森田療法においては「あるがまま」や「生の欲望」が強調される。
また「かくあるべし」が否定されるのはご存知の通りである。
しかしそこに誤解や曲解が入り込む隙間がある。
例えば、ある人が対人恐怖(DSM-5でいう社会不安症/社会不安障害(社交恐怖))で悩んでいたとする。
人前で話そうとすると、緊張して体が震え、頭の中は真っ白になり、言葉がつかえてうまくしゃべれない。
そんなとき森田療法では、例えば、「恐怖突入」し、震えながら・つかえながらでいいから伝えるべきことを伝えよ、と教える。
それはひとつの事上練磨として異論はないが、その背景にある「人前で冷静で流暢にしゃべりたい。」という気持ちを「向上心」ととらえ、それは「生の欲望」であるというのに私は違和感を覚えるのである。
それは「生の欲望」どころか、単なる「我欲(自己中心的欲望)」であり、「ええかっこしーの虚栄心」「他者評価の奴隷」という、それこそ神経症の産物に他ならない。
本当の意味での「生の欲望」とは、根源的な「生命(いのち)の促し」であり、神経症的な状態を超えて「あなたが本当のあなたでありますように」という深い「働き」のことを指している。
ここを間違えてはならない。
「あるがまま」とは、神経症のままになり切ることに意味があるのではなく、観念して自力のはからいを捨て去ることに意味がある。
そのとき、本当の意味での「生の欲望」=「生命(いのち)の促し」のまま=他力におまかせできるようになるのである。
不思議なことに、「ええかっこしー」をやめた途端、「人前で冷静で流暢にしゃべ」れていたりする。
そういうところこそが森田の妙味なのだ。
そしてもうひとつ、「かくあるべし(〜であるべき、〜でなければならない)」についても言うならば、
埋め込まれた神経症的な見張り番から来る「かくあるべし」は確かに御免(ごめん)蒙(こうむ)りたいが、
本当の意味での「生の欲望」=「生命(いのち)の促し」から来る「かくあるべし」があることも忘れてはならない。
ある森田療法のセラピストが、相談に訪れたあるクライアントに好意を抱いたとする。
そこで、いわゆる「境界侵犯」をおかして情欲に走ることは、もちろん永久追放ものであるが、
それが倫理規定上「セラピストたるものそんな不埒(ふらち)なことをするべきではない」からという理由だけから「しない」のであるとすれば、
森田療法を誤って学んだ者は、そういう「かくあるべし」に対して密かな反発を抱き(神経症者は「かくあるべし」に隷属して生きて来たため、「かくあるべし」に対して実は非常な反抗心も抱いている)、「あるがまま」を盾に「境界侵犯」に走る危険性がある。
しかも、小心な森田神経質者は巧妙に“関係”を隠蔽しながら。
その「あるがまま」が「我欲」のまま、「わがまま」の垂れ流しであることは一目瞭然であろう。
森田療法を中途半端に学んだ者には「わがまま」の垂れ流しに堕ちる危(あや)うさがあるのである。
そしてここで改めて付け加えたいのが、本当の意味での「生の欲望」=「生命(いのち)の促し」から来る「かくあるべし」があるということである。
生命(いのち)の声は言う。
「相手から性的、精神的に搾取するのはやめよ。」
「己を貶(おとし)めるのをやめよ。」
これは頭の上から抑えつけられる「かくあるべし」ではなく、肚(はら)の底から湧き出して来る「かくあるべし」、即ち、本当の意味での「生の欲望」=「生命(いのち)の促し」からくる「かくあるべし」なのだ。
それでは、最後に練習問題をひとつ。
あなたが森田療法のセラピストとして、あるクライアントが相談に訪れたとする。
先の例と反対で、そのクライアント相手だと余り熱意が湧かず、どうも相談に身が入らない。
あなたならどうする?
1 セラピストとしての「かくあるべし」=あるべき姿に反発し、身が入らないままを「あるがまま」と思い、テキトーな相談を行う。
今すぐやめろ、である。
2 セラピストとしての「かくあるべし」=あるべき姿に従い、我が身に鞭打って頑張って相談を行う。
まあまあである。
3 本当の意味での「生の欲望」=「生命(いのち)の促し」からくる「かくあるべし」を感じることを願い、祈りながら、一所懸命に相談を行う(そして気がついてみれば身が入っていた)。
3こそが正解である。
しかし、今すぐそれが難しい人は、せめて2を保ちなさい。
いずれにせよ、何事においても、似非(えせ)モノはいらない。
森田の本質を追究すべし。