八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

本日までに、令和8年度(令和8年4月~令和9年3月)の八雲勉強会で使用するテキストの郵送→到着/面談時の手渡しを終えたことになっているはずです。
令和8年度の参加者全員のお手元に、ちゃんとテキストがありますでしょうか?
万が一、私のところにはない!という方がいらしたら、至急ご連絡下さい。
早急に発送致します。

メールあるいは口頭でお伝えしました通り、テキスト内容は予め通読されても結構ですし、敢えて毎回の勉強会参加時に初見で読まれても結構です。
私の方からときに禁止(予め読んではいけません)や推奨(予め読んでおいて下さい)はありません。

今年度は「縄文文化の精神性」をテーマとしていますが、今回のテキストの著者は、考古学者ではなく、経営の専門家ですので、素人だからこそ却って鋭く真理をとらえているところと、素人だからこそ暴走・大ハズレのところが混在し、ツッコミどころ満載の面白い内容となっています。
皆さんの方で、縄文文化に関する予備知識は特に要りませんので、お気軽にご参加下さい。

そして、テキストはあくまで叩き台ですので、テキストを活用しながら、一番の目的である、参加者一人ひとりの人間的成長につながる勉強会になっていけば、と思っています。

また、テキストとは別に、毎回、私の方から縄文文化に関する興味深い話題提供も行っていきたいと思っていますので、併せてお楽しみに。

我ながらチャレンジングな内容と思っていますが、私も死ぬまでおさまりかえるつもりはありませんので、一緒に挑戦して行きましょう!

 

※「令和8年度 八雲勉強会 年度参加のご案内」および「4月 第75回 八雲勉強会 by Zoom」につきましてはこちらをご参照下さい。

 

 

世の中は入社式シーズンである。

これから社会に出る、初めて本格的に働く人たちに伝えたいメッセージがある。
細事なことは、手を変え品を変え、何度でも伝えたい。
それは基本的な「仕事観」。
人は何のために働くか、ということである。

それはただ人生の時間を切り売りして、労働対価を受け取るためだけではない。
出世して権力を得るためでもない。

職務が果たせるようになることは勿論、結構なことであるが、
最も重要なことは、「人は人間として成長するために働く」という「仕事観」である。

職場という娑婆の中でも、自分が本来の自分でいられる勁さ=幹の太さを獲得し、本来の自分としてさらに成長して行く勁さ=幹や枝葉をさらに伸ばし行く、そういう成長の場が職場なのだ。

そして社員を受け入れる職場の方も、新人たちが、若き後輩たちが、成長しやすい環境を作って行く責務がある。
彼ら彼女らの成長を阻害する要因は、可能な限り、排除して行かなければならない。
そこで結局、先輩、上司たちの教育も必要になってくる。
本当は、その先輩、上司たちも入社時から教育されていればいいのだが、なかなかそうはいかない現実がある。
残念ながら、未解決の成長課題や問題を抱えたまま、先輩や上司になっている。
だから、せめて職場には、働く人すべてに「人は人間として成長するために働く」という姿勢を、方向性を徹底させて行く必要がある。
そして新人から経営トップまで、一緒に成長して行くということが、働くということの大きな目標であると私は確信している。

 

 

令和8年4月1日で、八雲総合研究所も開設15年を迎えました。
(前身の松田精神療法事務所から数えれば、5月で開業27年を迎えることになります)

長きに渡り、今もこうして面談を続けられていることに、私に与えられたミッションを感じないではいられません。
開業当初は、前例のない開業形態で、果たしてやっていけるだろうか、とも思いましたが、ミッションであればやっていけるだろうし、ミッションでなければやれなくなるだろう(そのときはまた他のことをやれという新たなミッションが下るだろう)と思っていました。

この基本姿勢は、面談だけでなく、八雲勉強会でも、ワークショップでも同じですね。
ミッションがあれば来て下さる方々がいて、ミッションがなければ来て下さる方々もいなくなるでしょう。

しかし、少なくとも今は、人間の成長に関わる、その人が本来のその人を実現していくことに関わるという、堪(こた)えられない醍醐味を味あわせていただいています。
年を重ねるにつれ、一層強く実感するのは、短い人生、ある程度以上、深い話ができる方々との出逢いは限られているということです。
繰り返し胸に去来することは、今生で逢うべき人に逢えているか、話せているか、その人の成長に関われているか、ということだけですね。

 

 

「水でいえば世の中、まみずが全部であることは期待できませんし、必ずしもそうでなくともよいと思います。まみずがまみずであるのは、濁水があるからでしょう。濁水あってのまみずです。そこにまみずの効用があるわけです。全部がまみずになってしまったら、もうまみずも存在する必要がありません。まみずがあくまでまみずとしての価値を持つのは、濁水のために必要だからです。
はっきり言って、全部がまみずになると予期することは、願望としてはともかく、観念的ではないかと思います。人間というものは基本的に、最初生まれた時から自分の中に、まみずを持っているのですが、成長するにつれて当然、世の中の濁水にもつかるわけですから、本人自身は何がまみずか濁水かわからないという状態が人間の偽らざる姿です。現実的にいって、どのような人間もこれを繰り返しています。…
人間というものが、それぞれ、自分の全生涯の経験を通じて、学んだり、悟ったりしたことをそのままわが子に伝えていくことができるならば、子どもはそれをもとにして親以上に成長することができるでしょう。しかし、それができないのが現実です。子どもはまたゼロから出発し、自分で経験していかなければなりません。…若い人はやはり若い人で、自分自身の経験を通じていろいろなことを感じ、また考えていかなければなりません。自分自身の実感として経験しなければなりません。実感とは、楽なこと、快いこと、楽しいことだけを感じるのではなく、つらいことも苦しいことも、悲しいことも嫌なことも避けないで、いろいろと実感しなければ、深い豊かな実感とは言えません。
実感し深く感じることは、生命の促しであると共にその証明です。私たちの生命が、生命であるためには実感しなければならないのです。そういう具合に一人一人がそれぞれ、自分の生命のあかしのために実感していくのが事実です。…
先ほどの濁り水の話ですが…まみずというのは濁水に対してまみずなので、どちらも水には違いありません。どちらも人間の心の姿です。まみずが濁水に転化するように、濁水もまみずに変わるものです。しかも、濁水の中にもまみずがある。そして濁水を感じるところにまみずの本来の姿が表れています。
濁水の中にいてまみずを実感し、深く感じられるからこそ、まみずを味わう喜びが出てきます。それがあるからこそ、われわれはいつも成長する喜びがあると思います。理想的に言えば、完全な姿ではじめからあればよいのですが、そんなふうに最初からでき上がっているとしたら、かえってなんのために人間は生きていくのかわからないとも言えます。生きるということは完全でないところから、ゼロから出発することです。…
よく私を、いわゆる理想主義者と勘違いした人から質問されるのですが…私はそういうことは一つも考えていないのです。私は、人間がいかに生きるかを、具体的に、人間が生きているという現実に基づいて考えようとしています。理想社会があるのか、ないのか、どうだこうだという観念上の問題ではなく、生きるということは厳然たる事実ですから、人間が生き生きと生きることが、どうしたらできるかに中心をおきたいのです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

自分の中に濁水があるという自覚を持つこと。それが煩悩の自覚。
しかし、自分の中にまみずもあるという自覚を持つこと。それが仏性の自覚。
濁水の中にいてまみずを実感する=煩悩まみれの中に仏性の存在を、働きを実感する。
そして成長して行く。
そこに生きる喜びがあるわけです。
「濁水の中にもまみずがある」とは深い言葉です。
煩悩の中にも仏性がある。
仏性の働きを感じるために煩悩がある。
そしてそれがさらに進むと、煩悩即菩提。
煩悩そのものが菩提である世界が展開することになるが、近藤先生らしく、それをほんのりと示唆されただけで言葉を終えている。

 

 

なんだか知らないけれど、悲観的になるときがある。
なんだか知らないけれど、無力的に苛(さいな)まれることがある。
なんだか知らないけれど、懐疑的/猜疑的になるときがある。
なんだか知らないけれど、他責的/他罰的にあるときがある。

そんな“闇”にはまったときは、大事な決断/選択はしない方がいい。
何故なら、その“闇”は、あなたの生育史から来ており、あのときあそこであなたが体験した悲観や無力感や懐疑/猜疑や他責/他罰が大きな影響を与えているからだ。
よって、必ず判断を間違え、後悔することになる。

そう。
その判断自体が、あなたが肯定されないで育ったことによる、自己破壊的衝動の産物なのである。

ああ、今辞めない方がいいのに退職しちゃった。
ああ、今離婚しない方がいいのに離婚しちゃった。
ああ、今退学しない方がいいのに退学しちゃった。
ああ、今治療/面談をやめない方がいいのにやめちゃった。
すべて大人のあなたが決めたことなので、誰もそれを止めはしない。
でも、決めた責任だけは確実にあなたにやってくる。

念のために付け加えておくと、本当の意味で自分を活かすための退職や離婚やいろいろな判断もある。
それと混同しないように。

感じる力の敏感な人ならすぐにわかることであるが、“闇”にはまった人間の存在から伝わってくる特有の“闇”の臭いがある。
危ない、危ない。

 

 

今までの『兵法家伝書(1)』『兵法家伝書(2)』『兵法家伝書(3)』『兵法家伝書(4)』『兵法家伝書(5)』に続いて、『兵法家伝書(6)』をお届けする。

「一 水月(すいげつ) 付(つけたり) 其(その)影の事
右、敵と我との間に、凡(およ)そ何尺あれば、敵の太刀(たち)我(わが)身にあたらぬと云(い)ふつもりありて、その尺をへだてて兵法をつかふ。此(この)尺のうちへ蹈(ふみ)入り、ぬすみこみ、敵に近付(ちかづ)くを、月の水に影をさすにたとへて、水月と云ふ也(なり)。心に水月の場を、立(たち)あはぬ以前におもひまふけて立(たち)あふべし。尺の事は口伝(くでん)すべし。」
(水月 水面(みなも)に映る月の影のこと
右のことは、敵と自分との間に、大体何尺(1尺=約30cm)あれば、敵の太刀が自分の体に当らないという見当を持って、その何尺かを離れて兵法を使うのである。この何尺かの中に踏み入り、(敵に気づかれないように)距離をかすめ盗って、敵に近づくことを、月影が水面に映ることに譬えて、水月というのである。心の内に、月の影が水面に射す様子を、立ち会う前から思い描いておいて、立ち会うこと。この尺のことは(書いたものによってではなく)口頭で伝えるように。)

 

一回読んだだけでは、わかりにくいかもしれない。
「月影が水面に映る」とは、遠くにあると思っていた月が、いきなり近くの水面に映るように、敵の太刀が届かないところにいたのが、スッと相手を斬ることのできる間合いに詰め入ることを指している。
ある文献によれば、立ち合いで実際に人を斬るのはなかなか大変で、十分に間合いを詰めて刀を振り下ろしたつもりでも、実際には腰が引けてしまい、かなり離れたところで刀を振り下ろしてしまっているのだという。よって、刀の鍔(つば)で相手を斬るくらいのつもりで、思い切って踏み込まないと、人は斬れないそうである。
月の影がスッと近くの水面に映るように踏み込んで斬る。
「水月」に必要なのは、その踏み込み切る“覚悟”に尽きる。

 

シャペロン(chaperone)とは、ヨーロッパの貴族社会において、令嬢の社交界デビューのお目付け役として、その行動を監視・指南した年上女性のことをを指す。
即ち、実質的に、世間知らずのお守(も)り役のことであるから、
現代では、例えば、いい年をして頼りない男女(男性にも拡大して)に対して、
「お嬢ちゃんのシャペロンはどこだい?」
とか
「シャペロンが必要かい? ぼうや。」
などと、特に小説や舞台で、揶揄(やゆ)的表現として使われることが多い。

今回、何故、この言葉を思い出したかというと、
現代の二十歳を超えた大人たちに、なんとも直面化できない、勝負できない人たちが多過ぎるからである。
まずは、就職しても職場の電話に出られず先輩に出てもらい、
欠勤の電話はママがして、
営業は上司の陰に隠れてやりすごし、
退職も代行会社を使い、
転職・就職もエージェントに丸投げである。

そんな例だけではない。
よろず人間関係において、面倒臭いことはイヤなのよ。  
相手の期待に応えることはイヤなのよ。 
相手の期待に応えないこともイヤなのよ。
摩擦が起きることはイヤなのよ。

思い通りにならないこともイヤなのよ。
回避する、逃避する、そして誰かに/何かに依存する。

で、である。
で、どーする?と問いたい。
今からでも、自分で直面化できる/勝負できる人間になりたいと願い、ヒーヒー言いながら実践と体験を重ねて行くのか、
それとも、これからもシャペロンに頼り続ける一生を送るのか、である。
金さえ払えば、よろずシャペロンをやってくれる会社も増えているからね。

そして結局は、あなたの人生はあなた次第で決まっていくのである。

 

 

「親が、ほんとうの意味で人間というものを理解し、人間の生命とその可能性をどう成長させ発展させることができるかとか、子どもというものはどういう存在なのかがわかった上で、方針を決めているのなら結構なのです。しかし、親の誤った価値観に基づいていたなら、生命に対して大変な危害を加えることになります。…
当然のこととして基本的に親は、子どもを幸せにしたいと思っています。それならば、果たしてどういうことが人間として幸せなことか、親自身でもわかっていなければならないと思います。…
私の見方によれば、いまの社会の構造は小賢(こざか)しい、頭だけの人間を作ろうとしているようです。昔の常識で言えば、肚(はら)とか魂のしっかりきまった人間を作ろうとしない。要するに、自分の生命力というものを正しく発展する人間を作ろうとしていないと思います。私たちの頭脳・大脳は自分の生命力を正しく使うためにあるものです。ところがこの頭脳というものの意味を知らないと、自分の功利的な目的のために誤って、生命力を害する方向に使っていくわけです。生命というものを正しく生かすための知恵を持つのが、本来の頭脳の働きなのです。これが私の考えです。…
直接的感覚または内部感覚というのは、人間の生命力から出てくるものです。人間そのものの内部に潜んでいる生命についての感覚です。それは誰にも内在しているもので、否定したりなくすことはできません。そして、それぞれが自然に持っている生命の力を妨げた時の最初の反応として起きるのが病気です。その生命力を絶対的に妨げたら、訪れるものは死です。死は生命の反対です。ですから直接的な内部感覚というものを、私が強調するのは、それが生命そのものの発露だからです。これがないと、生きるという感覚がなくなります。…
生命は毎日毎日の生活で何かを感じています。生きがいにしても難しい理屈ではなく、生きている甲斐があるという感じ、生きている充実感、ああ自分は生きている、そうした感じなのです。この感じがなくては生きているということがわからないのです。
生きていることは、感じることです。感じがなくなってしまったら、人間は死んだと同然です。実際死んだ時、人は感じることができないのです。…
感じることの積み重ねが人間として生きていくことに、大きな意味を与えてくれるのです。“ほんとうに生きているのだ”ということを感じられる。その感動の深さが、その人の人生の豊かさにつながるものですから、この感じる力を実感する能力を、大切な能力として、子どもの中に育てていきましょう。
全ての生きとし生けるものはそれぞれ、独自の生を受け、それぞれのものがそれぞれの形で生かされています。
自分のもとにあらわれた生命の姿である子どもに、親の所有物として親の方針を押しつけるのではなく、その生命の発露である実感を尊重し、いろいろなものに触れて感じる力を発展させ、それによって子どもの生命力を強く発揮させ、ほんとうの人間としてのたくましい成長へと導いていくことを心掛けたいものです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

ああ、今まぎれもなく自分がここに生きている、生かされている、と感じなくて、一体何の人生なのでしょうか。
わたしをわたしさせ、あなたをあなたさせ、世界を世界させている働きのことを生命(いのち)というのです。
その感覚、その感動、その体験がなければ、とても生きているとは言えません。
金が何になるのか。
物が何になるのか。
名誉が何になるのか。
権力が何になるのか。
感じましょう、生命(いのち)の躍動を
感じましょう、生命(いのち)の発露を。
感じましょう、生命(いのち)の歓喜(よろこび)を。
そのために我々は生まれて来たのですから。

 

花見とは何か。

それは、私が対象物としての桜を鑑賞することではない。

花咲く桜を機に、桜を桜させようとしている働きを感じ、それが私を私させようとしている働きと同じであるということを感じるのが花見である。

西行は詠(うた)った。

 花見れば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ 苦しかりける

(桜を見ると、その理由はわからないけれど、心の中が苦しくなってくる)

西行がその理由を知らないはずがない。
桜は桜しているのに、どうしておまえはおまえしないのかと、桜が私に迫るのである。

そうして、桜が桜し、私が私したとき、桜と私は最早、別の存在ではなくなるのだ。

それが花見。

そんな愛(め)で方もあるということを知っておいていただきたい。

 

 

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