は新進気鋭の仏教学者。
30歳そこそこで大学の仏教学科の講師となり、将来の准教授、教授は約束されていると言っても過言ではない。
学会での評価も高く、若手ながら各地からの講演依頼も増えている。
専門は禅。
自らも参禅し、国内の主だった禅寺だけでなく、海外の仏教、キリスト教、イスラム教などの坐禅、瞑想施設も研究のため訪れている。
そして参禅で出逢った女性と結婚し、すべてが順風満帆に見えた。

しかし勝負のときが訪れた。
結婚生活が2年目に入ったとき、若い妻からこう指摘されたのである。
あなたが熱心に禅籍を読み、参禅もし、国内外の宗教施設に行って、その体験や感動を語るところは、見聞きして来て、尊敬も信頼もしている。
でも、ふとプライベートなことになると、人からどう思われるかをひどく気にしたり、いろんな人の陰口や悪口を長々としゃべったり、こうしなければならぬ・こうするべきだにとらわれていたり、全く違うあなたが出て来る。
私も聖人君子じゃないから、同じようなことをやってるけど、少なくともそんな自分に対して死ぬほど情けないと思うし、そんな自分を超えて成長して行きたいと毎日毎日祈ってる。
でも、あなたからはそれが感じられないの。
サミーにとって(彼は妻からサミーと呼ばれていた)、禅は趣味なの?

これは痛烈な一撃であった。
形の上で禅に熱心なように見えて、具体的な日常の生きざまはただの俗人だったのである。
いや、正確に言えば、俗人なのが問題なのではなく、それを自覚し、死ぬほど恥じ、それを超えて行こうという切実な姿勢がないことが大問題なのであった。
奥さんの言う通り、彼にとっての禅は「求道」ではなく「趣味」となっていた。
「趣味」どころか、それは「思い上がるための手段」「職業としての生活の糧(かて)」にさえなりかねない

国内外の坐禅・瞑想施設の探訪も、そういう意味では、観光旅行の延長線上と言われても仕方なかった。

サミーは茫然となった。

しかし、奥さんにはまだ二の矢があった。

 

 

お問合せはこちら

八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。