私の面談を受けに来ている人たちは、概ね“変な”人たちである。
もっと浅く、俗世に適応し、おもしろおかしく生きても、人生は回るのであるが(実際、世間の大多数はそんなふうに生きている)、
それでは生きていられない、または、そんなふうには生きたくない人たちが面談に来られている。
よって、冒頭に“変な”と表現したが、私の本音としては、至極“マトモな”人たちであると言える(ただ少数派だけれど)。
私の役目としては、その人たちが今回の人生で生命(いのち)を授かった意味と役割を明らかにし、本来の自分を生きることを応援することであるが、
有り難いことに、面談を続けていると、少しずつ少しずつ自分が自分であることの幹が太くなってくる。
そうすると、家族の中でも、職場の中でも、所属集団の中でも、本来の自分でいられるようになってくる。
そして段々と、その人ならではの“存在感”が出て来る。
“存在感”と言っても、鬱陶しい、押しつけがましい“存在感”ではなく、ただサクラが純度高くサクラしているような“存在感”である。
おもしろいことに、今度は、その“存在感”が周囲に影響を与えて来る。
具体的に申し上げると、「浅く、俗世に適応し、おもしろおかしく生き」ることに違和感を感じている人たち(それもまた所属集団の中では少数派だけれど)が段々と寄って来るようになるのである。
親族の中に一人ぐらい“変な”おじさん、おばさんがいることが、
職場の中に一人くらい“変な”上司・先輩がいることが、
所属集団の中に一人くらい“変な”人がいることが、
「浅く、俗世に適応し、おもしろおかしく生き」ることに違和感を感じている人たちにとって、
拠りどころとなり、モデルとなり、希望となるのである。
そして、八雲勉強会やワークショップは、その“変な”人たちの集いとなり(そこではなんと“変な”人が多数派になる!)、
さらに幹を太くして、それぞれの所属集団に帰って行くのである。
だから“マトモに”“変な”人たちこそが、この世界の愛すべき同朋たちなのである。
よって、自分が“変な”ことを恥じないように。
どうぞ誇りに思ってほしいと思う。