『新約聖書』の中に、姦通罪で捕らえられた女が律法に従って石打ちの死刑に処せられそうになったとき、学者やパリサイ人から意見を求められ、イエスはこう答えている。
「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ石を擲(なげう)て」
(おまえたちの中で罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい)
これを聴いた彼らは良心の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれて、一人また一人と立ち去っていき、イエスと女だけになったという。

この有名な話を思い出す度、私にはこのイエスの言葉が
「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ人を咎(とが)め諭(さと)せ」
(おまえたちの中でやらかしたことのない者がまず他人のことを(上から目線で)非難し、(偉そうに)教え諭しなさい)
と聴こえて来る。

そもそも我々迷える仔羊は、相当にひどい存在である。
無数の悪行・罪過・背徳・裏切り・虚言・増長・傲慢などの罪を犯しながら、自分で気づいている/覚えているのはほんの氷山の一角に過ぎず(しかもそのほんの一部を認めて自分はなんと謙虚なのだろうと思い上がったりするくらいひどい)、
そのくせ自分のことは棚に上げて、
上から目線で他人のことをを非難したり、偉そうに他人を教え諭したりする。
他人を非難したり、他人を教え諭す資格が我々にあるかと問われれば、そのやらかしてきた行状を振り返る限り、
ないっ! 絶対にないっ! 微塵もないっ!
それが我々の偽らざる実態である。

それなのに思い上がって、勘違いして、
「先生」をやったり
「親」をやったり
「経営者/上司/先輩」をやったり
「専門職/専門家」をやったり
「権力者」をやったりしている。

ダメでしょ、それ。

しかし、じゃあ、全員がただ黙って他人に関わらないようにすれば良いのかというと、そうもいかない。
それだと誰もが成長しないままに終わる。

よって、こういうことになる。
我々凡夫には、間違っても、他人を非難したり、他人を教え諭したりする資格はないけれど、
我々を通して働く力にはその資格がある。
即ち、もし我々を通して神の御業(みわざ)が行われるならば、人を非難し、人を教え諭す資格が発生するのである。

即ち、わたしには資格がないけれど
わたしのこころの奥底に働く聖霊(仏教なら仏性、神道なら分御霊、精神分析なら宇宙的無意識)にはその資格がある。

そのときは、そのときだけは、言って(言わされて)良いのである。

 


 

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