2013(平成25)年12月16日(月)『良き奴隷』

あるホームヘルパーの女性から聞いた話。

彼女が勤める会社のあるベテラン・ヘルパーは、
利用者のおばあちゃんが今
お腹が空いてるのか
ノドが渇いているのか
排泄をしたいのか(したのか)などを
すぐに見抜いて
パッパッと対応するのだそうだ。

彼女はそれを見ていて、なんだか知らないけれど、気持ちが悪くなったという。
自分でも何故だかわからない。
どうしてなんでしょ?

ひとつ訊いてみた。「そのおばあちゃん、意志表示、全然できないの?」

いや、自由自在にしゃべることができるという。

意志表示のできない利用者ならともかく、
意志表示できる相手に対して
察して代弁して代行し
得意がってるのは、
いかにも虐げられてきた環境の中でアンテナを張って気の利く良い奴隷をやってきた者のやりそうなことだ。

そういう「よく気の利く」ところは、結局、本当の意味で相手のためではなく、自分の存在価値を証明するための道具に過ぎない。

さらに、この場合、そのおばあちゃんの表出能力を疎外しており、有害ですらある。

こいういうのは特に医療・保健・福祉関係者に多い。

自分の奴隷の察(さっ)しっぷりを得意がることなかれ。

その悪しき習慣を恥じよ。

相手の生命(いのち)を活かす“直観”と、
相手の生命(いのち)をないがしろにする“奴隷の察し”とを観分けよ。

 

で、世の中は忘年会シーズンである。

間違っても、空になった私のグラスに、「気づきませんで。」などと言いながら、勝手にビールを注ぐことなかれ。

私が次に何を呑みたいか、呑みたくないか、わかっているのは私だけであるし、

私には表出能力があるのだ。

そしてあなたの自由意志と表出能力も、私は尊重したいと思う。

だから、今度の日曜の勉強会後の忘年会はのびのびとやりましょ。

2013(平成25)年12月13日(金)『“あのー”の勇気』

中学生の男の子が野球部をやめたいという。

しかし監督は鬼のように恐くてとても言い出せない。
言い出せないどころか、目も合わせられない。
おっかなくて5メーター以内には近寄れない。

ホントは練習なんか行きたくない。

でも行かないと怒られる。

行くも地獄。
行かぬも地獄。
布団に入っても眠れない。
そのうち腹が痛くなる。

その彼が必死に呼吸法をやった。
教わって何度も何度もやった。
朝も昼も夜もやった。
数え切れないくらいやった。

そしてある日、意を決して、監督に退部を申し出に行った。

ノドがカラカラに渇いた。心臓がバクバク鳴って、足が震えた。

監督の目の前に立った。

緊張はピークに達した。

必死になって顔を上げ、むりやり監督の目を見た。

「あ、あのー…」

『なんだっ!』

気がついたら全力でダッシュして逃げていた。

家に帰ってから悔しくて布団をかぶって泣いた。

しかしその日から、呼吸法をやる回数をさらに増やした。

それでいい。

君は今の自分なりの精一杯をやったんだ。

そしてさらに上を向いて進んで行こうとしている。

十分に立派である。

これを成長の姿勢というのだ。

2013(平成25)年12月11日(水)『智慧の眼』

知人に

誰がどう見ても

ニューハーフに見える

女性がいる。

そう思い込まれて言い寄られることがあるそうな。

それだけのことである。

知人に

誰がどう見ても

フィリピーナに見える

女性がいる。

“同国”人からときどき話しかけられることがあるそうな。

それだけのことである。

知人に

顔に大きな母班(先天性の青いアザ)のある

女性がいる。

初めて会う人たちから、ときどきジロジロ見られることがあるそうな。

それだけのことである。

昔、近藤先生から教わったことがある。

目を閉じてみる。

三人の見た目の差別(しゃべつ)が消えた。

目が開いたまま差別の目を越えること、

それを智慧というのである。

2013(平成25)年12月8日(日)『ひとり』

普段、大家族や集団で暮らしている人は

「ひとりになりたい。」

と思うだろう。

普段、ひとり暮らしをしている人は

「ひとりはいやだ。」

と思うかもしれない。

一番大事なことは、

あなたがあなたでいられるかどうかだ。

誰かと一緒にいることで、

あなたがあなたでなくなるなら、

あなたはひとりでいた方がいいだろう。

その人と一緒にいることで、

あなたがあなたでいやすくなるのなら、

あなたはその人と一緒にいた方がいいだろう。

寂しいからといって

あんなヤツと一緒にいるのはやめなよ、

お嬢さん。

あんたがあんたでなくなる。

恐いからといって

ひとりでひきこもっているのはやめなよ、

お兄さん。

あんたがあんたでなくなる。

年の瀬は、流れを変えるチャンスにもなる。

あなたがあなたになるために

もう一歩を踏み出そう。

2013(平成25)年12月5日(木)『居場所』

夜を走る電車の窓から小さな公園が見えた。

外灯でかろうじて人影がわかる中に

小学生低学年らしき女の子

高学年らしき男の子と女の子

の三人の姿が見えた。

根拠のない直観が走る。

きょうだいではないな。

もう夕食の時間は過ぎたろうに。

居場所のない子どもたちか。

…こういう直観はハズレた方がいい。

大人になったら

自分の居場所は自分で作れるけれど

子どもには大人が

暖かくて居心地の良い

居場所を作ってあげなくちゃいけないのだよ。

2013(平成25)年11月30日(土)『セラピー所感』

ある悩みにとらわれて辛いときに
「こう考えれば楽になるよ」
という“やりくり”の仕方(技術、テクニック、コツ)を教えるのがセラピーだと思っている人が多い。

そして教わったクライアントは“気をつけて”それを実践しようとする。

こういうのを“はからい”のセラピー(あるいは“操作的”なセラピー)という。

そりゃあ、“気をつけて”“やりくり”している間は多少役に立つかもしれない。
しかし、気が抜ければおわりだ。
“やりくり”は所詮セラピーの“枝葉”でしかない。

それよりも、表面的にはどんなことを話していても、
会話以外、言語以前のところで、
「なんだかなんとかなりそうな気がする」
とか
「私は私でいていい気がする」
という気持ちに“自然に”なってきて、
自分や相手や世界の“観え方”“感じ方”が根本的に変わってくるというのが、
ホンモノのセラピーの“根幹”なのだ。

努々(ゆめゆめ)セラピーの“枝葉“と“根幹”を間違えてはなりませぬぞ。

浅薄な“スーパーヴィジョン”や、なんちゃって“教育分析”しか受けてこなかった精神科医や臨床心理士にはわからないことだろう。

彼ら彼女ら自身にそういう“体験”がないのだから、やりようがない。

あなたと私が深いところで接するとき、私(セラピスト)を通して、あなた(クライアント)をあなたする力が働く。

それを本当のセラピーというんです。

2013(平成25)年11月29日(金)『何に応(こた)えるか』

一人の女性臨床心理士が、ある児童養護施設に行ってきた。

職員研修を依頼されて行ったそうだが、終了後、施設内を案内してもらっていると、小さな子どもたちが一人また一人と集まってきた。

で、絵を描いたり、折り紙を折ったり、遊んだりしてるうちに大盛り上がりになった。

帰る時間の近づいた頃、一人の女の子から
『夕ご飯も食べてくの?』
『今日は泊まってくの?』
とまっすぐに目を見て言われた。

一瞬返答に窮すると、敏感なその子は
『今度いつ来るの?』
とまたまっすぐに目を見て言ってくる。

そんな目で訊かれると、なんだか切ない気持ちになってくる。

しかし、いつもすべての希望に応じられるわけではない。

それに、この子の気持ちの核心を言葉にすれば、
自分のことを大切に思ってくれる人に逢いたい、
ということであり、さらに言えば、
誰かに大切に思われることで、自分で自分のことも大切に思いたい、
ということなのだ。

彼女は冴えていた。

一緒に作った折り鶴を手に取って、ふーっと息を吹き込んでから、その子に手渡した。

「○○ちゃんのことを大切に思うから、いつまた来られるか、いい加減な返事はできない。でも、この折り鶴に『大好き』って入れといた。」

女の子はまっすぐに彼女を見つめながら頷(うなづ)いた。

誠実に、そして、思いを込めて応えた。

上々である。

2013(平成25)年11月28日(木)『命綱』

あなたは自分の命綱を誰かに託せますか?

もし自分の命を託せる誰かがいるとすれば、あなたは幸せな人だと思います。

あなたは誰かの命綱を引き受けられますか?

もしあなたが自分の命に代えて、死んでも離さない誰かの命綱を引き受けられるとすれば、私はあなたに敬意を表します。

そんな命綱のやりとりもできないのであれば、人として生まれて来て、こんなに地上にたくさん人がいるのに、寂し過ぎる、と私は思うのでありました。

2013(平成25)年11月27日(水)『勲章』

十年以上前の話。

夜中に病棟に呼ばれた。

認知症に肺炎を合併したおじいさんの容態が急変したという。

駆けつけてすぐにあれこれ治療を行ったが、既に数週間前から内科医が手を尽くしており、薬石効なく、未明に亡くなられた。

聞けば、天涯孤独な身の上で、見舞いに来る人もなかったという。

そのおじいさんのお腹に、古い色素沈着の痕(あと)がたくさんあった。昔の皮膚疾患か何かの痕くらいに思っていたが、ご遺体の清拭を進める看護師さんが問わず語りに教えてくれた。

「このおじいさん、昔はいろんな中華料理店で働いていた腕の良い料理人だったみたいですよ。
お腹の傷は、跳ねた油の火傷(やけど)の痕なんですって。」

思わず「そうかぁ。」と声が出た。

ちゃんと仕事をしてきた勲章ですね。

この人の人生の証人の一人になった気がした。

「お疲れさまでした。」

瞑目低頭す。

2013(平成25)年11月25日(月)『スピリチュアルペイン』

自分の思い通りにならないときに感じる心の痛み、
それは「我」の痛み、
Egoistic pain.

生い立ちの中で心の内に埋め込まれた見張り番、「ねばならぬ」に沿えないときに起きてくる罪悪感の痛み、
それは「超自我」の痛み、
Super-egoistic pain.

本来のあなたが生かされるままに生きていないときに感じる痛み、
それが「魂」の痛み、
Spiritual pain.

緩和ケア専門家ですら、スピリチュアル・ペインの真意をちゃんと押さえている人に私は逢ったことがない。

何が痛みを感じているのか、そこが大事なのだ。

前二者の痛みなんぞは木っ端微塵にぶっ壊して流してしまえ。

しかし、最後の痛みには決して逆らってはならない。
そこに大切なメッセージがある。

これを感じ分けられるようになることこそ人間の本当の成長である、と私は確信している。

2013(平成25)年11月22日(金)『次の一歩』

重症筋無力症の人にとっては、指先を1cm動かすだけでも大変なことである。
毎日40km走り込んでいるマラソンランナーにとって、あと100m走るなんていうのは、なんでもない距離だ。

ある青年が完全引きこもりから脱却した。

家の玄関から一歩踏み出すのに、どれだけの勇気を要したことだろう。
その一歩は小さくとも、とても重く大きな一歩であった。
先に挙げた重症筋無力症の人の1cmと同じだ。
彼はやがて近所の買い物に行けるようになった。

そして数年が経った。

彼は当たり前のように近所に買い物に出かけていた。
しかし未だにそこまでだった。
彼は次の一歩のチャレンジを何もしていなかった。

買物やお楽しみだけの外出には最早、何のリスクもない。
先に挙げたマラソンランナーの100mと同じである。

常に次の一歩がなければ、成長は止まる。
流れが淀めば、水も腐る。

最初に一歩を踏み出したときのことを思い出せ。

永遠に次の一歩を踏み出し続けるのが我々の人生だ。

そしてそれはとても楽しいことなんだよ。

2013(平成25)年11月20日(水)『搾取』

那覇のにぃにぃ(兄さん)から、ヤマトや薩摩に搾取されて来た琉球の哀しい歴史を聴く。

宮古のおじぃから、琉球王朝に搾取されてきた離島の哀しい歴史を聴く。

宮古のおばぁから、男に搾取されてきた女の哀しい歴史を聴いた。


だのに、宮古のおばぁの笑顔が一番深いのは、どうしてだろう。

 

哀しみや苦しさを、逃げず、誤魔化さず、ただ受けとめて、消化して来た人間の笑顔が一番深いさぁ。

2013(平成25)年11月19日(火)『何に正直』

「自分に正直」という意味を
「自我(ego)に正直」と取るか
「自己(self)に正直」と取るか
で生き方は天と地ほど違って来るんだよな。

「あるがまま」というのを
「わがまま」と取るか
「催されるまま」と取るか
と同じ。

正直にあるがままの月はどこまでも綺麗だ。

2013(平成25)年11月16日(土)『鳥取砂丘』

金曜夜にNHK総合テレビで『ドキュメント72時間』という25分番組を放送している。

定点観測よろしく、ある場所を定め、そこを訪れる人たちの人間模様を描き出すドキュメンタリー番組だ。

観たことのある方もいらっしゃると思うが、先日の放送では、鳥取砂丘を訪れるさまざまな人たちに焦点を当てた「砂丘に呼びよせられて」を放送していた。

その中で、番組の後半に取り上げられていた二人の若い女性  〜 二人とも夜に一人で砂丘を訪れていた 〜 のことが印象に残った。

一人は、高校の国語の先生で、まだ一年目だという。

もう一人は、病院のカウンセラー(臨床心理士か?)。

日々思うこと、感じることがいろいろあるんだろうな。

そしてそれをいい加減にちょろまかせないから、辛くなるんだろう。

ああ、仲間の匂いがする。

八雲にド真ん中ストライクの人たちじゃないかなと思った。

こういう人たちがちゃんといてくれるということに深い希望を感じると共に、

そこから八雲まで通って来なさいとは言わないが 〜 確かに九州や北海道から来られている方もいらっしゃるが 〜 少なくとも「鳥取砂丘よ、この子たちを包んでやってくれ。」という気持ちになった。

人にはね、本当の自分に出逢える場所と時間が必要なんです。

2013(平成25)年11月14日(木)『当たり前の剥奪』

子どもの頃、

三度の食事が出てくるのが当たり前じゃなくて
いつもお腹を空かせてた。
たまに食べ物があると、一遍に詰め込んで窒息しそうになったこともあった。
必要なものは、みんな万引きで揃えてた。
お金なんて、気まぐれでしかもらったことがなかった。
万引きするのもなんとも思わなかった。
自分よりも弟や妹に食べさせたかった。
毎日お風呂に入れるのが当たり前じゃなくて
洗濯してもらえるのが当たり前じゃなくて
着替えるのも当たり前じゃなくて
いつも臭いと言われてた。
家に帰ったら
布団の上で寝られるのが当たり前じゃなくて
それどころか、戸が開いているのも当たり前じゃなくて
そんな夜は、アパートの階段の踊場でランドセルを枕にして寝た。
自分の存在が誰かにとって必要なんて
大切なんて
思えなくて
思ったことなくて
自分を大事になんかできなかった。
みんな子どもたちにあった本当の話。
誰がこの子たちにこんな思いをさせたのか。
絶対に許してはならない。
「当たり前」のことを剥奪していく虐待、根絶すべし。

2013(平成25)年11月12日(火)『ホーナイの系譜』

毎月ホーナイの勉強会を開催している。

これを始めた元々のきっかけと言えば、近藤先生と『ホーナイの最終講義』(岩崎学術出版社)の出版準備をしていたときにまで遡(さかのぼ)る。

師と話し、ホーナイの苦労の跡(あと)の観える講義録を読み、彼女がいかに正当に理解されて来なかったかを実感したのを覚えている。

そしてその師が亡くなり、改めて著作を読み直し、ホーナイ派の世界の現状を知るにつけ、こりゃあ、何かしなきゃならんな、という気持ちになった。

勿論、私の中の“ホーナイ”というのは、いわゆる「ホーナイ正統派」(Horneyan orthodox)たちがよしとする『神経症と人間の成長』を書いた時点での“ホーナイ”ではなく、近藤先生に逢い、来日された「後」の、最終到達点での“ホーナイ”のことを指している。

「ホーナイが歩んで来た道」と「ホーナイが目指したもの」を明らかにするために、全著作の要点をワープロに打ち込み、まとめては、勉強会で紹介し、ディスカッションする作業を何年にも渡って続けて来た。

その内容がただ面倒臭い観念的なものではなく、誰でもがハッとするような直観的なものであることは、次の事実によって証明されている。

他人を分析する知識だけが欲しい人や、まだ自分のことを深く見つめたくない人は参加されてもすぐに脱落し、自分自身を真摯に見つめて成長して行きたい人は、こういう勉強が全く初めての一般市民の方でも参加を継続されているという事実だ。

この傾向は、恩師にもホーナイにも恥ずかしくないものであると信ずる。

時が熟した人、心の準備のできた人から、参加して下されば、ホーナイもきっと喜んでくれると私は思っている。

私は私の役割を果たして行くのみだ。

2013(平成25)年11月11日(月)『下駄の一分(いちぶん)』

亡くなった父は気の小さな男だった。

それでもアタマに来ることはあったようで、父なりの喧嘩の仕方を話してくれたことがある。

極めて簡単。

1.下駄を脱ぐ。
2.それで相手のアタマを思い切り殴る。
3.裸足で全速力で走って逃げる。

勉強ばかりして武道にもスポーツにも疎(うと)かった父としては、精一杯のやり方だったのだろう。

何もできないのは癪(しゃく)に障(さわ)るが、正面対決ではやられるに決まっている。

かっこよくはないかもしれないが、“今の自分の力量”を知り、“今できる精一杯のこと”を正面から(妙な策を弄さず)やった父を私としてはちょっと見直した。

その“今”を踏まえた上で、次は、「(一発でなく)二発殴ってから逃げる!」というふうに成長して行けばいいのである。

そうやっていれば、そのうち素手で最後までその場に踏み留まって勝負できる日も来るだろう。

2013(平成25)年11月10日(日)『トンズラの天命』

坂本龍馬が好きである。

龍馬の逸話には事欠かないが、その「勝負」のときのエピソードが面白い。

幕府軍だろうが大軍だろうが、少ない手勢で一気呵成(かせい)に攻め込むさまは、勇猛果敢極まりないものを感じさせるが、いつもそうだとは限らない。

こりゃ負けだ、と見抜くと、一瞬にして天命を感じ取る(と私は勝手に思っている)。

即ち、そこで死ね、という天命か、今はとっととトンズラして生き延びろ、という天命かを見抜くのだ。

元より命は惜しくない。

いつ斬られても結構だし、いつでも腹は切れる。

自分の命と思っていないだけに、却ってどう使うかが大事なのだ。

よって、逃げるときはスパーッと逃げる。

宝物を守るように逃げる。

今生(こんじょう)での天命を果たすまで守り切る。

戦って逃げて、逃げて戦って、日本の基礎を作って、龍馬は斬られて死んだ。

われわれも戦い時と逃げ時を直観で感じ取るべし。

無駄に生きてもならんが、無駄に死んでもならんことを覚えておくべし!

2013(平成25)年11月8日(金)『全力少女』

近所を歩いていたら、若いお母さんと3歳くらいの女の子が出かけるところに出くわした。

「サキちゃん、セブンイレブンに行こうか?」
とママに言われ、サキちゃんは一旦しゃがんで、両手を空に突き出しながらジャンプして、
「行っくーっ☆」
と嬉しそうに声を挙げた。
そして
「行く行く行く行く!」
と屈伸運動している。

さらに
「パパにも何か買って帰ってあげよっか?」
と言われ、今度は左足を軸に全身で3/4回転しながら、
「あっげるー♪」
今度は勢い余って塀に蹴りを入れている。
「キックキックキーック!」

そしてママが明るく
「歯医者さんに行ってからね〜。」
と言うと、いきなり地面にドッと倒れ伏し、
「イヤぢゃーっ!!」
と絶叫してワンワン泣き出した。

全力で生きてるな、こいつ…。

2013(平成25)年11月6日(水)『思いやり』

ある女の子が若年性関節リウマチを発症した。

余りの痛がりように、父親が心配して言った。

「変われるものなら、パパが変わってやりたいよ。」

娘が即答した。

「いい…この痛いのは、ちょっと辛いから。」

計算してしゃべってるんじゃない、このまっすぐな思いやり。

こういうのは効くな。

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