ある人が、その不幸な生育史のせいで「他者評価の奴隷」になっていたとする。
褒められれば、嬉しくなり、
貶(けな)されれば、落ち込むのである。
残念ながら、そんな人間はゴロゴロいる。
世の中の人々の大半は「他者評価の奴隷」であると言って良いかもしれない。
しかし、そこからがふたつに分かれる。
「他者評価の奴隷」の波に呑み込まれて、いつまでも一喜一憂を繰り返し続ける人間と、
(ただ「褒めて下さい。」「認めて下さい。」の「他者評価乞食」を続ける人間、と言っても良いかもしれない)
自分がそんな「他者評価の奴隷」であることに気づき、心底情けないと思い、そこから脱したいと必死に願う人とに。
即ち、「他者評価の奴隷」であることが問題なのではなく、自分が「他者評価の奴隷」であることに気づいていないこと、そして、そこから脱したいと切実に願っていないことが問題なのである。
それでは伸びしろがない。
(ちなみに、後者のように、何かにとらわれている自分を、より高次の立場から認知することを「メタ心理学」とか「メタ認知」と呼ぶ人がいるが、私が話しているのは、そんなちょっとわかったような言葉遊びではない。その認知している“当体”は何者なのか、ということが「メタ心理学」や「メタ認知」という言葉を使う人たちにはわかっていないのである。それは“私”ではない。)
上記をお読みになれば、当研究所が「人間的成長のための精神療法」の「対象」として「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の両者を(「情けなさの自覚」だけでは、ただの「反省会」「お通夜」「無力感ごっこ」に陥るので不十分である)求めている意味がおわかりになるだろう。
いつまでもこんなくっだらないことにとらわれている自分をつくづくと「なっさけないなぁ。」と思い、「そんな泥沼から必ず脱っしてやる。」と願う人が、我が同志なのだ。
私も人間をそこそこ長くやっているので、そういう人が、世の中にそんなに多くないことはもちろん承知している。
しかし、そういう人がゼロではないことも私は知っているのである。
そこに大いなる希望がある。