2014(平成26)年1月17日(金)『靴』

かつて中国の一部には「纏足(てんそく)という習慣があった。

当時当地では、足の小さい女性が美しいと考えられ、幼児期から足の親指以外の指を足の裏側へ折り曲げ(当然骨折を伴う)、布で強く縛ることで足の整形を施した。

親は娘の将来のために良かれと思ってやったことである。

それになぞらえて「こころの纏足」ということを私はあちこちで言って来た。

また、中国の古典『淮南子(わいなんじ)』には
「足を削(けず)って履(くつ)に適す。」
という一文もある。

“足を削る”とはまた強烈な表現だ。

これらの表現が激し過ぎるなら、もうちょっとマイルドに「サイズの合わない靴」と言っても良い。

小さな頃に合わない靴を無理矢理はかされて、
本当はマメができて、血が出て、痛いんだけど、
それでもはき続けてきた靴だから、
それに今さら脱いで裸足(はだし)になるのは恐いから、
ずっと無理してはき続けている人たちは、実はこの世に満ち満ちているのだ。

でもやっぱり痛いよね。

足が先か、靴が先か。

あなたが先か、今いる環境への屈従が先か。

答えは自(おの)ずと明らかだ。

今年こそ、靴脱ぎの春を迎えないか。

あなたが本気で脱ぐ気なら、私は喜んで手伝おう。

2014(平成26)年1月13日(月)『わがままとあるがままと酔っ払い』

一般に酔っ払いは正直だと言われるが、厳密に言うと、必ずしもそうではない気がする。

アルコールには基本的に脱抑制(抑制が取れる)の効果があり、酔えばやがて、気をつけて抑え込んでいたものが出て来る。

普段、無口で謙虚を演じていた人が、一杯入ると、急に饒舌(じょうぜつ)に自慢話を語り続けたりする。

これをもって“酔っ払いは正直だ”と言いたくなるのもわかる気がするが、
それは
「あるべき自分」が取れて
「わがままな自分」が垂れ流しに出て来ただけのことである。

「わがままな自分」さえも引っ剥がして初めて、「あるがままの自分」が出て来るのだ。

先の例で言うと、
「こんなくっだらない自慢話をしている自分てなんだかなぁ〜。」
という気が起きて来て、
即ち、
無口で謙虚を演じているのも(=あるべき自分)、
自慢話の垂れ流しをするのも(=わがままな自分)
両方心底イヤになって、ようやく等身大の自分(=あるがままの自分)
に辿(たど)り着く。

これをアルコールの力だけで達成しようとすると、「あるがままの自分」に到達する前に酔いつぶれてしまうことになろう。

酔っ払いの本音、それは本音の本音への通過点に過ぎない。

だから、本気で「あるがままの自分」を生きたいと願う人は、肚(はら)を決めて、シラフで攻めていくしかないと覚悟されるべし。

2014(平成26)年1月3日(金)『“する”<“なる”の暮らし』

あったかいコーヒーを入れましょう。

あったかい紅茶を入れましょう。

あったかいお茶を入れましょう。

愛情をこめるから美味しいんです。

いやいや
愛情がこもるから
美味しいんです。

ではどうぞお茶を入れました。

いやいやお茶が入りました。

この邦(くに)の風土には「する」より「なる」がしっくり来るんです。

2014(平成26)年1月2日(木)『大悲無倦常照我』

初洗濯をした。

外に干した。

冬の陽射しが当たった。

しばらくそのまま冬の空を眺めていたら…

あれ?

こんな真冬なのに洗濯物から湯気が出てる。

すげーな、太陽。

ふと近藤先生の顔が浮かんだ。

なんだか知らないけど、そんなふうにしてもらってたんだな、と思った。

寒いけどあったかい日。

2013(平成25)年12月28日(土)『共通の愚かさ』

同じ認知症の患者さんが、財布をどこかに置き忘れたとする。

Aさんは「イヤんなっちゃうわねぇ、忘れっぽくなって。どこに置いちゃったのかねぇ。」と言うばかり。

それに対してBさんは「ああ、きっと嫁が盗ったに違いない!」と言ってきかない。

二次妄想を生むのは認知症ではない。その人間の人格だ。

統合失調症の患者さんも同じ。同じ二次妄想を訴えても、その内容は全く異なる。

Cさんは、遠い銀河の星での楽しい暮らしぶりを天真爛漫に語る。

Dさんは、世界一の自分の能力の高さを慇懃無礼(いんぎんぶれい)にひけらかす。

なんということはない。BさんもDさんも発症前からそういう人格だったのだ。

人間の人となりに、
健常者も
認知症患者も
統合失調症患者もなかった。

精神障害の有無に関係なく、人間の我=自己中心性というものの問題は別件として強固に存在する。

2013(平成25)年12月27日(金)『正しい地口(じぐち)の使い方』

ある夜、ふと
「そうは烏賊(いか)の金玉」
という言葉が気になり、調べてみた。

そうすると
「そうは烏賊の金玉 蛸(たこ)が引っ張る」
というのが出て来て、のけぞったが、

さらに、
「蟹(かに)の褌(ふんどし) 烏賊の金玉 喉(のど)のちんこ」
というのまでヒットして来て、ガックリと膝をついた。

いずれも“地口”という、江戸期以来の語呂合わせの言葉遊びから来ている。

有名なところでは、
「あたりき、しゃりき、車引き」
「その手は桑名の焼き蛤(はまぐり)」
などがあるが、
上掲の一句には、かなりのインパクトがある。

そうなると
〈果たして烏賊に金玉があるのか?〉
というのは疑問に思うところで、
成書によれば、烏賊の脚の付け根にある“トビ口”という咀嚼(そしゃく)器官のことを“烏賊の金玉”といい、好んで食べる烏賊通の方もいらっしゃるとのこと。

ここまで調べて当初の個人的目的は達成したが、ここまで調べた蘊蓄(うんちく)を誰かと共有したいと思うのも人情なので、ここに披瀝(ひれき)しました。

こんなことを書いて、万が一「社会的に尊敬されるべき精神科医ともあろう者が、このような品性下劣なことを書くのはいかがなものか。」というような感想を持たれた方がいらしたら、

頼みもしねぇのに、てめぇで勝手に読んでおいて、アッタマのおかしい文句を並べようったって、そうは烏賊の金玉よ!二度と読むな! このバーカ!

…江戸っ子はこのように使用致します、はい。

2013(平成25)年12月24日(火)『武者ぶるい』

ときは戦国時代。

さすがの武士たちも
いざ出陣となれば
手も足も口も震える。

震えるのが当たり前。

これから命のやりとりをしに行くのに
何にも感じないとしたら
そりゃ、馬鹿だ。

斬られる
刺される
射られる
撃たれる

痛いだろうなぁ
苦しいだろうなぁ
やだなぁ。

大事なのはそこからだ。

天命が戦えというなら
震えながら戦場に行くのが士(もののふ)というものだ。
(ちなみに天命が逃げろというなら
卑怯者の汚名を浴びても、逃げるのが士だ)

人間として
感じることはきちんと感じて
天命に従う。

要は、天命を間違わぬこと。(特に自分で勝手に思い込んだ「〜であるべき」を天命と思わないこと)

そして、天命をちゃんととらえたなら、
震える自分もそのままに
(震えてはならない、恐がってはならないなどと思わないで)
天命に従うこと。

それを生きるというのである。

2013(平成25)年12月16日(月)『良き奴隷』

あるホームヘルパーの女性から聞いた話。

彼女が勤める会社のあるベテラン・ヘルパーは、
利用者のおばあちゃんが今
お腹が空いてるのか
ノドが渇いているのか
排泄をしたいのか(したのか)などを
すぐに見抜いて
パッパッと対応するのだそうだ。

彼女はそれを見ていて、なんだか知らないけれど、気持ちが悪くなったという。
自分でも何故だかわからない。
どうしてなんでしょ?

ひとつ訊いてみた。「そのおばあちゃん、意志表示、全然できないの?」

いや、自由自在にしゃべることができるという。

意志表示のできない利用者ならともかく、
意志表示できる相手に対して
察して代弁して代行し
得意がってるのは、
いかにも虐げられてきた環境の中でアンテナを張って気の利く良い奴隷をやってきた者のやりそうなことだ。

そういう「よく気の利く」ところは、結局、本当の意味で相手のためではなく、自分の存在価値を証明するための道具に過ぎない。

さらに、この場合、そのおばあちゃんの表出能力を疎外しており、有害ですらある。

こいういうのは特に医療・保健・福祉関係者に多い。

自分の奴隷の察(さっ)しっぷりを得意がることなかれ。

その悪しき習慣を恥じよ。

相手の生命(いのち)を活かす“直観”と、
相手の生命(いのち)をないがしろにする“奴隷の察し”とを観分けよ。

 

で、世の中は忘年会シーズンである。

間違っても、空になった私のグラスに、「気づきませんで。」などと言いながら、勝手にビールを注ぐことなかれ。

私が次に何を呑みたいか、呑みたくないか、わかっているのは私だけであるし、

私には表出能力があるのだ。

そしてあなたの自由意志と表出能力も、私は尊重したいと思う。

だから、今度の日曜の勉強会後の忘年会はのびのびとやりましょ。

2013(平成25)年12月13日(金)『“あのー”の勇気』

中学生の男の子が野球部をやめたいという。

しかし監督は鬼のように恐くてとても言い出せない。
言い出せないどころか、目も合わせられない。
おっかなくて5メーター以内には近寄れない。

ホントは練習なんか行きたくない。

でも行かないと怒られる。

行くも地獄。
行かぬも地獄。
布団に入っても眠れない。
そのうち腹が痛くなる。

その彼が必死に呼吸法をやった。
教わって何度も何度もやった。
朝も昼も夜もやった。
数え切れないくらいやった。

そしてある日、意を決して、監督に退部を申し出に行った。

ノドがカラカラに渇いた。心臓がバクバク鳴って、足が震えた。

監督の目の前に立った。

緊張はピークに達した。

必死になって顔を上げ、むりやり監督の目を見た。

「あ、あのー…」

『なんだっ!』

気がついたら全力でダッシュして逃げていた。

家に帰ってから悔しくて布団をかぶって泣いた。

しかしその日から、呼吸法をやる回数をさらに増やした。

それでいい。

君は今の自分なりの精一杯をやったんだ。

そしてさらに上を向いて進んで行こうとしている。

十分に立派である。

これを成長の姿勢というのだ。

2013(平成25)年12月11日(水)『智慧の眼』

知人に

誰がどう見ても

ニューハーフに見える

女性がいる。

そう思い込まれて言い寄られることがあるそうな。

それだけのことである。

知人に

誰がどう見ても

フィリピーナに見える

女性がいる。

“同国”人からときどき話しかけられることがあるそうな。

それだけのことである。

知人に

顔に大きな母班(先天性の青いアザ)のある

女性がいる。

初めて会う人たちから、ときどきジロジロ見られることがあるそうな。

それだけのことである。

昔、近藤先生から教わったことがある。

目を閉じてみる。

三人の見た目の差別(しゃべつ)が消えた。

目が開いたまま差別の目を越えること、

それを智慧というのである。

2013(平成25)年12月8日(日)『ひとり』

普段、大家族や集団で暮らしている人は

「ひとりになりたい。」

と思うだろう。

普段、ひとり暮らしをしている人は

「ひとりはいやだ。」

と思うかもしれない。

一番大事なことは、

あなたがあなたでいられるかどうかだ。

誰かと一緒にいることで、

あなたがあなたでなくなるなら、

あなたはひとりでいた方がいいだろう。

その人と一緒にいることで、

あなたがあなたでいやすくなるのなら、

あなたはその人と一緒にいた方がいいだろう。

寂しいからといって

あんなヤツと一緒にいるのはやめなよ、

お嬢さん。

あんたがあんたでなくなる。

恐いからといって

ひとりでひきこもっているのはやめなよ、

お兄さん。

あんたがあんたでなくなる。

年の瀬は、流れを変えるチャンスにもなる。

あなたがあなたになるために

もう一歩を踏み出そう。

2013(平成25)年12月5日(木)『居場所』

夜を走る電車の窓から小さな公園が見えた。

外灯でかろうじて人影がわかる中に

小学生低学年らしき女の子

高学年らしき男の子と女の子

の三人の姿が見えた。

根拠のない直観が走る。

きょうだいではないな。

もう夕食の時間は過ぎたろうに。

居場所のない子どもたちか。

…こういう直観はハズレた方がいい。

大人になったら

自分の居場所は自分で作れるけれど

子どもには大人が

暖かくて居心地の良い

居場所を作ってあげなくちゃいけないのだよ。

2013(平成25)年11月30日(土)『セラピー所感』

ある悩みにとらわれて辛いときに
「こう考えれば楽になるよ」
という“やりくり”の仕方(技術、テクニック、コツ)を教えるのがセラピーだと思っている人が多い。

そして教わったクライアントは“気をつけて”それを実践しようとする。

こういうのを“はからい”のセラピー(あるいは“操作的”なセラピー)という。

そりゃあ、“気をつけて”“やりくり”している間は多少役に立つかもしれない。
しかし、気が抜ければおわりだ。
“やりくり”は所詮セラピーの“枝葉”でしかない。

それよりも、表面的にはどんなことを話していても、
会話以外、言語以前のところで、
「なんだかなんとかなりそうな気がする」
とか
「私は私でいていい気がする」
という気持ちに“自然に”なってきて、
自分や相手や世界の“観え方”“感じ方”が根本的に変わってくるというのが、
ホンモノのセラピーの“根幹”なのだ。

努々(ゆめゆめ)セラピーの“枝葉“と“根幹”を間違えてはなりませぬぞ。

浅薄な“スーパーヴィジョン”や、なんちゃって“教育分析”しか受けてこなかった精神科医や臨床心理士にはわからないことだろう。

彼ら彼女ら自身にそういう“体験”がないのだから、やりようがない。

あなたと私が深いところで接するとき、私(セラピスト)を通して、あなた(クライアント)をあなたする力が働く。

それを本当のセラピーというんです。

2013(平成25)年11月29日(金)『何に応(こた)えるか』

一人の女性臨床心理士が、ある児童養護施設に行ってきた。

職員研修を依頼されて行ったそうだが、終了後、施設内を案内してもらっていると、小さな子どもたちが一人また一人と集まってきた。

で、絵を描いたり、折り紙を折ったり、遊んだりしてるうちに大盛り上がりになった。

帰る時間の近づいた頃、一人の女の子から
『夕ご飯も食べてくの?』
『今日は泊まってくの?』
とまっすぐに目を見て言われた。

一瞬返答に窮すると、敏感なその子は
『今度いつ来るの?』
とまたまっすぐに目を見て言ってくる。

そんな目で訊かれると、なんだか切ない気持ちになってくる。

しかし、いつもすべての希望に応じられるわけではない。

それに、この子の気持ちの核心を言葉にすれば、
自分のことを大切に思ってくれる人に逢いたい、
ということであり、さらに言えば、
誰かに大切に思われることで、自分で自分のことも大切に思いたい、
ということなのだ。

彼女は冴えていた。

一緒に作った折り鶴を手に取って、ふーっと息を吹き込んでから、その子に手渡した。

「○○ちゃんのことを大切に思うから、いつまた来られるか、いい加減な返事はできない。でも、この折り鶴に『大好き』って入れといた。」

女の子はまっすぐに彼女を見つめながら頷(うなづ)いた。

誠実に、そして、思いを込めて応えた。

上々である。

2013(平成25)年11月28日(木)『命綱』

あなたは自分の命綱を誰かに託せますか?

もし自分の命を託せる誰かがいるとすれば、あなたは幸せな人だと思います。

あなたは誰かの命綱を引き受けられますか?

もしあなたが自分の命に代えて、死んでも離さない誰かの命綱を引き受けられるとすれば、私はあなたに敬意を表します。

そんな命綱のやりとりもできないのであれば、人として生まれて来て、こんなに地上にたくさん人がいるのに、寂し過ぎる、と私は思うのでありました。

2013(平成25)年11月27日(水)『勲章』

十年以上前の話。

夜中に病棟に呼ばれた。

認知症に肺炎を合併したおじいさんの容態が急変したという。

駆けつけてすぐにあれこれ治療を行ったが、既に数週間前から内科医が手を尽くしており、薬石効なく、未明に亡くなられた。

聞けば、天涯孤独な身の上で、見舞いに来る人もなかったという。

そのおじいさんのお腹に、古い色素沈着の痕(あと)がたくさんあった。昔の皮膚疾患か何かの痕くらいに思っていたが、ご遺体の清拭を進める看護師さんが問わず語りに教えてくれた。

「このおじいさん、昔はいろんな中華料理店で働いていた腕の良い料理人だったみたいですよ。
お腹の傷は、跳ねた油の火傷(やけど)の痕なんですって。」

思わず「そうかぁ。」と声が出た。

ちゃんと仕事をしてきた勲章ですね。

この人の人生の証人の一人になった気がした。

「お疲れさまでした。」

瞑目低頭す。

2013(平成25)年11月25日(月)『スピリチュアルペイン』

自分の思い通りにならないときに感じる心の痛み、
それは「我」の痛み、
Egoistic pain.

生い立ちの中で心の内に埋め込まれた見張り番、「ねばならぬ」に沿えないときに起きてくる罪悪感の痛み、
それは「超自我」の痛み、
Super-egoistic pain.

本来のあなたが生かされるままに生きていないときに感じる痛み、
それが「魂」の痛み、
Spiritual pain.

緩和ケア専門家ですら、スピリチュアル・ペインの真意をちゃんと押さえている人に私は逢ったことがない。

何が痛みを感じているのか、そこが大事なのだ。

前二者の痛みなんぞは木っ端微塵にぶっ壊して流してしまえ。

しかし、最後の痛みには決して逆らってはならない。
そこに大切なメッセージがある。

これを感じ分けられるようになることこそ人間の本当の成長である、と私は確信している。

2013(平成25)年11月22日(金)『次の一歩』

重症筋無力症の人にとっては、指先を1cm動かすだけでも大変なことである。
毎日40km走り込んでいるマラソンランナーにとって、あと100m走るなんていうのは、なんでもない距離だ。

ある青年が完全引きこもりから脱却した。

家の玄関から一歩踏み出すのに、どれだけの勇気を要したことだろう。
その一歩は小さくとも、とても重く大きな一歩であった。
先に挙げた重症筋無力症の人の1cmと同じだ。
彼はやがて近所の買い物に行けるようになった。

そして数年が経った。

彼は当たり前のように近所に買い物に出かけていた。
しかし未だにそこまでだった。
彼は次の一歩のチャレンジを何もしていなかった。

買物やお楽しみだけの外出には最早、何のリスクもない。
先に挙げたマラソンランナーの100mと同じである。

常に次の一歩がなければ、成長は止まる。
流れが淀めば、水も腐る。

最初に一歩を踏み出したときのことを思い出せ。

永遠に次の一歩を踏み出し続けるのが我々の人生だ。

そしてそれはとても楽しいことなんだよ。

2013(平成25)年11月20日(水)『搾取』

那覇のにぃにぃ(兄さん)から、ヤマトや薩摩に搾取されて来た琉球の哀しい歴史を聴く。

宮古のおじぃから、琉球王朝に搾取されてきた離島の哀しい歴史を聴く。

宮古のおばぁから、男に搾取されてきた女の哀しい歴史を聴いた。


だのに、宮古のおばぁの笑顔が一番深いのは、どうしてだろう。

 

哀しみや苦しさを、逃げず、誤魔化さず、ただ受けとめて、消化して来た人間の笑顔が一番深いさぁ。

2013(平成25)年11月19日(火)『何に正直』

「自分に正直」という意味を
「自我(ego)に正直」と取るか
「自己(self)に正直」と取るか
で生き方は天と地ほど違って来るんだよな。

「あるがまま」というのを
「わがまま」と取るか
「催されるまま」と取るか
と同じ。

正直にあるがままの月はどこまでも綺麗だ。

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