2014(平成26)年11月2日(日)『人心掌握』

ある会社の係長さんが、上司である課長から

「部下の人心を掌握できていないのは管理職として問題なんじゃないか。」

と再三言われ、思い悩んでいた。

そこで私が

「で、あなたはその課長さんを信頼してるんですか?」

と訊くと、課長さんは

「いいえ。こうるさくって困ってます。」

と即答。

「じゃあ、課長さん自身が部下であるあなたの人心を掌握できてないじゃないですか。」

「あ…」

 

他人の心を掌握できるという発想自体、思い上がりも甚だしいと思う。
それが簡単にできるのなら私の仕事も楽なもんである。
脅迫か洗脳でも使わない限り、不可能だ。
こういう詭弁にひっかかるべからず。

あなたがあなたであることを大切にするべし。
人間と人間の間に、本当の信頼が生まれるとすれば、そこからしかない。

 

 

2014(平成26)年10月27日(月)『落とした財布』

大学生と思(おぼ)しき二人が電車内で雑談していた。

A「おととい財布落としちゃってさぁ。2万円入ってたから痛かったよ。」

B「そりゃあ、痛いな。」

A「誰か拾って届けてくんないかな。」

B「やっぱ、札は抜かれるでしょ。」

A「だよね。」

B「オレでも拾ったら抜くもん(笑)。」

A「オレも(苦笑)。」

こんな話を挙げることによって、“拾得物は警察に届けなければならない”という話をしたいわけではない。

“〜でなければならない”“〜するべきだ”ではなくて、
“人間として当たり前の感覚”として、落とした人は困ってるだろう、と思って届けるだけだという話をしたいのである。

だから、上記のような話を聞いて、
“〜でなければならない”“〜するべきだ”で反応する人たちは「けしからん!」「なっとらん!」と怒るだろうが、
“人間として当たり前の感覚”を信じている人たちは、人間としての感覚の劣化ぶりを「寂しい」「悲しい」と感じるだろう。

この違い、おわかりか?

本来の自己を取り戻すという中には、この感覚を取り戻すということも当然含まれているのである。

 

 

2014(平成26)年10月14日(火)『合唱』

テレビで合唱コンクールの模様を放送していた。

歌の巧拙は別として、前から気になっていたのが、歌っている児童・学生たちの表情である。
気持ち悪いほど表情を作って、「感情移入してますよ、私は!」と歌っている子たちを何人も見かけた。

私があの表情から連想するのは、神経症でお馴染みの“感覚麻痺・過剰適応”の世界である。
あれでは、求められた将棋の駒のような役割(パート)は従順に果たせるかもしれないが、
本当の意味での創造性や独自性が発揮されるとは思えない。

それでも、よく見てみると、全員がそういうわけでもなさそうだ。
ちゃんと“自分の顔”で歌っている子もいたりして、ああ、全員が強要されているわけじゃないんだ、と安堵したりしている。

少なくとも私の好きな声楽家たちの中には、あの表情は見かけないな。
となると、やがてみんながあの“変顔”を脱して、自分が自分の主人公となって“自分の顔”で歌っているものと信じたい。

魂を売り渡して歌うことはできないよ。

歌うことは生きることだもの。

 

 

2014(平成26)年10月11日(土)『ぐずぐずの効用』

ある人が言った。

「遅くまで仕事をして帰って来て、早く寝れば良いのに、ソファに横になってテレビなんか観て、ぐずぐずしちゃうからダメなんですよねぇ。」

いやいや、そうではない。
その「ぐずぐず」という贅沢な時間の過ごし方があるから、あなたのこころの健康が保たれているのではなかろうか。
すべての時間を無駄なく、計画的、効率的に過ごせる人がいるとしたら、絶対にどこかがおかしくなるに決まっている。

買い物のことを考えてごらんなさい。
買い物の醍醐味は、無駄遣いと衝動買いに決まっている。
すべて計画的にしか買い物をしない人がいるとしたら、小金は貯まるかもしれないが、その人のこころはパッサパサに乾いて行くであろう。

だからもし、どうしても計画的に時間を過ごしたいと望む人がいるとすれば、是非、その計画表の中に「ぐずぐず過ごす時間」というのも予め入れておいてほしいと思う。
そうすれば、ちゃんとぐずぐずしてから眠れるというものだ。

人間が生きることの潤いや豊かさには、そういう「ぐずぐず」が必要なことをよくよく心得ておいてほしいと思う。
そして最後に「ぐずぐず」という表現も変えた方が良いかもしれない。

「ラグジュアリーな」時間なんてどうです?

 

 

2014(平成26)年10月10日(金)『お通夜』

今夜はキジバトのお通夜です。

我が家の庭のキンモクセイの木にキジバトが巣をかけました。
やがて二羽のヒナがかえり、親鳥たちはせっせとエサを運びました。

ある朝、巣のあたりで騒がしい音がしました。
二羽のヒナが木の下の鉢の上に落ちているのを見つけました。
カラスに巣を襲われたようです。

一羽は傷が大きかったのか、やがて亡くなり、小さな墓を作りました。
う一羽は、まだ目が開かず、左足に障害がありました。
襲われた巣に返すこともできず(子育てに失敗したと思うとキジバトのつがいはすぐに別れてしまいます)、急遽、室内にNICUを作り、保護することになりました。

いろいろな情報を集め、手厚く手厚く育てました。
小さくかすれた声をあげ、精一杯首を振り、エサを呑み込む姿は、生きようとする生命(いのち)の塊そのものでした。

6日目の昼でした。
生命の灯がフッと消えるように亡くなりました。

並べて小さな墓を作りました。
キジバトのヒナ二羽の短い生涯の話です。

誰も何も知らずに終わったことかもしれません。
でも、精一杯生きて死にました。

私もちゃんと生きようと思いました。

 

 

2014(平成26)年10月3日(金)『御嶽山』

◇NHKニュースより

御嶽山で亡くなったIさん。

6人のグループで、御嶽山に登りました。
自然保護のボランティアをしていたIさんは、料理が好きだったといいます。
登山に行く前、自分のものと併せて家族のためにもサンドイッチを作っていました。

家族は4日ぶりにIさんと対面。
ありました、これ、お父さんのです。
リュックサックには、家族に作ったのと同じサンドイッチが手付かずで残されていました。

ああ、お父さんだと思ったら、もうね、胸がぐーっと苦しくなって、こんな、苦しくて、苦しくて。
寂しいな。
少しぐらいね、食べればよかったのに。

 

聴いていて胸が詰まった。

短い言葉の中に、いや、表情の中に、これまで家族で積み重ねて来たものを感じた。

我々は人間だからね、凡夫だからね、情は情でね、やっぱり癒されなければならないんですよ。

 

 

2014(平成26)年9月27日(土)『順魔再考』

一遍上人の言葉に

「魔に付(つき)て順魔・逆魔のふたつあり」

「ふたつの中には順魔がなほ大事の魔なり」

とある。

 

“順魔”は、なまじ世俗的にうまくいく=順調に行くことで、“真の自己”を追求し実現する気なんぞにならず、軽佻浮薄(けいちょうふはく)、皮相な人生を過ごすことになるという“魔”を指している。

“逆魔”の“魔”の方が、確かに“病患災難”などに出遭う=逆境に陥ることで苦しみはするが、却って、“真の自己”を追求し実現する道につながって行けることになるかもしれない。

よって、“順魔”の方が手強(てごわ)く、“逆魔”は、活かしようによっては、有り難いことになる。

ここのところをよくよくご領解(りょうげ)あれ。

 

 

2014(平成26)年9月23日(火)『俗説二題』

◇時に「あの人はお嬢様/おぼっちゃん育ちだから、わがままだ。」という俗説を耳にすることがあるが、私は同意する気になれない。
親の社会的地位がどんなに高かろうが、経済的にどんなに裕福であろうが、優しさや思いやりに満ちた(わがままでない)人物はいるわけで、
問題は、いくら地位や金があったとしても、愛情のない家庭に育ったことの方にあるように思う。
むしろ愛情が欠けているところを、金品で補おうとした分だけ(貧しい家庭の場合よりも余計に)後のわがままを生み出す温床になっている気がする。
でもね、いくらわがままを主張してそれを叶えてもらったところで、欠けている愛情の穴は埋まらないにょろよ。
本当に欲しいのは、自分が自分のままで大切に感じられる愛情体験だということに気づいた方が良いと思う。

時に「今どきの若いヤツは怒られて育ってないから、ものがわからない。」という俗説を耳にすることがあるが、私は同意する気になれない。
健康な心の持ち主なら、わざわざ怒られなくても、相応の状況判断はできるし、その上で自分の言動を取ることもできる。
怒られないとわからない(または、怒られてもわからない、怒られてもわかる気がない)とすれば、むしろ何らかの障害の存在を疑うことになるし、
その場合にしても、必要なのは、それぞれの特性に即した治療や教育(療育)であって、怒ることが有効策とは思えない。

また、そう言っている人が怒るときの愛情のなさも気にかかる。
「怒らないとわからない」「怒られないとわからない」と思っている当人の生育史の歪みの方が気にかかるのである。
その人間観って誰かの(何かの)影響を受けてません?

そしてもちろん私も怒るときはある、怒ることが必要な場合もある。
わざと自分を傷つけ(自分自身を大切にしないことを含む)、わざと他人を傷つける(信頼を裏切り、約束を破ることなども含む)ときは怒る。

怒るのはその二つの場合くらいでいいのではなかろうか。

 

 

2014(平成26)年9月12日(金)『比べてみるⅡ』

児童専門外来を担当していた頃、自閉症のお子さんを持つお母さんが、
前の病院の療育担当者から、この子にやれる療育はない、と言われたんです、
と涙ながらにおっしゃったことがあった。
この子はそんなに重いんでしょうか?
と。

私は答えた。

「やることは山のようにあります。」

自分が無知無能なためにやることがないことを、子どもの病状の重さにすりかえる卑劣さは看過できなかった(こういうときははっきり申し上げる)。
もちろん優秀な療育スタッフがいてくれたから言えたことであるが、

もしお母さんがそう言われたまま諦めていたらと思うとゾッとする。
だからやっぱり医療機関や相談先は、比べた方が良いと思う。
そりゃあ、いつもベストのものと出逢えるとは限らないが、少なくともベターなものは選べるはずだ。

私のカウンセリングにおいても同じ。
前回も申し上げた通り、比べられた上で、もし私の方が見捨てられる側になっても全然構わない。
“相性が悪い”のであれば、それまでのことであるし、“私の力量が足りない”のであれば修行するだけのことである。

とにもかくにも、あなたが良いと感じるのであれば、満足されるのであれば、大人の判断ですから、大人の責任において、それでいいのだ。

誰でも今日から“カウンセラー”の看板を掲げて開業できる日本、さまざまな“カウンセラー”が溢れかえる中で、自分が比べて選ぶ“主体”であることをお忘れなく。

お見合いと同じです。誰もあなたの代わりに大事な相手を決められません。

 

 

2014(平成26)年9月2日(火)『聴くことⅡ』

昨日の日誌に「我々が“直観”で傾聴すべきは、表面的“音声”などではなく、“生命(いのち)の声”なのである。」と書いた。

この“生命(いのち)の声”と“我の声”とを混同しないでいただきたい。
相手の“我(自己中心性)”が喜ぶように、主観が喜ぶように聞くことが、本当の“聴くこと”ではない。
ここらの間違いが「傾聴」学習者に多い。

Cさんが話し始めた。

「a だから b になって…」

そこで私は話を遮(さえぎ)った。

『そこ、違ってるよ。』

そうすると、Cさんは不満気に言った。

「最後まで聞いて下さいよ。」

『そこで間違ってるんだから、後は聴いても無駄だ。』

 

これもまた“直観”で応答しただけの話である。
Cさんの“我の声”が最後まで聞くことを要求し、最後までつきあわせる神経症的やりとりに私を巻き込もうとしたので、斬ったまでのことだ。
Cさんの“生命の声”はそんなことは要求していなかった。
むしろ「未だにそんなくだらないことをやっている私を止めてくれ。」と言っているのが私には聴こえた。

“我”は怒っているが、“生命(いのち)”は喜んでいる。
セラピー場面では、よく起こることである。

確かに、相手の“我”を満足させてあげれば、あなたは相手にとって“良い人”になれるかもしれない。
しかし、そのために相手の“生命(いのち)”の尊厳を損なうわけにはいかないのだ。
これもまた心得違いなきように。

“聴くこと”にご関心のある方は、Aさん、Bさん、Cさんの話をよくご吟味あれ。

 

 

2014(平成26)年9月1日(月)『聴くこと』

Aさんが話し始めた。

「a だから b になって、それで c で… x から y で、結局 z になるんですね。」

その話は「a だから b になって」のところで既に間違っていたが、私は何も言う気にならず、むしろ微笑(ほほえ)ましい思いで最後まで聴いていた。
話し終わったAさんはニコニコしていた。

Bさんが話し始めた。

「a だから b になって…」

そこで私は話を遮(さえぎ)った。

『そこ、違ってるよ。』

Bさんは一瞬ハッとした顔つきになったが、

「あ、そっか。a だから β なんだ。」

と言い、ニコニコしながら話を続けた。
私はまた微笑ましい思いで話の続きを聴いていた。

 

近藤門下の私としては“知識”と“技術”によって“恣意的な”セラピーを行うことはない。
“直観”で自然にそうなるだけの話である。
私の中で何が起きていたかに敢えて注釈をつけるならば、
AさんがAさんになっていくために、今は安心して受容される体験が必要だったのであろうし、
BさんがBさんになっていくために、今は率直なやりとりの体験が必要だったのだろう。
々が“直観”で傾聴すべきは、表面的“音声”などではなく、“生命(いのち)の声”なのである。

心得違いなきように。

 

 

2014(平成26)年8月24日(日)『後でつながる』

高校生の頃から“サイコセラピスト(精神療法家)”を目指していた私は、精神科に入局して2年間の初期研修の後、大学院に入学し、当時の教授に頼んで、児童思春期専門の関連病院に行かせてもらった。

そのとき、私の頭にあったのは“学校精神保健”そして“思春期の神経症圏の子どもたちに対する精神療法”であった。
それは自分自身の陰鬱な家庭生活と学校体験に深く根ざしていた。
まだ近藤先生から教育分析を受ける前のことである。

ところが行ってみたら、豈(あに)図(はか)らんや、幼児病棟3〜6歳の自閉症の子どもたちに強烈に惹(ひ)かれてしまった(当時でも精神科幼児病棟の存在はとても珍しかった)。
激しい自傷行為や他害行為を示す子も少なくなかったが、毎日子どもたちと一緒にデイルームにいる時間がとても楽しかった。

その反面、思春期の精神療法を学びに来たのに、自閉症の幼児たちとばかり過ごしていて、一体オレは何しに来たんだろう、と思うこともあった。
(また、当時入院していた思春期の子どもたちの診断の大半が統合失調症か知的障害であり、私が想定していた神経症圏の子たちが少なかったこともその一因であった)

そしてその後、一方で、近藤先生から教育分析を受けながら、他方で、広く一般精神科臨床を行いつつ、二十年ほど児童専門外来を担当することになった。
思春期〜成人の精神療法を行うにあたり、実は、3歳初診の発達障害の子どもたちが二十歳を過ぎるまでの間、継続的にその成長に関わることができたことが、私にとって非常に大きな財産となった。

そう、今や、精神科臨床に欠かせない軽度発達障害の大人たちを他の精神障害から鑑別することができるのだ
そしてさらに、1次障害(発達障害)の部分と2次障害(その後の生育史の中で起こった2次的な障害(適応障害、うつ病など))の部分を見分けることもできるようなっていた。
もし大人の発達障害を、後から急に付け焼き刃で勉強したら大変であったと思う。

これは有り難い。

その大部分は、優秀な臨床心理士スタッフから学んだところが大きかったが、とにかく私にとっては臨床上の大きな武器になった。

後になって、全くつながりそうになかった二つのことがつながった。
そういうこともある。

だからあなたも、目前のことに気を取られず、縁あるものは(縁のないもの、執着モノは×)取り敢えずやってみてはいかがですか。
想定外の大きな“賜物”が待っているかもしれませんぞ。 

 

 

2014(平成26)年7月20日(日)『雷(いかづち)のワーク』

東京は夕暮れの後、激しい雷雨に見舞われた。

ちょうど屋外にいた私も、傘をさして歩いている間に何度も雷(かみなり)に襲われた。
ピカッ! カリカリカリドォォーン!!
凄まじい光と音であったが、私は屁とも感じない。

「あぁ、今日は調子が良いなぁ。」

と落雷の中、東京音頭を口ずさみながら帰った(東京音頭は、夕方盆太鼓の音を聴いたせいであろう)。

かつて不安いっぱいであった私は、地震、落雷、急な車のブレーキ音など、予測不可能なことが起こると、心臓が飛び出すんじゃないかと思うくらいビクビクドキドキしていた。
それが東日本大震災のときも、今日の落雷の中も、こうして安心していられるようになったのは、近藤先生と丹田呼吸のお蔭である。
それ故、むしろ落雷などは、今の自分の心の状態を量(はか)るワークになる。

ピカッ! カリカリカリドォォーン!!

「あっ、今の雷光は龍の形に見えた。雷=龍 → 雨 → 水田 で、稲光(いなびかり)、雨乞い龍神信仰なんだなぁ。」
などと一人納得する。

やっぱり今日は調子が良いや。

 

 

2014(平成26)年7月4日(金)・5日(土)『生死(しょうじ)を目の前にしている方へ』

地獄鬼畜の くるしみは
いとへども又 受(うけ)やすし


おもひと思ふ ことはみな
叶(かな)はねばこそ かなしけれ

煩悩すなはち 菩提(ぼだい)ぞと
聞(きき)て罪をば つくれども
生死(しょうじ)すなはち 涅槃(ねはん)とは
いへども命を をしむかな
自性(じしょう)清浄(しょうじょう) 法身(ほっしん)は
如如(にょにょ)常住(じょうじゅう)の仏なり
迷も悟も なきゆゑに
しるもしらぬも 益ぞなき

別願超世の 名号は
他力不思議の 力にて
口にまかせて となふれば
声に生死の 罪きえぬ

おもひ尽きなん 其(その)後に
はじめをはりは なけれども
仏も衆生(しゅじょう)も ひとつにて
南無阿弥陀仏とぞ 申(まうす)べき
はやく万事を なげ捨(すて)て
一心に弥陀を 憑(たのみ)つゝ
南無阿弥陀仏と 息たゆる
是(これ)ぞおもひの 限(かぎり)なる

独(ひとり)むまれて 独死す
生死(しょうじ)の道こそ かなしけれ

人の形に 成(なり)たれど
世間の希望(けもう) たえずして
心身苦悩 することは
地獄を出(いで)たる かひぞなき
物をほしがる 心根は
餓鬼の果報に たがはざる
迭(たがい)に害心 おこすこと
たゝ畜生に ことならず

生老病死(しょうろうびょうし)の くるしみは
人をきらはぬ 事なれば
貴賎高下(きせんこうげ)の 隔(へだて)なく
貧富ともに のがれなし
露の命の あるほどぞ
瑶(たま)の台(うてな)も みがくべき
一度(ひとたび)無常の 風ふけば
花のすがたも 散(ちり)はてぬ

畳(たたみ)一畳(いちじょう) しきぬれば
狭(せばし)とおもふ 事もなし
念仏まうす 起(おき)ふしは
妄念おこらぬ 住居(すまい)かな
道場すべて 無用なり
行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に たもちたる
南無阿弥陀仏の 名号(みょうごう)は
過(すぎ)たる此(この)身の 本尊なり

 

合掌


『一遍上人語録』より

2014(平成26)年5月31日(金)『酒器の話』

酒器の話。

QUAICHとは、クエイヒ(またはクエイク、クエイキ)と発音される、二つの翼状の取っ手のついたケルト(主にスコットランド)の伝統的酒盃のことである。
古くは木製、最近では銀製が多く、祝い事などに際して、スコッチウイスキーを満たし、仲間で飲み回すのに使われていたという(大容量のものもあるそうだ)。

私はたまたまスコットランド人の友人にもらったクエイヒを使っている。

器底にスコットランドの国花thistle(シスル)(=アザミ)のレリーフが配され、取っ手にはケルト紋様が彫られているが、いかにも素朴である。

quaich.jpg

できればスコッチのカスクで満たしたいところだが、入手困難なので、ウオッカを冷凍庫(冷蔵庫ではなく)で冷やして注いでみたら、クエイヒの銀器まで冷えて、実に涼味であった。
それからいろいろと試してみたが、テキーラとラムも冷凍庫で冷やしてから注ぐと実に相性が宜しい。

私も大して強いわけではないが、アルコール度数の高い酒を、キンキンに冷やしてちょっと呑むと、呑んだ気がして(=すぐにアルコールが回って)幸せです。

強い酒が苦手な方は、炭酸飲料(元の風味を壊さないため、できれば味やフレーバーのない炭酸水が望ましい)で好みの濃さに割って飲まれると良い。

暑気払いにお試しあれ。


 

2014(平成26)年5月28日(木)『あいたたた』

人を観る眼がないのは致命的である、と何度か書いた。

友人
恋人
パートナー

セラピストなどなど

その結果は自分自身の一生に返ってくる。
ホンモノを観抜く眼がないのも致命的である。

超常現象
超能力
神秘主義
新興宗教
カルトなどなど

胡散(うさん)臭いものに引っかかるのも、これまた自業自得である。

それもまた人生の授業料ではあるが、
人生はそんなに長くないし、
胡散臭い深みに嵌(はま)れば嵌るほど、
足抜けには時間と労力を要することになる。

胡散臭い神秘主義に嵌った女性が、
これまた胡散臭い男に引っかかり、
お金も性も人生の時間も散々搾取された挙句に捨てられた
というドラマのような話を耳にした。

どうかもう二度とそんなことが起こらないように
人やホンモノを観抜く眼を磨いておきましょうね。
そして犯してしまった過ちは、正直に、徹底的に、反省しましょうね。

人間はそんなくだらないことをやるために生命を授かってるんじゃないんですから。

 

 

2014(平成26)年5月27日(水)『越中ふんどし』

当てにしていたことがそうでなくなったとき、
予定通り、思い通りに物事が進まなくなったとき、
予定外・想定外のことが急に起こったとき、
その人の神経症的側面が露呈するときがある。

そりゃあ、そうだ。
全てのことが予定通り、思い通りに行かなくなると、
未来のことが自分のコントロール下にないと、
取り不安、予期不安の名手、神経症者は不安に陥るに決まってるさ。

そのままの自分を愛されずに生きてきたのだから、
地雷を踏まないようにするためには、
すべてにアンテナを張って、察して、気をつけて、頑張って生きていくしかなかった。

そんなふうに育ったら、
基本的な他人への信頼感、世界への信頼感、自分自身への信頼感なんか持てるわけないし、
なるようになると、おまかせできるはずがないもんね。

でも、当てと越中ふんどしは前から外れるようになっている。

神経症的な人間は不安と共に生きるしかない。
しかし健全な人間はね、
本的な他人への信頼感、世界への信頼感、自分自身への信頼感を持っているから、
予定外・想定外のことが急に起きたとしても、根拠なく「なんとかなる。」と思えるんです。

 

 

2014(平成26)年5月22日(木)『誰かが誰かに』

あなたが誰かから何かをもらったら何かをしてもらったら

それをその人に返すして返すのも良いけれど

他の誰かにあげるしてあげるのも良い。

そしてそのとき、こう付け加える。

あなたもまた、私にではなく、他の誰かにしてあげてね。

広がる

広がる

誰かが誰かに。

子どもの頃、そんなことを考えた。

そして今もそう思っている。




 

2014(平成26)年5月21日(水)『イヤです』

ある日、ファミレスで見かけた風景。

母親と思(おぼ)しき人が2歳くらいの小さな女の子に言った。

「いい? お店に入ったら良い子にしてるのよ。」

女の子は母親の目を見ながら、満面の笑みで答えた。

「イヤです。」

何度も思い出し笑いしてしまうあの躊躇のない笑顔。

大きくなってからも、イヤだと言える大人になってね。

 

 

2014(平成26)年5月14日(水)『本当の悪魔は密やかに笑う』

昔、ある人からの紹介で、引きこもりの青年と母親が相談に来られたことがあった。

母親の話そうとされている内容はすぐにわかった
支配的でワンマンな父親、
去勢された息子、
か弱く優しい母親。

そんな構図を作りたかったのだろうが、
母親の胡散(うさん)臭さは明らかだった。
これまで子育てにおける自分の至らなさを、俯(うつむ)きがちに神妙に反省してみせる母親の姿に、まるっきり“真実”が感じられなかった。

ゲロゲロゲッケッケー。

いかにも内省的で、愛情深そうで、精一杯頑張って来ました風で、
「そんなに自分を責めなくていいよ。あなたはよくやってきたよ。」
と私に言わせたがっているのが観て取れ、こんな偽善者見たことない、と思った。

元凶は父親でなく、母親だな。
私が母親の“演技”に乗らず、ちょろまかしている問題点をフツーに指摘して行くと、あのか弱くて殊勝そうだった母親がゴブリンのような形相になり、怒鳴り声まであげ始めたのだ。

本性が出たな。

隣の青年を見ると、下を向いてシクシク泣いていた。
未成年なら気の毒たが、二十歳過ぎてシクシクはないだろ。
それでも、気づくところまで行ってくれるかなと一縷(いちる)の望みをかけたが、まだ真実と向き合いたくない母子は遁走した。

医療機関に治療のために来られたのなら、果てしなく気長に付き合うが、八雲ではダメだ。
八雲は“道場”だからね。

その頃から来談希望の方に、「情けなさの自覚」と「成長への意欲」が必要であることをさらに明示するようになった。
真摯な人にはなんとしてでも力になりますが、巧妙な悪魔はうまく隠れたつもりでもあぶり出されてしまう場所となる。

 

 

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