八雲総合研究所

主宰者の所感日誌    塀の上の猫
~ 八雲総合研究所の主宰者はこんな人 が伝われば幸いです ~

所感日誌『塀の上の猫』

ある人が、その不幸な生育史のせいで「他者評価の奴隷」になっていたとする。

褒められれば、嬉しくなり、
貶(けな)されれば、落ち込むのである。

残念ながら、そんな人間はゴロゴロいる。
世の中の人々の大半は「他者評価の奴隷」であると言って良いかもしれない。

しかし、そこからがふたつに分かれる。

「他者評価の奴隷」の波に呑み込まれて、いつまでも一喜一憂を繰り返し続ける人間と、
(ただ「褒めて下さい。」「認めて下さい。」の「他者評価乞食」を続ける人間、と言っても良いかもしれない)
自分がそんな「他者評価の奴隷」であることに気づき、心底情けないと思い、そこから脱したいと必死に願う人とに。

即ち、「他者評価の奴隷」であることが問題なのではなく、自分が「他者評価の奴隷」であることに気づいていないこと、そして、そこから脱したいと切実に願っていないことが問題なのである。
それでは伸びしろがない。

(ちなみに、後者のように、何かにとらわれている自分を、より高次の立場から認知することを「メタ心理学」とか「メタ認知」と呼ぶ人がいるが、私が話しているのは、そんなちょっとわかったような言葉遊びではない。その認知している“当体”は何者なのか、ということが「メタ心理学」や「メタ認知」という言葉を使う人たちにはわかっていないのである。それは“私”ではない。)

上記をお読みになれば、当研究所が「人間的成長のための精神療法」の「対象」として「情けなさの自覚」と「成長への意欲」の両者を(「情けなさの自覚」だけでは、ただの「反省会」「お通夜」「無力感ごっこ」に陥るので不十分である)求めている意味がおわかりになるだろう。

いつまでもこんなくっだらないことにとらわれている自分をつくづくと「なっさけないなぁ。」と思い、「そんな泥沼から必ず脱っしてやる。」と願う人が、我が同志なのだ。

私も人間をそこそこ長くやっているので、そういう人が、世の中にそんなに多くないことはもちろん承知している。
しかし、そういう人がゼロではないことも私は知っているのである。
そこに大いなる希望がある。

 

 

近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目2回目3回目4回目5回目6回目7回目8回目9回目10回目11回目12回目13回目14回目15回目16回目に続いて17回目となった。

今回も、以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げるので、関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(以下、原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※内容も「治療」について取り上げながら、あなり最終コーナーを回ってきた。折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話として読んで行っていただきたい。

 

A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析

5.治療

b.神経症的諸傾向の観察と理解(4)

ここまで、分析過程を極めて簡略化して述べた為に、何か分析が易々(やすやす)として行われるかの如き感じを与えるかもしれない。しかし、それは実際に於て痛苦と困難に満ちたものである。と言うのは、その行程が第1に患者の無意識にあるものを意識化すると言うことと第2には神経症的態度が、少なくとも、患者がそれによって安全感を得ている態度であり、自らの価値を置き、無意識に同一化している、「仮幻の自己」を中心とする神経症的体系の防衛のための方法でもあるからである。
治療者を訪れる患者の意識には、症状から免(まぬが)れたい気持はあっても、その為に彼の生活態度の根幹である神経症的構造の変革を考えているものではない。従って、症状から出発して、分析が彼の神経症的傾向の露呈を招来する時に、確かに一方に於て、先述した様に洞察のもたらす効果があるが、他方に於て、自分が無意識裡(り)に当然とし、維持せんとする神経症的体系の構造が露呈され、問われ、その価値が批判されると感じるのである。
このことによって、彼の安全感を防衛するための抵抗が無意識裡に生じる。そして、これこそ分析を困難に陥(おちい)らしめるものなのである。この様な抵抗は分析時の遅刻、様々な積極的、消極的表現をとって現われる。これを取り扱う時に重要なのは恐らく次の様なことであろう。
それには第1に、出来るだけ初期に於いて、抵抗がまだ比較的弱い形を取っている時に、分析者が早く initiative を取り、患者に抵抗の存在を気付かしめ、抵抗の内容と意味を患者と協力して吟味し、分析して明確にすることによって乗りこえて行くと共に、抵抗一般に関する患者の理解を高め、それによって、後に起るべき大きな抵抗に対処する態度を準備することである。
第2に抵抗のもとであるところの不安や安全感の脅威を取扱うに当って、それが何の不安であり、何の安全感の脅威となっているかを問い、それが神経症的な自我の感じる不安であり、脅威であることを明らかにして行くことである。
第3に患者が誤って分析者からの批判としてとっているものが、実は他ならぬ患者自身の健康な自己 ー 治療的な力の源泉である ー「真の自己」の発する批判であること、そのもたらす現実認識に基づくものであることを明らかにして行くことが重要である。

 

近藤先生が示されている通り、クライアントは一方で症状を取ってもらいたいと思ってセラピストの許(もと)にやってくるのであるが、他方では自分を守るために身に付けた神経症的人格構造にはしがみついていたいのである。
ここに困難が生じる。
この二つを両立させる道はない。
従って、かつて自分を守るために身に付けた神経症的人格構造が最早生きる苦しみの元凶となっていること、そして、その神経症的人格構造との根本対決なくして、本当の安心および本当の人生は得られないことをクライアントは思い知る必要がある。
本当の「治療」はそこから始まるのであるが、そこまでに非常に長い道程(みちのり)を要するのが「臨床」の実際である。
また、八雲総合研究所のように「成長」を目指す場合においても、「症状」こそ存在しないが(存在すれば「治療」対象となる)、かつて自分を守るために身に付けた神経症的人格構造が最早生きる苦しみの元凶となっていること、そして、その神経症的人格構造との根本対決なくして、本当の安心および本当の人生は得られないことを思い知る必要があるのは全く同じである。
「情けなさの自覚」と「成長への意欲」とは、そういう意味なのである

 

もう忘れてしまっているかもしれないけれど、赤ちゃんの頃、私たちは、生きることの全てを自分以外の人のお世話になって生きて来た。

まだ先のことだと思っているかもしれないけれど、高齢になれば、私たちは、生きることの全てを自分以外の人のお世話になって生きて行くことになる(可能性が極めて高い)。

そしてその間の、元気に独力であれもこれもできていると思っている年頃ですら、よくよく振り返ってみれば、誰かのお世話になっていないことなど、ほとんどないとわかる。

そう思うと、例えば、日常の仕事上、
ちょっと他人より多く働いたり、
ちょっと他人の分の仕事をしてあげたり、
ちょっと出勤が早くなったり、
ちょっと退社が遅くなったり、
ちょっと休憩時間が短くなったり、
ちょっと休日を取るのが少なくなったりしたとしても、
そんなに「損だ。」「不公平だ。」「私ばっかり。」と思わなくてもいいんじゃないかと思う。

もちろん労務管理上、使用者は、可能な限り、公平かつ適正な労働時間および業務負担の配分に配慮していただきたいと思う(それは使用者の責務)。
今言っているのは、それとは違う、根本的な次元における仕事観、労働観、共に働く職場観の話である。

してもらったことはすぐに忘れるくせに
してあげたことはずっと覚えている。
自分がかけた大きな迷惑はすぐに忘れるくせに
自分がかけられた小さな迷惑はずっと覚えている。
恩着せがましく、被害的なのが、我々凡夫なのだ。

そんな我々でも、利害や計算を超えて、授かったミッションだから目の前のことを一所懸命にやろう、と素直に思わせていただけたらいいな、と思う。

 

 

忘年会のシーズンである。

あなたはもう行かれましたか?

私も今年唯一の忘年会(正確には望年会という)に出席して来た。

義理と義務の絡まない、“行きたい”会合なので、非常に居心地が良かった。
気持ちの良い人たちと食べて飲んで(と言っても大して食べられなくかつ飲めなくなってしまったのは哀しいが)話して笑って歌って、楽しい時間であった。

もちろん私も、若い頃から好きな会合だけ行っていたわけではない。
なかなか絞り込めず、
利害や計算や保身や人質(自分が行かないと誰かに迷惑がかかる)に翻弄された時代もあった。
でも、いつまでもそうではなかった。

従って、今まさにその渦中にいる人に申し上げたい。
私にできたんだから、あなたも絞り込んで行けますよ。
ほんの少し、踏み出す勇気を持って。
もし
一つでも減らすことができれば、それもまた前進の手応えとなる。

あなたがあなたであることに向かって。

 

 

往時、近藤先生のところに通っている精神科医が、同じ医局出身者の中に十人以上いた時期があった。
みんな、一度通い始めると何年も通っているので、先輩医局員の中には「君たちは近藤先生に依存し過ぎじゃないか。」と言って来る人もいた。

そもそも教育分析自体が、何年もかかるのは当たり前であるし、そう言って来る人たちの大半が、自分と向き合うのが恐くて教育分析から逃げている人たちばかりだったので、気にもならなかったが、少なくとも私の場合、いつまで通うのかと訊かれれば、可能な限り長く、と即答したであろう。
何故ならば、
人間の真実、この世界の真実を本当に知っている人物から直接に教えを請うことのできる貴重な機会をわざわざ逸するわけにはいかなかったからである。

そういう意味では、最早、教育分析などといった狭く浅いものでもないし、師資相承(ししそうじょう)の伝統は、精神分析以前からある、人類の系譜であった。

実際、師が遷化されたとき、情緒的に寂しくはあったが、涙も出ず、気持ちが全くブレなかったのは(それこそがまさに依存していなかった証拠である)、大事なものを継承させていただいた実感があった。

しかし実はそれは、すべての人間に最初から与えられているものであったことに後になって気づいた。
既にあったものに後から気づく。
そういうこともまた成長のひとつの形であった。

師に『その道は開けていた』という題名の著書があるのももっともなことだと思う。


 

「父親は子どもにとって、手本ともなり鑑ともなる、一つのしっかりした像でありたいと思います。…
父親が社会の現実について、子どもにしっかりした情報を与えることができる。また人生の生きる上で、どうしたらよいかの信念を持っている。こうした父親に子どもは信頼感を持ちます。…
第二次大戦のあと…制度上も観念的にも、尊敬の対象としても父親像が一ぺんに失われてしまいました。父親の権威と権力が一ぺんになくなってしまったわけです。
それでは、いまの父親に権力意識がないかというと、ストレートには出ませんが、隠れた形であるわけです。昔はどうかというと、私の父などは、二言目には『何だお前、俺の言うことがきけないのか!』と権力意識丸出しでした。けれどもいまの親は、自分はまるで権力意識がないような言葉遣いをして、しかも裏に権力欲を持ちながら接するからおかしなことになります。
子どもは虚偽というのが嫌いです。これはほんとうは、大人でも嫌いでしょう。たとえ使っている言葉は丁寧でも、底に親の権力欲がみえ、結局自分の考えを強制的に押しつける時、子どもはそこに虚偽を感じとってしまうのです。…
男の子は男の親とほんとうに人間として真剣に対決する時があります。そうしてほんとうの男性になり、人間になっていくものです。理解だとか相互の対話なども大切なことですが、こうした対決も成長の上で必然的なことであり、それを通じて父親は子どもを鍛え、成長させていくものです。…
最近、特に親子の理解とか、人間どうしの理解が叫ばれ、たやすく『理解』という言葉を使いますが、理解などということは決して簡単なことではありません。自分の子どもですら、公平無私な愛情をもって理解するなどということはなかなかできません。…理解できないというのは互いに悲しいことであり、つらいことではありますが、理解できないことは、理解できないという事実として認めなければなりません。お互いに事実を認めることにおいて、そこに共感が成り立つのです。その時には、理解できなかった。それでは理解するために何が解決になるかというと、簡単に言えば、よく言うところの時間が解決することが少なくないものです。時間が解決するとはどういうことかというと、時間をかけてお互にいろんなことを経験し合うことによって、理解に近づいていくということです。いわゆる時熟とか時節因縁ということでしょう。
私は職業がら、親子関係がうまくゆく方法をよく聞かれます。ところが、うまくいかないのが親子関係なのです。それをうまくやろうというのは不自然なことです。うなくいかない、そこにほんとうの真剣さを要求されるものがあるのです。…
子どもが成長して、ある時期、親に刃向かってくる時があります。このような時、親はその攻撃から逃避したり、妥協してうまくやろうというのではなく、子どものために、剣道で言えばけいこ台になってやるくらいの気持がなければなりません。けいこ台であっても、いい加減に相手をすることはできません。時には激しく打ち込む場合もあるでしょう。
その時すぐには、子どもはその一撃を、親の愛情として受けとめることができないかもしれません。しかし、親にほんとうの愛情があれば、あとになって必ずわかってもらえるものです。
底流、アンダートーンという言葉がありますが、深い愛は底流のようなものです。
浅い愛は目に立つが、すべて深いものはかくれてわからないもので、あとになってからほんとうに深くわかるものです。その意味でも待つことが必要であります。はげしい対立のあとに感じられる理解のうれしさは、深く流れる底流があったればこそ味わえるものでしょう。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

「子どもは虚偽というのが嫌いです。
またもや近藤先生は大事な真理をあっさりとおっしゃるものです。
だからこそ大人が子どもに接するとき、嘘偽りのない姿勢が要求されます。
そして、親子の相互理解の難しさ。
時には激しく対立するときもあります。
そのときも親は真剣に誠実に子どもと向き合うということ。
そしてすぐに安易な解決を求めず、時熟を待つ、必要な時間をかけて本当の相互理解が深まっていくのを待つ姿勢が必要となります。
ここでもまた、思い通りにならないことを抱える力、(小児的態度ではなく)成熟した大人の力が要求され、さらに、子どもへの、心の深いところを流れるような、深い愛が要求されるわけです。
そういう時を経て、相互理解できないことに本気で苦しみ、真剣に対立した後だからこそ、味わえる深い喜びと相互信頼があるわけです。
そしてこのことは、親子関係においてだけではなく、すべての深い人間関係において共通の真実と言うことができるでしょう。

 

 

前回の『葉隠(1)』『葉隠(2)』に続いて『葉隠(3)』(上・聞書第二・八四)。

 

「正徳三年十二月二十八日夜夢の事。志強くなる程夢の様子段々變(=変(かわ))り申し候(そうろう)。有體(ありてい)の例は夢にて候。夢を相手にして、精を出し候がよきなり。」
(志が強くなるほど、夢の様子が段々変わって行きます。ありのままに出るのが夢です。夢を相手にして精を出すのが良いでしょう)

 

最初の「志が強くなるほど」というときの「志」の意味は、自分の主観的な思いのことではありません。
「志」という漢字は「心」が「士」を下から支えています。
つまり、その人を下から支えている力が働いているものが「志」であり、「志が強くなるほど」とは、その人をその人させる力が強くなるほど、という意味になります。
そうなってくると、夢が変わってくる。

そもそも(余程浅い夢を除いて)「ありのままに出るのが夢」であり、夢にはその人の今の本音=今の問題や成長課題、そして成長段階がよく現れます。

そして、「夢を相手にして精を出す」というのは、何も夢を相手にして、ああいう夢を見ますように、こういう夢を見ますようにと頑張ることではなく(そんな意識的なものは夢に反映されません)、夢が変わっていくかどうかを目安にしながら、自分自身の問題や成長課題と向き合って行きましょう、ということを言っているのです。

本音が変わると夢が変わる、というのは実は、自分の真の成長度を測る上で非常に役に立つ現象なのです。

 

 

お子さんがいらっしゃる方は経験がおありであろう。

1歳半頃から3歳頃にかけて(個人差あり)、いわゆる「イヤイヤ期」が到来する。
自我主張が強まり、思い通りにならないとすぐに癇癪を起こし、「魔の〇歳児」と呼ばれることもある
親御さんとしてはなかなか子育てが大変な時期である。

そして子どもがさらに大きくなってくると、問題がなくなるどころか、今度は「思春期」がやってくる。
体格は大きくなり、自分でも自分を持て余した不安定な言動は、エネルギーが大きい分だけ周囲を翻弄することになる。

この二期「イヤイヤ期」「思春期」に対して(他にも子育てにおいて大変な時期は無数にあるが)、いわゆる「対処法」なるものがいろいろ説かれている。
しかし、今日の本題はそこではない。
どんな「対処法」が説かれようとも、対応する親もまた生身の人間である。
気持ちに余裕がないと、わかっちゃいるけど
やめられないで、一番言っちゃいけないことを言い、やっちゃいけないことをやって、親子関係は惨状を呈することとなる。

そこでやはり強調したいことは、小手先のハウツーよりも、まず親自身が愛されることである。
そうでないと気持ちの余裕は生まれない。
そのためには、何よりもまず夫婦同士が愛し合うことであり、
もし可能ならば、信頼できる人からも愛される=自分の存在を大切に思ってもらうことである。

シャンパンタワーを想像していただきたい。
まず一番上のシャンパングラスにシャンパンが注がれ、そこから溢れたシャンパンが下のシャンパングラスを満たして行く。
これが愛が注がれる順番。
自分が満たされていないのに、難しい年頃の子どもを愛そうとすることはなかなか厳しいのだ。

ハウツーなどに走る前に、まず親自身が潤うことをお勧めしたい。
 

 

今の世の中、「推し活」が盛んである。
夢中になれるものがあることは大変結構なことである。
それに全く異論はない。

そんな中、ちょっと気になるのは、「推し活」を楽しむ前に、あなた自身の個人生活は、仕事は、人生はどうですか?ということである。
それが充実していないと、「推し活」は単なる逃避か、ちょろまかしか、代理満足に堕してしまう危険性がある。
それでは哀しい。

「推し活」しているときだけはイヤなことを忘れられる、というのはよく聞くセリフであるが、そのときだけ忘れても現実はまた帰ってくる。
「推し活」を楽しみつつ、自らの現実生活とも向き合って、現実生活を少しでも生き甲斐のあるものにして行くことが、「推し活」に勝るとも劣らず大切なのではなかろうか。

その意味では、やっぱり一番の「推し」は自分自身なのかもしれない。
それは決して利己的な意味ではなく、まずは世界に一人の私が、一回しかない人生を生きる私が、のびのびと私して生きられるように「推し」て、その上で、私以外の存在の「推し」も成立するのではなかろうか。

自分も「推し」て、相手も「推し」て、「推し推し」の生活はとてもとても豊かなんじゃないかなと思う。

 

 

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