八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

日頃、精神障害に関わる仕事をしていると、さまざまな差別に出逢うことがある。

障害者差別解消法もできたが、いまだに結婚や就職にまつわる差別から、施設コンフリクトなどの差別に至るまで、さまざまな場面に差別は影を落としている。
結局、ただの理念や思想では役に立たず(それらは建前に堕しやすい)、本音の本音でどうなのか、ということが試される。
(黒人差別を描いた映画『招かれざる客』を思い出す)

また、実はあからさまな差別主義者の方が(最初は大変であるが)本当に差別を乗り超えることができたならば、むしろ良き理解者になることが多く、
それよりも最初から理解者のようなフリをしている人たちの方が、いざというときにその差別観を露呈し、遥かに厄介なのだという話もよく耳にする。

精神医療福祉関係者の中でも、当事者やその家族の側に立った臨床や活動を長年熱心にしている人たちの中に(もちろん一部だが)どうしても胡散(うさん)臭さが払拭できない人たちがいる。
「自分は当事者の側に立ってますよ」的な言動すべてが、場合によってはその人の髪型からヒゲから笑い方からファッションまでもが、どうにもこうにも嘘くさいのだ。
そんなことを感じているのは自分だけかと思っていたら、あるベテランの精神保健福祉士の人で、私と全く同じ感触を抱いている人がいた。
やっぱりそうなんだよね。
(この感覚的なニュアンスが皆さんにも伝わっていればいいが…。)

多くの当事者や家族の方々は優しいので、そんな人間にも付き合って下さるかもしれない。
そして当人たちだけが、その偽善の本音が疾(と)うに見透かされてることに気がついていないのだろう。

 

最大の敵は味方の中にいる。

 

教訓とすべし。

 

 

来年の話をしましょう。

まずは待望のワークショップの再開です。
詳細はまだ未定ですが、来年は必ず開催します。
確かコロナ前、最後のワークショップは、2019(令和元年)秋だったと思うので(2020(令和2)年1月に国内で初めての新型コロナウイルス感染症患者が報告されたのでした)、6年以上ぶりの開催となります。
今は随分リモートでの勉強会にも慣れて来て、あのワークショップを共にして来た仲間であれば、リモートになってもすぐに“あのとき”の感覚に戻ることができますが、それでもやっぱり体験は少~しずつ劣化していくものです。
ここらで直(じか)に顔が見える、互いの存在に触れ合うことのできるワークを共にして、日常を超えた体験を、感動を通して、本来の自分を、純度の高い自分を取り戻す、大いなる機会にして行きましょう。
もちろん新たな仲間の参加も大歓迎です。
詳細決定まで、今しばらくお待ち下さい。

そして来年度(令和8年度)、八雲勉強会も新たなものにして行きます。
ちょうど来春3月には「ホーナイ派の精神分析」の勉強が終えられそうですので、4月から新たな勉強会をどのようにするのか思案中です。
こちらも
(1)新たなテーマや構成、開催形態
(2)出席者参加型を重視
(3)新しい仲間も参加しやすい形
などを考えていますが、ご希望・ご発案がありましたら、面談の際でも、勉強会の際にでも、どんどんとお知らせ下さい。

コロナ以降は、いつの間にか、活動を継続することが中心となっていた気がします。
来年は、本格的な活動再開からさらなる発展へ。
どうぞお楽しみに。

 

 

今日は「エラソーなヤツ」ではなく「エライ人」の話。

ホントに「エライ人」のことである。

最近、巷の親や、先生(医師、教師など)や、老人(敢えて高齢者ではなくこう呼ぶ)などについて“軽く”なったということがよく言われる。
確かに、明治、大正、昭和中盤までの親、先生、老人は軽くなかった(軽くない人が多かった)。 
重みがあった。
威厳があった。
一家言あった。
その人の中にブレない生き方の軸があった。
そういう意味で、ホンモノの「エライ人」がいたものである。

もちろん全員ではなく、その中にはただの「エラソーなヤツ」が混じっていたので、そういう連中は除く。ただ我が強いだけの勘違いヤローは別である。

最近の親や先生や老人たちの方が親しみやすく、話しやすく、分け隔てない感じになって来たのは、私も悪いことではないと思っている。
しかし、いざというときにね(いざというときだけでいいんですけど)、重みがない、頼りない、ブレない生き方の軸がないような気がする。
これはちょっと問題なんじゃないかな、と思う。

つまり、ことの本質は、軽いか重いではなくて、親や先生や老人という人生の先輩たちが、さまざまな体験を活かして、ブレない生き方の軸、それは即ち、本来の自分を生きることであったり、本当の意味で自分以外の人を愛することであったり、ミッションに生きて死ぬ覚悟であったり、そんな生き方を体得していないことにあるのである。

私には近藤章久という非常に有り難いモデルがあった。
普段は優しく、とても親しみやすい方であったが、いざとなると、万氣溢れる、ド迫力の方であった。
そして全くブレなかった。
それは軸というより不動の柱のようであった。
そして自分を生き、人を愛し、ミッションに生きて遷化された。

世の親である方々、先生である方々、老人である方々、成長は死ぬまで続く。
共に人間として成長して行こうではありませんか。
自分を生き、人を愛し、ミッションに生きて死ぬために。
そして、子どもたちは、生徒たちは、後進たちは、あなたの生きざまを観ています。


 

「そもそも私は、ほんとうは死んでいる人間なんです。
あれは、箱根で水上スキーをやっていたときのことでした。私は、五十いくつぐらいかのときよく水上スキーをやっていたのですが、そのときは自分のワイフに教えようと思ってやっていたのです。
モーターボートの運転手に『はい』と合図して、スピードがだんだん出てグーッとロープが引っ張られたとき、何が何だかわからないうちに、私は水中にひっくり返ってしまったのです。そして水をガブガブ飲んでしまったんです。あっ、これは死にそうだ、このままいったら死ぬなと思いました。ああいうときに、どうしてあんな気持ちがおきたのかわからないですけれど、どういうものか、私は水のなかで非常に静かな気持ちになっていました。すごく静かな気持ちです。自分はすごいスピードで水の中を引っ張られているのですが、目の前を通る水が見えるのです。静かな気持ちで見えるんです。見えると同時に自分の足が見えるんです。その足がスキーとモーターボートをつなぐロープにからまっているのがわかったのです。それを見て、このまま死ぬんだなと思ったときに、ふっとロープを手でつかめた。それでありがたいことに一本の足がロープからはずれたんです。それから次の足がはずれて。ポカッと水面に浮きあがったのです。太陽がサンサンと湖の上に照っている。すばらしく美しい。生きているとはすばらしいことだと思いました。
この体験以来、死ぬということはあんまりこわくない。『死』自体はね。もうひとつ私には死に近い体験があるのです。
戦時中のことです。私は通信兵としてその夜、沖縄に向かうことになっていました。昼に、穴掘り作業をやっていたのですが、そのとき私の戦友が少し気が変になって、ツルハシを振りまわしたんですね。それが私の手にあたって、手が麻痺してしまったんです。そうしましたら、おまえでは通信の役に立たない、だから連れていかないというので、他の人が行くことになったのです。私の部隊は深夜三時に沖縄に向けて出発しました。一緒に行くはずの私は見送ることになったのでした。自分としては沖縄に行くことは死ぬことだと思っていました。部隊は沖縄へ行く途中、南シナ海でアメリカの潜水艦に爆撃されて全滅です。あのとき、戦友がツルハシを振りまわしていなかったら、私はいまこうしていられませんね。
こういう人間という存在の意味を考えますと、人間が最初にいのちを与えられるとき、赤ん坊にも親にもわからないけれど、どんないのちにもその独自の生きる意味が与えられているということが私には強く感じられる。そして、その独自のいのちが持つ『使命』が完了したときに死が訪れるものだと思うのです。苦しんだり嘆いたり、つらい思いをしたり、どうしてこんな目に遭うのだろうと感じたりしますが、そこにその人のいのちの大きな意味がある。その意味を果たしたときに、私は死が訪れてくるのだと思うのです。そのときにはじめて、もうおまえは帰ってきていいよ、と生まれたところへ帰ってくる。ふるさとに帰ってくることができるのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

可能ならば、自分がいのちを与えらえた意味を知りたいと思います。
自分に与えられた使命を知りたいと思います。
そしてそれを生き、それを果たしてから死にたいと思います。
少なくともわたしはつよくつよくそう思うのです。
ニセモノの自分を生きて死ぬのはイヤです。
上っ面の満足で生きて死ぬのもイヤなんです。
ちょろまかしの人生でへらへ生きて死ぬなんてまっぴらです。
人間の「成長」とは、結局のところ、自分に与えられた使命を知り、それを果たして生きて死ぬことを指しているのだと思います。

 

 

エラソーなヤツがいる。

ホーナイ的に言えば、「自己拡大的支配型」の神経症的人格構造の持ち主であり、
DSM-5-TR的/フロイト的に言えば、「自己愛性パーソナリティ症」の人に多い。

しかし、そんな“専門的な”用語で語るよりも、エラソーで、上から目線で、支配的/圧政的で、自慢話/自己礼賛が多く、独善/独断的で、他罰/他責的で、傍にいて暑苦しくて/鬱陶しいヤツと言った方がイメージしやすいかもしれない。

「あぁ~、あいつみたいなヤツね。」とあなたのまわりにいる人の中でも、顔と名前が浮かぶだろう。

で、そんな人でも成長するのか、という話になる。

大抵は、「あんなヤツ、無理だよ。」「一生変わんねーよ。」ということになる。

しかしね、人間である限り、そんなヤツのこころの奥底にも「真の自己」(本来の自分)がある限り、成長する可能性があるのですよ。

但し、条件が二つ。
その二つとは何か。
結局、いつも申し上げている二つということになる。

一つは、「情けなさの自覚」。
自分自身で
「いつまでこんなくっだらない見栄を張ってんだろ。あ~あ。」
と思えて来れば、可能性の光が射して来る。
しかし、虚勢を張って、突っ張らかって生きて来た彼/彼女にとって、自分の非、劣ったところ、ダメなところを認めるのは大層難しい。
これが第一の関門。

心底の情けなさから、それまでの虚勢を捨てる覚悟ができて来るかどうか。

そして二つ目は、「成長への意欲。」
具体的な言動において、
一面では、自分の虚勢を張った言動を取り締まり(出ないように一つひとつ叩き潰す)、
もう一面では、
自分の非、劣ったところ、ダメなところを積極的に公言する。
これができるどうか。
それが第二の関門。
これは余程の「成長への意欲」がないとできないことであるが、実践できればまわりに与えるインパクトは大きい。
「へぇ~、あの〇〇さんがねぇ。」
と周囲の見る眼が変わって来る。
但し、気を抜くとすぐにエラソーになるので要注意。
元の木阿弥的言動が出れば、
「やっぱり人間は変わらないよね。」
とダメなレッテルを貼られてしまう。

私の経験上でも、このタイプの人が変わるのは確かに難しい。
しかし、数は少なくとも、ちゃんと変わった人が現にいらっしゃるということも強調しておきたい。
「やっぱり人間は変わるんだ。」
「後から付いたニセモノの自分を払い落として、本当の自分を取り戻すことができるんだ。」
ということにおいて、難しいが故に、成功した人は後に続く者の希望の星となる。

よって、大事なポイントは、虚勢も張れないくらい行き詰まるかどうか、ということになる。
人間、やっぱり、弱った方が良いのよ。
人間は弱って初めて謙虚になり、本当の成長への道筋が見えて来るのである。

 

 

小学生からスポーツひと筋。
朝から晩まで、なんだったら夢の中まで、どうやったらうまくなれるかだけを考えて練習して来た。
ボーイフレンドもなし、服装はいつもTシャツかジャージ、もちろん化粧もなし、勉強は進級に必要なだけ。
進学はいつもスポーツ推薦。
部の寮住まいで、すべて練習、練習、練習。
遠征はすべて親がバックアップ。
そして彼女のひとつの集大成が高校のインターハイだった。
目指すはもちろん日本一。
それだけのために他のすべてを捨てて、練習して来た。
しかし健闘空しく、無念の敗退。

前説明が長くなった。

そして流した涙を見た。
両方の眼(まなこ)から大粒の涙がぽろぽろぽろぽろと溢れた。

これほど綺麗な涙を見たことがなかった。
胸を掴まれるほど感動した。

小さな子どもたちの涙も綺麗だが、こんなに苦労はしていない。
勝利や達成の涙も綺麗だが、敗北や失意の涙の方が美しい。

なんでだろうね。

死ぬほど一所懸命にやった上で、思い通りにならなかったことを受け入れようとして流す涙は、本当に綺麗だった。

 

 

近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目に続いて15回目となった。

今回も、以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」に入り、終盤となってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話であることを読み取っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(2)

さて、この様な観察を横糸とするならば、分析関係は患者の自由連想(広く夢や日常生活に於ける反応を含む)を縦糸として発展して行くのである。
自由連想は患者が自分の心の中に浮んで来ることを、どんなつまらないことでも、心に浮んで来たままに、出来るだけそのままに表現して行くことである。これは、必ずしも自由連想が患者の心的事実のすべてを完全に、忠実に現わしていると言うことではない。
しかし、患者の日常生活に於ける表現に比べれば、比較的に利害関係や、一定の目的に支配されることが少ないという意味で、患者の心的現実により近いということがある。内容的にも、思想や経験、想像、期待、恐怖、不安、安心、失望等の感情等が表出されるのであるが、この間にあって、言い澱(よど)み、省略し、沈黙し、回避するものも多いわけである。
しかし、患者が自分の語っているものの内的意味について気づいていない時でも、治療家は自分の知識と訓練と直観と、自己の自由連想等を動員して、患者の様々な表現や、表現しないところから次第に脉絡(みゃくらく)を発見し、そこに流れている様々な傾向を理解して行くことが出来る。
この時に要せられるのは、観察と理解に関しての安定した忍耐深い態度である。十分理解出来る事ではあるが、治療者にある神経症的な要求によって、ともすれば焦燥感に駆られて、時期尚早な解釈を与えたり、傾聴するのみ倦(う)んだり、患者の変化のないのに無力感や罪悪感を感じたりして、その結果、分析状況の発展を攪乱(かくらん)することの危険がある。
次に重要なのは、様々な神経症的潮流の間に現れる患者の「真の自己」表現であるところの健康な諸傾向に対する公平な注意深い観察である。Horney 自身は、著書に於ては分析の後期に於ける場合を除いてこのことについて明記していないが、その講義に於て強調していたものである。こ
の事は分析に於ける観察が、単に病的なものの観察ではないことが理解出来よう。
第3に留意されなくてはならない事は、分析の全過程を通じて言い得ることであるが、分析者が、この様な観察と理解にもとづいて形成して行く患者の神経症的傾向及び性格に関する心像は、一つの作業仮説であり、いつも患者の心的事実についての新しい発見によって訂正或は補足され、生きた個性的存在としての患者の性格構造に近づいて行かなければならないと言う事である。

 

上記を「THE精神分析における自由連想による治療」の話と狭く取ってしまうと、学べることが少なくなってしまうが、
人間が人間に関わるときの基本的姿勢として受け止めれば、学ぶことはたくさんある。
例えば、後半の3点について、
(1)相手を理解するときの忍耐深い態度。人間を深く理解するには時間も手間もかかる。
勉強会でも「忍耐強い」でなく「忍耐深い」という表現を使っていることへの指摘があったが、確かに「忍耐強い」では自力になり(頑張って耐える)、「忍耐深い」では他力となる(自分を通して働く力によって自ずから耐えられる)。どうしても「忍耐づよい」という表現が使いたければ「忍耐勁い」が相応しい。そんなことも勉強会では取り上げている。
(2)相手の「仮幻の自己」(闇の部分、後天的な病んだ部分)への着目だけでなく、相手の「真の自己」(光の部分、本来の自分の部分)への着目。
(3)初期の先入観で相手を決めつけず、相手のことがわかればわかるほど、その度毎に相手の「仮幻の自己」の理解も「真の自己」の理解も修正していく。
これらは深い人間理解のための基本的態度として、誰にとっても大いに勉強になると思う。

 

 

テクマカマヤコン テクマカマヤコン

マハリクマハリタ ヤンバラヤンヤンヤン

アラビン カラピン スカンピン

テクニク テクニカ シャランラ

キャノ パンプルピンプルパムポップン ピンプルパンプルパムポップン

みなさん、お馴染みの魔法アニメの呪文です。
(密教系や神道系の呪文を挙げると、“ガチ”になるのでここでは挙げません)
世代によって違うと思いますが、あなたはどれくらい聞き覚えがありますか?

で、これらを踏まえて、呪文のワークをやってみましょう。
課題はシンプルです。
あなたオリジナルの(今までにない)呪文を創作するのです。

はい、どうぞ!

 

      …5分経過…

 

はい。
できましたか?
別にカッコいい呪文を作る必要はありません。
どれだけ呪文の創作を自由に楽しめるかが目的なのです。

その証拠に、この課題(=あなたオリジナルの(今までにない)呪文を創作して下さい)に対して、幼稚園の年長児〜小学校低学年の子どもたちなら、キャアキャア言いながら創作し、誰も何も言っていないのに、勝手に大声で唱え始めるでしょう。

創作を邪魔するのは、抑圧と抵抗です。
そう。
本当の意味で、創作が自由に楽しめることと、あなたがあなたであるために必要なこととは、ベースが同じなんですよ。
そのためのワークでもありました。

 

 

「挨拶は明るく元気よく!」とよく言われる。

基本的に異論はない。
しかし、“作った”明るさや元気良さならば御免蒙(こうむ)りたい。
眼と魂が死んでる分だけ、“作った”明るさや元気良さは、見ていて余計に悲しくなる。

しかし、部活や社内、店頭で時々見かける“作った”明るさや元気良さを、嬉しそうに眺めている監督や上司、「明るくて元気良くていいわねぇ。」と本気で言っているお客の鈍感さを見ると、あきれ返ってしまう。
この鈍感さがあるから、そんな“演技”が蔓延(はびこ)るのだろう。

では、挨拶とは何か。

ひとつには、挨拶は自らの生命(いのち)の発露である。
自分を自分させようとする生命(いのち)の働きが躍動して溢れ出す。
それが挨拶となる。
幼い子どもたちの挨拶を見よ。

ふたつには、挨拶は相手の生命(いのち)への敬意である。
あなたをあなたさせようとする生命(いのち)の働きに手を合わせて拝みたくなる。
それが挨拶となる。
他者礼拝(らいはい)に他ならない。

この挨拶の本質の二面をどうぞご承知おき下さい。

そのとき、挨拶は「する」のではなく、挨拶に「なる」のである。

 

 

 

推し活をしている人が、甲斐あって推しが公演する劇場の1列目の席が取れた。
一番近くで推しが見られると大変に喜んだが、実際に公演が始まり、憧れの推しと目が合った瞬間、思わず目を逸らしてしまった。
バカ、バカ、あたし、何やってんだ! 誰か私を殴って下さい!」
れも経験値。

数カ月後、運良くまた1列目の席が取れたとき、今度は開演前から何度も気合いを入れて
「絶対に目を逸らさないで見返すんだ!」

と自分に言い聞かせる。
そして本番。
なんとまた推しと目が合った。
気合いを入れて拳を握り締め、推しの目を見返したが、なんと推しがウィンクして来た。
忽ち撃沈して固まった。
「あぁ〜、なんで何の反応もできなかったのか! こっちからもウィンクし返すことができたら!」
悔しくて眠れない夜が続く。

そしてまた数カ月後、運良くまたまた1列目の席が当たった。
今度こそウィンクし返してやる。
何度もリハーサルを行い、気合い十分で“そのとき”を迎えた。
そして目が合った瞬間、待ちに待った推しからのウィンクが来た!
全エネルギーを使ってウィンクし返す。
一瞬推しも驚いた顔をしたが、すぐに笑顔。
やったぁ! 遂にミッション・コンプリーテッドだっ!

…と思ったら、推し仲間の子は、推しからのウィンクに対して、なんと投げキッス!で返していたことを知る。
う~ん、そっかぁ~、そのまま返せばおわりというわけじゃあないのね。
もっと自由に、もっとクリエイティブにやりとりを楽しまなきゃ。

そのようにして推し活は推し活で、自分を解放する道に通じるのでありました。

 

 

「全体を眺めてみると、我々人間は好むと好まざるとにかかわらず、何かに頼って生きているということがわかります。外に出れば会社、派閥、あるいは出世といったものに頼り、家庭にあっては、妻に頼る、子どもに頼る、親に頼る。奥さんだったら夫や子どもに頼っている。
ところが、その頼りにしていたもの、これがじつは頼りにならないんだなぁ。永久不滅のしっかりとした支えなんてそうザラにあるもんじゃない。たいがい崩れやすくて不安定なものです。これは、日常生活でだれもがイヤというほど知っている、否定しようのない事実だと思います。なのに、我々はそれでも頼ってしまう。そして、いつも危機を迎えるんです。
考えてみましょうね。我々が頼り、支えられているもの ー これは『他』ではないですか? 会社も子どもも『自分以外』なんです。それらの『他』に我々は頼り、支えられている。この『他』というのは自分の思ったとおりにはならないものではありませんか。…
そうすると、最後の最後までほんとうに頼れるもの、真に自分を支えてくれるものは何か。人でもない、モノでもない、それらを超えた普遍的な支えというものがあるのでしょうか?…
私は、熟年の危機というものは、すばらしい『転換期』だと思います。それまで自分が頼りにしてきたもの、支えとしてきたものは、不安定で、もろく、実態のないもの、幻のようなものであって、それを我々は一生懸命に追いかけてきた。それが無残にも滅んでしまう。
そうすると、私たちは最後の最後まで滅びることのない、真に心の支えとなる何かを模索しはじめる。そのとき、これまでの狭い、うわっつらの考え方から解放されて、広い世界に飛び立つ出発点になるんです。すべてのものはなくなって、丸裸になった、その時点からいままでの人生と違う人生がはじまるんですね。さなぎが蝶になるように ー 。
さなぎは殻に覆われた窮屈なときです。しかし、そこに次の広い世界に出ていくチャンスが内包されている。このことを私はぜひ強調しておきたいと思います。
抽象的に申しますと、我々のいのちというか内面世界というのは、海みたいなものではないでしょうか。我々はその表面をドロ舟に乗って航海している。はじめは立派な舟だと思っていたのが、だんだんとドロが溶けていくものだから、しまった!と気づくのです。おまけにあたりには、にわかに濃い霧が立ちこめてきて、もう何も見えない。
そのときにね、直感といいますか、心の深いところから響いてくる信号を感じとるのです。いま沈まんとしている我がドロ舟のすぐ近くに、正真正銘の立派な舟があることを教える信号が ー。
もちろん、それに気づかずにドロ舟と共に沈んでいく人もいるでしょう。しかしね、この世界には、すべての人に次の舟が用意されていると思うのです。私はよく『死ー再生』ということをいいますが、今までの生活を死んで、新しい生活を生きる。この転換の時期が、これまで述べて来たような、熟年期の危機というものであろうと思います。いずれにしてもこうした場合、しばらく時をおいて、自分の感情が落ち着きはじめたころ、顔を上げ、視野を広くし、現実をはっきりと見つめて検討することです。必ずそこに、見落としていた自己を生かす道があります。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

頼りにならないものを頼りにしてきた自分の愚かさに気づくこと。
そして全く頼りない世界に放り出されること。
それがまさに、それまでの偽りの自分の“死”ということであり、我々は人生の大きな“危機”に陥ることになります。

そして、それじゃあ、本当に頼りになるものは何なのか、本当に支えとなるものは何なのか、を真剣に求め、(もうニセモノでは満足できませんから)真の答えが得られるまで七転八倒することになるかもしれません。
しかしそれは、本当の答えを得るための必要なプロセスであり、成長のために必要な“危機”であると言えると思います。
そして運よく、絶対的に頼りになるもの、絶対的な支えになるものを見つけたとき初めて、私たちの新しい、本当の“生”が始まるのです。
それは、真の意味で、私を私させるもの、この世界をこの世界させているものの発見ということができるでしょう

そうして初めて、我々がこの世に、自分に、生まれて来た甲斐があるというものです。

 

 

長年、子どもたちの問題に関わっていると、問題は子どもだけではない、背景にお母さんたちの問題が見えて来るときがある(あくまで「ときがある」である)。

しかし、お母さんたちを見ていると、それぞれに問題があるかもしれないが、それでもいっぱいいっぱいで一所懸命に生きている姿が見えて来るときがある(これもあくまで「ときがある」である)。

そしてさらに見て行くと、問題はお母さんだけではない、その背景に夫=お父さんの問題が見えて来るときがある(しつこいがこれもあくまで「ときがある」である)。

ラスボスは後から出て来るときがある(以下省略)。

では、解決法は如何。

なんのことはない。
お父さんが妻=お母さんを愛するだけで、お母さんの問題も、子どもの問題も解決してしまうときがある(以下省略)。

人間の生育史上の問題は、結局のところ、その人が愛されなかったことによって生じるのである。
よって、そのままを愛されれば、自分が自分であることを愛されれば、その人の生育史上の問題は薄まって行く。
そこが肝心。
まず、いろんな負担が集中しやすいお母さんが愛されないとね。

世のお父さん方よ、どうかあなたの妻を愛して下さい。

で、ここまで言うと、お父さん方から非難が飛んでくるかもしれない。
じゃあ、オレは誰から愛されるのか。」

これが昭和であれば、
大の男が泣きごと、言うな。
女ひとり愛せないなら、結婚なんかするな。
それぐらいの度量は自分でつけろ。
と言うところであるが、
令和だとそうはいかない。
お父さんがお父さんであることを愛してくれる、先輩、上司、セラピスト、アニキ、オヤジなどが必要となってくるのである。

…しかし、そう思うと、実は昭和でもそうではなかったか。
今から思えば、近藤先生も(私を含めて)むくつけ
き男どもを愛して下さっていたのである。

 

◆追伸◆
本当は、夫婦で互いに愛し合えたら一番良いんだけどね。
第三者からの愛は、夫婦が成長するまでの“つなぎ”と思っておくのが良いのかもしれない。

 

 

今宵は仲秋の名月。

満月は明日で一日ズレるそうだが、空気が澄んで月が見えやすいタイミングだから選ばれたという仲秋の名月を是非拝ませていただきたいものである。

以前から私は(まだ経験のない方には特に)天体望遠鏡での月面観測を強くお勧めしている。
観察は家庭用の天体望遠鏡で十分で、地球の空気の揺らぎの向こうに見える月面の神秘(と言う他ない)にきっと感動されるだろう。
但し、月面観測には、満月近く(見える月面全体が太陽光を反射している)の時期よりも、半月や三日月の頃の方が、太陽光が当たっている面と当たっていない面との境の月面の凹凸が際立ち、見ごたえがある。

また、今夜は月の近くに土星も見えるそうで、これも家庭用の天体望遠鏡で見ると、土星の環っかが土星の“耳”のように見え(期待したよりもかなりちっちゃく見える)、ガリレオ・ガリレイが土星には耳があると言った気持ちを追体験できる。

調べてみれば、あなたの近所でも天体観測会があるかもしれない。

で、今夜は、月が見えても見えなくても、心眼で観える月を愛でて、月見で一杯といきましょうか。
日本酒好きによれば、加越の「加賀ノ月」シリーズか、朝日酒造(「久保田」でお馴染み)の「得月」がお勧めとのこと。
甘党の方は「萩の月」か「月でひろった卵」あたりが良いかもしれない。こっちもいいな。

娑婆の目先の事に追い立てられがちな毎日。
ちょっと待て、一旦落ち着こう。
感性に戻る、こういう習慣はとても大切だと思う。

 

 

◆追伸◆
今回、愛で損ねた方は、11月2日(日)の十三夜で。

 

 

「至誠、天に通ず」

という言葉がある。
元々『孟子』にあった言葉であるが、孟子を愛する吉田松陰もこの言葉を大切にしていたという。
「誠を尽くせば、それが天に通じ、天をも動かす」という発想は、いかにも真面目で一所懸命な孟子や吉田松陰が取り上げそうな言葉である。
戦時教育を受けていた私の亡母でさえ、よくこの言葉を口にしていたのを思い出す。

しかしながら、私はそうは思わない。
何故ならば、これが「自力」の言葉だからである。
誠を尽くす、と口で言うのは簡単だが、一分(いちぶ)の隙もなく誠を尽くすなどということが凡夫に簡単にできるとは思えない。
徹底して厳密に観れば、誠を尽くしたつもりでどこかが漏れる、尽くしたつもりがすぐに毀(こぼ)れる。
「至誠」が可能だと思っていること自体に、人間の、凡夫の思い上がりが臭うのである。
ズバリ言ってしまえば、「至誠」を求める姿勢は「執念」「執着」に過ぎない、と私は思う。

そうではなくて、もし本当に「至誠」があるとすれば、それはむしろ天から与えられる、天から授かるものではなかろうか。
何故ならば、「至誠」ということ自体が人間業(わざ)ではないからである。
いや、そもそも「誠」(まこと=ほんとうのこと)という姿勢自体が人間業ではなく天の業である。

人間ごときが気をつけたやったことを「誠」と呼ぶのは、非常におこがましいことであると私は思う。
大いなるものはすべて天から。
これが「他力」の発想である。

「至誠、天より授く」
ならば、私も頷(うなづ)けるかもしれない。


 

出かける。
天気が変わり、雨が降り始めた。
そう言えば、天気予報で午後から雨になると言ってたな。
出かける前までは、傘を持って出るつもりだったが、忘れてしまった。
近くのコンビニで傘を買う。
そして傘をさして所用を済ませて帰る。
それだけのこと。 

これが神経症的な人だと、そうはいかない。
心の中の“見張り番”に責め苛まれる。
「何、やってんだ!」
「ちゃんと傘、持ってけよ。」
「気をつけてないから、そういうことになるんだ。」
「傘代が無駄な出費なんだよ。」
「家に余分な傘を置いておくスペースはないぞ。」
etc. etc.

何が一番まずいかというと、とにかく気分が悪くなること。
親に怒られた子ども、先生に叱られた生徒のような気分になる。 
よく考えてみれば、起きたことは、だからどうだってんだ!レベルに過ぎない。
傘一本の出費、傘一本のスペースで、地球最後の日は来ないし、市中引き回しの上、磔獄門にもならない。
(万が一傘が20本以上たまってしまった場合にはご相談下さい)
そんなことで大事(おおごと)をやらかしたような気分になる。

それが、あのとき、まだ小さくて弱かったあなたが、大人の親や先生から締め上げられたときに感じた失意と無価値感の気分なのだ。
その責め手が、今や良い年になったあなたの中に、まだ“見張り番”として残っていて、あなたを締め上げる。
そしてその“見張り番”のことを、もし親や先生が既に故人であれば“背後霊”と呼び、もしまだ存命中であれば“生霊(いきりょう)”と呼んでもいいかもしれない。
いずれにしても、そんなものは“お祓い”するに限る。
いらない、いらない。

いつまでも取り憑かせておくと、被害はあなただけに留まらず、あなたの子どもや部下・後輩たち(弱い立場にいる人)を締め上げて行く。
(上に挙げたようなセリフを子どもや部下・後輩たちに言うようになる)

“見張り番”の世代間連鎖、そりゃあ、大迷惑だわ。
それこそ“祟り”とか“呪い”と言える。

これは若い人だけでなく、年配の方々にも大いに当てはまる。
何故なら、年を重ねるほど物忘れなど、いろいろやらかしやすくなるからである。
そんなときにもし“見張り番”が残っていたら、やらかす度に無価値観と自責の念でうつっぽくなってくる。
特に若い頃からきっちりやってきた=“見張り番”に支配されてきた人ほど危ない。
だから、皆さん、今のうちに“お祓い”しておきましょうね。

そして次回、あなたが何かをやらかしたときが、絶好のワークのチャンスになるでしょう。

 

 

和太鼓を習っていた頃、例えば、新しいバチさばきを教えてもらったとする。
そして自分で実際にやってみる。
やって見せてもらった。
頭ではわかった。
しかし、やってみるとできない。
そして何度も何度も稽古する。
そして体得して初めて、実際にできるようになって初めて、その新しいバチさばきが自分のものになったと言える。
…と言えば、当たり前のことのように聞こえるかもしれない。

しかし、同じことを人間の生き方に置き換えると、なかなかそうはいかない。
例えば、私がある人のある神経症的な生き方を指摘したとする。
そうすると
「聞きました。」という。
「わかりました。」という。
しかし、また神経症的な生き方を繰り返す。
そこでまた私が指摘すると、
「前に聞きました。」という。
「わかってます。」という。
しかし、また神経症的な生き方を繰り返す。
そしてまた私が指摘すると…。

もうおわかりであろう。
「耳で聞いたことがあります。」

「頭の先でわかりました。」

「本当にわかりました。」=「体得しました。」=「生き方が変わりました。」
とは決定的に違うのである。

ですから、また私が指摘したときに、
「聞いただけで本当にわかってません。」
「頭の先でわかっただけで体得できてません。」
という返事が返って来るならば、正確である。

それくらい、「わかりました。」という言葉を使うのは、なかなか大変なのだ。

そしてその上で、
「本当にわかるまで、体得するまで、生き方が変わるまで、何度でも反復して実践します。」
と言って来る人がいれば、その人は「わかる」日が来るのが一番近い人であると言える。

 

 

 

仕事をしていて、ちょっと合間に一服したくなるときがある。

ヘロヘロになりながら無理矢理続けるより、その一服が自分をリフレッシュしてくれる。
F1レースで言えば、ピットインみたいなものかな…と思ったが、ピットインの場合は、ピットインした方が結局、最終的にタイムが早くなるという、効率主義的な、功利主義的な計算がある。

本当の“一服”は、そうではない。
結果的に、効率が悪くても、遅くなっても構わないのである。
そんな効率主義、功利主義よりももっと大切なものがある、もっと豊かなものがある、ということを体験するための一服でもあるのだ。
(但し、“逃避”としての“一服”には注意を要する。“逃避”の“一服”は、頻度が多く、だらだらと長い。それは“一服”ではない)

で、一服と言えば、喫煙で一服、喫茶で一服が一般的であろうか。
最近、喫煙は余り歓迎されなくなったが、喫茶の方は、緑茶にほうじ茶、抹茶に紅茶、そして各種フレーバーティーに珈琲などを楽しむ方は多いであろう。
そうなるとつい、和菓子やケーキなどのスウィーツもほしくなる。
それだったら折角なので、流し込むような飲み方、食べ方はしたくない。
ちゃんと味わうことをお勧めしたい。

非生産的な豊かな時間、非生産的だからこそ豊かな時間がある。

…と思っていたら、ある幼稚園児は、“お勉強”の合間に、歌って、踊って、一服するのだという。
その手があったか。
そうなると、丹田呼吸の一服、合掌礼拝(らいはい)の一服もあるかもしれない。

“一服”の世界も、なかなかに奥深いのである。

 

 

9月24日付け小欄の続き。

「自分の中にふっと、そういう気持ちがおきてくる。何か静かになってくると自分のしていることが何かおかしいとか、これは変だなとかいう気持ち、これはどんな場合でも、子どもでも感じています。もちろん大人でも感じていますが、大人のほうは理屈をいい、いろいろな疑問を合理化して、そうした気持ちを消してしまいますけれど、これは私は大事な鍵だと思うのです。その鍵を我々は与えられているのです。これは、自分の能力ではない。どう考えても自分はもっとラクなことをしたい、愉快なことをしたい、楽しいことをしたい、自分のいやなことはしたくない。自分自身を見るほどいやなことはない、けれども、それを否応なしに見せしめられるという、私は受身のかたちを使いますが、そういう感じです。これは大事なものだと思う。そこに自分にいちばん最初の救いの手が出されているのだということを感じる意味で大事だと思うのです。その声を聴き、それによって新しく変わる。そういう声を聴いて、はじめていままでは何の意味もなさなかったいろいろな先人の教えが、何かおぼろげにわかってくる。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

この「受身のかたち」というところが非常に重要です。
逆に、受身でなく、受動でなく、というのは、即ち、能動ということ。
オレが、ワタシが、する、ということ。
つまり、主語が「我(が)」になるわけです。
そうではなくて、受身、受動であるということは、オレが、ワタシがするんじゃない、主語が「自分以外のもの」であるということです。
それを感じるから、表現が「見せしめられる」と受身にならざるを得ません。
かつて近藤先生のお宅の玄関に「自在」という額が飾られていました。
先生ご自身が書かれたものです。
皆さんはこれをどう解されますか?
「自在ですか。自由自在でのびのびしてていいですねぇ。」でも良いのですが、
私はそれを見て「あれは『自ずから在らしめらるる』とよむのですね。」と先生にお尋ねしたところ、
「その通りだ。」とおっしゃられました。
感じれば、どうしても表現は受身になるのです。
そして、その主語は何なのか、何がそうさせるのか、「自分以外のもの」とは何なのか。
ここで、西行と言われるあの和歌を思い出さないではいられません

 なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

何が働いていらっしゃるのかわからないけれど、ありがたくて涙がこぼれる。
それを感じることが、まさに救いの第二章への入り口となっていくわけです。

 

 

日頃、人間が気づかないこと、無意識のことなどを扱っていると、つくづく思うのは、我々がどんなに内省してみたところで、どんなに分析してみたところで、自分で自分ことを気づけるのは、意識できるのは、ほんの一部に過ぎない、という絶対的事実である。
必ず気づかないことがある。
必ず意識できないことがある。

特に自分の
ひどいところ
汚いところ
ずるいところ
については、本当に気づきにくい、意識しにくい。

どんなに懺悔してみたところで、それはほんの氷山の一角であり、我々が気づくよりも、我々が意識するよりも、我々は、
遥かにひどい
遥かに汚い
遥かにずるい
のである

だから、最近思うのは、それなら最初から、気づかないこと、意識できないこと、込みで、頭を下げておいた方が良い、ということである。
よって、皆さんにもお勧めしておきたい。
一日一回でいいから(一日の終わり、お風呂に入ったときや寝る前など、一人になったときがいい)、すべての人に対して、すべての存在に対して、手を合わせて頭を下げておこう。
「すいません」
「ごめんなさい」
「許して下さい」

その姿勢が、あなたの我を抑え、あなたを通して働く力を発揮しやすくしてくれる。
そうすれば、ひどいなりに、汚いなりに、ずるいなりに、それでもほんのささやかなミッションを果たさせていただけるかもしれないと思う。

 

 

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