2015(平成27)年12月26日(土)『LGBTH』

通常、LGBTと言えば、

レズビアン(Lesbian:女性同性愛者)

ゲイ(Gay:男性同性愛者)

バイセクシャル(Bisexual:両性愛者)

トランスジェンダー(Transgender:性同一性障害者など)

といった性的マイノリティ(sexual minority:性的少数者)を指す言葉とされている。

個人的には、そういった表面的形態に関して特別な思いはなく、

それがその人にとって“自然”であれば、何も問題はないと思っている。

臨床経験から言えば、

たとえ性的マジョリティ(sexual majority:性的多数者)であるヘテロセクシャル(Heterosexual:異性愛者)であろうと、

歪んだ心の背景から、自己破壊的または他者巻き込み的な異性愛に走るのであれば、十分に病的である。

よって、表面的形態がLGBTHのいずれであっても関心はない。

その背景が“自然”であるか、“不自然”であるかが私の関心事なのだ。

ある女性は、母親の再婚相手の連れ子であった義兄から、長年に渡って性的虐待を受け続けた。

そして二十歳を過ぎたときに、海外に渡って性転換手術を受け、身体的女性性を“切り捨てて”帰って来たという。

その後、女性と同棲しているこの人は、レズビアンなのか、トランスジェンダーなのか。

いや、どちらでもなく、PTSDである。

汚された自分の否定の中に、自分の女性性の否定があったのだ。

“自然”ではない。

だから、こころの治療をきちんと受けた方が良いと思う。

そう、LGBTHの「○○愛」において重要なのは、

前半の「○○」(同性、異性など)ではなく、

後半の「愛」の部分なのだ。

表面的形態はどうだって良いから、まず自分と相手を大切に愛しましょ。

2015(平成27)年12月12日(土)『よいしょ』

臨床心理を学ぶ大学院生から聞いた話。

彼女の指導教授が趣味で陶芸をするのだそうな。

それ自体、何の問題もないが、ときどき個展を開くのだという。

それまた何の問題もないが、その際、自分の教室関係者や担当する学生たちが大勢会場に来るとご機嫌麗(うるわ)しくなり、作品を買ってくれたりするとさらにご満悦に至るのだそうな。

そのため、准教授、講師、助教たちの自宅には購入した教授の作品が並んでいるという。

そして反対に、関係者が会場に来ないと教授の機嫌が悪くなり、教室スタッフを通して“暗に”動員をかけて来るのだそうだ。

これだけ聞いても、この教授の臨床心理士としての力量はサイテーだとわかる。

そして准教授、講師、助教たちの力量も程度が知れる。

自分が何をやっているのかさえもわからないのか。

本当に陶芸が好きで関心のある人が個展に行こうが、気に入った作品を買おうが、それは問題ない。

しかし、自分の保身、計算のために、相手に媚びて、魂を売るような人間に、対人援助職が務まるとは思えない。

ここらに、さまざまな対人援助職、医療福祉職における、情けない実態がある。

例えば私が、好きな和太鼓、読んだ本、観た映画、聴いた曲、食べた物などについて、誰かに語る、『塀の上の猫』に書いたとする。

あなたが本当に関心を持って、それらに接しても何の問題もない。

しかし“私に気に入られるために”それらに接したとすれば、

その考えや行動自体が“解決すべき問題”として取り上げられることになる。

私は“追従者”は欲しくない。

あなたがあなたになることだけが、私の望みである。

2015(平成27)年12月9日(水)『丁寧に歩むこと』

人間、着実に成長して行くためには、目の前の“これならできる一歩”の設定が非常に重要な場合がある。

例えば、相談に来られていたある女性看護師は、復職を決めた。

しかし、前の職場で酷(ひど)い経験をしたので、復職に当たっての不安も強かった。

それで彼女が取った方法は、まずアルバイトで週1日勤める。

そうすると、働いているうちにいろんなことが見えて来る。

上司、先輩、同僚の人柄はどうか。

組織に構造的欠陥はないか。

特に、ヒヤリハットやインシデントが起きたり、何らかのトラブルが生じたとき、働いている人や組織の本性が露(あら)わになる。

そこを見定めてから、勤務日数を増やすかどうかを決めて行った。

当初、収入がきつかったので、そこはスーパーのレジのアルバイトを加えて乗り切った。

そして1カ所目の病院ダメ。

2カ所目の施設もダメ。

3カ所目のクリニックで“正解”に出逢えた。

それから徐々に勤務日数を増やし、今や常勤である。

そして自分の気持ちや意見も職場で言えるようになっていた。

彼女の設定、

「ああ、これくらいならできる。」

「ああ、この人たちとならできる」

を一歩一歩積み重ねて行ったのが勝因であった。

就活も転職活動も良いけれど、結構みんな、エイヤッと目をつぶって飛び込む式の乱暴なやり方が多い。

それでも、鈍感な人たちならなんとかなるかもしれないが、マトモな感性の持ち主であれば、そこは丁寧に事を決めて行く必要がある。

その“丁寧さ”の重要性を今回は特に強調しておきたい。

2015(平成27)年11月19日(木)『ミニマリスト』

先日テレビで、必要最小限の物しか持たずに暮らす人=ミニマリストの人たちの生活ぶりが紹介されていた。

その物質面に留まらない精神面での変化が少なくないのだという。

その画面を見ながら、日本人だったら「ミニマリスト」でなくとも、雲水や空也や一遍の存在を知らないのか、とちょっと寂しい気持ちになった。

雲水は、行雲流水の如く、一カ所に停住しないで師を求めて行脚(あんぎゃ)する禅の修行僧のことである。

その持ち物は雲水行李(こうり)に入るものだけ、経書、袈裟、雲水衣、作務衣(さむえ)、下着類、持鉢(食器)など。

その根底には「本来無一物」がある。

そして、六波羅蜜寺の像で有名な空也上人は、その「捨ててこそ」という言葉に尽きる“市聖(いちひじり)”である。

“私の物”(私有物)どころか“私”までも捨て果てるのだ。

そして“捨聖(すてひじり)”一遍上人もまた、諸国を遊行し、その最後にあたって、持ち物全てを焼き捨て、「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ。」と遷化されたのであった。

そう思うと「ミニマリスト」はまだ「ミニマム」を私有している。

そして所有している「私」がいる。

表面は似ているように見えて、その精神的根底は決定的に異なる。

そしてさらに言うならば、

私がいても私がいるのではなく、

物があっても私の物はなく、

その物さえあるのでもない、

という境地もある。

そう、「持たないこと」「捨てること」さえも捨ててしまうのだ。

だから、わざわざ維摩(ゆいま)というマハラジャのような大金持ち、大物持ちまで登場させて来るところに仏教の面目がある。

持っていても持っていない境地もあるのである。

 

今日は些か老婆親切であった。

2015(平成27)年11月4日(水)『邪魔』

若い研修医が、自分で調べてもわからないことがあり、指導医に訊こうと思った途端、逡巡した。

「あいつに訊くと、またイヤなこと言われるんだよな。」

『そんなことも知らんのか。』

『チッ。』

『だからダメなんだよ、おまえは。』

本来なら、訊いて、答えて、終わり、というだけの簡単な話である。

それが、この指導医の歪んだパーソナリティのために、訊くだけでも一苦労となる。

それでも患者さんのために訊きはするが、そんなことが続いて来ると、なんだかもう辞めたくなって来る。

実際、多くの職場において、仕事に関して本質的でない、こういう人的環境のために、退職したり、転職したりする方々が相当数いるんじゃないかと思う。

昭和までなら、こういうことにも耐えに耐えて、という苦労話も自慢になったかもしれないが、

平成の今は、そうはならない。すぐにおさらばだ。

そして私はそういう人たちのことを弱いとか甘いとは決して思わない。

むしろ正直で健全なんじゃないかと思っている。

それは何でもイージー・ゴーイングで良いということではなく、私の知る限り、今の若い人でも苦労のし甲斐のあるところではちゃんと苦労している、ということを言いたいのだ。

では、当たり前に働きたい人たちのパフォーマンスを邪魔しているのは何か。

歪んだパーソナリティ、それが最も邪魔なのである。

2015(平成27)年10月8日(木)『Dr.Mitsuya』

昨夜、NHK総合テレビで『Dr.Mitsuya 〜 世界初のエイズ治療薬を発見した男 〜というドキュメンタリー番組が放送された。

不勉強ながら満屋裕明氏のことは存じ上げず、他の医療ドキュメンタリー番組と同じようなものかなと思っていた。

しかし、画面が非常に凝っており、たくさんのロケ、インタビュー場面の構成、劇画CGの挿入など、並々ならぬ手の入れように、製作サイドの意気込みが伝わって来た。

確かに優秀な人で、大変な努力家でもあり、ノーベル賞候補となるよう業績を上げられているが、何故ここまで力を入れて取り上げる必要があるのか?という思いを禁じ得なかった。

必ず再放送されると思うので、内容の詳細には触れないけれど、同氏が若き日に担当した患者さんのエピソードが紹介されたときに合点が行った。

この人の、この人柄にプロデューサーは惚れ込んだのだ。

単なる功なり名遂げた成功譚の番組を作りたかったのではなく、本物の医者の話を伝えたかったのだ。

ノーベル賞やら○○賞という名前で喜ぶのも良いけれど、こういう医者が、いや、こういう人間が、この世の中に一人でもいてくれることに私は大きな希望が持てた。

世の中も捨てたもんじゃないな。

生きていれば、いろんな苦労があるけれど、

不幸をかこつのはやめて、

当たり前に、ちゃんと大事なことを感じて生きよう、われわれも。

 

 

追伸

その後、11月3日(火)に再放送されました。

2015(平成27)年10月4日(日)『わかばとつぼみ』

日本テレビ系『天才!志村どうぶつ園』の中で、保護施設で育てられていた二頭の犬、わかばとつぼみを引き取って、ベッキーやスタッフがドッグトレーナーの指導の下、育てるコーナーが昨日、最終回を迎えた。

毎回見続けることはできなかったが、展開が気になるコーナーであった。

テレビ番組ゆえに、設定、内容、経過に異論反論もあったようだが、

私個人としては、恐らくは虐待され傷つき、人間不信、世界不信に陥っていた二頭の犬が、3年の期間で変わったという事実そのものに希望を感じた。

それにしても、犬って尻尾(しっぽ)や佇(たたず)まいで語るんだよね。

いやいや、それどころか(人間には尻尾はないので)佇(たたず)まいで語るのは、人間も同じだよな、と思った。

人間の方がなまじしゃべるために、その言葉に騙(だま)されそうになるけれど、

言葉よりも体で、体よりも佇まい=存在から匂い立つもので、真実を語っているということを改めて確認した。

そう。

こころの事実はどこに表れるかということ。

あるアメリカ心理学者が、「7-38-55のルール」というものをひとつの発見であるかのように言い立てていた。

人が他人にどのように伝えているか、伝わっているか、ということいついて、話の内容の言語情報が7%、声の調子などの聴覚情報が38%、外見などの視覚情報が55%の割合であったという。

やっぱり鈍感だなぁ。

日本人は昔から「背中が泣いている」などと言って、別に震えてもうなだれてもいない背中を観ても(←見るじゃないよ)泣いているのがわかるんだよ。

これは言語情報でも、聴覚情報でも、視覚情報でもないよね。

それが佇(たたず)まい=存在から匂い立つもの。

そんなところから、ご本人も気づいていないこころの真実が観えるときがあるんです。

2015(平成27)年9月12日(土)『独善と一般化』

先日、戦争関連のドキュメンタリーで、戦地から命からがら生還した一人の老女がインタビューに答えて、

「人間って結局は自分のことしか考えないものなのよ。」

「他人なんかどうでも良いの。自分だけが可愛いのよ。」

という主旨のことを繰り返し言っていた。

また先日、別のドキュメンタリーで、息子を亡くした老母が取材スタッフに向かって、

「(結婚して孫もできたから)会って話すのは遠慮してたけど、もっと話しておけば良かった。」

「あなたもお母さんといっぱい話して、親孝行しなさいよ。後悔するわよ。」

という主旨のことを繰り返し言っていた。

私はどちらの発言も聞いていて気持ちが悪くなった。

そしてその気持ち悪さがどこから来るのか探ってみると、両者ともその独善性と一般化にあった。

前者は、自分がそうだった、という話ならわかる。

極限状況でそうなってしまう人もいるだろう。

それを責める気持ちはさらさらない。

しかし「人間って」一般化するのはやめてくれ。

そうでない人もいるのだから。

背景に一般化することによって、自分の罪悪感を軽くしようという気持ちが見える。

後者も、自分がそうだという話ならわかる。

そういうふうに後悔する人もいるだろう。

それを批判する気持ちはさらさらない。

しかし「あなたもお母さんといっぱい話して親孝行しなさいよ。後悔するわよ」と一般化するのはやめてくれ。

そうでない人もいるのだから。

ここにも一般化することによって、子どもへの執着と(恐らくは昔の)過干渉を正当化しようという気持ちが見える(だからここに嫁と孫の話が出て来ないのである)。

もちろん気づく準備のできていないこの二人に何か言おうという気持ちには全くならない。

少なくとも私の個人的意見として、自分の“当たり前”を疑ってみる姿勢がないと人間は成長しないな、としみじみ思うのであった。

2015(平成27)年9月2日(水)『BABYMETAL』

ご存知の方も多いと思うが、日本のアイドルグループさくら学院出身、16〜17歳の三人組女性ユニット BABYMETAL が、ヘヴィメタルと J-POP の融合というスタイルで海外を席巻している。

以前、精神保健つながりから、『イジメ、ダメ、ゼッタイ』という曲の存在を知っていたが、その後、こんなに話題になるとは思ってもいなかった

で、改めて見てみると、かなり面白い。

音楽的にもバックの神バンドの演奏レヴェルは、世界のミュージシャンたちを唸らせ、

ダンスも Perfume と同じ振付師によるというキレッキレのダンスは出色である。

彼女らのパフォーマンスは Blu-ray や You tube など動画で見ないと意味がない。

そうしながら、「メタルの神『キツネ様』のお告げに沿って活動している」という設定に至っては、なんじゃこりゃ!?である。

で、欧米では、ゴツい or アブナそうな兄ちゃんたちがヘヴィメタ・ファッションで、腕に BABYMETAL のタトゥーまで入れて、世界ツアーで雄叫びを挙げているのには恐れ入る(ライヴ画面を見る限り、日本ほどオタク比率が高く、欧米ほどへヴィメタファン比率が高い)。

しかし、ひとつだけ君たちに言っておく。

一部の人たちがライヴでやっている人差し指と小指を立てるコルナサイン(メロイックサイン)は間違ってますから!

正解にはキツネサイン(キツネの影絵)ですから!

しかし結局、私の視点は、音楽性よりも文化論よりも、まだ幼いとも言える彼女たちが、世界中どこに行っても、全くブレず、臆(おく)さず、堂々とパフォーマンスしているという“姿勢”にあり、私はそこに深く敬意を表するのであった。

 

 ギミチョコ!!

 ヘドバンギャー!!

 メギツネ

2015(平成27)年9月1日(火)『妄想以前』

患者さんは元より、医療福祉系の学生からスタッフまで、時々出逢うのが、妄想性障害〜統合失調症妄想型に罹患している方々である。

若い人や男性にも見られるが、30歳以降の女性に多く、妄想を除けば、ほとんど症状が目立たないため、

妄想さえ口にしなければ、勉強も家事も仕事も相応にこなせ、なかなかそうと気づかれにくい。

しかし、さすがにどこかで妄想に基づいた言動を漏らし、発覚する。

妄想の定義、①事実と違う内容を、②根拠なく確信し、③説得により訂正不能 からして、

病んだ脳が妄想を作り出しているのは明らかであり、③からもわかる通り、妄想を治療するには、カウンセリングでは不可能で、薬物療法しかない。

しかし、当人は病識(自分が病気であるという自覚)がないため、受診や服薬までに難儀することが多い。

私がこういう人たちに出逢ったときに哀しくなるのは、その妄想内容である。

「実は自分は神さまで、夜になると、空の彼方から別の神さまが遊びに来る。」などというほのぼのした一次妄想を訴える人はほとんどおらず、

「○○さんが△△とグルになって、私をおとしめようとしてくる。」というような二次妄想の中でも、被害関係妄想がほとんどなのである。

そういった二次妄想の内容は、その人の生育史や性格によって決定される。

脆弱性ストレスモデルからしても、生育環境のストレスが性格形成に悪影響を与えることは不可避である。

妄想を訴えるその顔を見ながら、その人のこれまでの人生を想うと哀しくなって来るのである。

精神科病院に勤めていた頃は、事例化あるいは事件化して、医療保護入院以上の強制治療となる場合がほとんどであった。

今の私の立場からすれば、そうなる前に、できるだけ早い生育史段階で、猜疑心に満ちた性格になることを防げないものかと思う。

だからやっぱり子どもたちには健やかに育ってほしいという想いが、私の中で消えないのである。

2015(平成27)年8月26日(水)『路線バス』

路線バスに乗った。

声が聞こえたので見てみると、自閉症とおぼしき青年がお父さんと乗っていた。

退屈で自己刺激行動として声を挙げているのであろう。

すると、目の前の席に座っているおじいさんが急に手を叩き始めた。

どうしたのかと思ったら、カーッと眠り込んでいた。

ちょっとせん妄が入ってるのかもしれない。

そうこうしているうちに、次のバス停で、ジャージに松葉杖姿の男子中学生と、お腹の大きな妊婦さんが乗って来た。

それに気づかずシルバーシートの女子小学生が転げ落ちそうな格好をして爆睡している。

バスの中は、裟婆の縮図。

昔、中途半端な大学を出て、中途半端な外資系企業で働き、中途半端なエリート意識を持ったおじさんが、

「誰が乗って来るかわからないバスや電車に乗るのは嫌いでね。」

と言って、中途半端な外車で通勤していたのを思い出した。

私は“誰が乗って来るかわからないから”バスや電車が好きである。

どこにいても“私”でいられなければ、少なくともセラピストは務まらないと思うし、

さらに、セラピストならば、そこで出逢うさまざまな人たちの“違い”よりも“共通”のものを感じていたいと思う。

2015(平成27)年8月13日(木)『自殺の多い日』

内閣府の調査によれば、1972〜2013年の42年間に自殺した18歳以下の子どもたちについて、日付別に自殺者数を集計したところ、

第1位 9月1日  131人

第2位 4月11日  99人

第3位 4月8日   95人

第4位 9月2日   94人

第5位 8月31日  92人

という結果が出たという。

一目でおわかりであろう。

1学期あるいは2学期の始まる前後に集中している(よって地域によっては学期のスタート時期が異なる場合がある)。

「またあのイヤな学校が始まる。」

そう思ったときに、子どもたちは自殺しているのである。

切なくて仕方がない。

かつて「良心的登校拒否」について書いた。

行くに値しないところなら、行くな。

君が命を懸けるほどの価値は、そこにはない。

そうでない幸せで充実した人生は、他にいくらでもある。

それをこれから君は経験する必要がある。

早まってはいけない。

そして、学校を会社に置き換え、

新学期前後を、休日明け出勤日前後に置き換えれば、

子どもたちばかりではない、これは大人にも当てはまることがわかる。

 

 

◆追伸

上記の内閣府の調査結果発表後、下記のツイートが話題になったという。

 

鎌倉市図書館@kamakura_tosyok
8月26日

もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。

 

報道によれば、

「学校教育と図書館を管轄する鎌倉市教育委員会内部で『不適切な表現では』と議論になったという。教育長や教育委員会教育部長、中央図書館長らが話し合ったところ、『投稿を削除するべき』という意見も出たが、図書館側が『子どもたちに自殺しないでほしいという思いで書いたもの』と説明、ツイートはこのまま残すことに決定した」

という。

削除なんぞすれば、教育委員会が総攻撃を受けただろう。

2015(平成27)年7月30日(木)『自分のことが先』

患者さんを診る前に、自分のことが先。

利用者さんの支援をする前に、自分のことが先。

子どものことを何とかしようとする前に、自分のことが先。

当ったり前のことであるが、現実にはほとんど行われていない。

私もその事実に気づいたとき、驚愕し、失望した。

そんなんでやってるの?

しかも、専門の、いわゆる教育分析、訓練分析を受けている人たちでさえ、そんな浅いところまでで良いの?というレベルでやっているのであった(精神分析家の歴史について読んだときも、その権力欲、金銭欲、独善性のオンパレードに呆れ果てた。そこは分析して解決しなくて良いんだ)。

そしてその後よく観てみると、自分の問題と勝負しないで、自分以外の人に関わっている人たちの中に、二種類あることを知った。

ひとつは、自分に問題があることに気づいていた、気づいているが、それについて話し、深いところまで向き合うちゃんとした相手や機会に恵まれなかった人たち。

そしてもうひとつは、自分に問題があることに全く気づいていない人、気づきたくない人、浅いところを見つめただけでもう大丈夫と思いたい人たちである。

残念ながら、後者に縁はない。それでやるのは勝手だが、それによって生じる問題の責任は取れよ、と言うのみ。

そして八雲を開業した理由のひとつが、後者の人たちのためである。

私も近藤先生のお蔭で、どれだけ助かったかわからない。浅いいい加減なところで、精神分析ごっこや精神療法ごっこをするようにならないで済んだことに心から感謝している。

もちろん現在の私の境地は恩師に遠く及ばないが、ホンモノの伝統の一端を伝えることはできると思っている。

そう、この文章を読んで、えー、そこまでやんなくていいよ、やりたくないよ、と思った人とは縁がない。

そして、私もそう思う、と心から感じた人とは縁があるかもしれない。

2015(平成27)年7月22日(水)『評する者Ⅱ』

女優の樹木希林がテレビの対談シーンで言っていた。

「評する者があれば、我のみ。」

と。

どんな他者評価よりも自己評価を信ずる、という姿勢は見上げたものである。

しかし、ここにも落とし穴がある。

この「我(われ)」が、「我(が)」(=エゴ)なのか、「自己」(=セルフ)なのか、ということである。

「我(が)」(=エゴ)ならば、間違いなく独善的でナルシシスティック(自己愛的)な自己評価に陥るだろうし、

「自己」(=セルフ)ならば、私がちゃんと私しているか否かを正確に感得し、評価して行くだろう。

ホーナイ的に言うならば、他者評価の奴隷の「自己縮小的依存型」を脱したのは良いが、そのまま思い上がりの「自己拡大的支配型」に陥ったのでは何にもならない、ということだ。

やはり神経症的パーソナリティ構造を根本的に脱するためには、「自己」(=セルフ)の回復と実現が絶対に必要となる。

そうして初めて

「評する者があれば、自己(=セルフ)のみ。」

が成立するのである。

「自己」(=セルフ)を「自己」(=セルフ)させるものこそ、他ならぬ「自己」(=セルフ)の働きなのである。

ここを間違うわけにはいかない。

2015(平成27)年7月21日(火)『評する者Ⅰ』

あるクライアントが、相手が何を求めているかを察して、それに応(こた)え、評価されるのは得意中の得意でした、と真顔で言われるのを聴いていて、つい吹き出してしまった。

申し訳ない、と言いながら、諄々(じゅんじゅん)と次第を説明した。

その人が生育環境(→はっきり言って親)のせいで、相手の顔色を見ながら育ったことは事実なのだが、

彼自身の持って生まれた性質は、決してはしっこいタイプではなく、むしろ天然でノンビリしたものなのである。

よって、本人が必死で相手の思惑を察していた頃でさえ、残念ながらというより幸いに、そんなに即時にピタッと反応できていたはずがない。

ここまで言うと彼も「褒められてんでしょうか?ダメ出しされてんでしょうか?」と言いながら笑っていたが、こちらとしては間違いなく褒めているのだ。

天然でノンビリした気質などというものは、授からなければ発揮できない天禀(てんぴん)である。

はしっこくあざとい性質は、いわゆる“早わかりの浅わかり”に陥りやすく、往々にして成長が伸び悩んでしまうことが多いのである。

しかし、いずれにしても“他者評価の奴隷”は「本来の自己」を押し込める元であるため、まずは評価の主体を自らに取り戻さなければならない。

それが成長のための重要なステップの第一である。

 

[つづく]

2015(平成27)年6月18日(木)『廃墟』

あんたはいつから自分の中に“廃墟”を感じ始めたんだね。

彼は柔らかい口吻(こうふん)で(私に)尋ねた。

「十三歳から十四歳の間です。

八歳のときに強姦されましてね。

そのときには自分が何をされたのかわからなかった。

十歳を超えるあたりから少しずつ事態がわかりはじめて、十三歳から十四歳の間に、衝動的飲酒というんでしょうか、定期的に、大量のアルコールを飲んでふらふら街に出ていって、廃ビルの地下に酩酊状態で転がっているという行動をおこしはじめました。

十五歳からは、その行動は顕著でした。

その行動を抑制できるようになったのは、二十三歳から二十四歳の間です。

しかし、その間も学校にはちゃんと行っていました。

成績は悪くなかったし、誰にも、そんな行動をとっていることを悟られなかった。

でも、これは珍しいことじゃないですね。

驚くほど多くの人が、十歳以下で同じ経験をして、十三、十四歳くらいで、売春や薬に走っている。

その行動は約十年続き、幸運な人間は、その行動を抑制できる年齢まで生き延びる。

ただし、自分だけが汚れた十年間を抱え込んでいると思っている人は多いですね。

私が経験したのは悲劇でも特異な経験でもないですが、自分の中に廃墟を感じ始めたのは、たしかに十三、四歳の間です。」

あんたの言っていることは真実だよ。

彼は手を組み直した。

サヴァイバーの多くが十歳未満で性的暴行を受けている。

そして、十三、四歳になった頃、売春や薬を始める。

わざわざ危険な街頭に出ていって、帰る家があるにもかかわらず、街をふらつくようになる。

二十三、四歳まで生き延びられるかどうかが問題だ。

生き延びる知恵をつけた女性でさえ、たった一度の客選びの間違いで命を失ってしまう。

 

ある日本人女性(後にノンフィクションライターとなった)とサヴァイバー支援活動を行っているアメリカ人男性との会話である。

性被害だけではない。

何らかのこころの傷を抱え、自分の中に“廃墟”を感じながら生きている人は少なくない。

その人たちが確かに“生き延びる”ためには、自分自身が“廃墟”でないことを確かに教えてくれる、感じさせてくれる人間との出逢いが必要である。

そして、それが行えるようになるためには、まず支援者自身が自らの問題を解決し、自分の存在の尊厳を感じ取っていなければならない。

そうでなければ、関わる相手の中の“尊さ”を信じられるはずがないと私は思っている。

2015(平成27)年6月17日(水)『精神科クリニック選び』

質問されることが多いので、要点をまとめておきます。

精神科医しかいないクリニックは、実質、薬物療法だけを受けに行くところです。患者数が多いために、とても精神療法的対応をする時間的余裕がありません。

従って、薬物療法に加えてカウンセリングも受けたい人は、臨床心理士もいるクリニックを選びましょう。精神科医から薬物療法を、臨床心理士からカウンセリングを受けるわけです。但し、臨床心理士によるカウンセリングに保険は効かないので時間の長さと料金を確認しましょう。複数の臨床心理士がいるクリニックだと、合わない場合に選択できてベターです。

精神療法専門の精神科医からじっくりと精神療法を受けたい人は、自由診療の精神療法専門のクリニックを探しましょう。薬物療法も10割負担になりますので、ご注意下さい。料金が高いように見えて、実際には保険診療で開業するより経営的に苦しいのが実情です。従って、自分は精神療法をやるんだという志を持った精神科医がやっています。但し、力量はさまざまですので、じっくり見定めて下さい。

大切な自分のこころの健康のため、どういう精神科クリニックに行くか、ちゃんと選びましょう。

2015(平成27)年6月13日(土)『下衆を超えて』

A君から久しぶりにハガキが届いた。

今度、自分のクリニックを開業するのだという。

A君で思い出すのは、もう10年も前の話。

勤め始めたばかりの精神科病院を1カ月足らずで辞めてしまったことがあった。

彼の口吻に怒りが溢れ、確か「医療と何の関係もない拝金政治家」(「」内は彼の言葉)の理事長と「その内縁の勘違い元看護師」が経営責任者というテレビドラマさながらの設定で、

「下衆(げす)の極み」の経営っぷりで、

高齢患者の病棟の冷房費までケチる、

マルメの利ざやを稼ぐため、薬価の高い薬は出させない、

在庫を抱えないように、必要な常備薬も置かない、

そして周りは従順な職員ばかり、特に「ヘタレ精神科医」を揃えていたそうな。

何か、こういう劣悪病院のパターンって他でも聞いたことがあるような気がする。

そして辞めるトドメとなったのが、その「ヘタレ精神科医」の一人がラカン派の精神分析をやりたい、と言うのを聞いたときであった。

彼は遂に「魂売ってる自分の分析を先にやれ!」と言って辞表を出し、辞めてしまったのである。

そして十年。

彼は、ACT型のクリニックを開業するのだという。

彼らしいなぁ。

悪環境での就労体験があっても、それに呑み込まれ染まって堕ちて行くヤツと、

それを反面教師にして伸びて行ける人間とでは、やがて天地ほどの違いが出るのだ。

彼ならきっと良い医療をやってくれるだろう。

そんなヤツがたまにいる。

だから私も希望を持って前に進んで行けるのである。

2015(平成27)年6月4日(木)『良心的登校拒否』

先日、所用があって地域の図書館に行く機会があった。

空(あ)いた時間に、いつもは見ないようなジャンルの本棚を眺めていると、

『臆病者と呼ばれても 〜 良心的兵役拒否者たちの戦い 〜』

という本が目に入った。

第一次世界大戦を背景にイギリス人の兵役拒否を扱ったノンフィクションの本であった。

その本の内容よりも、私の脳裏にピンと走ったのは、

「良心的登校拒否」

という言葉だった。

いじめが横行しているような学校には行きたくない。

教師の圧政がまかり通っているような学校には行きたくない。

いじめる側にも、いじめられる側にも、入りたくない。

追従者にも、傍観者にもなりたくない。

だから学校には行きたくない。

立派な「良心的登校拒否」だと思う。

願わくば、それを支持してくれる親御さんに恵まれてほしいと思う。

そしてその上で、魂を売らなくても人間は生きて行けるということを教えてくれる大人たちに出逢って行ってほしいと思う。

及ばずながら、私もまたその役目の一翼を担(にな)っているつもりである。

いつでも話しに来いよ。

全ては、その子自身が、本当の意味で、勁(つよ)い大人になって生きて行けるために。

2015(平成27)年5月19日(火)『油そば』

ある油そばの店の話を聞いた。

店に入った途端、店員さんたちが一斉に

「あぶらっしゃいませっ!」

と言うのだそうだ。

笑っては一所懸命に言っている店員さんに悪いと思い、必死に笑いをこらえていると、

隣席の若い女性も、油そばを口に頬張った状態で、お腹をヒクヒクさせていたらしい。

すると、別のお客さんが油そばを食べ終わり、会計に立ち上がった。

店員さんたちが一斉に

「あぶらとうございましたっ!」

これで隣の女性は、たまらず吹いてしまったそうな。

そら、しょうがないでしょ。

でもなんだか手放しで笑いにくいんだよなぁ。

この話から、大学生の頃、クラスメートたちと初めて居酒屋「やるき茶屋」に行ったときのことを思い出した。

メニューを注文する度に、年輩の店員のおじさんから「ハイ!よろこんで。」と言われたのにも参った。

客とはいえ、年下の学生相手に一所懸命に「ハイ!よろこんで。」と言うおじさんに対して、なんだか身の置きどころがないような気持ちになった。

プロの姿勢は他のことからでも十分にわかるから、掛け声は普通で良いよ。

経営者さん、どうか別のところで勝負してくれ。

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