「無気力、無感動と言われる若者たちがいます。多くの場合、こうした若者たちは…知能は発達しているにもかかわらず、勉強にも遊びにもその他の生活にも、打ちこんだり感動することがないのです。感動がないというのは、人と会っても自然や物に触れても、自分の実感が湧かないということです。このような青少年は…まるで心の成長しない幼児のような感じを与えます。幼児的段階というのはいわば自分が未発達な状態のことで、赤ん坊のような非常に発達段階の低い状態です。赤ちゃんには、オギャオギャとただ生存しているだけという時期がありますが、あの赤ちゃんの心の中にはまだ挫折がありません。
ところがこの無気力、無感動には挫折があるわけです。つまり、自分がせっかく伸びようとする時にブツッと芽をつまれる。また伸びると鋏(はさみ)を入れられる。まるで盆栽のようにされている状態です。極端に言えば無気力、無感動は親や社会が寄ってたかって、パチン、パチンと鋏を入れてきたことの結果、出てきている状態と言ってよいでしょう。長い間、親の満足のための功利的な考え方や知識だけを詰め込む教育を受けた結果、次第に子ども自身が、いまここに生きている、生かされているという喜び、実感を失っている姿なのです。
つまり、成長する過程で周囲の事情でじかに物にふれて感じる ー 直接感覚の世界を知らなかったことから、結局感覚というものを発達させていないわけです。しかし人間は本来、深い心の内部で直接感覚を求めています。たとえどんなに抑圧されても求め続けているわけです。…
内部感覚というのは、自分の外側のものを直接に感覚する時に体の内に湧き起こっている感覚で、私は生命の感覚であると思っています。…ところがいまの若者のように平和で保護されて…何の危険もなく暮らしていると、危機感がないので自分の中の生命の動きというものの促しを感じること、言いかえれば内部感覚を感じる機会がない。要するに危機が全くないところに内部感覚の動きがなく、必然的にアパシーが生じます。…
苦を避け楽だけを望むということは誰しも持つ願望ですが、実際は到底できない相談なのです。苦も楽も共に人生の実相であり、その両面であります。苦があって楽を感じるのが現実です。そういう人生の現実を知らせることが大事だと思います。苦労があってはじめて本気になる、苦しんで考える、真剣になる。精神が集中できる。そのあとで苦悩を突破していく喜びが生まれる。生きてゆく自信が持てるのです。…
いずれにしても、これらの若者は『自分らしい自分』『ほんとうの自分』のもととなる内部感覚が触発されていなにので、アパシー状態になっているのです。しかしその心の中には『自分らしい自分』『本当の自分』を発見しようとする欲求が深く存在しているのです。…
さまざまな例からわかりますように、青少年の苦悩や無気力、いろいろな現象は、ひとつの危機の知らせというか、自分がほんとうに生きていないということを知らせている信号なのです。
こうした青年の姿は、本人ばかりでなく、同時に両親や社会に対してその価値観に反省を求め、危機を告げている姿と言ってもよいでしょう。ともあれ青少年の苦悶する姿の中には、ほんとうの自分を知ろうという内部感覚の促しによって生きようとする、痛切な願いがかくされているのです。
根本的に…親として、一個の生命にどう関わっていくのか、その生命力の活動を親の意志のもとに妨害するのか、あるいは真にわが子の内部感覚を呼びさまし、生命の活動する力を促すように関わっていくのか、親であることの責任をもう一度しっかりと腹を据えて考えてみる必要があります。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)
「内部感覚」を発達させるためには、残念ながら、挫折や苦が必要である、思い通りにならないことが必要であるということ。
そして、そのような危機があって初めて「内部感覚」が発達し、その「内部感覚」によって「真の自己」を感じ取ることができるようになるということがまずひとつ。
そして、無気力、無感動は確かに問題ではあるけれど、それは単なる問題でなく、生命(いのち)からの信号、メッセージでもあるということ。
内部感覚を発達させ、「真の自己」を生きてくれ、という重要なメッセージ性があるのだ、ということを観抜かなければなりません。
無気力、無感動で満足している若者の生命(いのち)などあるはずがないのです。
そしてそういう若者に関わっていくためには、親にも大人にも、
「で、あなたの内部感覚は敏感に発達していますか?」
「あなたは『真の自己』を生きていますか?」
と問われることになります。
そうなるともう大人も子どもも一緒に成長していくしかありませんね。