あなたは、何かを「行うか行わないか」迷ったとき、それを決める自分独自の基準をお持ちだろうか?
今日はそのお話。
[1]まずそれを「行うべきか行うべきでないか」で決める場合がある。
その「行うべきか行うべきでないか」あるいは「行わなければならないか行ってはならないか」という基準は、あなたがいつの間にか親から/時代・文化・所属集団から/他者から埋め込まれた価値観によって決められていることが多い。
これを「埋め込まれた見張り番」による選択という。
よって、決める主体があなた以外にある、いわば、「他律的な選択」ということもできよう。
具体的には、あなたが自分以外の誰かの顔を思い浮かべながら決めるときは、この基準が使われている場合が多い。
[2]次に「行いたいか行いたくないか」で決める場合がある。
このとき、決める主体はあなた自身にある、いわば、「自律的/自立的な選択」ということができよう。
いわゆる「自己決定の原則」はここに属し、自分以外の誰かの影響によらない「主体的な選択」ということもできる。
欧米由来の個人主義的な選択基準ということになる。
これは現代日本においては優勢な基準ではなかろうか。
誰が何と言おうと我が道を行く、というわけである。
[3]そして最後に、「それを行うことがミッションかミッションでないか」で決める場合がある。
これが最も深いが、最も難しい。
このとき、決める主体は、あなた自身でも、あなた以外の人たちでもない。
あなたが「行いたいか行いたくないか」も、「行うべきか行うべきでないか」も、関係ないのである。
誤解を恐れずに申し上げるならば、それは、天が決める、あなたを通して働く力が決める、ということができる。
そしてそういうときに人は祈るしかない。
どこに天意があるのかを感じ取るために。
そしてそこにミッションがあれば、どんなにやりたくなくても、やらなければならない。やらない選択肢はない。
また逆に、ミッションがなければ、どんなにやりたくても、やってはならない。やる選択肢はない、ということになる。
いつも原点に戻る。そもそもに戻る。
我々が何のために生命(いのち)を授かったかというと、
自分以外の誰かから見て「生きるべき人生」を生きるためではなく、
自分が「生きたい人生」を生きるためでもなく、
ミッションを果たすためである、と私は思っている。
「天巧(てんこう)を亮(あき)らかにせよ」(『書経』)
((自らを通して働く)天の働きを明らかにしなさい)
とはそういうことである。
それを一生をかけて(試行錯誤しながら)実現していくのが我々の人生なのである。