2014(平成26)年7月4日(金)・5日(土)『生死(しょうじ)を目の前にしている方へ』

地獄鬼畜の くるしみは
いとへども又 受(うけ)やすし


おもひと思ふ ことはみな
叶(かな)はねばこそ かなしけれ

煩悩すなはち 菩提(ぼだい)ぞと
聞(きき)て罪をば つくれども
生死(しょうじ)すなはち 涅槃(ねはん)とは
いへども命を をしむかな
自性(じしょう)清浄(しょうじょう) 法身(ほっしん)は
如如(にょにょ)常住(じょうじゅう)の仏なり
迷も悟も なきゆゑに
しるもしらぬも 益ぞなき

別願超世の 名号は
他力不思議の 力にて
口にまかせて となふれば
声に生死の 罪きえぬ

おもひ尽きなん 其(その)後に
はじめをはりは なけれども
仏も衆生(しゅじょう)も ひとつにて
南無阿弥陀仏とぞ 申(まうす)べき
はやく万事を なげ捨(すて)て
一心に弥陀を 憑(たのみ)つゝ
南無阿弥陀仏と 息たゆる
是(これ)ぞおもひの 限(かぎり)なる

独(ひとり)むまれて 独死す
生死(しょうじ)の道こそ かなしけれ

人の形に 成(なり)たれど
世間の希望(けもう) たえずして
心身苦悩 することは
地獄を出(いで)たる かひぞなき
物をほしがる 心根は
餓鬼の果報に たがはざる
迭(たがい)に害心 おこすこと
たゝ畜生に ことならず

生老病死(しょうろうびょうし)の くるしみは
人をきらはぬ 事なれば
貴賎高下(きせんこうげ)の 隔(へだて)なく
貧富ともに のがれなし
露の命の あるほどぞ
瑶(たま)の台(うてな)も みがくべき
一度(ひとたび)無常の 風ふけば
花のすがたも 散(ちり)はてぬ

畳(たたみ)一畳(いちじょう) しきぬれば
狭(せばし)とおもふ 事もなし
念仏まうす 起(おき)ふしは
妄念おこらぬ 住居(すまい)かな
道場すべて 無用なり
行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に たもちたる
南無阿弥陀仏の 名号(みょうごう)は
過(すぎ)たる此(この)身の 本尊なり

 

合掌


『一遍上人語録』より

2014(平成26)年5月31日(金)『酒器の話』

酒器の話。

QUAICHとは、クエイヒ(またはクエイク、クエイキ)と発音される、二つの翼状の取っ手のついたケルト(主にスコットランド)の伝統的酒盃のことである。
古くは木製、最近では銀製が多く、祝い事などに際して、スコッチウイスキーを満たし、仲間で飲み回すのに使われていたという(大容量のものもあるそうだ)。

私はたまたまスコットランド人の友人にもらったクエイヒを使っている。

器底にスコットランドの国花thistle(シスル)(=アザミ)のレリーフが配され、取っ手にはケルト紋様が彫られているが、いかにも素朴である。

quaich.jpg

できればスコッチのカスクで満たしたいところだが、入手困難なので、ウオッカを冷凍庫(冷蔵庫ではなく)で冷やして注いでみたら、クエイヒの銀器まで冷えて、実に涼味であった。
それからいろいろと試してみたが、テキーラとラムも冷凍庫で冷やしてから注ぐと実に相性が宜しい。

私も大して強いわけではないが、アルコール度数の高い酒を、キンキンに冷やしてちょっと呑むと、呑んだ気がして(=すぐにアルコールが回って)幸せです。

強い酒が苦手な方は、炭酸飲料(元の風味を壊さないため、できれば味やフレーバーのない炭酸水が望ましい)で好みの濃さに割って飲まれると良い。

暑気払いにお試しあれ。


 

2014(平成26)年5月28日(木)『あいたたた』

人を観る眼がないのは致命的である、と何度か書いた。

友人
恋人
パートナー

セラピストなどなど

その結果は自分自身の一生に返ってくる。
ホンモノを観抜く眼がないのも致命的である。

超常現象
超能力
神秘主義
新興宗教
カルトなどなど

胡散(うさん)臭いものに引っかかるのも、これまた自業自得である。

それもまた人生の授業料ではあるが、
人生はそんなに長くないし、
胡散臭い深みに嵌(はま)れば嵌るほど、
足抜けには時間と労力を要することになる。

胡散臭い神秘主義に嵌った女性が、
これまた胡散臭い男に引っかかり、
お金も性も人生の時間も散々搾取された挙句に捨てられた
というドラマのような話を耳にした。

どうかもう二度とそんなことが起こらないように
人やホンモノを観抜く眼を磨いておきましょうね。
そして犯してしまった過ちは、正直に、徹底的に、反省しましょうね。

人間はそんなくだらないことをやるために生命を授かってるんじゃないんですから。

 

 

2014(平成26)年5月27日(水)『越中ふんどし』

当てにしていたことがそうでなくなったとき、
予定通り、思い通りに物事が進まなくなったとき、
予定外・想定外のことが急に起こったとき、
その人の神経症的側面が露呈するときがある。

そりゃあ、そうだ。
全てのことが予定通り、思い通りに行かなくなると、
未来のことが自分のコントロール下にないと、
取り不安、予期不安の名手、神経症者は不安に陥るに決まってるさ。

そのままの自分を愛されずに生きてきたのだから、
地雷を踏まないようにするためには、
すべてにアンテナを張って、察して、気をつけて、頑張って生きていくしかなかった。

そんなふうに育ったら、
基本的な他人への信頼感、世界への信頼感、自分自身への信頼感なんか持てるわけないし、
なるようになると、おまかせできるはずがないもんね。

でも、当てと越中ふんどしは前から外れるようになっている。

神経症的な人間は不安と共に生きるしかない。
しかし健全な人間はね、
本的な他人への信頼感、世界への信頼感、自分自身への信頼感を持っているから、
予定外・想定外のことが急に起きたとしても、根拠なく「なんとかなる。」と思えるんです。

 

 

2014(平成26)年5月22日(木)『誰かが誰かに』

あなたが誰かから何かをもらったら何かをしてもらったら

それをその人に返すして返すのも良いけれど

他の誰かにあげるしてあげるのも良い。

そしてそのとき、こう付け加える。

あなたもまた、私にではなく、他の誰かにしてあげてね。

広がる

広がる

誰かが誰かに。

子どもの頃、そんなことを考えた。

そして今もそう思っている。




 

2014(平成26)年5月21日(水)『イヤです』

ある日、ファミレスで見かけた風景。

母親と思(おぼ)しき人が2歳くらいの小さな女の子に言った。

「いい? お店に入ったら良い子にしてるのよ。」

女の子は母親の目を見ながら、満面の笑みで答えた。

「イヤです。」

何度も思い出し笑いしてしまうあの躊躇のない笑顔。

大きくなってからも、イヤだと言える大人になってね。

 

 

2014(平成26)年5月14日(水)『本当の悪魔は密やかに笑う』

昔、ある人からの紹介で、引きこもりの青年と母親が相談に来られたことがあった。

母親の話そうとされている内容はすぐにわかった
支配的でワンマンな父親、
去勢された息子、
か弱く優しい母親。

そんな構図を作りたかったのだろうが、
母親の胡散(うさん)臭さは明らかだった。
これまで子育てにおける自分の至らなさを、俯(うつむ)きがちに神妙に反省してみせる母親の姿に、まるっきり“真実”が感じられなかった。

ゲロゲロゲッケッケー。

いかにも内省的で、愛情深そうで、精一杯頑張って来ました風で、
「そんなに自分を責めなくていいよ。あなたはよくやってきたよ。」
と私に言わせたがっているのが観て取れ、こんな偽善者見たことない、と思った。

元凶は父親でなく、母親だな。
私が母親の“演技”に乗らず、ちょろまかしている問題点をフツーに指摘して行くと、あのか弱くて殊勝そうだった母親がゴブリンのような形相になり、怒鳴り声まであげ始めたのだ。

本性が出たな。

隣の青年を見ると、下を向いてシクシク泣いていた。
未成年なら気の毒たが、二十歳過ぎてシクシクはないだろ。
それでも、気づくところまで行ってくれるかなと一縷(いちる)の望みをかけたが、まだ真実と向き合いたくない母子は遁走した。

医療機関に治療のために来られたのなら、果てしなく気長に付き合うが、八雲ではダメだ。
八雲は“道場”だからね。

その頃から来談希望の方に、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」が必要であることをさらに明示するようになった。
真摯な人にはなんとしてでも力になりますが、巧妙な悪魔はうまく隠れたつもりでもあぶり出されてしまう場所となる。

 

 

2014(平成26)年5月13日(火)『縁と縁もどき』

縁があるのではない、それはおまえの執着だ。

縁が切れたのではない、切ったのはおまえの我だ。

軽々しく「縁」という言葉を使うべからず。

本当の縁はこの花弁(はなびら)のように美しく、舞うように舞い、落ちるように落ちる。

 

 

2014(平成26)年5月8日(木)『必死』

昔、担当していた躁うつ病の青年。

彼は躁状態で入院されたのだが、その病院での私の勤務が非常勤だったために、自分の不在中に彼が興奮して暴力的にならないかが心配だった。
処方もいろいろと考え、対応を常勤医と病棟スタッフに伝えた後、彼本人にも直接話をした。
躁状態ながら、話していて元々の人格にどこか通じるものがあった彼は、

「絶対に暴力はふるいません。約束します。」

と私の目を見てはっきりと言ってくれたが、躁状態にある人が意志の力で自分の言動をコントロールするのがどれだけ困難かはよくわかっていた。

躁状態になるのは彼のせいではない。
そのときなりの精一杯を約束してくれた彼の思いで私は十分だった。

翌週、心配しながらやってきた私に、彼は紅潮した顔で両拳を震わせながら言った。

「先生、俺、暴力ふるわなかったよ。」

彼の両目からポロポロと涙がこぼれた。
トラブルになりかけた出来事は何度かあったようだが、彼は驚異的な自制心で無理無理自分を抑え込んだ。
易刺激的になっていた彼が自分の衝動性を抑えるのにどれだけ必死だったかが伝わったきて、私も胸が熱くなった。
思わず彼の手を取って「よく頑張ったな。」と握手した。

意志の力でなく、薬物療法で躁状態を抑え込むことは百も承知だが、ここでこの話を取り上げたのにはワケがある。
彼に比べ、われわれは実に簡単に弱さや悪依存に逃げている、ということだ。
甘いなぁ、われわれは。

どこまでいっても確かに非力なんだけれど、せめて与えられた自力だけは尽くしたいと思った。

 

 

2014(平成26)年5月1日(木)『現実逃避のスピリチュアリティ』

男性より女性に多い。

真の意味で十分に“愛されていない”生い立ちあり。
さらに心的外傷あるいは現実生活(学校、職場)での不適応歴がある場合も少なくない。
“自分は特別な能力がある”“特別なことが感じられる”などと、思い上がりやすい。
余りにも典型的な“補償”である。

よって、日常生活の対人関係がうまくいかなければいかないほど、心のキズが深ければ深いほど、怪しい神秘主義にのめり込む。
そして、甚だ迷惑なことに、その力がないのに、今度は他人を“指導”したがる(巻き込み→有害)。
ポーズ(セリフ)としての謙虚さは見せるときもあるが、本当の意味での“情けなさの自覚”に欠ける。
ある時点までは、結構、慎重に(姑息に)怪しげなことを勉強?していることを隠す。
しかしある日、一線を越えて、自分が“特別な能力の持ち主”“スピリチュアル・セラピスト”“ヒーラー”(呼称いろいろあり)であるなどと言い始め、そうなるともう“活動”は止まらない。
その行為がやがて社会的な“自己抹殺”につながるということにも気がつかない。

それどころか、同様の“問題”を抱えた少数の“信者”さんたちを巻き込んで、この“迫害”に耐えて、“崇高な使命”を全うしようとする。
しかしやがて(当然のことであるが)外部との間だけでなく、内部にもトラブルが噴出してくる。
それで弱ければ自分が壊れて終わるが、面の皮が厚ければさらに自己正当化を重ね続ける…。

これが典型的な、そして最悪のシナリオである。

あのね、深海の話をする前に、海面を覆うゴミの撤去から始めましょうよ。
それを片付けないことには、それより深いところが見えるはずはないんです。

 

 

2014(平成26)年4月30日(水)『年の差婚』

男女の年齢差の開いた「年の差婚」が話題になるようになって久しい。

単に時代が年齢を余り気にしなくなったという面もあろうが、
概ね、若い男性が性欲に引っ張り回されやすく、若い女性がファンタジックな恋に浸りやすいことを思うと、
性欲に振り回されなくなった年配男性が、ガツガツしないで余裕を持ち、これまた男性のもうひとつの特性であるロマンチストの面を発揮すれば、若い女性が年配男性に惹かれるのももっともだという気がして来る。
また逆に、年を重ねて性的に成熟して来た女性が性欲を受け入れやすくなり、これまた女性のもうひとつの特性である母性的包容力を発揮すれば、若い男性が年上女性に惹かれるのももっともだという気がして来る。

…などと思索していたら、目の前をツバメが風を割いてヒューッと飛んだ。
[いいじゃないの、幸せならば]

考えるより感じる、感じるより溢れ出す、のがラブである。

 

 

2014(平成26)年4月21日(月)『石の上にも』

自分で肚(はら)を括(くく)って決めたことならば
「石の上にも3年」
どころか、10年でも20年でも
耐えてやろうと思うが

丸っきり不本意なことを押しつけられるのであれば
「石の上にも3秒」
で上等である。
耐えてはならない。

人生は敢(あ)えて無駄に過ごすほど長くない。

 

 

2014(平成26)年4月17日(木)『薩埵太子を想うとき』

読売新聞の今日の報道(一部表記改訂、全文は本紙を)

「16日午後4時頃、福島県郡山市の阿武隈川で、『子どもが流されている。』と通行人から119番があった。
通行人らが川の中から3人の子どもを救助、病院に搬送されたが、このうち近くに住む小学1年TM君(6)が死亡し、女児(3)が意識不明の重体。郡山署で事故原因を調べている。
同署幹部によると、現場の河川敷では、近くの小学校の児童ら約10人が遊んでいた。3歳児が川に落ち、T君とT君の姉で小学3年の女児(8)が助けようとして川に入ったという。T君の姉に目立ったけがはない。3歳児は約200メートル流され、T君はさらに下流で救助された。
現場はJR郡山駅の南約2.5キロ先。目撃した近所の女児は『女の子を助けようと、男の子が鼻をつまんで飛び込んだ。周りの子は『流されちゃった。』と大きな声で叫んでいた。』と話した。」

一読して、かつて小誌で取り上げた『傷は秘められるべからず』

http://www.yakumo-institute.com/article/14738627.html

http://www.yakumo-institute.com/article/15030869.html

を思い出した。

6歳のM君はどんな思いで“鼻をつまんで”川の中に飛び込んだのだろう。
私にはどうしても薩埵太子のことが浮かんでしまう。
助かった8歳のお姉ちゃんは今、どんな思いでいるのだろう。
そしてこれからどんな思いで生きて行くのだろう。
私にとって縁の深い当地だからこそ一層思う。

もし御心ならば、意識不明の3歳児が助かりますように。
そして、8歳のお姉ちゃんに適切な支援が与えられますように。

 

 

2014(平成26)年4月12日(土)『ケルト好き』

元々は、スコットランド人の友人が出来てから、ケルト(Celt)への関心に急に高まった。

例えば、ケルト的な現代音楽では、エンヤ(Enya)やケルティック・ウーマン(Celtic Woman)

https://www.youtube.com/watch?v=Yfwlj0gba_k

が有名だが、私が彼から教えられたのはキャパケリー(カパーケリー、カパケリ)(Capercaillie)であった。
そのリズムは実にケルト伝統音楽らしく、ケルト語(ゲール語(Gaelic))も魅力的で、何度聴いてもつい踊り出したくなってしまう。

http://www.youtube.com/watch?v=GS2KD-da_nU

“ゆらぎ”をはじめとして、ケルト音楽と日本の音楽との共通点を指摘する声も大きい。

ティン・ホィッスル(Tin whistle)の音を初めて聴いたときは、日本の篳篥(ひちりき)かと思い、特に島唄(沖縄の音楽)との共通点は非常に大きいように思う(映画『ナビィの恋』では両者が使われた)。
個人的感覚としては、ケルトには、どこか縄文と共通のシャーマニックな香りがするのだ。

以後、日本ケルト協会の主催するケルティック・フェスティバル(Celtic Festival)にも足を運んだり、
日本スコットランド・ハイランド・ゲームズ(Highland Games)に参加したり、
アイルランドのセント・パトリックス・デー(St.Patrick's Day)では、原宿パレードにも参加した。

ここでダンスについて外すわけにはいかず、スコティッシュ・カントリーダンスからアイリッシュ・ダンスまで実に楽しい。
では、伝統的な少女によるアイリッシュダンスと

http://www.youtube.com/watch?v=US2kEQQZoFw

ショー化したアイリッシュダンスとしては、日本でもリバーダンス(Riverdance)の公演が有名だが、ここに超絶技巧のアイリッシュダンス(タップダンスと言った方がいいかもしれない)をご紹介しよう。

http://www.youtube.com/watch?v=11HdGesJIWg&feature=related

最後に、アルコールは、ビールのギネスも、通常のスコッチ・ウイスキーもいいけれど、やはり(シングル)カスク(cask)が最高である。

クセも度も強い(アルコール50〜60度)けれど、ノドもココロも焼けるほど美味い。
都内の店でもなかなか出逢えないけれど、機会があれば、是非ご賞味あれ。

 

 

2014(平成26)年4月11日(金)『コピーはイヤぢゃ』

先日、精神医学雑誌を読んでいたら、
「アメリカのうつ病治療の精神療法、○○○○療法の我が国における権威、□□教授にお話を伺う」とか
「イギリスの自閉スペクトラム症研究の△△△△を日本に初めて紹介した◇◇教授による特集」
などという文言が目につき、心の底からガッカリした。

日本はまだ文明開化か!?
今だに欧米か!?

海外の先駆者詣でに、翻訳者、紹介者、そんな受け売り、二番煎じで、“第一人者”や“その道の権威者”になれるの? なるの? なりたいの?
情けない。本当に情けない。

近藤先生がホーナイの許から帰朝されたとき、ある日本のフロイト派の“権威”から、「何故あなたはホーナイの直弟子という立場を利用しないのか?」と言われたそうである。

ゲッゲロゲッゲッゲー。

そして後に近藤先生自身が弟子たちから「近藤派」立ち上げの動きを聞いて、実に寂しそうな顔をされたのを今でも覚えている。
どいつもこいつも“自分”で勝負しろよっ! “真実”で勝負しろよ!

私もまた“ホーナイ派精神分析”をいくら学んだところで、“ホーナイ派精神分析医”になるつもりはさらさらないし、近藤先生からいくら学んでも、“近藤派の精神療法家”になるつもりは全くない。
受け売り権威野郎になるのは死んでもイヤぢゃ。

私は私を生きなければ、先生に合わせる顔がないし、
私が求めているのは、人間のこころの“真実”だけなのである。

 

 

2014(平成26)年4月10日(木)『ナースの原点』

看護師さんたちは、患者さんに対しては、言われるまでもなく、優しく接しておられると思う。

でも「対患者さん」以外の場面ではどうだろう。
まず、自分自身に優しくしていますか?
次に、同僚や後輩の看護師にも優しくしていますか?
そして、職場の他の医療従事者にも優しくしていますか?
それから、できれば、医者にも優しくしてね。

つまり、縁あって出逢った人間に優しくすること、「ナイチンゲールの誓詞」にあったよね。
もちろん表面的になんでもよしよししてあげることが優しさじゃないからね。
表面的にはソフトでもハードでも、その背景に“愛”があるか否か(相手の存在を育てる力が働いているか否か)がすべて。
それは患者さんからも、後輩たちからも見抜かれている。

「わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん。」

看護には、人間を幸せにする使命が託されているんです。

 

 

2014(平成26)年4月7日(月)『自分だけの感覚』

今の季節、寒暖の差の激しい日が続く。
日毎の差だけでなく、一日のうちでも気温差が大きい。

そうなると、道行く人のファッションにもかなりの差が見受けられる。
いまだにコートにマフラー、ブーツの冬装備の人もいれば、長袖シャツ一枚にチノパン、裸足にスニーカーの軽装の人もいる。
日中はTシャツ姿の人もいた。

見ていて面白いのは、この寒暖の衣服調節だけは、みんな“自分だけの感覚”に基づいて行っているということだ。
他のことでは、あんなに“他人の基準”や“みんなの基準”を気にするのにね。
自分は寒く感じるんだから、着込んでていーじゃないか。
自分は暖かく感じるんだから、薄着していーじゃないか。
全くその通りである。

どうか人生の他の場面においても、“自分だけの感覚”に基づいて言動が行われ、あなたならではの人生が送れますように。

こんなところにも成長の種はあるのだ。

 

 

2014(平成26)年4月4日(金)『テスティング』

わざと相手がイヤがるようなことをして、それでも相手が自分のことを愛してくれるかどうかを試すことをテスティング(testing)という。

通常の発達段階で、子どもが親に対して行うこともあるが、そのままの自分を愛されずに育った人であれば、何歳になっても、自分にとって大切な人に対して繰り返し行う可能性がある。
いわゆる神経症圏やパーソナリティ障害(人格障害)では、定番の“症状”のひとつでもある。

これは本当に面倒くさい。

どんなことをされても、果てしなく「いいよ、いいよ。」と許すわけにはいかないし(必ずやることをエスカレートさせてくる)、
かといって、少しでも非難しようものなら「やっぱり私のこと、愛して(信じて)いないんだ。」とスネるかカミついて来るに決まっている。

そんな相手に出逢ったときの私の答えはひとつ。
「あなた自身は信用できるけど、あなたに埋め込まれたものは信用できない。」
言い換えれば、「本当のあなた(=あなたの中の『真の自己』)は信用できるが、ニセモノのあなた(=あなたの中の『仮幻の自己』)は信用できない」ということだ。

ニセモノの自分によるちょろまかしのゲームに巻き込まれるわけにはいかない。
こころから愛されたければ、信用されたければ、他でもない本当のあなたで生きていこうよ。
そのために本気で変わりたい、成長したい、という時機が来て初めて、セラピストの出番がやってくるのである。

 

 

2014(平成26)年3月31日(月)「男と女の弱さ」

「男の性欲」と「女の寂しさ」は、人間の躓(つまづ)きの元である。

男は自分の性欲を満たすことが真の目的でありながら、女の寂しさを癒すかのように近づき、
女は自分の寂しさを癒やすことが真の目的でありながら、男の性欲を刺激するかのように近づく。

その結果が、
望まぬ妊娠と
女の体に飽きた男と
男の心に失望した女
に行き着くだけという顛末では、悲し過ぎる。

男が性欲を満たした後も相手の女性を愛しいと思うかどうか。
女が寂しくないときでも相手の男性と一緒にいたいと思うかどうか。
見定めましょ。

そりゃあ、弱いのも人間だけどさ、
少なくともこれからは、こころの傷を増やさないようにしようね。

明日から4月、新年度が始まる
どうか良き出逢いに恵まれますように。
そうでなければ一人豊かに過ごすべし。

 

 

2014(平成26)年3月28日(金)『三日坊主』

「三日坊主」という言葉がある。

その背景に、なんでも忍耐・努力して続ける我慢大会の優勝者が“立派な人”という価値観が臭って気持ち悪い。
それは単なる抑圧の強いヤツに過ぎず、やがて、イヤなことを無理して頑張ったからにはそれに値するご褒美がないとイヤなので、エラソーで独善他罰的なヤツになっていく。

面白くないこと、やり甲斐のないことは、普通、やりたくない・続かないに決まってるじゃない。
だから、そんなことはとっととやめる、堂々とやめるに限る。
その方が遥かに健全である。

よって、否定的ニュアンスのこもった「三日坊主」というイヤな表現を私は使わない。
胸を張って、自分は「三日女王」「三日大王」である、と名乗るべし。

さらに付け加えるならば、本当に腹の底からやると決めたこと(即ち、天命としてやることになっていること)は、どんな大変なことでも、どんなつまらないことでも、やれる。
だから、これも「三日坊主」にはならないのだ。

当たり前のことに、わざわざ自己否定的な表現を使うことなかれ。
やりたくないことはやらない(やれない)ことに堂々たるべし。

 

 

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