ある浄土真宗のお寺のご住職。
普段からお念仏をこころがけて生きて来た真面目なお坊さんであった。
坊守さん(住職の妻)との関係も睦まじく、愛妻家としても知られていた。
それが妻を癌で亡くされ、後期高齢者になった頃から認知症症状が目立つようになり、遂に施設に入所された。
グループホームでは、妻が亡くなったことも忘れて、朝起きてから夜寝るまで奥さんを探し、「さっちゃん(奥さんの愛称)、さっちゃん。」と繰り返し繰り返し呼んでいた。
たまたまお寺の檀家であった人が職員としては働いていて、
「あんなに信心の篤(あつ)かったご住職が念仏を称(とな)えるでもなく、奥さんの名前ばかり呼ぶようになっちゃって…。」
と嘆いていたが、その話を聞いて、私はそうは思わなかった。
「そのご住職にとっては、奥さんの名前を呼ぶことが念仏なんですよ。」
南無阿弥陀仏と称えることだけが念仏ではない。
一遍上人のおっしゃる通り、
「よろづ生(いき)としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし」(『一遍上人語録』)
(ありとあらゆる生き物、山や川や草や木、吹く風・立つ波の音までも、念仏でないものはない)
私には、その「さっちゃん、さっちゃん。」が「寂しい」「辛い」「助けて下さい」と聴こえ、そのまま「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に、人間を超えた力におすがりします、おまかせします)」と聴こえて来るのである。