八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

「子どもを産んだら誰でも自動的に親になるものですから、親であることは当然のことであり、それについて考えたりはしないものです。…
親になることの意味を知らずに親になっている人がほとんどでしょう。…
親であることの大きな責任、子どもという生命を育てることの深い意味、しかも自分のものではなく授けられた一個の生命を育てるのだという自覚、そういうものが親にないと困ると思うのです。
育児や教育の経験はたしかに試行錯誤をふむものではありますが、ただ単に経験というのではなく、そこに一つの自覚に伴う使命感があるだろうと思います。そういうものがいまの親御さんには欠けています。親となることがごく自然で、当り前のことのように考えられています。その自然発生的な中にもおのずから知恵があることは確かですが、その知恵が自覚されたものにならないと本物にはなってきません。
私たちが生命を与えられ、こうして生かされているということは、もちろん自分自身にとっても大きな責任を感じることですが、子どもを授かって親になるということは、一人の人間にとって、この上ない大きな責任を引受けることです。
子どもを与えられることにより、夫妻は親として、人間としてほんとうに成長し、一人前になっていくのです。たまたま縁によって、一個の独自な生命を与えられ、自らの手でこれを育てさせてもらうという感謝の気持があれば、育児、教育も、よろこんでできると思います。そうして夫妻ともども子どもと共に、自らも成長することができるのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

未熟な人間が授かるには、子どもというのは、生命(いのち)というのは、余りに尊過ぎるのです。
それでも授かったからには育てなければなりません
そうなると、他に選択肢はありません。が成長するしかないのです。
こんな未熟な親でゴメンね、一所懸命に成長して育てるからかんべんしてね。
というのが基本スタンスのはずです。
自分たちが今、何を授かったのか。
そしてそれをどうしなければならないのか。
その自覚と覚悟を持つことが自ずと要請されます。
しかし、子育ては重くて苦しいことばかりではありません。
生命(いのち)の成長の場に関われるという最高の喜びが与えられます。
だからやっぱり子どもを授かるというのは、とても有り難いことなのです。
どうかどうか尊い生命(いのち)の授かったんだ、ということを親御さんたちは忘れないで下さいね。

 

2013(平成25)年12月27日(金)付け『正しい地口(じぐち)の使い方』において
(1)「そうは烏賊(いか)のき○たま」
について取り上げた。
続いて、2019(令和元)年7月9日(火)付け『正しい地口(じぐち)の使い方Ⅱ』(何故かうまくリンクが張れません。同ページ内で探して下さい)において
(2)「下衆(げす)の考えと猫のきん○まは後から出て来る」
について取り上げた。
そして今回、「きんた○三部作」のトリとして
(3)「いいことは三つない。○んのたまは三つない」
を取り上げようと思う。
ちなみに(2)は六代目三遊亭圓生、(3)は五代目古今亭志ん生の落語で知ったものであり、そういう意味では、(1)(2)(3)すべてが江戸っこの表現と言える。

では、今回の「いいことは三つない。き〇のたまは三つない」について。

昔から「三度目の正直」という。
一回目や二回目がうまくいかなくても、三回目で初めてうまくいくことがあるから、めげないで頑張ろう、という意味合いである(他説もあり)。
ポジティブな意味と言える。

また反対に、「二度あることは三度ある」という。
一回目、二回目がうまくいかないと、三回目もうまくいかないことがあるから、用心した方がいい、という意味である(他説もあり)。
ネガティブな意味と言える。

それらに比べて、「いいことは三つない。きんの〇まは三つない」というのは、どちらかというとネガティブな意味で、三回続けてはいいことはないから、二回で満足しておけ、三回目もあると思うな、調子に乗るな、という意味合いがこもっている
しかし、ここで問題になるのは、そんなに「きんのた○」はいいことなのか?「三つ」あるのはいいことなのか?という問題である。
確かに、「〇んのたま」(精巣)は、子宝を授かる素となる精子を産生し、男性ホルモン(テストステロン)も分泌しているため重要な器官である。
万が一のときのために、一つでなく二つあった方がいいと言うのはわかるが、三つも要るだろうか。
その意味からすると、上掲の諺は
「いいこと三つは欲張りだ。き○のたまも二つでいい」
と改訂した方がいいのではなかろうかと思う。

こんなに「きん○ま」ネタばかり書いて、万が一「社会的に尊敬されるべき精神科医ともあろう者が、このような品性下劣なことを三度も書くのはいかがなものか。」というような感想を持たれた方がいらしたら、
てめぇも何、三度も読んでやがんだっ!
きんのた○も二つでいい、と言ったばかりだろうがっ!
四度めはねぇぞ!もう
読みに来るな!
…江戸っ子はこのように使用致します、はい。

 

 

あるミュージカル女優が、公演後のインタビューで、新しい分野、特に苦手さや劣等感を感じる分野への挑戦について
「弱いことを認められる“つよさ”が必要でした。」
と語っていた。

新しいことにチャレンジして行く過程で、自分のダメなところ、できないところと向き合わざるを得なかったからこそ
そして、そこから逃げ出さず、誤魔化さず、必死になって取り組んで来たからこそ
出て来る言葉だな、と敬意を表したくなった。

そして、その弱いことを認められる力の源が
その人の強い意志とド根性であれば、それは
「弱いことを認められる“強さ”」
と言うことができ、
弱いことを認められる力の源が
その人を通して働く、その人を成長させて行く働きであれば、それは
「弱いことを認められる“勁さ”」
と言うことができるであろう。

前者は、本人も周囲も気づきやすいが、
後者の働きがあることも是非感じていただきたいと思う。

自力には限界があるけど
他力には限界がない。

そして実は
「弱いことを認められる勁さ」
のことを私は
「情けなさの自覚」
と呼んでいるのである。

 

 

近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目16回目17回目に続いて18回目となった。

今回も、以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」について取り上げながら、いよいよ最終コーナーを回ってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話として読んで行っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(5)

さてこのように神経症的性格の様々の因子が、そのもたらす影響や結果と共に、それぞれ露呈されて行くと同時に、それを防衛せんとする逆の力が働き、抵抗として現われるのであるが、それが次第に分析者と患者の協力により克服されて行くことを通じて、分析は進捗(しんちょく)して行くのである。
分析が進捗するにつれて、患者は少しずつ、自分が今迄自分の本当の感情とか願望とか信念について、殆(ほとん)ど何も知らないことに気付いて来る。また、一体自分は何者であろうかと言うことを問う瞬間も現われて来る。
分析者はこういう疑問が患者に湧いて来た時、それをもっと明確に意識し、考えることを促すことが重要である。何故なら、これは神経症的な拘束がゆるんで、患者の「真の自己」が呼吸し始めたことを意味するからである。もとより、患者が最初に治療に訪れること自体の中にも、患者の夢の中にも、又自由連想の中にも、分析者は患者の「真の自己」の表現を見ることが出来るのである。
もちろんそれらを分析状況で取り扱うことも出来るが、患者にとっては少なくとも分析の初期にあっては、これを実感を以って認識することは通常困難なのである。従って前記の様な徴候が現れた時こそ、患者がそれを自分で感じ始めた時であるので、それに対して患者の注意を強く喚起し、実感を促すのに適当な時期といえるのである。
この様な事が度び重なるに連れ、一方に於ける抵抗の解明と相俟(あいま)って、患者は自分の過去から現在の自分の状態を、素直に展望し理解する心理的時点に到達する。患者は号泣し、笑い、悲しみ或はしみじみと反省する等、表現の違いはあれ、理解に伴った感情の反応を示すのである。
これは単なる知的洞察でないだけに、大きな転回点を意味する。ここで患者は始めて、神経症的理想追求 ー「仮幻の自己」の実現 ー の為に、またその要求する shoulds や claims やその pride の為に、如何に彼が自分の感情や願望や真の誇りを抑圧し、犠牲にしたか ー 彼の「真の自己」から如何に疎外されていたかを感動を以て体験するのである

 

そもそもの原点に立ち戻れば、後天的に身に付けざるを得なかった「仮幻の自己」を引っぺがし、本来の「真の自己」を取り戻して生きることこそが、我々の大目標である。
拘束されていた「患者の『真の自己』が呼吸し始めた」という表現は、なんと近藤先生らしい、実感のこもった表現なのだろう。
日々の面談において、あるいは、ワークショップの場面において、クライアントが「
号泣し、笑い、悲しみ或はしみじみと反省する」=「感動を以て体験する」瞬間に立ち会えることは無上の喜びであり、その体験と共にその人が変わる、「真の自己」を取り戻す光景は神々(こうごう)しくさえある。
私が、宝くじが百回当たっても、この仕事をし続けたいと思うのは、それがミッションであるからであり、この体験があるからである。
(自分自身も含めた)人間の成長に関わるということは、人類全員に与えられた尊いミッションであると私は確信ひている。

 

 

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」『葉隠(6)』『葉隠(7)』に続いて、今日は『葉隠(8)』(中・聞書第六・一八)。

「出家は慈悲を表にして内には飽くまで勇氣を貯(たくわ)へざれば、佛道を成就する事成らざるものなり。武士は勇氣を表にして、内心には腹の破るゝ程大慈悲を持たざれば、家業立たざるものなり。…出家は数珠(じゅず)一連(いちれん)にて鑓(やり)・長刀(なぎなた)の中へ駈け入る事、柔和・慈悲心ばかりにて何として或るべきや。大勇氣なくして駈け入らるべからず。その證據(しょうこ)には、大法事の時、焼香する和尚などが、ふるはるゝなり。勇氣なき故なり。よみがへる死人を蹴倒し、地獄の衆生を引き上ぐる事、皆勇氣の業(わざ)なり。」
(出家した者は、慈悲を表に出すが、内にはどこまでも勇気を貯えておかなければ、仏の道を成就することはできないものである。武士は勇気を表に出して、内にはお腹が破れるほどの慈悲を持たなければ、お家の仕事が成り立たないものである。…出家した者は、数珠ひとつで槍や長刀の中に駆け込むこと、柔和で慈悲の心があるだけでは、どうしてできようか。大きな勇気がなくては駆け込むことはできない。その証拠に、大きな法事があったとき、焼香する和尚が震えている。勇気がないからである。甦(よみがえ)った死人を蹴り倒したり、地獄にいる衆生を引き上げたりするのは、すべて勇気のなすところである)

 

鍋島家・菩提寺の住持であった湛念和尚の言葉です。
槍や長刀の中に駆け込む、蘇った死人を蹴り倒す、地獄に沈んでいる衆生を引き上げる、いやいや、生半可な武士も引くくらいの迫力です。
敢えて付け加えるならば、その「大勇氣」の「大」を我力の強さとしてしまっては、
人間が頑張って踏ん張ってひねり出す自力の勇気になってしまいますので、そうではなく、人間を通して働く他力の勇気であることを確認しておきたいと思います。

「大」勇気はあなたのものではない。あなたを通して授かるものなのです。
それは「大」勇氣だけでなく「大」慈悲も同じなのでありました。


 

今日は酷い目に遭いました。

何かと言うと、持病の尿路結石の疝痛発作です。
昨秋から疝痛発作がなく、毎日の水分&クエン酸摂取で、もう石がなくなったか、と楽観していましたが、現実はそんなに甘くありませんでした。
[以下、医師による実況中継ですので、リアルさがお好きでない方は読まないで下さい]

今朝起きて何の徴候もなく、面談の準備をしていたところ、まさに午前10時前になってミシッと来ましたよ。
それからみるみる激痛に変わり、面談実行不可能レベルに。
もう椅子に座っていられません。
午前中面談予約のお二方は、急遽、中止→予約変更とさせていただき(大変申し訳ありませんでした)、すぐに鎮痛の坐薬を入れるも、今回の痛みは今までで最大かつ最長でした。
布団の上で身をかがめ、呻吟する(痛みで唸るってこういうことをいうのね)こと2時間近く。
その間も、坐薬を入れると便意を催すため、排便(こういうときは時に下痢になるのです)する度に、坐薬の入れ直し。
頭の隅で鎮痛剤の用量を計算しながら、あとはひたすら効いて来るのを待つだけ。
それが長かった、今回は。

で、ようやく正午12時過ぎに痛みは去って行きました(鎮痛剤で痛みがなくなったときに結石が尿路を落ちて行くのが私のパターン)。
去ってしまえば、痛みは跡形もなくなり、午後の面談には問題なし。
但し今回は、下痢が残り、今もまだお腹が緩い状況です。
お粥やら、念のために脂質のない食事にし、スポーツドリンクを飲んでおります。
手の甲でツルゴール反応(皮膚をつまんで離したとき元に戻るのに2秒以上かかると脱水)を見ると、まだ脱水気味。
かといって一気に飲むとすぐに出てしまうことをNHKの『明日が変わるトリセツショー』で学んだので、ちびちびちびちび水分を補給し続けています。

さて、今回のエピソードから何を学ぶか。
やっぱりやれる対策はやって(自力は尽くして)
あとは(他力に)おまかせして
祈るしかないのでありました。

痛みは人間を弱くしてくれます。
いや、そもそも弱い存在であったことを思い出させてくれます。
大変勉強になりました、はい。

 

 

後輩が精神科クリニックを開業するのだという。
奥さんが受付や事務を担当し、二人でやっていくのだそうだ。

臨床現場で大いに貢献して行ってもらいたいとエールを送ったのだが、周囲の精神科医療関係者の中に、以下のような懸念を漏らす人たちがいるのが気になった。
それは
「朝から晩までずっと夫婦二人一緒にいるっていうことでしょ。そりゃあ、きついよ。」
「夫婦は別々で働いた方がいいよ。」
などというものであった。

そう言う人たちは、間違いなく、その人自身がパートナーと一緒にいられない人たちであった。
おいおい、自分たちの夫婦関係を一般化しちゃあいかんよ。
「自分たち夫婦には無理だ。」
と言うのならいいが、
「一般に夫婦というものは一日中一緒には働けないものだ。」
というのは間違っている。

あなたたちもラブラブの頃は、ずっと一緒にいたかったのではないか?

定年退職後の夫の様子を現わすのに「濡れ落ち葉症候群」というのがあるそうな。
退職後、自らの力で新たな仕事、趣味、人間関係などを広げられずに家にいる夫は、かつては「粗大ゴミ」と言われたが、最近は「濡れ落ち葉」と呼ばれているという。
妻の買い物や外出にまで「わしも付いて行く。」と言い、しつこく付きまとう様子を、地面に張り付いてなかなか取れない濡れた落ち葉になぞらえたものである。
なんだか寂しい心持ちになってきた。
そういう「一緒に」なら、確かに要らんな。
「濡れ落ち葉」夫には新たな社会性というものを学ばせなければならない。

そうではなくて、
感情/情緒的には、いくつになっても、夫婦仲良く、互いのことを大切に思い合い、
霊的には、互いの存在を、生命(いのち)をリスペクトし、礼拝(らいはい)し合うような関係。
それを目指そうよ。

そうすれば、いくらでも一緒にいられます。
しかもあったかくて、うれしい気持ちで。




 

「私は、ひとの言葉をきく場合も自分の表現をする場合にも、実感というものをいちばん大切に考えます。実感しか価値がない。極端に言うと、実感に基づかない言葉はみな空語だと思います。一つの文章の中にも、他に大したものがなくても、一つか二つの実感のある言葉があったら私にはピーンと感じられます。それはありがたいことです。それが文章のいちばんの命ではないかと思います。
実感というものを感じれば、それはその人にとって疑いのないことなのです。疑いがないということは信じるということです。疑わないということが、信じるということです。そうなると自然に自分を信じ、他人を信じ、そして自分の生命を信じ、他人の生命を信じるようになります。自分の生命を信じている時に、自分自身が非常に健康に感じられます。このような時、たとえ誘惑があっても自然に打ち克つ力も出てきます。何かショックがあっても、自分の人生に絶望しない。自暴自棄にならない。悲観的にならないで済むと思います。ですから実感というものを何よりも大切にしたいと思います。実感は嘘を言いません。嘘の実感というものはあり得ないのです。
自分が自分自身に対して『ああ、俺はこういう欲望があるな、これもあるな』と、在りのままを知っていく、体験していくことが大切です。こういう実感、体験を重ねていくと、不思議なことに自分が愚かであることを知りながら、それでいて何となく落ち着いてきます。落ち着いて、しかも真剣なのです。大げさな身振りとかジェスチャーをしなくてもよくなります。自分に何か充実感が出てきます。どんな場面に臨んでも、サバサバして、不思議に自由なのです。人は自分を隠したり押さえつけたりすると、何かうしろめたい感じがするものですが、それがなくなってくるのです。他の人から『お前ずいぶん馬鹿だなあ』と言われても、『ああ、そうだよ』と平気で言えるようになってしまいます。…
人間関係でも…自分の心のありのままを認めて正直に語る時に、互いの共感が生まれます。お互いに相手の心の事実 ー 真実は認めざるを得ないでしょう。
このように考えると、何か人為的に子どもをよくしよう、立派に育てようというよりも、母親自身が自分自身を知っていて、自分の感じ方、願い、弱さ、愚かさ、強さを含めて自分の生き方などを自覚し、認識するということが、まず必要ではないでしょうか。…
現在の教育は…余りにも言葉や観念で人を導こうとする傾向がつよすぎます。しかし観念や言葉の力は実感の力には及びません。
子どもたちは、親の姿や日常の行動を、何気なく、しかも大切なところは全部見ています。親が気づかないうちに感じ取っているのです。親が家庭において、社会の中で、いかに生き生きと生きているかという、その具体的な事実が何よりも子どもの教育になるのです。子どもはその親の姿を、心に受けとめながら成長していきます。
そういう意味からも、子どもの実感を育てる、実感を共感し確認してやるという、親のほんとうの知恵にみたされた愛情がのぞましいと思います。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

観念的な、知識偏重の教育と同じように、現代では、疑似的な体験、バーチャルな体験も、実感からの阻害をもたらしているように思います。
時には本を閉じ、ゲームをやめ、スマホを置き、タブレットを伏せて、実際に体を動かして、人と本音で出逢い、この世界を、(自分自身も他人も含めた)人間というものを直接体験したいものです。
そこから明確な実感が生まれて来ます。
そうして、親自身がまず豊かな実感を重ねて行き、それに基づいて、自分自身をよく知るということ。
それから、子どもの実感に共感し、認めてあげることによって、子どもの感じる力を育むことができるようになるのだと思います。
これは先生と生徒/学生、上司と部下、先輩と後輩、対人援助職者と利用者、セラピストとクライアントにもすべてあてはまる真実ではないでしょうか。
このかけがえのない生を豊かなものにしていくために、すべての人に、さまざまな実感、深い実感、存在の根底に響くような実感を味わって行っていただきたいと願っています。

 

 

幼少期に親から虐待を受けて、児童養護施設に入り、その後、里親家庭で育ったという若い女性。
いつも、自分なんかに生きている価値はなく、年を取る前に自殺するだろう、という思いがつきまとっていた。

それでも里親家庭の姉妹たちのことはとても大切に思え、将来、結婚を考えている彼氏もいるという。
この矛盾。

即ち、この女性の「本来の自分」は、人を愛し、人から愛され、生きて行きたいと願っているのだけれども、
彼女の
生育史のせいで、後から付いた「ニセモノの自分」は、自分は誰からも愛されず、生きている価値もない、と思い込んでいるのである。

この闇を払うため、クライアントにいわゆる“愛情”を注ぐセラピーがしばしば行われる。
しかし、医療福祉関係者がよく経験しているように、また、彼女の里親や里親家庭の姉妹や彼氏もまた実感しているように、それだけではなかなか「自分なんかに生きている価値はない」という思いは払拭されない。
それどころか下手をすると関わっている人たちが、私が/オレがこんなに思ってやってるのに、と業を煮やし、否定的な言動を浴びせてしまうことになる展開も少なくない。
(こういう言動を取らせること自体が、実は彼女の無意識のワナなのである)

私も“愛情”を注ぐことが無意味だとは思わない。
むしろ大いに注いでいただきたい。
しかしそれだけでは足りない。

私はこんな場合にこそ“他者礼拝”を強くお勧めしたいと思う。
彼女の見えないところでかまわない。
むしろ見えないところで、こころの中で、彼女の存在に対して、手を合わせて頭を下げるのである。
彼女の存在に対して、彼女の生命(いのち)に対して、こころからの畏敬の念を示す。
“感情/情緒”よりも、“霊性”に響く方が深い。
それも、
一度や二度では何も起こらない。
彼女に関わる人たちが、彼女に逢う度に、彼女のことを思う度に、他者礼拝して下されば、それは徐々に影響を発揮して行く。

“愛情”はどこまでいっても“情”であり、いくら本気でも、それはどこか水物なのだ。
それに対して、礼拝は違う、畏敬の念は違う、霊性に響くものは違うのだ。
自分の存在が拝まれる、自分の生命(いのち)が拝まれる。

いやいや、彼女だけではない。
自分の存在が拝まれる、自分の生命(いのち)が拝まれることは、すべての人間に体験していただきたいと私は願っている。

 

 

あんさんは運がよろしいですか?」

かつて松下幸之助は、松下電器に入社を希望する人の面接で、こう訊いたという。
そしてこの質問は、その後、松下政経塾の入塾試験でも繰り返されたそうだ。

それによって、その人が肯定的な考え方の持ち主か、いわゆるプラス思考の持ち主かを判別したという解説が多いのだが、真意は故人に訊いてみないとわからない。

そもそもこの質問には根本的な問題がある。
何をもって「運が良い」「運が悪い」と言っているのかという問題である。
通常は、世俗的な成功(金とか名誉とか地位とか権力とか)、あるいは、主観的満足(我の満足)=思い通りになることをもって、「運が良い」といっていることがほとんどである。
しかし、そんな俗欲満足をもって「運が良い」というのでは、いかにも浅い。
また、どんな苦境でも、思い通りにいかないときでも、こう考えればプラスに考えられるというのであれば、これは我々の方で言う「合理化」「正当化」であって、そんなちょろまかしではいかにも浅い。

本当の意味で「運が良い」とは、何もかもおまかせして、なるようになったときに「運が良い」というのである。
世俗的な成功とか、主観的満足(我の満足)=思い通りになることではないと私は思っている。
「運」とは「運ぶ」とよむ。
大いなるものが運んでくるのであるから、我々はその流れに乗るしかないのである。
いかに世俗的な意味で「運が悪く」とも、思い通りにならなくても、おまかせして受け取るしかない。
それが「運が良い」ということの本質なのである。
おわかりか?

ではもし私が
「あなたは運が良いですか?」
と訊かれたらどう答えるか。
「めっちゃめちゃ運が良いに決まっています。おまかせして生きていますから。」
と即答するだろう。
こんな私の人生でも、世俗的に思い通りにならないことはたくさんあった。
これからもたくさんあるだろう。
凡夫な私は、こんなことを書きながらも、思い通りにならないことが起こると、悪態をついて、天を呪うかもしれない。
それでも私は間違いなく「運が良い」。
凡夫に揺れた後、間違いなく、大いなる流れにすべてをおまかせして、生きて死ねるからである。

 

 

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」『葉隠(6)』に続いて、今日は『葉隠(7)』(中・聞書第五・四七)。

ある武士が天下を取ってやろうと思い立ち、さまざまに奮闘してみたが、天下を取ったところでつまらぬ苦労に明け暮れるだけだということをさとり、出家して詠んだ歌。

「我他彼此(がたひし)と 思ふ心の とけぬれば 自己智(じこち)もなくて 無性(むしょう)なりけり
(オレだアイツだ、アレだコレだ、とこだわっていた心がなくなってみれば、(賢(さか)しらだった))自分の智慧などというものもなくなって、ただ、アレもコレもない、おまかせの世界であった)

 

我他彼此(がたひし)」=我(自分)と他(他人)を区別すること、彼(アレ)と此(コレ)を区別することを指し、これが現代語の「ガタピシ」の語源というのは面白いですね。
人間において自他の区別を超える、物質存在においてもアレとコレとの区別を超える、そして一如の世界を体験することは仏教の要諦のひとつです。
そうなってみれば、もちろん「私の」智慧なんていうものはなくて、誰がどう何がどうというもののない、一如を一如あらしめている働きだけの世界が広がっていたということを思い知らされるのです。

 

 

「起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」

誰の言葉か、秀吉、家康など諸説ある。
歴史的に段々作られて来た、という人もいる。
いかに金や権力を得ても、このちっぽけな人間が得られるのは、こんなものに過ぎない、ということをよく表している。

どんな豪邸を建てても、お城を作っても、あなたが寝て占められるのは一畳きり。
どんな美食を尽くしても、あなたが食べられるのは、お米換算で一日二号半止まり。
アレクサンダー大王も、チンギス・ハーンも、それ以上は無理だった。
(お相撲さんならもっと広く寝てもっと食べられるなんて屁理屈言わないでね)
個人には限界がある、というお話。

でもね、自分以外の人に関わるということ、それがパートナーだったり、子どもだったり、親友だったり、恋人だったり、後輩だったり、クライアントだったり、縁あって出逢った人だったり、そんな関係性の中で、もしその人が本当のその人を生きることに関わることができたならば、その人が人間的に成長して行く場面に立ち会うことができたならば、個人の枠を超えて、世界はどんどんとつながって、広がって行く。

この世界は万人・万物を成長させて行く力に満ちている、と私は思っている。
その力に、その働きに参入することができたならば、その働きにおまかせすることができたならば、このちっぽけな存在が、無限の役割も果たさせていただけるのではないか、と私は感じているのである。

アレクサンダー大王やチンギス・ハーンになるより、そっちの方が良いなぁ、私は。

 

 

1万円札でお馴染みの渋沢栄一翁は、日本資本主義の父と呼ばれ、非常に多くの分野における創業、起業、創設などで知られているが、その成功の陰でその3倍の失敗があったと言われている。
間違いなく、失敗から学んだことが成功をもたらしたのである。

世俗的な成功に余り関心はないが、その失敗から学ぶ姿勢は大いに参考になる。
そもそも我々は凡夫なれば、失敗は必定。
要はそれから後。
どこまでちゃんと失敗と向き合い、それを未来に活かすか、によって、同じ凡夫でもその将来は天地ほどの開きが生じる。

これを人間の成長にあてはめてみよう。
我々は元々がポンコツでアンポンタンなのだから、やらかしまくる決まっている。
要はそれから後。
どこまで自分のズルさ、汚さ、愚かさ、浅はかさ、軽さ、鈍さ、保身、計算、増長、思い上がりなどと向き合い、それを超えて成長して行こうとするか否か。
それが結局は「情けなさの自覚」と「成長への意欲」ということなのである。

さぁ、今年も一緒に失敗から学びましょう。
やらかすことを恐れることなかれ。
要は「情けなさの自覚」と「成長への意欲」だけ。
あなたにそれがある限り、私も全力で応援します。
そのあとはのびしろだけが待っている!

 

 

あけましておめでとうございます

今年の元旦の言葉は

「明浄正直(めいじょうせいちょく)」

を挙げたいと思います。

「明(あか)き浄(きよ)き正しき直(なお)き心」は、古くから神道で理想とされたこころの有り様であり、それは特別な努力を経て獲得されるものではなく、最初から我々に与えられたこころの有り様なのでありました。

後から付いた余計なものを取り去って、戻りたいなぁ。

自ずと我々にそう思わせるものが、この世界に働いているのであります。

 

令和八年 元旦

 

 

 

「要するに、それだけ人間というものはふんぎりが悪いのです。親自身がそういう自覚を持っていれば…我が子がそういうことをやっている時にわかるわけです。ですから人間の心理には、大人も子どももないということが言えます。つまり大人がちょっと自分でふり返って自分のことを考えれば、子どもの心理も言うこともすぐわかるわけです。大人と子ども、善人も悪人も、人間の心理としてはみな共通なのです。
私はもとより自分が、特にすぐれた人間でないことを知っています。私なりの精一杯の知恵で考えてゆきたいと思っています。愚かな者もまた生きていけますし、また生かされていくのです。愚かな者も賢い者と同様に生かされていくものだ、ということを私は感じます。それだからこそ、ありがたい。善人だけが生かされるのだったら、とてもたまったものではありません。悪人もまた生かされるところがすばらしいと思います。
人間は苦悩や欲望を持った存在、煩悩を持ちながら生きている存在ですが、それこそそういう人間が、やはり自分の中にかかえている煩悩によって教えられるのです。煩悩を経験することによって『ああ、これはつらいなあ』と苦悩を知るわけです。苦悩を知ってはじめて助けを求めるわけです。助けを求めて、助けとられる歓びを知り、そこではじめて素直になるわけです。ほんとうに愚者にかえるのです。愚かさそのものに素直になる。それまでは愚者のくせに多少は賢いつもりで、あちこちとごちゃごちゃやっているのです。…やはり己を知るということは、自分が感じるということしかないわけです。素直になってはじめて自分の愚かなることを悟り、その結果、愚かなままに救われて、ひとつの自由な境地を得られるのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

近藤先生は私の前でも「私はもとより自分が、特にすぐれた人間でないことを知っています。」と同趣旨のことを何度もおっしゃっていました。
それが形だけの謙遜ではなく、本気の言葉であることが毎回伝わって来ました。
その徹底した凡夫の自覚。
そしてその上での「
愚かな者もまた生きていけますし、また生かされていくのです。愚かな者も賢い者と同様に生かされていくものだ、ということを私は感じます。」という言葉は、本当に私の生命(いのち)に響きました。
こんなクズでも生きていける、生かされていけるのだと。
もう手を合わせて生かされて行くしかないと思いました。
素直になってはじめて自分の愚かなることを悟り、その結果、愚かなままに救われて、ひとつの自由な境地を得られるのです。」

 

そんな気持ちで来年もまた共に生かされて行きましょうね。

 

 

今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」に続いて、今日は『葉隠(6)』(中・聞書第五・四七)。

ある姫さまが外出時に見かけた他家の家臣たちに比べ、当家の家臣たちはいかにも見劣りすると、殿さまに訴えた。
それに対する殿さまの答え。
「他方の供の者は見掛(みかけ)よき男を選(えら)み、寸尺(すんしゃく)に合はせ、見場(みば)一篇に取り集めたる抱者(かかえもの)にて候(そうろう)。それ故何事と云(い)ふ時は、主(あるじ)をも見捨て迯(に)ぐる者共なり。我等が家中は譜代(ふだい)相伝の者共ばかり故、
見掛の善悪も構はず、在り合はせ候者を供に連れ候故、見物所はこれなく候へども、自然の時は一歩も引かず、主の為に命を捨つる者ばかりにて候。此方(こなた)の家は不男(ぶおとこ)が名物にて候。」
(他家の供の者たちは見かけの良い男たちを選び、背格好に合わせて、外見だけで集めたお抱え者たちである。だから、いざというときには主君さえも見捨てて逃げるヤツらだ。我々の家臣は代々仕えて来た者たちばかりである。見かけの良い悪いに関係なく、そこにいた者たちを供に連れて行ったので、見栄えのするところはなくても、万一のときには一歩も引かず、主君のために命を捨てる者ばかりである。当家は醜男(ぶおとこ)が名物である。

 

余計な解説は不要でしょう。
武士の外見でなく内面の矜持(きょうじ)を表わした逸話だと思います。

「此方(こなた)の家は不男(ぶおとこ)が名物にて候
当家は醜男(ぶおとこ)が名物である

とは、いかにもいかにもかっこいいセリフです。

 

 

八雲総合研究所は、今日で「仕事納め」である。

「仕事納め」と言っても、面談がなくなるだけで、デスクワークはほぼ三百六十五日続く。
この「塀の上の猫」ですら、休みの日はない。

いやいや、そもそも「仕事」という感覚が非常に希薄である。

世の中は「ワークライフバランス」と言うが、それは「ワーク」と「ライフ」が分かれていて初めて成立することである。
「ワーク」は、お金を得るために仕方なく働く、世を忍ぶ仮の姿。だから、できるだけ短い方が良い。
「ライフ」こそが、好きにプライベートを楽しむ本当の姿。だから、できるだけ長い方が良い。
そう嘯(うそぶ)く人もいた。

私に言わせれば、「ワーク」も「ライフ」も「ミッション」なので、両者の区別はない。

いつも原点に戻る。
この人生、何のために生命(いのち)を授かったのか。
何をやって生きて死ぬのか。
私に与えられた「ミッション」は何か。

毎年末の「仕事諫め」を、どうぞその振り返りの機会としてご活用下さい。

 

 

問題はいつも、自分が思っているよりも深いところにある。

問題はいつも、自分が思っているよりも重い。

問題はいつも、あなたが解決したいと思っているよりも、実は解決したくないと思っており、さらに実は解決したいと思っている(表現がややこしいがこれが事実である)。

 

よって、大体こんなものだろうと思って本格的なサイコセラピーを受けると、思ってもいなかった深いところをえぐられることになる。
従って、本格的なサイコセラピーを受けるときは、全く想像を絶するものが出て来たとしても向き合うしかない、という覚悟が要る。

私が近藤先生の門を叩いたときは、気づかないところも含めて自分は問題だらけに決まっているから、もうどうにでもしてちょうだい、という思いであった。
そう。
その大前提として、講演で一度しかお逢いしたことはなかったが、近藤先生への信頼があった。
大手術あるいは長い長い手術になるかもしれないが、この先生は救おうとしてくれるだろう。
何故だか知らないが、そう直観していた、そう確信していた。

優し~く、柔らか~く、傾聴して、当たり障りのないことや、いかにもクライアントが言ってほしそうなことを言うカウンセリングやサイコセラピーの方が、主観的には遥かに安心かもしれない。
でも、問題は本質的に何も解決されない。
時間だけが去り、年を取り、本格的な成長はない。
そんなことを受けるのも、するのも、私のミッションじゃないんです。
はい、

 

 

 

自験例。

クリスマスとその翌日、2日間で6号のケーキをホールの半分食べた。
美味しくいただいた。

どうってことないと思っていたが、お腹が下った。
8回トイレに行った後、今度は吐き気がして来た。
下痢と悪心、糖質と脂質の摂り過ぎによる症状であることは明らかであった

人間、一度やらかすのはしょうがない。
問題はその後。
その経験をどう未来に活かすか、が勝負である。
経験から学ばず、対策を立てず、二度目をやらかすことを本当の「愚か」と言う。

来年はクリスマス・ケーキをワン・ピースに留めることにした(やっぱり食べるんかい!)。

 

実際には、世の中に何度も繰り返す「愚か」者が(自分も含めて)たくさんいることは十分承知している。
しかし、最初からそれでいいと言えば、繰り返す回数はさらに倍増~〇倍増する。
いかに「愚か」者でも、まずは、なけなしの自力を尽くして、とめて、とめようとしてみましょう。
自分を超えた他力におまかせするのは、それからである。

 

 

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