最近、いろいろなところで「利他」という仏教由来の言葉が取り上げられているが、その内容が余りにお粗末であるため、ここで気がついたことを記しておきたい。
尚、拙欄で「利他」の本質を系統的に取り上げていく余裕はないので、気がついたところから記しておく。
[1]「利他」は一方的行為である。
時に「『利他』的な行為をしているとそれが巡り巡って自分の利益になる」的な解釈を散見する。
これは「利他」とは言わない。
それは“Give and take”と言う。
どこかで見返りを要求(計算)しているのである。
それはセコい。
全く何も返って来ない、場合によってはものすごく手を尽くし思いを尽くしたのに逆恨みされたりすることもある。
それでも一方的に行う行為を「利他」という。
だから尊い。
[2]「利他」を行う主体は「私」ではない。
「利他」は人間の意図的・主体的行為ではない。
「人間を通して働く力」によって「思わず」行ってしまう、いわば、させられる行為である。
その「人間を通して働く力」のことを仏教では「仏力」とか「妙用(みょうゆう)」という。
「利他」の主語は「私」でも「人」でもない。「仏」であり「天」である。
だから尊い。
宗教用語がイヤな方は、敢えて精神分析的用語を使って「宇宙的無意識」でもよい。
そして、「私」が行っているのではないから、[1]に記したような見返りは求めない。
(「私」がやると、間違いなく、恩着せがましくなる)
[3]「自利利他」について
従って、「自利利他」という言葉を「『利他』的な行為をしているとそれが巡り巡って自分の利益になる」と解するのは全く間違っている。
「私」を通して「利他」が行われるとき、「人間を通して働く力」が「私」を貫く。
その力に「私」自身が満たされ、潤されているということになる。
それが有り難い。
これ以上の「自利」があるだろうか。
「利他」が行われるとき同時に「私」もまた恩恵を受けている。
「利他」が巡り巡って自分の利益になるのではなく、
「利他」が行われることが同時に「自利」なのである。
そしてさらに深めれば、「自他の区別を超える」というもう一段深遠な世界も開けて行くが、ここでは触れない。
まずは、こういう「利他」の基本を是非押さえておいていただきたいと思う。