2014(平成26)年8月14日(木)『いじめ体験』

精神科面接の基本として、“生育史”や“現病歴”に関する問診がある。

幼少期から家庭や職場で体験したこと、感じて来たことを伺うわけであるが、

最近、欠かすことのできない聴取内容として、学校時代の「いじめ体験」の有無がある。

子どもの頃の体験といっても、本人にとっては存在のプライドに関わる重要な問題なので、伺うにあたっては細心の注意を要する。

そして、その体験は、時に“トラウマ”と呼ぶに相応(ふさわ)しいほど大きな影響をその人のその後の人生に与える。

だから、十分な時間をかけて、少しずつ、丁寧に、そして、可能な限り徹底的にその傷を癒やしていく必要がある。

しかし、その影響に押し切られ、人間が堕ちてしまったら、人間が擦れてしまったら、人間が卑怯になってしまったら、その人自身が他人を巻き込み、傷つけるようになってしまったら、「治療」の対象となる。

もちろん、そこからでも十分リカバリーできるけれど、そうなる前に、私のテリトリーである「成長」の範囲内のうちに、傷口を癒やしておいた方が良いと切実に思う。

女性は女性で、男性は男性で、非常に言い出しにくい傷もある。

「焦って」「無理に」とは絶対に思わないけれど、

向き合えるその“とき”が来たら、力になりたいと思っている人間がいることだけはどうか覚えておいてほしいと思う。

2014(平成26)年7月20日(日)『雷(いかづち)のワーク』

東京は夕暮れの後、激しい雷雨に見舞われた。

ちょうど屋外にいた私も、傘をさして歩いている間に何度も雷(かみなり)に襲われた。

ピカッ! カリカリカリドォォーン!!

凄まじい光と音であったが、私は屁とも感じない。

「あぁ、今日は調子が良いなぁ。」

と落雷の中、東京音頭を口ずさみながら帰った(東京音頭は、夕方盆太鼓の音を聴いたせいであろう)。

かつて不安いっぱいであった私は、地震、落雷、急な車のブレーキ音など、予測不可能なことが起こると、心臓が飛び出すんじゃないかと思うくらいビクビクドキドキしていた。

それが東日本大震災のときも、今日の落雷の中も、こうして安心していられるようになったのは、近藤先生と丹田呼吸のお蔭である。

それ故、むしろ落雷などは、今の自分の心の状態を量(はか)るワークになる。

ピカッ! カリカリカリドォォーン!!

「あっ、今のは龍の形に見えた。雷=龍 → 雨 → 水田 で、稲光(いなびかり)、雨乞い龍神信仰なんだなぁ。」

などと一人納得する。

やっぱり今日は調子が良いや。

2014(平成26)年7月4日(金)・5日(土)『生死(しょうじ)を目の前にしている方へ』

地獄鬼畜の くるしみは

いとへども又 受(うけ)やすし

おもひと思ふ ことはみな
叶(かな)はねばこそ かなしけれ

煩悩すなはち 菩提(ぼだい)ぞと
聞(きき)て罪をば つくれども
生死(しょうじ)すなはち 涅槃(ねはん)とは
いへども命を をしむかな
自性(じしょう)清浄(しょうじょう) 法身(ほっしん)は
如如(にょにょ)常住(じょうじゅう)の仏なり
迷も悟も なきゆゑに
しるもしらぬも 益ぞなき

別願超世の 名号は
他力不思議の 力にて
口にまかせて となふれば
声に生死の 罪きえぬ

おもひ尽きなん 其(その)後に
はじめをはりは なけれども
仏も衆生(しゅじょう)も ひとつにて
南無阿弥陀仏とぞ 申(まうす)べき
はやく万事を なげ捨(すて)て
一心に弥陀を 憑(たのみ)つゝ
南無阿弥陀仏と 息たゆる
是(これ)ぞおもひの 限(かぎり)なる

独(ひとり)むまれて 独死す

生死(しょうじ)の道こそ かなしけれ

人の形に 成(なり)たれど

世間の希望(けもう) たえずして

心身苦悩 することは

地獄を出(いで)たる かひぞなき

物をほしがる 心根は

餓鬼の果報に たがはざる

迭(たがい)に害心 おこすこと

たゝ畜生に ことならず

生老病死(しょうろうびょうし)の くるしみは

人をきらはぬ 事なれば

貴賎高下(きせんこうげ)の 隔(へだて)なく

貧富ともに のがれなし

露の命の あるほどぞ

瑶(たま)の台(うてな)も みがくべき

一度(ひとたび)無常の 風ふけば

花のすがたも 散(ちり)はてぬ

畳(たたみ)一畳(いちじょう) しきぬれば

狭(せばし)とおもふ 事もなし

念仏まうす 起(おき)ふしは

妄念おこらぬ 住居(すまい)かな

道場すべて 無用なり

行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に たもちたる

南無阿弥陀仏の 名号(みょうごう)は

過(すぎ)たる此(この)身の 本尊なり

 

合掌


『一遍上人語録』より

2014(平成26)年7月3日(木)『わたしバカよね』

人間、

若さ故に

また、バカさ故に

あるいは、勘違いの思い上がり故に、

できれば永遠になかったことにしたいような大失態をやっちまうこともある。

それはそれで確かに問題だけれども、

遥かに問題なのは、それが大失態だと気づいた後のその人の態度である。

過ちを改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ。

うやむやにして、なかったことにしてもいいけれど(それによって生じる結果を引き受ける覚悟があるのならば、であるが)、

ちゃんと向き合って、詰めて、勝負して、乗り越えて行きたいと本当に思うのであれば、

もし相手のあることならば、誠実に、徹底的に、頭を下げてお詫びして、

(念のために付け加えると、既に相手と縁が切れている場合には、今さら付きまとわれるのも相手にとって迷惑なので、連絡など取らないこと)

何が問題を起こした核心であったかを自分の中で明確にし、

二度とそういうことを起こさず、突破・成長して行くには、何をどうしたらいいのかを見極め、

(見極めただけじゃなく)現実に実践して行くことが大事なのである。

われわれが生きているのは今だけであり、

残っているのは未来だけだ。

バカ気の至りもちゃんと肥やしに変えて、前に進むしかないのである。

2014(平成26)年6月21日(土)『秘密』

人間をやっていれば、人に言えない秘密のひとつやふたつはあるだろう。

もちろん誰にも話すことなく、そのまま墓場まで持って行ってもらって結構だ。

他人が口を出すことではない。

ただ、セラピストとして気にかかるのは、その秘密のためにその人の人生が台なしにされている場合である。

特にあなたが、自己疎外的、自己否定的、自己破壊的になっている場合が心配なのだ。

ひょっとしたら、それは解決できることかもしれない。

あなたは、今とは別の人生を歩いて行けるかもしれない。

軽々しく安請け合いをするつもりはない。

無理強いをするつもりもない。

しかし、僅かでも別の「可能性」があることについて伝えないではいられなかった。

こころの隅に留めておいて下さい。

2014(平成26)年6月19日(木)『自己拡大的支配型の憂鬱』

その生育史において、そのままの自分を自然に肯定してもらえなかった不幸な子どもたちが、

どういうやりくりをして、自分に存在価値があると感じようとするかについては、

実にさまざまな、涙ぐましい方法がある。

その中のひとつで、周囲にとって非常に迷惑なものに、

他人を踏み台として利用し、自分の存在価値を示そうとするやり方がある。

本人も本人なりに努力をするのだが、

他人がいかに知らないか、できないか、気づかないかをアピールし、

(質(たち)の悪い場合は、多くのギャラリーの前で相手を攻撃する(その方が効果的であると無意識に思っている))

それに引き換え、自分がいかに知っているか、できるか、気がついているかをアピールし、

自分の存在価値を示そうとする。

これは巻き込まれた者は迷惑千万である。

私の知っている医療・福祉場面でも、こういう人が上司、先輩、指導役としていると、その下の者の離職率は飛躍的に上がることになる。

しかし、一見精力的に働いているかのように見えるため、下から一斉突き上げでも起こらない限り、経営者が気づくことは意外に少ない(見て見ぬフリをする場合もあるが)。

けれども、最も哀れなのは、実は当人で、

自分がいかに偉いか、すごいか、有能かを示したかったのは、

元はと言えば、他者から認められ、評価されたかったからだったのに、

結果として当人が受け取るのは、周囲からの嫌悪と忌避と軽蔑なのである。

哀れだなぁ。

あんなに頑張ったのに。

あんなにアピールしたのに。

やがて鬱陶しがられながら孤独に死んでいく末路か。

自分の非を最も認めたくないのが、この自己拡大的支配型の特徴であるわけだが、

もし大いなる勇気を持って、愚かな虚勢を捨てて、自分の問題と直面化する覚悟ができたならば、

この人にもまた新たな道が開けることを最後に記しておきたい。

2014(平成26)年6月11日(水)『ひねくれ』

生まれつきひねくれた赤ん坊というのはいないわけで、

成人になって以降のひねくれた言動を観ていると、

その人の生育史と神経症的度合いが観えてくる。

そうなるにはそうなるだけの理由があったのだろうが、

神経症の原則通り、

小さい頃は、自分を守るために身につけたやり方が、

大人になってからは、嫌われ、疎まれ、軽蔑される素になる。

哀れなるかな、ひねくれの徒。

一人で生きるには人一倍寂しくて、人の中に入って行こうとするが、

何かを言えば言うほど

何かをやればやるほど

嫌われ、はじかれる。

そしてまた孤独の中へ。

いいかい。

“純な心”に戻るしか突破口はないのだよ。

信頼できそうな人を見つけて

持てる勇気を振り絞って

できるだけ誠実に素直な思いを伝えてみよう。

そうした方が、本当に欲しいもの(信頼し合え、大切に思い合える関係)が手に入ることを体験しよう。

その先に元々のあなたの世界が待っているのだ。

2014(平成26)年6月7日(土)『褒められたい』

人間が褒められるために使う基準。

子どもの頃なら、

よいこであること

勉強の成績

スポーツの結果などだろうか。

大人になったら、

収入

地位

知名度などだろうか。

共通するのは、その前提として、

他者評価が自己評価、

自分の存在価値判断を自分以外の他者に委(ゆだ)ねているところである。

自分が自分であることに

自分で価値を見出そうよ。

だから、子どもを褒めるときも

その子がその子であるときに褒めようね。

イルカが一所懸命カンガルーのフリをしてるときに褒めちゃうと、

もっと頑張ってカンガルーするようになっちゃうからね。

大人でも、まだまだ他人から褒められたい人は多いよね。

だったらせめて、誰から何で褒められたいのかを選ぼうよ。

あなたを本当に愛しているパートナー、恋人、親友、家族であれば、

決してあなたを得手勝手な“あるべき型”に嵌(は)めようとせず、

あなたがあなたであることを願い、祈り、褒めてくれるはずだよ。

そしてホンモノのセラピストもまた、同じ気持ちでクライアントに接している。

私が私であることを褒められていると、段々褒められることも必要なくなって来て、

私が私であること自体に、満たされ感と喜びが感じられて来るんだよね。

この私においても、近藤先生が亡くなった後もセラピーを続けられているのは、間違いなくそのお蔭だと思っている。


2014(平成26)年6月6日(金)『因果』

精神科臨床をやっていると、時にパーソナリティ障害や統合失調症、躁状態の患者さんから、罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせられることがある。

研修医以来、何の因果でこんな仕事を選んだのかと思うこともあったが、

キャリアを重ねるにつれ段々と、われわれの示す攻撃性についても、患者さんのそれに比してそんなに非攻撃的か?と疑うようになった。

親が子どもに

先生が生徒に

上司が部下に

先輩が後輩に

夫が妻に

妻が夫に

常に真摯で優しいだろうか。

いやいや、とんでもない。

残酷至極。

時には、正当そうな理由のもとに、巧妙で卑怯な攻撃性の発散を随分しているように思う。

いやいや私だけはそんなことはないと思う方は、

そっとあなたの言動を一週間、隠し撮りして差し上げましょうか。

あなたの心の中の本音の字幕付きで。

そんな自分の“情けなさ”を十二分に認めた上で、

やっぱり人間と人間が狭い地球の上で生きているんですから、

できれば人が人を傷つける攻撃性の発散なんて、

ない方が良いと

少しでも少ない方が良いと

天を仰ぐのでありました。

2014(平成26)年5月31日(金)『酒器の話』

酒器の話。

QUAICHとは、クエイヒ(またはクエイク、クエイキ)と発音される、二つの翼状の取っ手のついたケルト(主にスコットランド)の伝統的酒盃のことである。

古くは木製、最近では銀製が多く、祝い事などに際して、スコッチウイスキーを満たし、仲間で飲み回すのに使われていたという(大容量のものもあるそうだ)。

私はたまたまスコットランド人の友人にもらったクエイヒを使っている。

器底にスコットランドの国花thistle(シスル)(=アザミ)のレリーフが配され、取っ手にはケルト紋様が彫られているが、いかにも素朴である。

quaich.jpg

できればスコッチのカスクで満たしたいところだが、入手困難なので、ウオッカを冷凍庫(冷蔵庫ではなく)で冷やして注いでみたら、クエイヒの銀器まで冷えて、実に涼味であった。

それからいろいろと試してみたが、テキーラとラムも冷凍庫で冷やしてから注ぐと実に相性が宜しい。

私も大して強いわけではないが、アルコール度数の高い酒を、キンキンに冷やしてちょっと呑むと、呑んだ気がして(=すぐにアルコールが回って)幸せです。

強い酒が苦手な方は、炭酸飲料(元の風味を壊さないため、できれば味やフレーバーのない炭酸水が望ましい)で好みの濃さに割って飲まれると良い。

暑気払いにお試しあれ。

2014(平成26)年5月28日(木)『あいたたた』

人を観る眼がないのは致命的である、と何度か書いた。

友人

恋人

パートナー

セラピストなどなど

その結果は自分自身の一生に返ってくる。

ホンモノを観抜く眼がないのも致命的である。

超常現象

超能力

神秘主義

新興宗教

カルトなどなど

胡散(うさん)臭いものに引っかかるのも、これまた自業自得である。

それもまた人生の授業料ではあるが、

人生はそんなに長くないし、

胡散臭い深みに嵌(はま)れば嵌るほど、

足抜けには時間と労力を要することになる。

胡散臭い神秘主義に嵌った女性が、

これまた胡散臭い男に引っかかり、

お金も性も人生の時間も散々搾取された挙句に捨てられた

というドラマのような話を耳にした。

どうかもう二度とそんなことが起こらないように

人やホンモノを観抜く眼を磨いておきましょうね。

そして犯してしまった過ちは、正直に、徹底的に、反省しましょうね。

人間はそんなくだらないことをやるために生命を授かってるんじゃないんですから。

2014(平成26)年5月28日(水)『越中ふんどし』

当てにしていたことがそうでなくなったとき、

予定通り、思い通りに物事が進まなくなったとき、

予定外・想定外のことが急に起こったとき、

その人の神経症的側面が露呈するときがある。

そりゃあ、そうだ。

全てのことが予定通り、思い通りに行かなくなると、

未来のことが自分のコントロール下にないと、

先取り不安、予期不安の名手、神経症者は不安に陥るに決まってるさ。

そのままの自分を愛されずに生きてきたのだから、

地雷を踏まないようにするためには、

すべてにアンテナを張って、察して、気をつけて、頑張って生きていくしかなかった。

そんなふうに育ったら、

基本的な他人への信頼感、世界への信頼感、自分自身への信頼感なんか持てるわけないし、

なるようになると、おまかせできるはずがないもんね。

でも、当てと越中ふんどしは前から外れるようになっている。

神経症的な人間は不安と共に生きるしかない。

しかし健全な人間はね、

基本的な他人への信頼感、世界への信頼感、自分自身への信頼感を持っているから、

予定外・想定外のことが急に起きたとしても、根拠なく「なんとかなる。」と思えるんです。

2014(平成26)年5月22日(木)『誰かが誰かに』

あなたが誰かから何かをもらったら何かをしてもらったら

それをその人に返すして返すのも良いけれど

他の誰かにあげるしてあげるのも良い。

そしてそのとき、こう付け加える。

あなたもまた、私にではなく、他の誰かにしてあげてね。

広がる

広がる

誰かが誰かに。

子どもの頃、そんなことを考えた。

そして今もそう思っている。



2014(平成26)年5月21日(水)『イヤです』

ある日、ファミレスで見かけた風景。

母親と思(おぼ)しき人が2歳くらいの小さな女の子に言った。

「いい? お店に入ったら良い子にしてるのよ。」

女の子は母親の目を見ながら、満面の笑みで答えた。

「イヤです。」

何度も思い出し笑いしてしまうあの躊躇のない笑顔。

 

大人になってからも、イヤだと言っていいんですよ。

2014(平成26)年5月13日(火)『縁と縁もどき』

縁があるのではない、それはおまえの執着だ。

縁が切れたのではない、切ったのはおまえの我だ。

軽々しく「縁」という言葉を使うべからず。

本当の縁はこの花弁(はなびら)のように美しく、舞うように舞い、落ちるように落ちる。

2014(平成26)年5月14日(水)『本当の悪魔は密やかに笑う』

昔、ある人からの紹介で、引きこもりの青年と母親が相談に来られたことがあった。

母親の話そうとされている内容はすぐにわかった

支配的でワンマンな父親、

去勢された息子、

か弱く優しい母親。

そんな構図を作りたかったのだろうが、

母親の胡散(うさん)臭さは明らかだった。

これまで子育てにおける自分の至らなさを、俯(うつむ)きがちに神妙に反省してみせる母親の姿に、まるっきり“真実”が感じられなかった。

ゲロゲロゲッケッケー。

いかにも内省的で、愛情深そうで、精一杯頑張って来ました風で、

「そんなに自分を責めなくていいよ。あなたはよくやってきたよ。」

と私に言わせたがっているのが観て取れ、こんな偽善者見たことない、と思った。

元凶は父親でなく、母親だな。

私が母親の“演技”に乗らず、ちょろまかしている問題点をフツーに指摘して行くと、あのか弱くて殊勝そうだった母親がゴブリンのような形相になり、怒鳴り声まであげ始めたのだ。

本性が出たな。

隣の青年を見ると、下を向いてシクシク泣いていた。

未成年なら気の毒たが、二十歳過ぎてシクシクはないだろ。

それでも、気づくところまで行ってくれるかなと一縷(いちる)の望みをかけたが、まだ真実と向き合いたくない母子は遁走した。

医療機関に治療のために来られたのなら、果てしなく気長に付き合うが、八雲ではダメだ。

八雲は“道場”だからね。

その頃から来談希望の方に、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」が必要であることをさらに明示するようになった。

真摯な人にはなんとしてでも力になりますが、巧妙な悪魔はうまく隠れたつもりでもあぶり出されてしまう場所となる。

2014(平成26)年5月8日(木)『必死』

昔、担当していた躁うつ病の青年。

彼は躁状態で入院されたのだが、その病院での私の勤務が非常勤だったために、自分の不在中に彼が興奮して暴力的にならないかが心配だった。

処方もいろいろと考え、対応を常勤医と病棟スタッフに伝えた後、彼本人にも直接話をした。

躁状態ながら、話していて元々の人格にどこか通じるものがあった彼は、

「絶対に暴力はふるいません。約束します。」

と私の目を見てはっきりと言ってくれたが、躁状態にある人が意志の力で自分の言動をコントロールするのがどれだけ困難かはよくわかっていた。

躁状態になるのは彼のせいではない。

そのときなりの精一杯を約束してくれた彼の思いで私は十分だった。

翌週、心配しながらやってきた私に、彼は紅潮した顔で両拳を震わせながら言った。

「先生、俺、暴力ふるわなかったよ。」

彼の両目からポロポロと涙がこぼれた。

トラブルになりかけた出来事は何度かあったようだが、彼は驚異的な自制心で無理無理自分を抑え込んだ。

易刺激的になっていた彼が自分の衝動性を抑えるのにどれだけ必死だったかが伝わったきて、私も胸が熱くなった。

思わず彼の手を取って「よく頑張ったな。」と握手した。

意志の力でなく、薬物療法で躁状態を抑え込むことは百も承知だが、ここでこの話を取り上げたのにはワケがある。

彼に比べ、われわれは実に簡単に弱さや悪依存に逃げている、ということだ。

甘いなぁ、われわれは。

どこまでいっても確かに非力なんだけれど、せめて与えられた自力だけは尽くしたいと思った。

2014(平成26)年5月1日(木)『現実逃避のスピリチュアリティ』

男性より女性に多い。

真の意味で十分に“愛されていない”生い立ちあり。

さらに心的外傷あるいは現実生活(学校、職場)での不適応歴がある場合も少なくない。

“自分は特別な能力がある”“特別なことが感じられる”などと、思い上がりやすい。

余りにも典型的な“補償”である。

よって、日常生活の対人関係がうまくいかなければいかないほど、心のキズが深ければ深いほど、怪しい神秘主義にのめり込む。

そして、甚だ迷惑なことに、その力がないのに、今度は他人を“指導”したがる(巻き込み→有害)。

ポーズ(セリフ)としての謙虚さは見せるが、本当の意味での“情けなさの自覚”に欠ける。

ある時点までは、結構、慎重に(姑息に)怪しげなことを勉強?していることを隠している。

しかしある日、一線を越えて、自分が“特別な能力の持ち主”“スピリチュアル・セラピスト”“ヒーラー”(呼称いろいろあり)であるなどと言い始め、そうなるともう“活動”は止まらない。

その行為がやがて社会的な“自己抹殺”につながるということにも気がつかない。

それどころか、同様の“問題”を抱えた少数の“信者”さんたちを巻き込んで、この“迫害”に耐えて、“崇高な使命”を全うしようとする。

しかしやがて(当然のことであるが)外部との間だけでなく、内部にもトラブルが噴出してくる。

それで弱ければ自分が壊れて終わるが、面の皮が厚ければさらに自己正当化を重ね続ける…。

これが典型的な、そして最悪のシナリオである。

あのね、深海の話をする前に、海面を覆うゴミの撤去から始めましょうよ。

それを片付けないことには、それより深いところが見えるはずはないんです。

2014(平成26)年4月30日(水)『年の差婚』

男女の年齢差の開いた「年の差婚」が話題になるようになって久しい。

単に時代が年齢を余り気にしなくなったという面もあろうが、

概ね、若い男性が性欲に引っ張り回されやすく、若い女性がファンタジックな恋に浸りやすいことを思うと、

性欲に振り回されなくなった年配男性が、これまた男性のもうひとつの特性であるロマンチストの面を発揮すれば、若い女性が年配男性に惹かれるのももっともだという気がして来る。

また逆に、年を重ねて性的に成熟して来た女性が、これまた女性のもうひとつの特性である母性的包容力を発揮すれば、若い男性が年上女性に惹かれるのももっともだという気がして来る。

…などと思索していたら、目の前をツバメが風を割いてヒューッと飛んだ。

[いいじゃないの、幸せならば]

考えるより感じる、感じるより溢れ出す、のがラブである。

2014(平成26)年4月21日(月)『石の上にも』

自分で肚(はら)を括(くく)って決めたことならば

「石の上にも3年」

どころか、10年でも20年でも

耐えてやろうと思うが

 

丸っきり不本意なことを押しつけられるのであれば

「石の上にも3秒」

で上等である。

耐えるな。

 

人生は敢(あ)えて無駄に過ごすほど長くない。

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