2018(平成30)年3月1日(木)『自己一致』

子どもの心理療法を専門とする熱心な臨床心理士。

彼女が日本で開催される国際学会での実践報告講演者の一人に抜擢された。

国内外の専門家に顔と名前を知られ、評価を得るには絶好のチャンスである。

しかし、その学会の開催日を聞いて驚いた。

東京の専門病院で、幼い娘が眼の手術を受ける当日に当たっていたのである。

一年以上順番を待ち、諸条件をやりくりしてようやく決めた手術日だった。

今さら変えようがない。

娘の顔が浮かぶ。

「ママもずっと傍にいてくれるよね。」

彼女は迷わず決断した。

いや、正確に言えば、一瞬でも迷ったことを恥じた。

ここで私が学会の方を取ったら、日頃の私の臨床姿勢と矛盾することになる。

何が一番大切かを間違わないで子どもに関わることが彼女の心理療法の信条であった。

私は娘を愛している。

そして自分を指名してくれた教授に事情を説明し、講演を断ったのであった。

どうやったら世俗的評価を得やすいかに走って、名前を売り、地位を得たがる人間がいる一方で、世の中にはこういう人もいるのである。

そして彼女を指名した教授は、大変残念に思いながらも、益々次のチャンスを彼女に与えたいと思うのであった。

2018(平成30)年2月16日(金)『懺悔』

キリスト教に告解(こっかい/こくかい)というものがある。

(一般に言う懺悔(ざんげ)はキリスト教全般でいうものではないそうだ)

仏教でも懺悔(さんげ)という。

己の愚かさ、醜さ、汚さを見つめ、認めて、告白するわけである。

それは真摯な、時に感動的な姿勢でもある。

しかし、神仏の方からその姿をご覧になったらどうであろうか。

人間は自分の愚かさ、醜さ、汚さの千分の一も自覚できていないかもしれない。

実際、精神分析の仕事をしていて思う。

われわれが意識できることは、どんなに分析しても、全体のほんの僅かに過ぎない。

それくらいわれわれが愚かで無力であることは、きちんと認めておいた方が良いと思う。

そして神仏の方では、全てを見通された上で

稚児を愛(いと)おしむように、この最低の愚か者たちを見守って下さっているのである。

それを感じれば、手を合わせ、頭を下げて、祈るほかにすることはないではないか。

そんなことを冬の空に思うのでありました。

2018(平成30)年1月29日(月)『真骨頂』

面談において、何が問題の本質なのかを明確にして浮かび上がらせ、それを乗り越える具体的な道を一緒に考えて行くことは、通常のセラピーの基本である。

しかし、近藤直系の八雲のセラピーでは、それだけではないことが稀に起こる。

ある若い男性のクライアント。

因襲の強い地方出身。自己中心的な父親、過干渉な母親の許で育つ。

会社でも、最低限の業務を除けば、面倒な上司、先輩や、同僚との交流を一切忌避する。

彼女もいなければ、結婚する気もない。

もちろん実家にも帰っていない。

一人でいる方が清々すると本気で思っている。

そんな彼が通って来る。

より詳細に生育史や現状について伺う。

特に私から指示的なことは言っていない数カ月目、

突然彼が言い始める。

「自分でも不思議なんですけど、なんか人と交わりたいんですよね。」

「あんなにイヤだった人が、どっちかというと、好きなんですよ。」

そんなことが起こることがある。

意識的、操作的なセラピーは行っていない。

生育史や現状の分析もまだ途中である。

それなのに変化が起きる、しかもこの人にとってかなり本質的な変化が。

となると、会話以外のところで何かが起こっていたとしか言いようがない。

それが薫習(くんじゅう)。

個人の無意識を超えたところで、私を通して働くものがあなたに影響を与え、あなたの中の本来のあなたを発現させる。

それが勝手に起こる

そういうところが八雲のセラピーの真骨頂なのである。

但し、私が意識して行っているものではないので、

それがいつ起こるのか、

今も起こっているのかいないのか、

私にはわからん。

妙なセラピーを受け継いだものだと思う。

しかしこれこそがセラピーだ。

但し、私の周りでは「稀に」起こるに過ぎないが、

近藤先生の周りでは「しょっちゅう」起きていたと記憶している。

まだまだ道のりは長い。

2018(平成30)年1月22日(月)『雪』

雪の降らない地域にたまに雪が降ったりすると、喜びはしゃぐ人たちがいる。

それを見て豪雪地帯の人たちの一部に(もちろんごく「一部」であるが)

「雪の大変さも知らずに、いい気なもんだ。」

などと悪口(あっこう)をきく輩がいる。

狭量だなと思う。

雪を見てはしゃぐ人たちを微笑ましく見ていられないのかと思う。

東日本大震災で小さなお子さんを亡くされた女性がいた。

移り住んだ東京で、隣家に赤ちゃんが生まれた。

赤ちゃんを抱きながら、涙ながらに「おめでとう。」と言った。

涙も「おめでとう。」もそのままの想い。

生きる姿勢の美しい人だなと思う。

人間だから、悩み、苦しみ、悲しむときがある。

しかし、それはそれとして、他人の喜びや幸せを喜べなくなったら、人間として貧しいんじゃないかと思う。

2017(平成29)年12月29日(金)『おまえの番だ』

いわゆる精神世界に関心のある人と話していて、時々心に引っかかることがある。

例えば、Aさんは二十代の頃から、ロジャース派カウンセリング、森田療法、フロイト派精神分析などいろいろなセラピーを受け、

自らも参禅し、ヨガもやり、カトリックの霊操法など、さまざまな体験を積極的にして来られたのだが、

五十代になった今でも、彼の口をついて出る言葉は、

「○○はセラピストとしてホンモノではない。」

「□□老師には大悲がない。」

「△△神父には愛を感じない。」

などの評論家的批評ばかり。

それはあたかも、子どもが親に対して文句をつけるような言葉のオンパレードなのである。

流石に私は彼に忠告した。

最早あなたは、文句ばかり言っても許される、青少年や若き弟子や幼いクライアントではない。

そもそもあなたが批判していることをあなた自身はできているのか?

そういうときだけ、いやいや私は素人ですから、宗教家ではないですから、と言って逃げるんじゃない。

四十も五十も過ぎた良い大人なんだから、せめて一市民として、あなたの友人や家族や縁あって出逢った人たちをあなたが愛する側に回っても良いだろう

今度はあなたの番だ。

やってみせよ。

私がいわゆる批評家、評論家が嫌いな理由がここにある。

作品に難癖つけるのなら、おまえが書いてみせろ。

料理に文句つけるなら、おまえが作ってみせろ。

自分自身もまた批判を受ける俎上(そじょう)にあがって初めて、他人を評する資格が生じる。

そうでなければ卑怯である。

子どもの頃を過ぎたら、汝もまたリングに上がるべし。

2017(平成29)年12月22日(金)『繊細にして勁(つよ)く』

多くのクライアントの方々は、表現や主張が強いわけではない。

ホーナイの言う自己縮小的な方が多く

こちらは感覚を澄ませて、抑圧された感情の声を聴き

直観を澄ませて、「本来の自分」の声を聴く必要がある。

小さな小さな声を聴き取ることのできる感度が要求されるのだ。

しかし、時に自己拡大的なクライアントから、強い感情や自己中心的訴えをぶつけられるときもある。

言わば、耳を澄ませているところに大音量の騒音を聴かされるようなもので

そういうとき、こちらに精神的な勁さ=幹の太さがないと、ひっくり返されることになる。

対人援助職者には、気圧(けお)されたり、吹っ飛ばされたり、場合によっては、傷ついてしまう人が少なくないように思える。

(中には最初から感覚麻痺を使い、どんなものが来ても平気という人もいるが、そういう人は鈍感過ぎて援助の役に立たない)

即ち、対人援助職者には、瞬時にして細やかな繊細さから逞しき勁さまで感度を自在に変えられる(自ずと変わる)力量が要求されるのだ。

そしてそのためには対人援助職者自身がしっかりと自分自身であることが必要となる。

よって、対人援助職者自身が自分自身のこころの声に対して、まず繊細にして勁くなければならないのである。

そして話はいつも、自分の成長が先、というところに戻る。

2017(平成29)年12月14日(木)『脅し』

先日の勉強会で

「夜口笛を吹くと狼が来る」

という言い伝えが話題になった。

「狼」の代わりに「蛇」「泥棒」など何パターンかあるようだが

元々は子どもたちに夜口笛を吹かせないようにするための躾の伝承であった。

どうも各地にこういう「脅し」による児童教育的伝承があるようだ。

個人的には極めて気持ちが悪い。

そんな持って回った嘘をつく暇があったら、子どもに向かって正面切って

「夜は静かに休みたい人もいるから口笛を吹くな。」

と言えば良いだろう。

そう言えば、かのなまはげも

「泣ぐ子はいねがぁ。」

と恐い面をつけて子どもを脅している。

泣いたって良いではないか。

私としてはなまはげ太鼓が好きなだけに、ああいう脅し台詞は是非やめていただきたい。

どうしても脅したいなら、子どもではなく、大人に対して

「ニセモノの自分で生ぎでるヤツはいねがぁ。」

「仮面つけて生ぎでるヤツはいねがぁ。」

と迫っていただきたい。

…などと思ってバスに乗っていたら

ダダこねしている2歳の女の子に対して、若いお母さんが

「恐い運転手さんに怒られるよ。」

と脅していた。

それを聞いた運転手さんの

「ブフッ。」

という吐息がマイクを通じてバス中に響いた。

とんだ巻き込みである。

脅しによって子どもをコントロールしようとする伝承、止めるべし。

2017(平成29)年12月13日(水)『人恋しさ』

あるイギリス人の知人は、日本での初めての正月を一人で過ごすのが寂しくて、大晦日から浅草寺に繰り出したという。

見知らぬ日本人たちと“Happy New Year!”と言ってハイタッチしているうちに、寂しさを紛らわせることができたと言っていた。

確かに、人間、人恋しくて寂しいときもある。

しかし、だからといって、大切なことを共有できない人間とは親密な関係を持たない方が良い。

学校で寂しくて。

職場で寂しくて。

プライベートで寂しくて。

大切なことを共有できない相手と過ごしている人がいる。

中にはそれで結婚する人もいる。

それでどんな交友関係になった?

どんな人間関係になった?

どんな恋人関係になった?

どんな夫婦関係になった?

余計寂しい失敗例の話を聴くのはもうたくさんである。

寂しくて人を求めるのは良い。

但し、ホンモノ以外は求めるな。

大切なことを共有できる人だけに絞れ。

見つからなければ、見つかるまで一人でいる勁さを持て。

それが無理なら、せめて先のイギリス人のように、薄く広く毒のない交流に留めよ。

「人恋しさ」の「人」は誰でも良いわけではないことを忘れないように。

2017(平成29)年12月6日(水)『帰る道 〜 助けて下さい』

今度はあなたが誰かの力になろうとするときの話。

ここでもまた気づかれるだろう。

我々が他者に注ぎ込むことのできるエネルギーや愛情の容量の小ささを。

ちょっと余裕があるとき、我々は寛大で愛情いっぱいであるかのように振る舞う。

しかし、ちょっと躓(つまづ)くことがあったり、ちょっと事態が長引いたりすると、我々のエネルギーや愛情は簡単になくなってしまう。

そして「面倒くせぇなぁ。こいつなんかどうなってもいいや。」と思ってしまうのが、我々の常である。

容量、ちっちゃいよね。

だからこそ、ここでもまた、我々を超えたものの働きにお願いする必要がある。

我々を超えたものからエネルギーと愛情をいただく。

そしてそのエネルギーと愛情が、我々を通して、相手に注がれる。

そうでないと、薄情で自己中心的な我々が、誰かを愛し続けるなんてできるわけがないよね。

「愛する」ものは「我(われ)」にあらず、ただ「我らを超えたもの」のみ。

だからまた祈ることにしよう。

己(おのれ)を空(むな)しゅうして、我(が)を空しゅうして、祈る。

そうすると広大無辺な愛が通ることがあるんだよ、本当に。

2017(平成29)年12月5(火)『行く道 〜 持って行って下さい』

ある女性。

自分に対してひどく当たって来た母親は疾(と)うに認知症になってしまい、入所を拒否して自宅介護。

DV夫とは離婚し、シングルマザーとして働いている。

中学生の息子は、不登校で引きこもり。

そして今回、自身に乳癌が見つかった。

もう死んでしまいたいような気持ちになった。

周囲を見れば、そういうような状況になっても、平気そうにしている人もいる。

しかし、その多くは感覚麻痺を使って感じないようにしているだけで、苦悩は確実に心の底に澱(おり)のようにたまっている。

つくづく思う。

我々が苦悩を抱えられる容量はそんなに大きくない。

だから自分で抱えない方が良い。

信頼できる人とつながって話し、苦悩を軽減することも、もちろんお勧めだけれど、

私は人間を超えたものに全部持って行ってもらう、抱えてもらうのが一番良いと思っている。

我々の仕事でも、患者さんの凄まじい被虐待体験、犯罪被害体験、被災体験などの心的外傷(トラウマ)体験を聴いているうちに、“二次受傷”を生じることがある。

そんなときも自分の小さな容量の中に抱えようとするから潰れて行くのである。

かと言って、感覚麻痺を使って聞いていては、患者さんの苦悩は感じ取れないし、役にも立てない。

ちゃんと感じて潰れないためには、やはり人間を超えたものに持って行ってもらう、抱えてもらう必要があるのだ。

だから祈る。

己(おのれ)を空(むな)しゅうして、我(が)を空しゅうして、祈るのである。

そうすると何事が起きても、なんとかなるんだよ、本当に。

2017(平成29)年11月30日(木)『ガッカリ』

今日、近来、稀なほどガッカリすることがあった。

本当にガッカリした。

そして、ちゃんとガッカリした後に復活した。

ガッカリしたことは残念であったが

ちゃんとガッカリし

ちゃんと復活している

ちゃんと感じて

ちゃんと流れている

自分には大いに満足した。

そして私がガッカリしているとき

私のことを心から案じてくれる人がいた。

私の唯一の親友である。

一年に一回話すか話さないかの親友であるが

清浄(しょうじょう)な彼の思いが私の胸に深く沁みた。

有り難い。

ガッカリしたことがさらにどうでもよくなった一日である。

そして過去は終わった。

新たな「今」に乗り出す!

2017(平成29)年11月26日(土)『Inflation』

ユングの優れた洞察に“inflation”がある。

いわゆるインフレだが

「(自我)肥大、「(自我)膨張」といった方がわかりやすい。

仏教でいうところの「増上慢」であり

平たく言えば「思い上がり」である。

「思い上がり」にならないように気をつけることは、古(いにしえ)より強調されて来たことだが

それがなかなか難しいのは

意図的努力で「思い上がり」を止めようとするからである。

残念ながら、意図的努力(=気をつける)では「思い上がり」は止まらない。

せいぜい謙虚なフリをした、余計に気持ちの悪い「偽善者」を作り上げるだけである。

「思い上がり」を見つけ出すのは「感覚」によらなければならない。

「思い上がり」が動いたとき、なんとも言えない違和感、嫌悪感、悪心を「自動的に」感じる「感覚」が必要なのだ。

私は長年、近藤先生の薫習を受けて来た。

しかし、近藤先生は体得されているが

私自身は体得してないことが、当然ながら、無数にある。

近藤章久から学んだことを伝えることは、私の大事な役割のひとつだと思っているが

まだ体験していないことを自分が体験したかのように言う(思う)ことだけは絶対にあってはならない。

それこそが最大の“inflation”である。

等身大の自分で、正直に、地に足を着けて進もう。

2017(平成29)年11月22日(水)『祈る 祈る 祈る』

「助けて下さい。」と言う。

「助けてあげたい。」と思う。

しかし、最初からどうしても縁がつながらない場合がある。

また、一度切れた縁がどうしてももうつながらない場合がある。

つまり、人間の思惑を超えて、私の出番ではない、のである。

近藤先生と話したことがある。

どうにかしてあげたいと思っても、それが自分の役割でないと知るとき、とてもきついですね。

近藤先生は目を閉じて、ゆっくりと頷(うなづ)かれた。

そこで私は「じゃあ、そういうときはどうしたら良いんですか?」とは訊かなかった。

何故なら、もう答えを知っていたから。

 

祈る 祈る 祈る。

 

何もできないけれど、今日もこうして祈っている。

2017(平成29)年10月15日(日)『幸運を超えて』

昨日と反対の話。

非常に幸運なことに、職場の人的環境(特に上司や先輩など)に恵まれている人がいる。

そういう人は、それがどれだけ稀で、運の良いことであるかをちゃんと認識し、感謝した方が良い。

人的環境(その職場にどういうパーソナリティの人が働いているか)は、こちらで決められるものではないから。

よって、朝起きて出勤する足取りが軽いというのは、ものすごく有り難いことなのだ。

但し、

感覚麻痺を使って(感じないようにして)

「特に問題ある人なんて、いないんじゃない。」

と言っているのは、それ自体が大問題だし、

過剰適応して(魂を売って)

「ホント、みなさん、良い人ばっかりなの。」

と言うのに至っては吐き気を覚える。

しかし、気づける準備ができるまでは何を言っても気づけないのが人の性(さが)。

自己責任でもうしばらくファンタジーの世界に浸っていてもらいましょう。

(この仕事をやればやるほど「気づかせる」という「操作」がいかに不可能であるかを感じる)

そして今日の話題は、そうではなくて、職場の人的環境に恵まれた場合。

そういう人は、その幸運に感謝しながら、安住せず(安住すると自分が自分であることの幹が細いままになってしまう)、職場以外の娑婆には、恐らく「イヤなヤツ」と「おかしなヤツ」がいるであろうから、そちらで自分を鍛えて行こう。

過剰な逆風は人を損なうが、適度な逆風は人を育てるということもお知り置きあれ。

2017(平成29)年10月14日(土)『ある日の会話』

「世の中、あたまのおかしい人ばっかりじゃないですか!」

と職場で苦しんでいる女性が言った。

『そうだよ。』

と私が言うと、彼女は拍子抜けした顔をしている。

『今、気づいたの?

 世の中、まともな人はほんの僅かだよ。』

「その頭のおかしな人たちが私にああしろこうしろって毎日言って来るんです!」

『自覚のない馬鹿(失礼)なんだからしょうがないじゃない。』

「それが上司だったり先輩だったりするんですよ!」

『じゃあ、魂売って合わせる?』

「イヤですよ!そんなの!」

『じゃあ、そこを辞めるか、勁くなるしかないね。』

「んー。」

と彼女は鼻息荒く黙ってしまった。

鈍感な人は幸せである。

彼ら彼女らは悩まない。

魂の売れる人は幸せである。

彼ら彼女らは悩まない。

だけど、そんなニセモノの幸せはいらないよね。

そして敏感で魂の売れない人たちはこの世の中で苦しむことになる、マトモであるが故に。

そんな人たちにホンモノの幸せを味わってもらうために

彼ら彼女らが勁くなるお手伝いをすることが私の大切な仕事なんです、はい。

2017(平成29)年10月13日(金)『賢明なる忍耐』

例えば、絶望したとする。

それで死んでしまえば、そこで終わり。

しかし感情は時間と共に流転する。

やがて希望が生まれて来るかもしれない。

それを観通して、絶望を抱えながら耐えることを「賢明なる忍耐」という。

怒りについても同じ。

神経症的に抑圧して来た怒りを

自由に出せるようになることがまず第一歩。

これができなければ話にならない。

しかしそれはゴールではない。

いつでもどこでも誰にでも怒りを出せるようになった上で

より高次な目的のために、怒りを出さず、抱えながら耐えることもまた「賢明なる忍耐」である。

単なるヘタレを合理化した「愚かなる忍耐」と

勁さを秘めた上での「賢明なる忍耐」を混同してはならない。

「愚かなる忍耐」を重ねると、人間が腐って来る。

「賢明なる忍耐」を重ねると、人間ができて来る。

昔は「辛抱」という言葉が嫌いだったけれど

「賢明なる忍耐」ということを知ってからは

悪くない(場合もある)と思うようになった。

2017(平成29)年10月3日(火)『生まれつき』

Aさんは中堅のナースである。

普段どんな私服を着ていても、それが白衣に見えて来る。

生まれついてのナースである。

そんな人がいる。

 

B先生はヴェテランの福祉を教える先生である。

どこでどんな格好をしていても、ネクタイスーツ姿に背景の黒板(またはホワイトボード)が見えて来る。

生まれついての先生である。

そんな人がいる。

 

Cさんは魚屋さんにしてサーファーである。

しかし、どんなにかっこいいサーフボードを抱えてビーチを歩いていても、頭に巻いた白いタオルと前掛け姿が見えて来る。

生まれついての魚屋である。

そんな人がいる。

 

こういう人たちを見ていると、やっぱり天職ってあるんじゃないかと思う。

2017(平成29)年10月2日(月)『ズルっこ』

自らの成長のためのカウンセリングに来ている人がいる。

最近は、自分がカウンセリングを受けていることを周囲にフツーに話す人も増えて来た。

本格的なカウンセリングが市民権を得て来ていることは、大変喜ばしいことである。

(未だにカウンセリングに偏見を持っている石器時代の人間もいないではないが、結局のところ、そういう人たちが一番病識がなく重かったりする)

そんな中、ズルいと思うのが

カウンセリングを受けているという話を聞いた周囲の人(家族や恋人や友達が多い)で

実は自分も思い悩んでいることがあり、カウンセリングに結構関心を持っているのだが、なかなか踏み出せない人が

カウンセリングに行っている人からいろいろなアドバイスをもらって

自分はカウンセリングを受けずして良いとこ取りをしようとしている場合がある。

これはズルいでしょ。

私にとは言わないが、アドバイスしてもらってる人にカウンセリング料を払いなさいよ。

いや、より根本的には、いつまでもスタンドに座って試合を傍観していないで、あんたもフィールドに立ちなさいよ、と私は言いたい。

アドバイスしてくれている人は親切ではあるが、プロではないし

何よりもカウンセリングはその人にだけ合わせて行われているのであり

あなたが流用するには無理と限界があるのである。

セラピストとクライアントの組み合わせは世界にひとつ。

そしてそこで行われるセラピー=カウンセリングも世界にひとつなのだ。

そろそろあなたもフィールドに立ってみるときじゃないかな。

2017(平成29)年9月29日(金)『ちいさなおうち』

縁あってある高齢者の御宅にお邪魔する機会があった。

幹線道路に面し、20坪もない土地に建てられたその家の

バリアフリーを完備し、冷暖房をほとんど使わず快適な環境、静かかつ明るくて、とにかく広く感じるのに驚いた。

住まいって、工夫次第でこんなに快適になるのか。

以前から、年を取るほど小さく住んで、面談スペース付きの待庵や五合庵のようなところに住むのが理想と思って来たが、

ひょっとしたら現代の都会の中の五合庵は有り得るな、と思った。

じいさんになって小さな五合庵で行う面談。

そしてそこで生きて死んで行くのも悪くないな

と本気で思ったのでありました。

2017(平成29)年9月4日(月)『見たな』

あるとき、ふと思い立ち、敬愛するアホの坂田師匠の歩き方を練習していたら、家人が入って来た。

今さらやめるわけにはいかんな。

 

若い主婦のAさんは皿洗いをしていると、たまっていた感情が溢れ出し、「ばかやろう。」「死んじまえ。」と結構大きな声で呟(つぶや)いていたら、姑が後ろに立っていた。

今さらやめるわけにはいかんな。

 

中年男性のBさんは、洗面所で鏡に映る自分の顔をジョージ・クルーニーに見立てて、目を細めたりしながら決め顔を作っていたら、後ろに娘が立っていた。

今さらやめるわけにはいかんな。

 

年配女性のCさんは、掃除機をガーガーかけながら、ブルゾンちえみの「地球上に男は何人いると思っているの? 35億 …あと5000万」のセリフをそこそこ気持ちを入れて言っていたら 息子が学校から帰って来ていた。

今さらやめるわけにはいかんな。 

 

今さら隠したって、それもまた自分なんだからさ、出したって良いんじゃないかな。

私の知る限り、人間って元々かなり可笑(おか)しい生物なのだと思う。

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