2015(平成27)年6月18日(木)『廃墟』

あんたはいつから自分の中に“廃墟”を感じ始めたんだね。
彼は柔らかい口吻(こうふん)で(私に)尋ねた。

「十三歳から十四歳の間です。
八歳のときに強姦されましてね。
そのときには自分が何をされたのかわからなかった。
十歳を超えるあたりから少しずつ事態がわかりはじめて、十三歳から十四歳の間に、衝動的飲酒というんでしょうか、定期的に、大量のアルコールを飲んでふらふら街に出ていって、廃ビルの地下に酩酊状態で転がっているという行動をおこしはじめました。
十五歳からは、その行動は顕著でした。
その行動を抑制できるようになったのは、二十三歳から二十四歳の間です。
しかし、その間も学校にはちゃんと行っていました。
成績は悪くなかったし、誰にも、そんな行動をとっていることを悟られなかった。
でも、これは珍しいことじゃないですね。
驚くほど多くの人が、十歳以下で同じ経験をして、十三、十四歳くらいで、売春や薬に走っている。
その行動は約十年続き、幸運な人間は、その行動を抑制できる年齢まで生き延びる。
ただし、自分だけが汚れた十年間を抱え込んでいると思っている人は多いですね。
私が経験したのは悲劇でも特異な経験でもないですが、自分の中に廃墟を感じ始めたのは、たしかに十三、四歳の間です。」

「あんたの言っていることは真実だよ。」

彼は手を組み直した。

「サヴァイバーの多くが十歳未満で性的暴行を受けている。
そして、十三、四歳になった頃、売春や薬を始める。
ざわざ危険な街頭に出ていって、帰る家があるにもかかわらず、街をふらつくようになる。
二十三、四歳まで生き延びられるかどうかが問題だ。
生き延びる知恵をつけた女性でさえ、たった一度の客選びの間違いで命を失ってしまう。」

 

ある日本人女性(後にノンフィクションライターとなった)とサヴァイバー支援活動を行っているアメリカ人男性との会話である。
性被害だけではない。
何らかのこころの傷を抱え、自分の中に“廃墟”を感じながら生きている人は少なくない。
その人たちが確かに“生き延びる”ためには、自分自身が“廃墟”でないことを確かに教えてくれる、感じさせてくれる人間との出逢いが必要である。
そして、それが行えるようになるためには、まず支援者自身が自らの問題を解決し、自分の存在の尊厳を感じ取っていなければならない。
そうでなければ、関わる相手の中の“尊さ”を信じられるはずがないと私は思っている。

 

 

2015(平成27)年6月17日(水)『精神科クリニック選び』

質問されることが多いので、要点をまとめておきます。

精神科医しかいないクリニックは、実質、薬物療法だけを受けに行くところです。
患者数が多いために、とても精神療法的対応をする時間的余裕がありません。

従って、薬物療法に加えてカウンセリングも受けたい人は、臨床心理士もいるクリニックを選びましょう。
精神科医から薬物療法を、臨床心理士からカウンセリングを受けるわけです。
但し、臨床心理士によるカウンセリングに原則として保険は効かないので時間の長さと料金を確認しましょう。
複数の臨床心理士がいるクリニックだと、合わない場合に選択できてベターです。

精神療法専門の精神科医からじっくりと精神療法を受けたい人は、自由診療の精神療法専門のクリニックを探しましょう。
薬物療法も10割負担になりますので、ご注意下さい。
料金が高いように見えて、実際には保険診療で開業するより経営的に苦しいのが実情です。
従って、自分は精神療法をやるんだという志を持った精神科医がやっています。
但し、力量はさまざまですので、じっくり見定めて下さい。

大切な自分のこころの健康のため、どういう精神科クリニックに行くか、ちゃんと選びましょう。

 

 

2015(平成27)年6月4日(木)『良心的登校拒否』

先日、手に取ってみたい本があって地域の図書館に行く機会があった。

空(あ)いた時間に、いつもは見ないようなジャンルの本棚を眺めていると、
『臆病者と呼ばれても 〜 良心的兵役拒否者たちの戦い 〜』
という本が目に入った。
第一次世界大戦を背景にイギリス人の兵役拒否を扱ったノンフィクションの本であった。

その本の内容よりも、私の脳裏にピンと走ったのは、
「良心的登校拒否」
という言葉だった。

いじめが横行しているような学校には行きたくない。
教師の圧政がまかり通っているような学校には行きたくない。
いじめる側にも、いじめられる側にも、入りたくない。
追従者にも、傍観者にもなりたくない。
だから学校には行きたくない。
立派な「良心的登校拒否」だと思う。

願わくば、それを支持してくれる親御さんに恵まれてほしいと思う。
そしてその上で、魂を売らなくても人間は生きて行けるということを教えてくれる大人たちに出逢って行ってほしいと思う。
及ばずながら、私もまたその役目の一翼を担(にな)っているつもりである。
いつでも話しに来いよ。

全ては、その子自身が、本当の意味で、勁(つよ)い大人になって生きて行けるために。

 

 

2015(平成27)年5月19日(火)『油そば』

ある油そばの店の話を聞いた。

店に入った途端、店員さんたちが一斉に
「あぶらっしゃいませっ!」
と言うのだそうだ。
笑っては一所懸命に言っている店員さんに悪いと思い、必死に笑いをこらえていると、
隣席の若い女性も、油そばを口に頬張った状態で、お腹をヒクヒクさせていたらしい。
すると、別のお客さんが油そばを食べ終わり、会計に立ち上がった。
店員さんたちが一斉に
「あぶらとうございましたっ!」
これで隣の女性は、たまらず吹いてしまったそうな。
そら、しょうがないでしょ。
でもなんだか手放しで笑いにくいんだよなぁ。

この話から、大学生の頃、クラスメートたちと初めてある居酒屋に行ったときのことを思い出した。
メニューを注文する度に、年輩の店員のおじさんから「ハイ!よろこんで。」と言われたのにも参った。
客とはいえ、年下の学生相手に一所懸命に「ハイ!よろこんで。」と言うおじさんに対して、なんだか身の置きどころがないような気持ちになった。

プロの姿勢は他のことからでも十分にわかるから、掛け声は普通で良いよ。
経営者さん、どうか別のところで勝負してくれ。

 

 

2015(平成27)年5月11日(月)『アグレッション』

悪意の言動をぶつけられて、腹が立つ。
そのときその場でそいつに怒りを表現するのであれば、それは健全な反応であり、大した問題ではない。
しかし、過去の(生育史上の)あのときあそこであいつに感じた怒りを、別のときに別の場所で別の相手にぶつける(ことができる)というのは、間違いなく病的な事態であり、治療が必要である。

その怒りを幼児や高齢者にぶつければ虐待となり、相手の些細な落ち度につけこむのであればクレーマーとなり、われわれセラピストもその攻撃の対象になりやすく、精神科臨床では日常茶飯事である。
何しろその攻撃というのも、決してストレートなものに限らず、言動の隙間に毒を仕込み、棘(とげ)を入れて来るようなやり方も多く、悪質さが目立つ。
小さくて弱かった頃に虐(しいた)げられて来た人間が、正面からは怖くて反抗できなかったために、質(たち)の悪い復讐の仕方を工夫して覚え、あのときあそこであいつ(多くは親)に出せなかった怒りを、別のときに別の場所で別の相手に出して来る。
やっぱりこれを実際に行えてしまうというところが病気なのである。
健康度の高い人間であれば、ちょっとそうなりそうになってもその異常さに気づき、完全に封じ込める。

そしてもっとまずいのは、そういう人間が、その問題を未治療・未解決のまま、医療、福祉、教育など、人間に関わる仕事に就きたがることだ。
これは大迷惑だ。
ただでさえ悩んでいる人たちや青少年たちに、さらなる苦しみや病んだ生き方の感化を及ぼすことは許されない。

だから、アグレッション(攻撃性)を垂れ流してしまう人は、まず徹底的に治療を受けなさい。
そのままなら、ただの迷惑な存在であるが、もしその問題を根本解決できたとすれば、その人くらい人間の成長に関わる仕事に向いている人物もいないということもまた事実なのである。

人間の突破・成長に終わりはない。
挑むべし。

 

 

2015(平成27)年4月23日(木)『箱そば純情』

久しぶりに箱そばに入った。

※箱そば…小田急レストランシステムが小田急沿線を中心に展開しているスタンドそば店。正式には「名代箱根そば」。私的には、都内を中心に展開しているダイタングループの「名代富士そば」と並ぶ、立ち食いそば店(最近はイス席も多い)の代表格。いずれも、しばらくすると、何故か無性に食べたくなるB級グルメの古参格である。

その日はもう昼下がりであったが、店内は盛況で、私のすぐ横の席に、高校生のカップルが向かい合わせで座って来た。
昼間に箱そばでデートなんて、なんて素朴なんだろう。
隣席まで30cmほどの近さなので、聞きたくなくても二人の会話がこちらの耳に入って来る。
彼は天ぷらそば、彼女はかき揚げそばの載ったトレーを取って来て、小さなテーブルの上に置く。

彼女「ああ、お腹空いた。」
彼「…ぅん。」
少年が黙って立ち上がり、2つのコップに水を注(つ)いで来る。
彼女「あ。ありがと。」
彼「…ぅん。」
そして彼は黙ったまま、自分のそばから、エビ天やイモ天をひょいひょいと彼女のそばの上に載せていく。
彼女「ありがと。 私、何を返せば良い?」
彼「いらねぇよ…。」
と俯(うつむ)いて、ほとんど具のなくなったそばを食べ始める。

中高一貫男子校出身で、浮いた噂のひとつもなかった私としては、なんだか胸の中を内側からくすぐられる感覚に身悶えしながら、「ああ、良いカップルだなぁ。」と隣でうどんをすすっているのでありました。

大人になってもそんな気持ちで付き合える人になってね。

 

 

2015(平成27)年4月20日(月)『ルンパッパの約束』

小泉功(こいずみ・こお)の訃報を聞いた。

清酒黄桜のCM(以前にも紹介したように思う)で有名なカッパの漫画を描いた漫画家である。
日本では珍しく大人の絵の描ける人であった。
美人画はつとに有名であったが、セクシーでありながらいやらしくないという筆致はなかなかマネのできるものではない。

氏の逝去を悼みながら、私の連想は別の方向に走っていた。
以前、かのCMが好きだったという青年との間に交した約束があった。
○○を達成したら、また八雲に来る。
そして彼はまだ来ていない。
もちろん私は待っている。
必ず達成して来てくれるものと信じて待っている。
その約束があるから私の中であのCMは特別なものになっている。

さて、今夜は黄桜を呑むかな。

 

 

2015(平成27)年4月3日(金)『良寛Ⅱ』

この世界に生きることが心底イヤになっちゃったことのある方なら感じられるかもしれない。

「生涯身を立つるに懶(ものう)く
    騰騰(とうとう)天真に任(まか)す」

という良寛の気持ちが。

今、八雲に来ている人たちは、(現在、または、かつて)そういう方々が多いように思う。
「名誉心や利益心、自負や嫉妬やエゴイズムの跳梁(ちょうりょう)している社会」
「そういう『世の中』(=神経症的な世界)であくせくすること」が、心の底からイヤになってしまった。
それが「」し。

そして流石、良寛はその「し」に沈んだままになってはいなかった。
そこを根底から突き破っていく。
それが「騰々任天真」。
ただ「任す」のではない。
「『騰々任天真』の『任』『まかす』は、その本来においては自分がこちら側にいて、あちら側の天真に任すではない。任せきって分別なく騰々としていることである。或いは自分が天真になりきって、天真を現成(げんじょう)している風情(ふぜい)である。」
「天真が天真を転じているということになろう」
唐木順三氏の指摘に賛意を表したい。

ここまで行って初めて「おまかせする」ということの真意が明らかになるのだ。
この世界に生きることに必定の「」さを根底から突き破るには、
「任天真」の体験に行く着くしかないのである。

 

   花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋(たず)ぬ。
   
花開く時、蝶来(きた)り、蝶来る時、花開く。
   
吾(われ)もまた人を知らず、人もまた吾を知らず。
   
知らずして帝(天帝)の則(のり)に従う。

 

 

2015(平成27)年3月31日(火)『桜花』

第二次世界対戦末期、日本海軍によって作られたジェット戦闘機があった。

ジェット戦闘機というと聞こえが良いが、それは他でもない、特攻専用機であった。
機体は小さく、搭乗員一人が乗り込むのがやっと。
爆撃機の下にぶら下がるように取り付けられ、切り離しによって発射する。
物資不足もあって機体のほとんどは木製、両翼はベニヤ板であったという。
先頭部には大量の爆薬を搭載。
着陸は想定していないので車輪はない。
燃料は当然、片道分のみ。
それは爆弾に、小さな翼と申し訳程度のジェットエンジンを付けて、人が乗っているようなものであった。

その名は「桜花」。
咲いて散るのみの、余りに哀しい命名である。

若い搭乗員たちは、どんな思いでこの桜花に乗り込んだのだろうか。
そして、どんな人間がこの特攻機を設計し、出撃を命じたのだろうか。

今、自分自身が後進たちを教えるような立場になってつくづく思う。
素直で一途な若い生命(いのち)を、年上の者たちは大切に大切に教え育(はぐく)まなければならない。
教育とは、散ることよりも自分を咲くことを教えるものである。
目の前の満開の桜を眺めながら、そんなことを思った一日であった。

 

 

2015(平成27)年3月17日(火)『良寛Ⅰ』

私が何故、児童専門外来をやって来たかということを、ただ一人の畏友が「良寛ですね。」と言ってくれたことがあった。

勿論、良寛の境地に及ぶべくもないが、その消息を唐木順三が端的に書いてくれている。

「良寛が子供たちと手まりをつき、かくれんぼをし、草花をつみ、打興(うちきょう)じて倦(う)むところがなかったことはその行実(ぎょうじつ)や逸話によって知られている。或る人が、なぜ子供たちが好きかと聞いたところ、『その真にして仮(け)なきを愛す』と答えたと」いう。

「私がまりを打つと子供たちがそれについて歌い、私が歌うと子供たちがまりをつく。つきつうたいつ、うたいつつきつ、時のたつのを忘れてしまった。そこへ通りかかった里人(さとびと)がこのていたらくを見て笑いながら、いやはやまたどうしたことかとあきれ顔に言った。私はただ頭をさげてちょっと会釈するだけで、返事もしない。たとえ言葉でそれに答えたとしても、その真意は伝えにくい。強いて言えというならば、これこの通り、歌ってまりをつくばかり。」

「大人の良寛が子供たちと遊んでいるのを見て、おかしいと思うのは大人の分別心から来ている。大人とはかくかくしかじかの者、子供とはかくかくしかじかの者と規定し分別しておいて、その上で良寛のふるまいはおかしいと思うわけである。子供は無分別だが大人には分別がある。その分別のあるべき大人が、無分別な子供と一緒になってと、そう思うわけである。そして我々は日常そういう世界に住んでいる。」

「世間から痴愚と言われていた良寛が、大愚となって世間の小愚を眺めているのである。」(一部改訂) ※良寛の号を大愚という。

少なくとも良寛は、非常に親近感を感じる歴史上の人物の一人である。

2015(平成27)年1月30日(金)『くりからもんもん』

小学生の頃の自宅(広島)は、父親の精神科病院の向かいにあった(それまでは病院の二階が自宅であった)。

ある日、小学校低学年の私が学校から帰って玄関のドアを開けると、中にたくさんの男の人が立っていた。
今でも覚えているが、その大半が鯉口か、派手な開襟シャツを着ており、後ろ側から見ると、シャツからはみ出たさまざまな倶利迦羅紋紋(くりからもんもん=刺青(いれずみ))の壮観な眺めであった。
見ると、向かいには和服姿の父親が男たちに対峙するように立っている。
しかし当時の私は至って能天気で(事態がよくわかっていなかった)「ただいまー。」とか言いながら男たちの間を縫うように通り、靴を脱いで、奥の方に入って行った。
当時は、覚醒剤にまつわる暴力団関係者の入院が多く、後から聞いた父親の話では、親分を退院させろ、と子分たちが談判に来ていたとのこと。
事の顛末は覚えていないが、無事だったところを見ると、警察署も近く、公安委員もやっていた父親のことなので、恐らく警察に間に入ってもらったのだと思う。
少なくとも当時の私の周囲では、倶利迦羅紋紋との遭遇はさほど珍しくなかった。

そして後年、今度は、大学生になって飛行機で東京から帰省した際、
隣席に乗り合わせた、どこかの大企業の重役を思わせる、品の良い中年男性から話しかけられ、機内で歓談に花が咲いたが、
広島空港に到着するに及んで、彼を出迎えていたのは、角刈り、やっぱり鯉口か派手な開襟シャツ、倶利迦羅紋紋、指1〜4本なしの子分衆の整列であった。
このギャップはすごいなぁ、などと思いながら、スモークドグラスのベンツとお供の車列が去るのを見ていたのを覚えている。
今は時代が違うだろうが、少なくとも当時の広島の倶利迦羅紋紋の人たちには、どこか緩い雰囲気があったと思う。

その後、精神科医になってからも、臨床場面で何度か倶利迦羅紋紋の人たちにお逢いすることがあったが、割合平気で話ができるのも、そういった経験のお蔭かもしれない。

実際、治療場面では、倶利迦羅紋紋であろうとなかろうと、一枚皮膚を剥がしてみれば、中は同じ人間なのである。

 

 

2015(平成27)年1月11日(日)『成人式』

テレビで東日本大震災の被災地での成人式の様子を報じていた。
震災で娘を亡くしたお父さんが、加工して作った娘(享年16歳)の振り袖姿の写真を持って、成人式会場に来ていた。
お父さんは会場に入らず、外で娘の友達たちが出て来るのを待っていた。

その様子を見ていて思い出す光景があった。
かつて原爆忌(8月6日)に、被爆者の母と広島・平和公園の川べりにある慰霊碑に行ったときのこと。
当時中学生だった叔父(母の弟)は、建物疎開に動員されて、爆心地付近で被爆し、遺体も見つからなかった。
同じ中学の犠牲者たちを弔う慰霊碑のまわりには、既に高齢になった親たちがたくさん集まっていた。

たまたまその年は、東京にいる叔父(亡くなった叔父の兄)も帰省し、慰霊に同行していた。
亡くなった自分の息子と年齢の近い叔父の存在がわかると、犠牲者の親たちが叔父のまわりに集まって来た。
そして肩や背中を触りながら、
「息子も生きていたらこのくらいになるのか…」
と言って涙を流した。
叔父も神妙な顔をしながら、されるがままに俯(うつむ)いていた。

あの東北の被災地のお父さんも、娘の写真を成人式会場に持参しながら、生きている同級生たちの姿に娘を重ねて見ているように私には感じられた。

死んだ子の年を数える、という。

必要なだけ数えればいい。
そしてその上で、生きている、いや、生かされている自分の“今”を大切にしてほしいと切に願う。

 

 

2015(平成27)年1月10日(土)『触れるⅡ+α』

詩人・伊藤比呂美の話。

「うちの母は病院で5年間寝たきりだったんですが、死ぬ直前のことです。
父が新聞で『妻が死ぬ前に、抱きしめてやれなかったことを後悔している』という投書を読んで、
おれはやったろと思って、力いっぱい抱きしめてやったんですって。
目も見えなくなっていた母は『誰もいないの?』と聞きまして、
父が『いないよ』と答えると
『もっとやって』と言って、声をあげて泣いて喜んだそうです。
そうやって抱きしめあったことで、
父も母も、いい人生だった、いいつれあいだったと
愛を確認して、逝くことが、送ることが、できたみたい。」

だから皆さんも時々はちゃんと大切な人と抱きしめ合いましょうね。

 

そしてもうひとつ。

今度はそのお父さんが娘におむつ交換などの介護を受けるようになったときの話。

「『おとうさん一人でよくがんばってるもんね』と言ったら、
『そうかい、一人でもそう思ってくれる人がいたらいいや。
おれも自分でもよくやってるなあと思うもん。
そんなこと思ってくれるのは日本中、じゃないな、世界中だな、世界中にあんた一人だよ』
とうれしそうに言うのだった。

八十九になって、こういう状況で、
それでもよくやってる、がんばってる
とほめられ、自分の存在を受け止めてもらえるのは、
やっぱりこんなにうれしいことなのかとしみじみ考えた。」

だから皆さんも時々はちゃんと言葉にして、あなたの存在を大切に思っている人間がここにいるということを伝えましょうね。

 

 

2015(平成27)年1月8日(木)『進路』

新入社員教育研修センターにおける指導官の言葉

「世の中、やり甲斐がぎっしりつまった仕事なんて、百万に一つよ。」
「公平な職場なんてものもありゃあしねぇ。」
「大半は意味のねぇ苦労や、やり甲斐のねぇポスト、自分には不向きの仕事なんてのもでいっぱいなんだよ。」

そして

「いやで辞めていたら、一生、辞め続けねばならない。」
「意味がない苦労も、黙って立派にやり通す人間になるしかないのだ。」

などと新聞に載っていた。(山田太一の脚本からの引用とのこと)

あなたはこれを読んでどう思うか?

こういう魂を売った敗残者たちの言葉を鵜呑みにして(敗残者が指導官なんぞになるな!)、この世界を、この人生を生ける屍(しかばね)のように生きて行くのか。

それとも、
百万に一つの仕事をでも見つけてやる、
おかしな職場は変えてやる、
意味のある苦労をし、甲斐のあるポストで、自分に合った仕事をやってやる、
本当に自分に合う職場が見つかるまで何度でも職場を辞めてやる、
意味のある仕事を立派にやり通してやる、
などと、あなたならではの人生を切り拓いて行くのか。

あなたはどっちだ。

老婆心ながら付け加えると、できるだけ個人の資格や技量で自由に展開できる職種をお勧めする。

これは人生の大事である。

間違うなよ。

 

 

2014(平成26)年12月31日(木)『本当に大切なもの』

『今日』

今日、わたしはお皿を洗わなかった
ベッドはぐちゃぐちゃ
浸けといたおむつは
だんだんくさくなってきた
きのうこぼした食べかすが
床の上からわたしを見ている
窓ガラスはよごれすぎてアートみたい
雨が降るまでこのままだと思う
人に見られたら
なんといわれるか
ひどいねえとか、だらしないとか
今日一日、何をしていたの?とか

わたしは、この子が眠るまで、おっぱいをやっていた
わたしは、この子が泣きやむまで、ずっとだっこしていた
わたしは、この子とかくれんぼした
わたしは、この子のためにおもちゃを鳴らした、それはきゅうっと鳴った
わたしは、ぶらんこをゆすり、歌をうたった
わたしは、この子に、していいこととわるいことを、教えた

ほんとにいったい一日何をしていたのかな
たいしたことはしなかったね、たぶん、それはほんと
でもこう考えれば、いいんじゃない?

今日一日、わたしは
澄んだ目をした、髪のふわふわな、この子のために
すごく大切なことをしていたんだって。

そしてもし、そっちのほうがほんとなら、
わたしはちゃーんとやったわけだ

(ニュージーランドの子育て支援施設に伝わる詩。 伊藤比呂美 訳)

 

何が本当に大切なことかを間違うことなかれ。
そうしないと、
家は片付いているけれど、子どもは悲しい毎日を過ごさなければならなくなるかもしれません。
計画通り、予定通り、計画的、効率的に物事は正しく進んだけれど、思いもしなかった本当に大切なものを失うことになるかもしれません。
仕事は成功したけれど、(寄って来るのはあなたを利用しようとする人間ばかりで、)最後にはひとりぼっちになってしまうかもしれません。

この詩は、設定を変えれば、応用範囲の広い作品だと思います。

ですから、来年こそ、本当に大切なものを間違わずに、時間とエネルギー、そして愛情を注いで行く一年にしていきましょう。

 

恵存

 

 

2014(平成26)年12月30日(水)『氣』

今となっては昔話だが、ある近藤先生関連の経緯(いきさつ)から、刃傷沙汰(にんじょうざた)になりかねない“事件”に関わらざるを得ないことがあった。
振り返ってもかなり危険な状況にあったと言えるのだが、近藤先生は、普段と全く変わらず、平気な顔をして過ごしておられた。

で、あるとき、

「松田君も外を歩くときは、お腹に晒(さらし)くらい巻いておいた方がいいかな。」

などと笑顔でおっしゃる。

「え? 刺されるんですか、私。」

というような状況で、ちょうどその前あたりから師に習っていた剣(スポーツ剣道ではなく剣術)の稽古も段々殺気じみたものになってきた。

実際、毎夜の素振りも、絶対に斬ってやる、という気合いに満ちていたし、
新宿駅の地下通路などを歩くと、向こうから来る人が皆除けて通っていたのを覚えている。

私くらいの体格でそうなのだから、相当、目つきや人相が危なくなっていたに違いない。
もしあのときたまたまチンピラと肩でもぶつかっていたらどうなっていただろうかと思うと、冷や汗ものである。

そんなある日、師の前で木刀を振ってみせたとき、こう言われた。

「気は結構だが、発した気で相手を包むんだよ、全体をふわ〜っとね。」

と言われて拍子抜けしたのを覚えている。

腐れ外道は真っ二つに斬り捨ててやればいいと思っていたのに、あんなヤツらすら包めとおっしゃるんですか。

くぅー。

さらに

「本当に優しい人間こそがね、実は畏(こわ)いんだよ。」

とまで付け加えらえた。

確かに、一見恐そうな人間は(そう見せてる人間は)弱いよな。
そこで、降魔剣はどこまでいっても大悲剣でなければならぬことを思い知った。

その後、実際に何があったかは、諸般の都合上省略するが、師の言った通りになった。

今思っても、当時練っていた私の気は、極めて危険な邪気に満ちたものであったと思うが、
それでも、いつどんな事態が起こるかわかならい状況で、一所懸命に稽古して気を練っていた姿勢だけは評価したいと思う。

最早、当時のようにつっぱらかる気はないが、いざというときの気を大きさだけは改めて練っておきたいと思っている。
それが来年の大事な目標のひとつである。

 

 

2014(平成26)年12月28日(日)『人物を作る』

ある精神分析医の書いた本を読んでいる。

純粋に専門知識の整理のためと思って購入した本だが、読み始めて数ページで、読み続けることが苦痛になって来た。
著者は頭の良い人で、真面目な勉強家である。
多少見栄っ張りではあるが、性格はむしろ“良い人”に属するかもしれない。

だけれども、である。
哀しいかな、人間の器が小さい[失礼]のだ。
そんな視野の狭い、狭量な、セコい話はどうでもいいだろう、というような話が、どうだ、どうだ、と繰り返し挿入されて来る。

うーむ。

通常、精神分析医になるための教育分析は、被分析者の神経症的な部分を問題とし、その解決のプロセスの経験が、やがて被分析者が分析医になったときに役立つ、ということになっている。
だが、そのレヴェルでおしまいなのだ。
神経症的な部分の解決で終わり。

(本当の意味での)人間的成長とか、人格陶冶などといったことは目的とされていない。
私はそれを知ったときに愕然とした。
そして、だから(物知りでスキルフルかもしれないが、)こんな人格の未熟な[また失礼]精神分析医が多いのかということに悲しい納得がいった。

私が受けた教育分析はそうではなかった。
もしそういうの方を教育分析というのなら、私が受けたのは教育分析なんぞではなかった。
むしろ精神分析的な専門知識や技術の習得は“周辺的な部分”に過ぎず、
恩師ならではの、“人物”を作っていくための、人格が人格に、存在が存在に影響を与える“薫習(くんじゅう)”が、その指導の“中心”であった。

ああ、だから、そんな世界があることを知らない人間は、訓練分析、スーパーヴィジョン、組織的な指導などということが平気で言えるのだ。

近藤先生レヴェルの人間が二人も三人もいるわけないし、組織的指導などあり得ない。
こう言っても、多分、わからない人間からは“幻想”と言われるのが関の山だろう。

しかし、日本精神分析協会に属するあるヴェテラン精神分析医が、私が近藤先生の薫陶を受け、八雲で開業しているということを聴き、それはフロイトやユングから直接に指導を受けるよりも幸運なことだ、と言って下さったそうである。
私はそれを聴いて、近藤先生の真価のわかる人がこの世にいたのか、と思い、却って驚いた。

そんなこんなしているうちに、私が体験したことがいかに幸運なことであったかということが身に沁みて感じられて来るのである。

この著者には、精神分析の知識と技術は十二分にあっても、そういった“人物”のモデルがなく、“人物を作る”という発想もないのであった。
大変、大変、気の毒である。

私は、神経症的な部分が解決されただけの人間ではなくて、
ホンモノの“人物”になりたいと思う。

それが近藤章久という“人物”に出逢えた甲斐というものであると確信している。

 

 

2014(平成26)年12月9日(火)『で、どうする?』

医療福祉関係者から、ときどき尋ねられる質問。

「私のような人間が、対人援助職をやっていていいんでしょうか?」

このような質問するだけ自分のことを見つめられており、問題だらけのまま無自覚で患者(利用者)さんに関わっている連中よりは遥かにマシである。

しかし、そのまま「いいですよ。」と言うわけにはいかない。
私はこう訊き返す。

「で、あなたはその仕事をやりたいの? やりたくないの?」

そしてもし「やりたい。」と答えられるならば、私はこう付け加える。

「だったら、成長して行くしかないでしょ。」

人間、どこまでいっても、未解決の問題、成長課題がないはずはない。
やる道を選ぶのなら、這(は)ってでも前に進むしかないのだ。

もし「私のような人間が、対人援助職をやっていていいんでしょうか?」と言いながら、
現状打破のために何もしない人間がいたとしたら、私はこう答えるだろう。

「やらない方がいい。」

役に立たないどころか、患者(利用者)さんに迷惑をかける自称・対人援助職者たちは、既に巷(ちまた)に溢れている。
これ以上、患者(利用者)さんたちを困らせるわけにはいかないのだ。

私は切実な成長意欲を持った人たちと一緒に前に進んで行きたいと思う。

 

 

2014(平成26)年12月6日(土)『満月』

今宵は満月だ。

東京は晴天に恵まれ、皓皓(こうこう)と照る月を十分に仰ぎ観ることができた。
「月光浴」や「月光菩薩」、「寂光土」については既に書いた。

今日は、満月を観ると血が騒ぐ話。
あなた、騒ぎません?
わたし、騒ぎます。

ローマ神話で、月の神はルナ(Luna)というそうで、その派生語として、
lunatic [名詞]「精神異常者、狂人」 [形容詞]「狂気じみた、ばかげた」(新英和中辞典)
lunacy [名詞]「精神異常、狂気」「愚行、狂気の沙汰」(同上)(ちなみに、かのRYUICHI河村隆一)の LUNA SEA の7枚目のアルバムは正に『LUNACY』であった
という単語があり、この和訳は、些(いささ)か強烈であるが、

「昔は月から発する霊気に当たると気が狂うとされた」(新英和中辞典)

という記載には、自分の体感からどこか納得するものがあった。

但し、個人的には「気が狂う」ではなく、「本来のものが解放される」感覚なんだけどね。

ちなみに狼男が満月を観て変身するというのは後世の創作だそうだ。
わたしなら、満月を観たときだけ本来の自分を取り戻すという話を書くな。

では、皆さまも月をご堪能下さい。

満月を過ぎても、月の光は lunatic です。

 

 

2014(平成26)年11月23日(日)『触れる』

今日の帰り路、バス停で別れ際にハグしている若い女性同士を見かけた。
最近は、人前でフツーにハグしている若いカップルもよく見かける。
そう言えば、手をつないで歩く年配のカップルの姿も珍しくない。
日本人のコミュニケーションの最大の欠点は、身体的接触の少なさだと私はかねがね思って来たが、少しずつ変化しているのかもしれない。

本来、相手の身体に触れることは、紛れもなく生きている相手を感じることになるので、とても重要なことだと思っている。
勘違いのセクハラ行為は願い下げだが、信頼し合っている同士、愛し合っている同士では、ハグする、手をつなぐ、背中や肩に手を当てる、握手する、ハイタッチするなどなど、もっともっと触れる行為があってもいいだろう。

あなたが相手を感じるとき、相手もあなたを感じている。
そしてひょっとしたら、あなたと相手の存在を貫いて働いているものを感じられるかもしれない。

皆さんは遺体の冷たさというのをご存知だろうか。
あの冷たさを感じたときがお別れの瞬間だと私は思っている。
そしてわれわれもやがてそうなる。

だから生かされているうちに触れておきましょう。
大切なあの人に。

 

 

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