2015(平成27)年5月11日(月)『アグレッション』

悪意の言動をぶつけられて、腹が立つ。

そのときその場でそいつに怒りを表現するのであれば、それは健全な反応であり、大した問題ではない。

しかし、過去の(生育史上の)あのときあそこであいつに感じた怒りを、別のときに別の場所で別の相手にぶつける(ことができる)というのは、間違いなく病的な事態であり、治療が必要である。

その怒りを幼児や高齢者にぶつければ虐待となり、相手の些細な落ち度につけこむのであればクレーマーとなり、われわれセラピストもその攻撃の対象になりやすく、精神科臨床では日常茶飯事である。

何しろその攻撃というのも、決してストレートなものに限らず、言動の隙間に毒を仕込み、棘(とげ)を入れて来るようなやり方も多く、悪質さが目立つ。

小さくて弱かった頃に虐(しいた)げられて来た人間が、正面からは怖くて反抗できなかったために、質(たち)の悪い復讐の仕方を工夫して覚え、あのときあそこであいつ(多くは親)に出せなかった怒りを、別のときに別の場所で別の相手に出して来る。

やっぱりこれを実際に行えてしまうというところが病気なのである。

健康度の高い人間であれば、ちょっとそうなりそうになってもその異常さに気づき、完全に封じ込める。

そしてもっとまずいのは、そういう人間が、その問題を未治療・未解決のまま、医療、福祉、教育など、人間に関わる仕事に就きたがることだ。

これは大迷惑だ。

ただでさえ悩んでいる人たちや青少年たちに、さらなる苦しみや病んだ生き方の感化を及ぼすことは許されない。

陰口のきき方や擦れた言動、ひねくれた立ちまわり方ばかり教わりました、という青年がかつていた。

それを洗い流すのは、ひと仕事であった。

だから、アグレッション(攻撃性)を垂れ流してしまう人は、まず徹底的に治療を受けなさい。

そのままなら、ただの迷惑な存在であるが、もしその問題を根本解決できたとすれば、その人くらい対人援助職に向いている人物もいないということもまた事実なのである。

人間の突破・成長に終わりはない。

挑むべし。

2015(平成27)年4月27日(月)『怒る医者』

糖尿病専門クリニックに通っている患者さんが、医者からひどく怒られたという。

どうして食事療法をちゃんとやらないのか、ということらしい。

風邪を引いた子どもを小児科に連れて行ったお母さんが、医者からひどく怒られたという。

なんで子どもにこんな風邪を引かせたのか、ということらしい。

物忘れが目立つようになった高齢の父親を物忘れ外来に連れて行った娘さんが、医者からひどく怒られたという。

どうしてもっと早く連れて来なかったのか、ということらしい。

この場合は、娘に怒る医者に対して、当の父親が怒り返して帰って来たという(Good job!)。

この医者たちが、なんで怒るのか私にはわからない。

私も怒るときはあるが、それは自分自身や他人を意図的に傷つけたときである(それでも、重い精神障害のため病識のない場合は除く)。

多くの人は、いろいろなことがある中で、そのときなりの精一杯で生きている。

百歩譲ってそこに多少の誤りがあったとしても、

過去はもう終わっているし、患者さんのために未来を変えた方が良いと思うのであれば、重要なのは、これからのための動機づけということになる。

そうすると、この平成の時代、叱責のような負の動機づけによって、人の行動変容が起きるとは思えない。

あなたが(お子さんが/お父さんが)これから、より健やかに生きて行けるために何ができるか、一緒に考えて行きましょう。

そういう姿勢こそが必要なのではないかと私は思う。

先のお父さんではないが、最近はエラソーな医者が反撃を受けることが増えている。

問題患者がいることも事実だが、問題医者がいることも事実だ。

やっぱり職業、性別、年齢、人種などの属性によらず、人間は(他人のことの前に)まず自分のことをちゃんと内省して成長して行くことが絶対に必要なのだと私は思う。

2015(平成27)年4月23日(木)『箱そば純情』

久しぶりに箱そばに入った。

※箱そば…小田急レストランシステムが小田急沿線を中心に展開しているスタンドそば店。正式には「名代箱根そば」。私的には、都内を中心に展開しているダイタングループの「名代富士そば」と並ぶ、立ち食いそば店(最近はイス席も多い)の代表格。いずれも、しばらくすると、何故か無性に食べたくなるB級グルメの古参格である。

その日はもう昼下がりであったが、店内は盛況で、私のすぐ横の席に、高校生のカップルが向かい合わせで座って来た。

昼間に箱そばでデートなんて、なんて素朴なんだろう。

隣席まで30cmほどの近さなので、聞きたくなくても二人の会話がこちらの耳に入って来る。

彼は天ぷらそば、彼女はかき揚げそばの載ったトレーを取って来て、小さなテーブルの上に置く。

彼女「ああ、お腹空いた。」

彼「…ぅん。」

少年が黙って立ち上がり、2つのコップに水を注(つ)いで来る。

彼女「あ。ありがと。」

彼「…ぅん。」

そして彼は黙ったまま、自分のそばから、エビ天やイモ天をひょいひょいと彼女のそばの上に載せていく。

彼女「ありがと。 私、何を返せば良い?」

彼「いらねぇよ…。」と俯(うつむ)いて、ほとんど具のなくなったそばを食べ始める。

中高一貫男子校出身で、浮いた噂のひとつもなかった私としては、なんだか胸の中を内側からくすぐられる感覚に身悶えしながら、「ああ、良いカップルだなぁ。」と隣でうどんをすすっているのでありました。

大人になってもそんな気持ちで付き合える人になってね。

2015(平成27)年4月20日(月)『ルンパッパの約束』

小泉功(こいずみ・こお)の訃報を聞いた。

清酒黄桜のCM(以前にも紹介したように思う)で有名なカッパの漫画を描いた漫画家である。

日本では珍しく大人の絵の描ける人であった。

美人画はつとに有名であったが、セクシーでありながらいやらしくないという筆致はなかなかマネのできるものではない。

氏の逝去を悼みながら、私の連想は別の方向に走っていた。

以前、かのCMが好きだったという青年との間に交した約束があった。

○○を達成したら、また八雲に来る。

そして彼はまだ来ていない。

もちろん私は待っている。

必ず達成して来てくれるものと信じて待っている。

その約束があるから私の中であのCMは特別なものになっている。

さて、今夜は黄桜を呑むかな。

2015(平成27)年4月3日(金)『良寛Ⅱ』

この世界に生きることが心底イヤになっちゃったことのある方なら感じられるかもしれない。

「生涯身を立つるに懶(ものう)く

 騰騰(とうとう)天真に任(まか)す」

という良寛の気持ちが。

今、八雲に来ている人たちは、(現在、または、かつて)そういう方々が多いように思う。

「名誉心や利益心、自負や嫉妬やエゴイズムの跳梁(ちょうりょう)している社会」

「そういう『世の中』(=神経症的な世界)であくせくすること」が、心の底からイヤになってしまった。

それが「」し。

そして流石、良寛はその「し」に沈んだままになってはいなかった。

そこを根底から突き破っていく。

それが「騰々任天真」。

ただ「任す」のではない。

「『騰々任天真』の『任』『まかす』は、その本来においては自分がこちら側にいて、あちら側の天真に任すではない。任せきって分別なく騰々としていることである。或いは自分が天真になりきって、天真を現成(げんじょう)している風情(ふぜい)である。」

「天真が天真を転じているということになろう」

 唐木順三氏の指摘に賛意を表したい。

ここまで行って初めて「おまかせする」ということの真意が明らかになるのだ。

この世界に生きることに必定の「」さを根底から突き破るには、

「任天真」の体験に行く着くしかないのである。

 

 

   花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋(たず)ぬ。

   花開く時、蝶来(きた)り、蝶来る時、花開く。

   吾(われ)もまた人を知らず、人もまた吾を知らず。

   知らずして帝(天帝)の則(のり)に従う。

2015(平成27)年3月31日(火)『桜花』

第二次世界対戦末期、日本海軍によって作られたジェット戦闘機があった。

ジェット戦闘機というと聞こえが良いが、それは他でもない、特攻専用機であった。

機体は小さく、搭乗員一人が乗り込むのがやっと。

爆撃機の下にぶら下がるように取り付けられ、切り離しによって発射する。

物資不足もあって機体のほとんどは木製、両翼はベニヤ板であったという。

先頭部には大量の爆薬を搭載。

着陸は想定していないので車輪はない。

燃料は当然、片道分のみ。

それは爆弾に、小さな翼と申し訳程度のジェットエンジンを付けて、人が乗っているようなものであった。

その名は「桜花」。

咲いて散るのみの、余りに哀しい命名である。

若い搭乗員たちは、どんな思いでこの桜花に乗り込んだのだろうか。

そして、どんな人間がこの特攻機を設計し、出撃を命じたのだろうか。

今、自分自身が後進たちを教えるような立場になってつくづく思う。

素直で一途な若い生命(いのち)を、年上の者たちは大切に大切に教え育(はぐく)まなければならない。

教育とは、散ることよりも自分を咲くことを教えるものである。

目の前の満開の桜を眺めながら、そんなことを思った一日であった。

2015(平成27)年3月27日(金)『気の長いセラピー』

後輩の精神科医A君がセラピー中断例について相談に来た。

患者さんは、40代女性で、浪費癖が主訴だという。

目の前のことにお金をパッパと使っては赤字となり、後になって自分を責め苛(さいな)むという悪循環に陥っていた。

彼はまず鑑別診断として、注意欠如・多動症(注意欠如・多動性障害)(AD/HD)を諸検査によって除外し、

俗にいう買い物依存症も(DSM-5でも「精神疾患としての行動異常と認めるには十分なエビデンスがない」とされているが)特徴が異なるため除外された。

そうなると、その女性には非常に支配的・干渉的な母親がいたことから、これは生育史の問題がメインと思われた。

そういう場合、理性と意志の力によって、計画的に出費をコントロール(=セルフコントロール)できるように本人をトレーニングしていく治療が行われる場合が多いが、私や彼はそういう方法はとらない(それで本当によくなると思っていない)

その女性の中の、健全なこころの働きが回復すれば、出費は自ずと落ち着いて行く(=オートコントロール)ものと考えていた。

まず彼のセラピーによって、出費しては自分を責め続けるという悪循環に苦しむことはなくなった。

これが第一段階。

ところが、ここでその女性は、言わば、自責の念なしに出費できるようになったことに満足し、もう治療はいらないと、通院を中断してしまったのだという。

ああ、そうなったか。

「わがまま」と「あるがまま」の違いがわからないと、わがままな自由をゴールと勘違いしてしまうおバカさんがいるものだ。

そして“痛い”経験をすることになる。

セラピーの本番、第二段階はこれから始まるところだったのだが…。

そして、来ないものはこちらから押しかけて行くわけにもいかないので、彼が心配していたところ、

その女性が自宅の土地建物も売ってしまったという噂を聞いたのだという。

ああ、已(や)んぬる哉(かな)。

きっとそのお金も、やがて使ってしまうだろう。

彼に頼っておきながら、ちょっと楽になったところで、自分の判断が正しいと思い上がって暴走してしまったところに、その女性の致命的失敗があった。

私は彼に言った。

「そのまま静観していれば良い。

もしその女性が賢明であれば、自分の増長に気づいて、君のところに(他に行ったって良いが)すいませんでしたと帰って来るだろう。

そしてもし本物のおバカさんなら、本当に破滅するまで浪費し続けることになるだろう。」

セラピーは時に(必要なんだからしょうがないがけれど)気の長〜いものとなる。

2015(平成27)年3月20日(金)『写真』

子どもの頃の写真は一枚も持っていない。

家を出て自立生活を始めるとき、過去の物はほとんど処分して来たのと、

私は双子であるため、弟の方が幼少期のアルバムなどを持っているためだ。

しかし今も記憶に残っている写真が何枚かある。

一枚は、確か2歳くらいの底抜けにおどけた顔の写真。

間違いなく根がお調子者の証拠である。

もう一枚は、4歳くらいの、眉間に皺を寄せて弟の陰に隠れている写真。

ああ、神経症がもう始まっているとひと目でわかる。

幼稚園の頃、早くも、安心して遊べる友だちが一人もおらず、

体育館の隅に積み上げられた跳び箱の上、天井との間の薄暗く狭い空間が、いつもの私の居場所だった。

そこからは紆余曲折の長い話になるので割愛するが、

恩師との出逢いによって、全てが修正され、本来の自己に戻れた。

そしてさらに人の役に立てるところにまで成長できた。

面談しながら、いつも思う。

かつての私がしてもらったことを、あなたに返しているのである。

そしてまたこの人が誰かに、愛する大切な人に返してくれる日が来れば、とてもとても嬉しいと思う。

2015(平成27)年3月17日(火)『良寛Ⅰ』

私が何故、児童専門外来をやって来たかということを、ただ一人の畏友が「良寛ですね。」と言ってくれたことがあった。

勿論、良寛の境地に及ぶべくもないが、その消息を唐木順三が端的に書いてくれている。

「良寛が子供たちと手まりをつき、かくれんぼをし、草花をつみ、打興(うちきょう)じて倦(う)むところがなかったことはその行実(ぎょうじつ)や逸話によって知られている。或る人が、なぜ子供たちが好きかと聞いたところ、『その真にして仮(け)なきを愛す』と答えたと」いう。

「私がまりを打つと子供たちがそれについて歌い、私が歌うと子供たちがまりをつく。つきつうたいつ、うたいつつきつ、時のたつのを忘れてしまった。そこへ通りかかった里人(さとびと)がこのていたらくを見て笑いながら、いやはやまたどうしたことかとあきれ顔に言った。私はただ頭をさげてちょっと会釈するだけで、返事もしない。たとえ言葉でそれに答えたとしても、その真意は伝えにくい。強いて言えというならば、これこの通り、歌ってまりをつくばかり。」

「大人の良寛が子供たちと遊んでいるのを見て、おかしいと思うのは大人の分別心から来ている。大人とはかくかくしかじかの者、子供とはかくかくしかじかの者と規定し分別しておいて、その上で良寛のふるまいはおかしいと思うわけである。子供は無分別だが大人には分別がある。その分別のあるべき大人が、無分別な子供と一緒になってと、そう思うわけである。そして我々は日常そういう世界に住んでいる。」

「世間から痴愚と言われていた良寛が、大愚となって世間の小愚を眺めているのである。」(一部改訂) ※良寛の号を大愚という。

少なくとも良寛は、非常に親近感を感じる歴史上の人物の一人である。

2015(平成27)年3月11日(水)『生きる』

今日で東日本大震災から4年。

テレビや新聞も追悼番組や関連記事が続く。

しかし、どんな名アナウンサーのコメントや看板記者の記事よりも、

当事者、特に生き残った人々の言葉が胸に突き刺さる。

「津波から逃げる時、握っていた妻の両手を離してしまった。

手が離れていく感覚、『父ちゃん』という声が忘れられない。」

「一気に津波ににまれ、かあちゃんを小脇に抱えて家の壁伝いに立ち泳ぎしたが、

気がついたらかあちゃんの服だけをつかんでいた。

ごめん。助けられんかった。」

このような話を何度目にし、耳にして来たことか。

いつ癒えるのだろう。

いつ癒されるのだろう。

安易な言葉かけで解決できるとは思えない。

しかし、少なくとも亡くなった人たちが、残った愛する人たちの日々の幸せを願っている(願っていた)だろうことだけはわかっておいてほしいと思う。

あなたが幸せでないと、彼ら彼女らが浮かばれない。

みんな死ぬまで与えられた生命(いのち)だ。

その日まではちゃんと生きよう。

2015(平成27)年2月26日(木)『卑怯』

ある発達障害専門医から聴いた話。

男性でも女性でも、広汎性発達障害(PDD)(または自閉スペクトラム症/自閉症スペクトラム障害(ASD))のグレーゾーン(診断基準を満たすか満たさないかの領域)の一次障害を持ち(広汎性発達障害の方の名誉のために申しあげるが、それだけではこうならない)、

相手の気持ちが読めない/空気が読めないために、二次障害として、周囲からイジメられ、集団に適応できす否定されて来た経験を持ち、しかも、その間、特性を見抜いた適切な関わりをしてもらえなかったどころか、近しい人からも愛情のない関わりを受けて育った場合、非常に保身的な性格になってしまう場合がある。

そうなると、相手の気持ちが読めない/空気が読めないことが悪い方に作用して、まず何よりも自分の利益と安全を確保しようとするために、その発言や立居振舞が非常に自己中心的にして卑怯になってしまう場合があるのだ。

そして本人は他人の気持ちを踏みにじっていることに気がつかない。

本人は(イジメられて来たこともあって)むしろ気が小さそうに見え、とてもそんなふうに思えないのだが、実際の言動は無自覚にかなり酷い。

また、その言動の酷さを指摘されても、ああ、そうだったんですね、とあっけらかんと認めて終わるか、気づいただけすごいでしょ、という顔をする人までいる。

通常なら、自責の念と恥ずかしさで何日も何日も胸が張り裂けそうになっておかしくないのだが、それがない。

それどころか、非難されて生きて来た経験から、わけもわからず開き直ったり、逆ギレしてしまう場合さえある。

その話を聴きながら、私も専門外来をやってきたので、リアルにその様子を思い浮かべながら、心底、哀しいなぁ、という気持ちになった。

しかし、無自覚であろうとなかろうと、卑怯はダメである。

何年、何十年かかろうとも、この絡(から)んだ糸は解(ほど)かなければ、その人の人生は孤立だけでなく、嫌悪を浴びせられ続けながらの酷いものとなる。

ここまで来ると、情けなさの自覚と成長への意欲は、実は誰にでも当てはまる成長の姿勢だと再確認しするのであった。

2015(平成27)年2月9日(月)『Way to go』

退職した人がいる。

転職した人がいる。

しばらく無職で休むことにした人がいる。

離婚した人がいる。

再婚した人がいる。

独り身でいることを選んだ人がいる。

退学した人がいる。

学校に入り直した人がいる。

新たな資格取得を目指している人がいる。

実家を出た人がいる。

世界一周旅行を目指している人がいる。

外国暮らしを準備している人がいる。

 

あなたが本当に生きたい人生を生きるのであれば、どの道を進んでもOKだ。

あなたの生命(いのち)が何をしたがっているのか、何をしたがっていないのかだけは、ちゃんと感じ取るのだぞ。

2015(平成27)年1月30日(金)『くりからもんもん』

小学生の頃の自宅(広島)は、父親の精神科病院の向かいにあった(それまでは病院の二階が自宅であった)。

ある日、小学校低学年の私が学校から帰って玄関のドアを開けると、中にたくさんの男の人が立っていた。

今でも覚えているが、その大半が鯉口か、派手な開襟シャツを着ており、後ろ側から見ると、シャツからはみ出たさまざまな倶利迦羅紋紋(くりからもんもん=刺青(いれずみ))の壮観な眺めであった。

見ると、向かいには和服姿の父親が男たちに対峙するように立っている。

しかし当時の私は至って能天気で(事態がよくわかっていなかった)「ただいまー。」とか言いながら男たちの間を縫うように通り、靴を脱いで、奥の方に入って行った。

当時は、覚醒剤にまつわる暴力団関係者の入院が多く、後から聞いた父親の話では、親分を退院させろ、と子分たちが談判に来ていたとのこと。

事の顛末は覚えていないが、無事だったところを見ると、警察署も近く、公安委員もやっていた父親のことなので、恐らく警察に間に入ってもらったのだと思う。

少なくとも当時の私の周囲では、倶利迦羅紋紋との遭遇はさほど珍しくなかった。

そして後年、今度は、大学生になって飛行機で東京から帰省した際、

隣席に乗り合わせた、どこかの大企業の重役を思わせる、品の良い中年男性から話しかけられ、機内で歓談に花が咲いたが、

広島空港に到着するに及んで、彼を出迎えていたのは、角刈り、やっぱり鯉口か派手な開襟シャツ、倶利迦羅紋紋、指1〜4本なしの子分衆の整列であった。

このギャップはすごいなぁ、などと思いながら、スモークドグラスのベンツとお供の車列が去るのを見ていたのを覚えている。

今は時代が違うだろうが、少なくとも当時の広島の倶利迦羅紋紋の人たちには、どこか緩い雰囲気があったと思う。

その後、精神科医になってからも、臨床場面で何度かその筋の方にお逢いすることがあったが、割合平気で話ができるのも、そういった経験のお蔭かもしれない。

実際、治療場面では、倶利迦羅紋紋であろうとなかろうと、心の中は同じ人間である。

2015(平成27)年1月21日(水)『選択』

「家を建てる時に、人は良いが腕の悪い大工か、性格は悪いが技術の確かな大工と、どちらを選びますか。」

という話がある新聞に載っていた。

私はすぐに

「手術を受ける時に、人は良いが腕の悪い外科医か、性格は悪いが技術の確かな外科医と、どちらを選びますか。」

という話を連想した。

あなたはどちらを選びますか?

私の答えは決まっている。

人格に優れ、腕も良い外科医しか選ばない。

そうでなければプロではない。

どちらかでは半人前である。

そのレベルなら臨床の場に出るな。

人の生命を預かるプロというのは、そういう世界であると私は思っている。

2015(平成27)年1月11日(日)『成人式』

テレビで東日本大震災の被災地での成人式の様子を報じていた。

震災で娘を亡くしたお父さんが、加工して作った娘(享年16歳)の振り袖姿の写真を持って、成人式会場に来ていた。

お父さんは会場に入らず、外で娘の友達たちが出て来るのを待っていた。

 

その様子を見ていて思い出す光景があった。

かつて原爆忌(8月6日)に、母と広島・平和公園の川べりにある慰霊碑に行ったときのこと。

当時中学生だった叔父(母の弟)は、建物疎開に動員されて、爆心地付近で被爆し、遺体も見つからなかった。

同じ中学の犠牲者たちを弔う慰霊碑のまわりには、既に高齢になった親たちがたくさん集まっていた。

たまたまその年は、東京にいる叔父(亡くなった叔父の兄)も帰省し、慰霊に同行していた。

亡くなった自分の息子と年齢の近い叔父の存在がわかると、犠牲者の親たちが叔父のまわりに集まって来た。

そして肩や背中を触りながら、

「息子も生きていたらこのくらいになるのか…」

と言って涙を流した。

叔父も神妙な顔をしながら、されるがままに俯(うつむ)いていた。

 

あの東北の被災地のお父さんも、娘の写真を成人式会場に持参しながら、生きている同級生たちの姿に娘を重ねて見ているように私には感じられた。

死んだ子の年を数える、という。

必要なだけ数えればいい。

そしてその上で、“生きている自分”の“今”を大切にしてほしいと切に願う。

2015(平成27)年1月10日(土)『触れるⅡ+α』

詩人・伊藤比呂美の話。

 

「うちの母は病院で5年間寝たきりだったんですが、死ぬ直前のことです。

父が新聞で『妻が死ぬ前に、抱きしめてやれなかったことを後悔している』という投書を読んで、

おれはやったろと思って、力いっぱい抱きしめてやったんですって。

目も見えなくなっていた母は『誰もいないの?』と聞きまして、

父が『いないよ』と答えると

『もっとやって』と言って、声をあげて泣いて喜んだそうです。

そうやって抱きしめあったことで、

父も母も、いい人生だった、いいつれあいだったと

愛を確認して、逝くことが、送ることが、できたみたい。」

 

だから皆さんも時々はちゃんと大切な人と抱きしめ合いましょうね。

 

そしてもうひとつ。

今度はそのお父さんが娘におむつ交換などの介護を受けるようになったときの話。

 

「『おとうさん一人でよくがんばってるもんね』と言ったら、

『そうかい、一人でもそう思ってくれる人がいたらいいや。

おれも自分でもよくやってるなあと思うもん。

そんなこと思ってくれるのは日本中、じゃないな、世界中だな、世界中にあんた一人だよ』

とうれしそうに言うのだった。

八十九になって、こういう状況で、

それでもよくやってる、がんばってる

とほめられ、自分の存在を受け止めてもらえるのは、

やっぱりこんなにうれしいことなのかとしみじみ考えた。」

 

だから皆さんも時々はちゃんと言葉にして、あなたの存在を大切に思っている人間がここにいるということを伝えましょうね。

2015(平成27)年1月8日(木)『進路』

新入社員教育研修センターにおける指導官の言葉

「世の中、やり甲斐がぎっしりつまった仕事なんて、百万に一つよ。」

「公平な職場なんてものもありゃあしねぇ。」

「大半は意味のねぇ苦労や、やり甲斐のねぇポスト、自分には不向きの仕事なんてのもでいっぱいなんだよ。」

そして

「いやで辞めていたら、一生、辞め続けねばならない。」

「意味がない苦労も、黙って立派にやり通す人間になるしかないのだ。」

などと新聞に載っていた。(山田太一の脚本からの引用とのこと)

あなたはこれを読んでどう思うか?

こういう魂を売った敗残者たちの言葉を鵜呑みにして(敗残者が指導官なんぞになるな!)、この世界を、この人生を生ける屍(しかばね)のように生きて行くのか。

それとも、

百万に一つの仕事をでも見つけてやる、

おかしな職場は変えてやる、

意味のある苦労をし、甲斐のあるポストで、自分に合った仕事をやってやる、

本当に自分に合う職場が見つかるまで何度でも職場を辞めてやる、

意味のある仕事を立派にやり通してやる、

などと、あなたならではの人生を切り拓いて行くのか。

あなたはどっちだ。

私からの提案としては、できるだけ個人の資格や技量で自由に展開できる仕事をお勧めする。

lこれは人生の大事だ。

間違うなよ。

2015(平成27)年1月4日(土)『午後11時で閉店』

今日の夕食は、デスクワークを片付けた後、散歩がてら出かけた先の小さな郷土料理屋に入る。

津軽料理を出すという珍しい店。

八十代と思(おぼ)しきご夫婦二人で切り盛りしているようだ。

実に一品一品、一所懸命の仕事をしておられる。

姿勢の良い店は気持ちが良い。

子持ちはたはたの味噌焼きも旨かったが、

鮭の飯寿司(いずし)の素朴な味は何ものにも代えがたかった。

店内十席というところにも大将の誠実な姿勢が感じられた。

大将一人でそれ以上の席数だと肴(さかな)が遅れる。

店の中はあっという間に満席となった。

その大将の後ろの壁に長々と大書されている言葉があった。

「明日の仕事の活力のために午後十一時で閉店させていただきます」

午後十一時閉店は、この店の大将が明日もちゃんとした仕事をやるためでもあり、ついつい長っ尻になる呑兵衛客たちが明日もちゃんとした仕事をやるためでもある。

明日から仕事始めという方も多いだろう。

さぁ、誰が見ていようと見ていまいと、“私ならではの仕事”をきちんと始めよう。

2014(平成26)年12月31日(木)『本当に大切なもの』

『今日』

 

今日、わたしはお皿を洗わなかった

ベッドはぐちゃぐちゃ

浸けといたおむつは

だんだんくさくなってきた

きのうこぼした食べかすが

床の上からわたしを見ている

窓ガラスはよごれすぎてアートみたい

雨が降るまでこのままだと思う

人に見られたら

なんといわれるか

ひどいねえとか、だらしないとか

今日一日、何をしていたの?とか

 

わたしは、この子が眠るまで、おっぱいをやっていた

わたしは、この子が泣きやむまで、ずっとだっこしていた

わたしは、この子とかくれんぼした

わたしは、この子のためにおもちゃを鳴らした、それはきゅうっと鳴った

わたしは、ぶらんこをゆすり、歌をうたった

わたしは、この子に、していいこととわるいことを、教えた

 

ほんとにいったい一日何をしていたのかな

たいしたことはしなかったね、たぶん、それはほんと

でもこう考えれば、いいんじゃない?

 

今日一日、わたしは

澄んだ目をした、髪のふわふわな、この子のために

すごく大切なことをしていたんだって。

 

そしてもし、そっちのほうがほんとなら、

わたしはちゃーんとやったわけだ。

 

(ニュージーランドの子育て支援施設に伝わる詩。 伊藤比呂美 訳)

 

 何が本当に大切なことかを間違うことなかれ。

 そうしないと、

 家は片付いているけれど、子どもは悲しい毎日を過ごさなければならなくなるかもしれません。

 計画通り、予定通り、計画的、効率的に物事は正しく進んだけれど、思いもしなかった本当に大切なものを失うことになるかもしれません。

 仕事は成功したけれど、(寄って来るのはあなたを利用しようとする人間ばかりで、)最後にはひとりぼっちになってしまうかもしれません。

 この詩は、設定を変えれば、応用範囲の広い作品だと思います。

 ですから、来年こそ、本当に大切なものを間違わずに、時間とエネルギー、そして愛情を注いで行く一年にしていきましょう。

 

恵存

2014(平成26)年12月30日(水)『氣』

今となっては昔話だが、ある近藤先生関連の経緯(いきさつ)から、刃傷沙汰(にんじょうざた)になりかねない“事件”に関わらざるを得ないことがあった。

振り返ってもかなり危険な状況にあったと言えるのだが、近藤先生は、普段と全く変わらず、平気な顔をして過ごしておられた。

で、あるとき、

「松田君も外を歩くときは、お腹に晒(さらし)くらい巻いておいた方がいいかな。」

などと笑顔でおっしゃる。

「え? 刺されるんですか、私。」

というような状況で、ちょうどその前あたりから師に習っていた剣(スポーツ剣道ではなく剣術)の稽古も段々殺気じみたものになってきた。

実際、毎夜の素振りも、絶対に斬ってやる、という気合いに満ちていたし、

新宿駅の地下通路などを歩くと、向こうから来る人が皆除けて通っていたのを覚えている。

私くらいの体格でそうなのだから、相当、目つきや人相が危なくなっていたに違いない。

もしあのときたまたまチンピラと肩でもぶつかっていたらどうなっていただろうかと思うと、冷や汗ものである。

そんなある日、師の前で木刀を振ってみせたとき、こう言われた。

「気は結構だが、発した気で相手を包むんだよ、全体をふわ〜っとね。」

と言われて拍子抜けしたのを覚えている。

腐れ外道は真っ二つに斬り捨ててやればいいと思っていたのに、あんなヤツらすら包めとおっしゃるんですか。

くぅー。

さらに

「本当に優しい人間こそがね、実は畏(こわ)いんだよ。」

とまで付け加えらえた。

確かに、一見恐そうな人間は(そう見せてる人間は)弱いよな。

そこで、降魔剣はどこまでいっても大悲剣でなければならぬことを思い知った。

その後、実際に何があったかは、諸般の都合上省略するが、師の言った通りになった。

今思っても、当時練っていた私の気は、極めて危険な邪気に満ちたものであったと思うが、

それでも、いつどんな事態が起こるかわかならい状況で、一所懸命に稽古して気を練っていた姿勢だけは評価したいと思う。

最早、当時のようにつっぱらかる気はないが、いざというときの気を大きさだけは改めて練っておきたいと思っている。

それが来年の大事な目標のひとつだな。

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