2015(平成27)年5月11日(月)『アグレッション』
悪意の言動をぶつけられて、腹が立つ。
そのときその場でそいつに怒りを表現するのであれば、それは健全な反応であり、大した問題ではない。
しかし、過去の(生育史上の)あのときあそこであいつに感じた怒りを、別のときに別の場所で別の相手にぶつける(ことができる)というのは、間違いなく病的な事態であり、治療が必要である。
その怒りを幼児や高齢者にぶつければ虐待となり、相手の些細な落ち度につけこむのであればクレーマーとなり、われわれセラピストもその攻撃の対象になりやすく、精神科臨床では日常茶飯事である。
何しろその攻撃というのも、決してストレートなものに限らず、言動の隙間に毒を仕込み、棘(とげ)を入れて来るようなやり方も多く、悪質さが目立つ。
小さくて弱かった頃に虐(しいた)げられて来た人間が、正面からは怖くて反抗できなかったために、質(たち)の悪い復讐の仕方を工夫して覚え、あのときあそこであいつ(多くは親)に出せなかった怒りを、別のときに別の場所で別の相手に出して来る。
やっぱりこれを実際に行えてしまうというところが病気なのである。
健康度の高い人間であれば、ちょっとそうなりそうになってもその異常さに気づき、完全に封じ込める。
そしてもっとまずいのは、そういう人間が、その問題を未治療・未解決のまま、医療、福祉、教育など、人間に関わる仕事に就きたがることだ。
これは大迷惑だ。
ただでさえ悩んでいる人たちや青少年たちに、さらなる苦しみや病んだ生き方の感化を及ぼすことは許されない。
陰口のきき方や擦れた言動、ひねくれた立ちまわり方ばかり教わりました、という青年がかつていた。
それを洗い流すのは、ひと仕事であった。
だから、アグレッション(攻撃性)を垂れ流してしまう人は、まず徹底的に治療を受けなさい。
そのままなら、ただの迷惑な存在であるが、もしその問題を根本解決できたとすれば、その人くらい対人援助職に向いている人物もいないということもまた事実なのである。
人間の突破・成長に終わりはない。
挑むべし。