2016(平成28)年9月12日(月)『勁(つよ)くあれ』

パラリンピックの中継を観る。

9月9日(金)の女子走り幅跳び(切断などT44)。

鍛え上げられた体と競技用の洗練された義足をつけたアスリートたちが並び立つ。

素朴に「It’s cool!」と思ってしまう。

まるで違和感がない。

そうなのだ。

彼女たち自身、誇りを持ってパラリンピックに参加し、競技に臨んでいる。

その心持ちが伝わって来るのだ。

代わって、ある朝のバス停。

黒いパグがガードレールにつながれている。

きっと目の前のコンビニで買い物をしている主人を待っているのであろう。

その近くにランドセルを背負った小学校1年生くらいの男の子とお母さんが立っている。

気がつくと、男の子の左上肢は肘関節から先がなく、右下肢は大腿の途中から義足である。

中年女性が出て来て、パグのリードを解(ほど)いたとき、

少年は我慢できずにキラキラした眼で「触(さわ)って良い?」と訊(き)く。

「いいよ。」

思い切りパグの背中や頭を撫でまわす。

気の良いパグもされるがままにしている。

少年はまだ差別や偏見に毒されていないのだと思った。

思わず見知らぬ人に「触って良い?」と言えるのだから。

ああ、これからの人生もそのままで過ごしてほしい、と今までなら願っていたであろうが、先のパラリンピックの中継を観て、少し思いが変わった。

あのアスリートたちもきっと差別や偏見に晒(さら)された経験があるだろう。

しかし、それを経て、あの堂々たる佇(たたず)まいである。

勁くあれ。

今ならそう祈りたい。

「勁」とは「強」と違い、自分がどうであっても自分そのままであることに誇りを感じることをいうのである。

2016(平成28)年9月4日(日)『ごちそうさまでした』

自宅から歩いて5分のところに小さなスペイン料理屋があった。

住宅街の中のビルの2階、テーブルとカウンター10席あまりのスペースをマスター一人で仕切っていた。

青山の店で働いていたというマスターの腕は冴え、出て来る料理がどれもこれも美味い。

お世辞抜きで美味い。

そして、毎回選んでもらうワインが美味い。

掛け値なしに美味い。

そして安い。

こちらがもうちょっと値段を上げた方が良いんじゃないかと思うくらい安い。

そして何故かいつも空いている。

来ないヤツは馬鹿なんじゃないかと思うほどである。

確かに、ロケーションは余り良くないかもしれない。

見るからに宣伝の上手でなさそうなマスターである。

空いているのを幸いに、私はほぼ週一ペースで通っていた。

そして“その日”は、急に訪れた。

「店を閉めることになりました。」

えっ!?

しかも、明後日閉めるという。

急遽、予約を入れ、二日後も訪れた。

最後まで料理は全て美味かった。

開業の形態や姿勢が自分に近いこともあり、親近感を感じていたので、つくづくと思うところがあった。

それは、ちゃんとやっている人はちゃんと知られる必要がある、ということである。

それは世俗的に有名になるということではなく、必要としている人にちゃんとつながるためである。

幸せな気持ちになれるあの料理が今後食べられなくなるのは返す返すも惜しい。

再会を期して店を後にした。

八雲も改善すべきところは改善しよう。

八雲はすぐに閉めることはないと思うが、既に逢っている人とも、これから逢う人とも、もっともっと逢って話してから死にたいと思うから。

2016(平成28)年9月2日(金)『さようなら』

「さようなら」

と言われるのが苦手だった。

日常の何気ない挨拶として言われても、何処か胸の内が痛んだ。

後になって、

子どもに十分に関わることのできなかった親の状況、

兄弟間における親の愛情獲得競争、

たまに愛してくれたとしても、親の価値基準に沿ったときだけであり、私が私であることに寄り添ってもらえなかったこと、

そして他者に対する基本的不信があったため、家庭外に人間関係を広げることができなかったこと、

などなど、あれやこれやが重なって、端的に言えば、幼児期の私は寂しかったのである。

だから「さようなら」に弱い。

また一人自分の傍から誰かがいなくなり、一人取り残されるような、見捨てられる不安に襲われるからである。

じゃあ、今の私はどうかと言うと、近藤先生の薫習のお蔭で、自分の存在が絶対的に一人でないことを感得することができたので、

昔のような胸の痛みなく、「さようなら」を言うことも聞くこともできるようになった。

そして近藤先生が亡くなられたときも、感傷に浸ることなく、スッとそこに立っていられたことは、むしろ何よりの報恩感謝の証(あかし)となった。

さぁ、

「はじめまして」

「さようなら」

また明日を迎える。

2016(平成28)年6月14日(火)『ちょっとだけよ』

教育用のビデオの中で、ゲシュタルト療法の創始者フリッツ・パールズが面談の最後にクライアントに向かって言った言葉が私の心に残っている。

「あなたは“ほんの少し”開いた。」

「私たちは“ほんのちょっと”出逢った。」

そんな意味の言葉だったと思う。

これは私も、講義や講演、面談の際にしょっちゅう体験する感覚である。

だから繰り返し連想するのだと思う。

そしてその続きを言うならば、

「そしてあなたはまた閉じ、私たちは別れた。」

ということになる。

そう。

その後も自分が開き続けるためにどうするか、その有無が人生の岐路となる。

そこに食らいついて来る学生、聴衆、クライアントには、継続的で本格的な成長が始まる。

しかしそこで終わりの人は(つながったりつながらなかったりする人も含めて)、元の木阿弥、はい、それまでよ、である。

やはり後者が圧倒的に多い気がする。

しかしたとえ前者が千人に一人、一万人に一人であろうと、つながり続けようとする人たちがいるから、私は役目を果たしていける。

さぁ、その“ちょっと”の人たちのために、明日もまた八雲の門を開けよう。

2016(平成28)年6月7日(火)『あなた次第』

自分が自分でなくなっていく家庭で暮らしている人がいる。

自分が自分でなくなっていく職場で働いている人がいる。

自分が自分でなくなっていく狭い世間の中で生きている人がいる。

そうするしかないんです。

ノーと言えないんです。

とても抗(あらが)えないんです。

泣き言と言い訳は結構である。

日本は独裁国家でもなく、

秘密警察もおらず、

コメカミに銃口を突き付けられているわけでもない。

あなたの自由意志で全てが決まり、二十歳を過ぎれば、何をどう選んでも自己責任が付いて回る。

そしてそれに相応(ふさわ)しい人生が待っているだけである。

もし私の出番があるとすれば、

あなたが勇気をもって今までとはっきりと違う行動(お茶を濁したようなちょろまかしの行動ではなく)を具体的に起こしてからである。

自らが闘いの血を探さないで、

ノーと言えるようにして下さい。

抗(あらが)えるようにして下さい。

自分らしく生きられるようにして下さい。

一昨日(おととい)来やがれ、である。

そんな虫の良い悪依存に乗るわけがない。

あなたが勇気をもって今までとはっきりと違う行動を具体的に起こしてからが私の出番。

そしてあなたが自分が自分であるための行動を起こし続ける限り、私はあなたを支援する。

八雲はそういうところ。

だから「治療」でなく「成長」の場所なのだ。

(本当に深く傷ついて何もできないのであれば、医療機関でちゃんと治療を受けるべきである)

正確に理解して活用されたし。

2016(平成28)年3月3日(木)『どの本を読むか』

ときどき

「先生、この本、どう思いますか?」

と訊かれることがある。

大抵は、サイコセラピーや仏教、キリスト教、瞑想など、精神世界の本なのだが、正直言って気が重くなることが多い。

申し訳ないが、大方がハズレの本なので、否定的な答えをせざるを得なくなるのだ。

もっと良い本を読んでくれんかなぁ、という気持ちになる。

しかし、かつての自分のことを考えるとは、むしろ、よく訊けるなぁ、と思う。

私が近藤先生のところに通っていたとき、自分の観る眼を全く信じていなかった(その自覚があった)ので、まず近藤先生が著書や講演で引用されている古典、仏典、聖典などをひたすら読んでいたのを思い出す。

しかもわかっていない自称専門家たちの浅薄な解説は却って邪魔になるので、できるだけ原文と純粋学術的注釈のみの本に挑戦した。

(現代本に良いものがないわけではないが、古典の中に深いものが圧倒的に多く、その文体自体にも響きがある。是非とも、苦手意識を持たず、古文・漢文にも挑んでいただきたいと思う)

もちろん読書だけで成長するわけもなく、その間、面談によって薫習を戴いていたわけだ。

そうすると不思議なことに、段々と書かれている原文の表面的な意味とは別の真意まで読めるようになって来る。

「あの古典に書いてあったこの言葉は、本当はこういう意味なんですね。」

「よくそこに気がついたね。」

そういった問答を近藤先生とするのが、この上なく楽しみであった。

こうして私はまず自分の観る眼を養った。

そして数十冊の経験を経てから、ようやく自分の選別眼のみで本を選ぶ作業に入ったのである。

それらを読んでいて何か気づいたことがあれば、

「先生、この本のこういう言葉はどう思われますか? 私はこう思うんですけど。」

とお尋ねする。

その度ごとに先生に1冊読んでいただくわけにはいかないので、自分の感じたことの要点をお伝えしたのだが、これは結構な真剣勝負であった。

自分の今の境地の程度を示していくわけであるから。

そして、先生のフィードバックを得て、また自分の真実を観抜く眼を磨いて行くのであった。

ここで私は骨董屋修行を連想する。

まず師匠について、本物中の本物だけをたくさん観る。

たくさんたくさん観る。

そうすると徐々に審美眼が養われて来る。

この行程は絶対に外せない。

そしてその上で、自分だけで骨董品を観て、ホンモノかニセモノか、自分の観立てを師匠に話す。

ここが真剣勝負である。

鉄拳が飛んで来るが、承認してもらえるか、ドキドキものであるが、これを経なければ、いつまで経っても骨董屋として一人立ちできない。

ニセモノを得意になって店先に飾る骨董屋になってはしょうがないのである。

従って、本においても、まずホンモノの本を読んで自分の観る眼を磨くことを強くお勧めする。

そして不思議なことに、本を観る眼ができてきた頃には、人を観る眼もできてくるのである。

2016(平成28)年3月2日(水)『ゴミ箱』

ドヤ顔で、知識をひけらかすヤツの顔をみる度に、思い出す言葉がある。

“A garbage can filled with secondhand knowledge(受け売りの知識の詰まったゴミ箱)”

なんと痛快な言葉だろう。

元のセンテンスは

「あなたが優秀であると信じていた自分の脳が、あたかも受け売り知識の詰まったゴミ箱であったと感じるだろう」

で、

近藤先生がホーナイに促されて行ったニューヨークでの最初の講演『Intuition in Zen Buddhism(禅と直観)』の中にある一節である。

われわれの脳はゴミではない。

われわれの存在はゴミではない。

その尊さを本当の意味で発揮するとは、一体どういうことなのだろうか。

いつまでもゴミまみれのドヤ顔では情けなさ過ぎる。

真実の道を始めよう。

2016(平成28)年2月26日(金)『江戸っ子の弱点』

基本的に、気っ風(ぷ)の良い江戸っ子気質(かたぎ)は好きである。

表裏がなく、喜怒哀楽を隠さず、結論から言い、はっきりくっきりしていて面倒臭くない。

しかし、江戸っ子も良いところばかりとは限らない。

かつて「ラテンの馬鹿」について書いたのと同様に、江戸っ子には江戸っ子の弱点がある。

その最大のものが、深い内省性の欠如、特に幼少期に自分に埋め込まれた価値観に対する無反省性である。

例えば、気持ちの良い下町の鮨屋の大将がいたとする。

わかりやすくて、威勢が良く、竹を割ったような性格である。

根性の曲がった客が来ようものなら、「てめぇに喰わせる鮨はねぇ。とっとと帰(けぇ)りやがれ!」と追い返せる。

その大将が、ある時、親について不満を言っていたカウンター客同士の会話に割って入った。

「親の言うことは聞くもんだよ!」

これだ。

親への服従が絶対的善として自分に埋め込まれていることに気づかない(気づけない)のである。

よって、その上何かを言おうものなら、内省・検討することなく、「うるせー! 出てけ!」ということになり、変化・成長につながらない。

これを「江戸っ子の馬鹿」という。

江戸っ子の勢いに、内省できる感性が付けば、鬼に金棒なんだけどなぁ。

賢明なる江戸っ子こそが「頭領」や「姐さん」の称号に値する。

2016(平成28)年2月17日(水)『依存と自立』

私が近藤先生のところに通い始めた頃、先輩医師の中には既に十年近く通っている人がいた。

医局の医師の中には、

「そんなにいつまでも依存しててどうすんだよ。」

という人もいた。

だからバカちんは困るのである。

近藤先生が依存を助長するわけがない。

その人がよりその人して生きて行けるように育(はぐく)んで下さっているわけであるから、むしろ通えば通うほど自分を見出だして行くことになる。

実は、その指摘をした人自身が、自分の問題に薄ら気づきながら、恐くて教育分析に踏み出せず、そういう自分を合理化する(自分は他人に依存をせず一人でやっている強い人間だ)ためのセリフであった。

しかし下には下がいるもので、それを聞いて、自分がものすごく依存してしまうんじゃないかと不安になって、通うのをやめた大バカちんがいた。

猫に小判、豚に真珠って本当にあるんだな、と思った。

後に行き詰まった彼が再び面談を申し込んだときには、最早予約枠はなく、その後先生は遷化された。

自業自得、覆水(ふくすい)盆に返らず、である。

恥ずかしながら不肖の弟子たる私も、クライアントを観て、この人が本来何者かを感じ取り、その人がその人たるようにセラピーを行っている。

依存させるわけがない。

その人がその人を取り戻し、勁く生きて行けるようになることは、人間というものに対する普遍的な願いなのである。

2016(平成28)年1月28日(木)『ゆすらうめ』

今現在も、関西、東北、北海道から八雲に通って来ている方がいらっしゃる。

また、直線距離的には近いようでいて、交通の便の悪い地域から何時間もかけて通って来ている方もいらっしゃる。

それだけでも求める気持ちの強さをひしひしと感じる。

反対に

住所が目黒区じゃないから遠い

最寄り駅が東横線じゃないから遠い

と言う方もいらっしゃる。

孔子の言葉を思い出す。

「『唐棣(とうてい)の華(はな)、偏(へん)として其(そ)れ反(はん)せり。

  豈(あに)爾(なんじ)を思(おも)わざらんや。

  室(しつ)是(こ)れ遠(とお)ければなり。』

 子(し)曰(いわ)く、未(いま)だ之(これ)を思(おも)わざるかな。

 何(なん)の遠(とお)きことか之(これ)有(あ)らん。 」 

 (『論語』 子罕第九 三十)

下村湖人(に多少私が加筆した)による意訳を挙げる。

「民謡の恋歌にこういうのがある。

 『ゆすらうめの木、花咲きゃ招く、ひらりひらりと、色よく招く。

  招きゃ、この胸、焦(こ)がれるばかり。

  道が遠くて、行かりゃせぬ。』

 孔子はこの民謡を聞いて言われた。

 まだ想いようが足りないね。

 なあに、遠いことがあるものか。」

さすが孔子はなかなかに粋な人である。

本当の自分を生きることに恋い焦がれている人たちよ、どうぞ八雲にいらっしゃい。

2016(平成28)年1月16日(土)『堕ちるな』

かつて親戚のおじさんが、某プロ野球チーム関係者から聞いた話として、

競争の激しい2軍選手たちは、同じチームの1軍選手の誰かが怪我をしたという情報が入ると、自分が代わって1軍に上がれると思って喜ぶのだ、ということを言っていた。

それを聞いていた母親は、やっぱりそれぐらいでないと厳しいプロの世界じゃあ通用しないのね、と妙に感心していたが、

傍らにいた当時中学生の私は、だからこの二人はダメなんだ、と思ったのを覚えている。

他人の不幸を喜ぶようになったら、プロ野球選手である前に、人間としておしまいである。

どんなに競争が大変でも、人間が下衆(げす)に堕ちてはいけない。

そのヒマがあったら、練習して実力で1軍に上がれ。

 

話代わって、子どもの頃から対人関係がうまく行かなかった青年。

就職しても、上司や先輩から叱責される毎日が続いていた。

同僚たちの中には、本人の器用でないところを買ってくれる人たちもいたが、

ある日、彼に対して毎日のように怒る上司が、躓(つまづ)いて皆の前で転倒した。

かなりひどい転び方だ。

心配して駆け寄る社員たちを横目に、一番近くにいた彼の口もとがニヤリと笑うのを周りの人間は見逃さなかった。

そうして彼は数少ない味方も失い、全員から、本当の意味で、軽蔑されたのであった。

どんなに辛くても、人間が下衆(げす)に堕ちてはいけない。

われわれの存在のプライドにかけて、人間としての感覚のマトモさだけは守らなければならないのである。

2016(平成28)年1月8日(金)『完敗』

各国独特のご当地料理にはかなりの自信があった。

毎年の忘年会で世界各地の変わった料理を制覇して来た実績もある。

で、正月明けに入ったタイ料理店。

看板に「本格的タイ東北料理専門店」と書いてあったが、気にも止めず入店。

タイ人の店員さんに魚の塩漬けの入った青パパイヤのサラダというのを注文する。

ナンプラーやパクチーなどはちろんは経験済みで、むしろ「タイらしくって良いんじゃないの。」くらいの気持ちで注文したが、これが大波乱の幕開け。

後にわかるのだが、一般のタイ料理と、タイ東北部の地方料理=イサーン料理!とは全く別物なのであった。

皆さんはパラ―というのをご存じだろうか?

魚の塩漬けとだけ書いてあったのだが、これが大変なシロモノで、強烈な香りと味の発酵食品である。

匂いだけで悪心(おしん)。

口に入れて嘔気(おうけ)。

咀嚼(そしゃく)してリバース寸前

を体験。

ぅぐぅ…、か、完敗だ。

座卓に座ったまま、何故か壁のタイ国王の写真に頭を下げる。

知らなんだ。

イサーン料理って、激辛、発酵、昆虫食、爬虫類食などで有名な、超個性的料理なんだって。

しかも、パラ―に関しては「ハマッたら毎日でも食べれそうなお味。反対に駄目だ・・・と思った方はもう一生食べないのではないでしょうか」とまで書いてある。

しかぁし、このまま料理を下げてもらっては男が廃(すた)る。

ここで思い出したのが、あの郡山での不味(まず)いトマトラーメンとの戦い。

強烈な味は強烈な味をもって制す。

幸いテーブルの上には各種香辛料が並ぶ。

パラ―を払いつつサラダを別皿に移し、

香辛料全種類投入。

これで何の味かわかるまい。

しかしパラ―も強烈な抵抗。

香辛料の合間を縫って鋭く反撃して来る。

ウッ、ブフッ、ウゲラッ、負けるもんか。

そしてなんとか流し込んで、センソム(タイのラム酒)をあおって終了。

帰って胃薬を飲んでから、体制の立て直しである。

     まだまだ世界制覇の道程(みちのり)は遠いのであった。    (to be continued)

2015(平成27)年12月26日(土)『LGBTQH』

通常、LGBTQと言えば、

レズビアン(Lesbian:女性同性愛者)

ゲイ(Gay:男性同性愛者)

バイセクシャル(Bisexual:両性愛者)

トランスジェンダー(Transgender:性同一性障害者など)

クイア/クエスチョニング(Queer/Questioning:規範的な性のあり方以外を包括する/自らの性のあり方について特定の枠に属さない人、わからない人など

といった性的マイノリティ(sexual minority:性的少数者)を指す言葉とされている。

個人的には、そういった表面的形態に関して特別な思いはなく、

それがその人にとって“自然”であれば、何も問題はないと思っている。

臨床経験から言えば、

たとえ性的マジョリティ(sexual majority:性的多数者)であるヘテロセクシャル(Heterosexual:異性愛者)であろうと、

歪んだ心の背景から、自己破壊的または他者巻き込み的な異性愛に走るのであれば、十分に病的である。

よって、表面的形態がLGBTHQのいずれであっても関心はない。

その出どころが“自然”であるか、“不自然”であるかが私の関心事なのだ。

ある女性は、母親の再婚相手の連れ子であった義兄から、長年に渡って性的虐待を受け続けた。

そして二十歳を過ぎたときに、海外に渡って性転換手術を受け、身体的女性性を“切り捨てて”帰って来たという。

その後、女性と同棲しているこの人は、レズビアンなのか、トランスジェンダーなのか。

いや、どちらでもなく、PTSDである。

汚された自分の否定の中に、自分の女性性の否定があったのだ。

“自然”ではない。

だから、こころの治療をきちんと受けた方が良いと思う。

そう、LGBTHQの「○○愛者」において重要なのは、

前半の「○○」(同性、異性など)ではなく、

後半の「愛」の部分なのだ。

表面的形態はどうだって良いから、まず自分と相手を愛しましょう、大切に。

 

 

2015(平成27)年12月12日(土)『よいしょ』

臨床心理を学ぶ大学院生から聞いた話。

彼女の指導教授が趣味で陶芸をするのだそうな。

それ自体、何の問題もないが、ときどき個展を開くのだという。

それまた何の問題もないが、その際、自分の教室関係者や担当する学生たちが大勢会場に来るとご機嫌麗(うるわ)しくなり、作品を買ってくれたりするとさらにご満悦に至るのだそうな。

そのため、准教授、講師、助教たちの自宅には購入した教授の作品が並んでいるという。

そして反対に、関係者が会場に来ないと教授の機嫌が悪くなり、教室スタッフを通して“暗に”動員をかけて来るのだそうだ。

これだけ聞いても、この教授の臨床心理士としての力量はサイテーだとわかる。

そして准教授、講師、助教たちの力量も程度が知れる。

自分が何をやっているのかさえもわからないのか。

本当に陶芸が好きで関心のある人が個展に行こうが、気に入った作品を買おうが、それは問題ない。

しかし、自分の保身、計算のために、相手に媚びて、魂を売るような人間に、対人援助職が務まるとは思えない。

ここらに、さまざまな対人援助職、医療福祉職における、情けない実態がある。

例えば私が、好きな和太鼓、読んだ本、観た映画、聴いた曲、食べた物などについて、誰かに語る、『塀の上の猫』に書いたとする。

あなたが本当に関心を持って、それらに接しても何の問題もない。

しかし“私に気に入られるために”それらに接したとすれば、

その考えや行動自体が“解決すべき問題”として取り上げられることになる。

私は“追従者”は欲しくない。

あなたがあなたになることだけが、私の望みである。

2015(平成27)年12月9日(水)『丁寧に歩むこと』

人間、着実に成長して行くためには、目の前の“これならできる一歩”の設定が非常に重要な場合がある。

例えば、相談に来られていたある女性看護師は、復職を決めた。

しかし、前の職場で酷(ひど)い経験をしたので、復職に当たっての不安も強かった。

それで彼女が取った方法は、まずアルバイトで週1日勤める。

そうすると、働いているうちにいろんなことが見えて来る。

上司、先輩、同僚の人柄はどうか。

組織に構造的欠陥はないか。

特に、ヒヤリハットやインシデントが起きたり、何らかのトラブルが生じたとき、働いている人や組織の本性が露(あら)わになる。

そこを見定めてから、勤務日数を増やすかどうかを決めて行った。

当初、収入がきつかったので、そこはスーパーのレジのアルバイトを加えて乗り切った。

そして1カ所目の病院ダメ。

2カ所目の施設もダメ。

3カ所目のクリニックで“正解”に出逢えた。

それから徐々に勤務日数を増やし、今や常勤である。

そして自分の気持ちや意見も職場で言えるようになっていた。

彼女の設定、

「ああ、これくらいならできる。」

「ああ、この人たちとならできる」

を一歩一歩積み重ねて行ったのが勝因であった。

就活も転職活動も良いけれど、結構みんな、エイヤッと目をつぶって飛び込む式の乱暴なやり方が多い。

それでも、鈍感な人たちならなんとかなるかもしれないが、マトモな感性の持ち主であれば、そこは丁寧に事を決めて行く必要がある。

その“丁寧さ”の重要性を今回は特に強調しておきたい。

2015(平成27)年11月19日(木)『ミニマリスト』

先日テレビで、必要最小限の物しか持たずに暮らす人=ミニマリストの人たちの生活ぶりが紹介されていた。

その物質面に留まらない精神面での変化が少なくないのだという。

その画面を見ながら、日本人だったら「ミニマリスト」でなくとも、雲水や空也や一遍の存在を知らないのか、とちょっと寂しい気持ちになった。

雲水は、行雲流水の如く、一カ所に停住しないで師を求めて行脚(あんぎゃ)する禅の修行僧のことである。

その持ち物は雲水行李(こうり)に入るものだけ、経書、袈裟、雲水衣、作務衣(さむえ)、下着類、持鉢(食器)など。

その根底には「本来無一物」がある。

そして、六波羅蜜寺の像で有名な空也上人は、その「捨ててこそ」という言葉に尽きる“市聖(いちひじり)”である。

“私の物”(私有物)どころか“私”までも捨て果てるのだ。

そして“捨聖(すてひじり)”一遍上人もまた、諸国を遊行し、その最後にあたって、持ち物全てを焼き捨て、「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ。」と遷化されたのであった。

そう思うと「ミニマリスト」はまだ「ミニマム」を私有している。

そして所有している「私」がいる。

表面は似ているように見えて、その精神的根底は決定的に異なる。

そしてさらに言うならば、

私がいても私がいるのではなく、

物があっても私の物はなく、

その物さえあるのでもない、

という境地もある。

そう、「持たないこと」「捨てること」さえも捨ててしまうのだ。

だから、わざわざ維摩(ゆいま)というマハラジャのような大金持ち、大物持ちまで登場させて来るところに仏教の面目がある。

持っていても持っていない境地もあるのである。

 

今日は些か老婆親切であった。

2015(平成27)年11月4日(水)『邪魔』

若い研修医が、自分で調べてもわからないことがあり、指導医に訊こうと思った途端、逡巡した。

「あいつに訊くと、またイヤなこと言われるんだよな。」

『そんなことも知らんのか。』

『チッ。』

『だからダメなんだよ、おまえは。』

本来なら、訊いて、答えて、終わり、というだけの簡単な話である。

それが、この指導医の歪んだパーソナリティのために、訊くだけでも一苦労となる。

それでも患者さんのために訊きはするが、そんなことが続いて来ると、なんだかもう辞めたくなって来る。

実際、多くの職場において、仕事に関して本質的でない、こういう人的環境のために、退職したり、転職したりする方々が相当数いるんじゃないかと思う。

昭和までなら、こういうことにも耐えに耐えて、という苦労話も自慢になったかもしれないが、

平成の今は、そうはならない。すぐにおさらばだ。

そして私はそういう人たちのことを弱いとか甘いとは決して思わない。

むしろ正直で健全なんじゃないかと思っている。

それは何でもイージー・ゴーイングで良いということではなく、私の知る限り、今の若い人でも苦労のし甲斐のあるところではちゃんと苦労している、ということを言いたいのだ。

では、当たり前に働きたい人たちのパフォーマンスを邪魔しているのは何か。

歪んだパーソナリティ、それが最も邪魔なのである。

2015(平成27)年10月4日(日)『わかばとつぼみ』

日本テレビ系『天才!志村どうぶつ園』の中で、保護施設で育てられていた二頭の犬、わかばとつぼみを引き取って、ベッキーやスタッフがドッグトレーナーの指導の下、育てるコーナーが昨日、最終回を迎えた。

毎回見続けることはできなかったが、展開が気になるコーナーであった。

テレビ番組ゆえに、設定、内容、経過に異論反論もあったようだが、

私個人としては、恐らくは虐待され傷つき、人間不信、世界不信に陥っていた二頭の犬が、3年の期間で変わったという事実そのものに希望を感じた。

それにしても、犬って尻尾(しっぽ)や佇(たたず)まいで語るんだよね。

いやいや、それどころか(人間には尻尾はないので)佇(たたず)まいで語るのは、人間も同じだよな、と思った。

人間の方がなまじしゃべるために、その言葉に騙(だま)されそうになるけれど、

言葉よりも体で、体よりも佇まい=存在から匂い立つもので、真実を語っているということを改めて確認した。

そう。

こころの事実はどこに表れるかということ。

あるアメリカ心理学者が、「7-38-55のルール」というものをひとつの発見であるかのように言い立てていた。

人が他人にどのように伝えているか、伝わっているか、ということいついて、話の内容の言語情報が7%、声の調子などの聴覚情報が38%、外見などの視覚情報が55%の割合であったという。

やっぱり鈍感だなぁ。

日本人は昔から「背中が泣いている」などと言って、別に震えてもうなだれてもいない背中を観ても(←見るじゃないよ)泣いているのがわかるんだよ。

これは言語情報でも、聴覚情報でも、視覚情報でもないよね。

それが佇(たたず)まい=存在から匂い立つもの。

そんなところから、ご本人も気づいていないこころの真実が観えるときがあるんです。

2015(平成27)年9月12日(土)『独善と一般化』

先日、戦争関連のドキュメンタリーで、戦地から命からがら生還した一人の老女がインタビューに答えて、

「人間って結局は自分のことしか考えないものなのよ。」

「他人なんかどうでも良いの。自分だけが可愛いのよ。」

という主旨のことを繰り返し言っていた。

また先日、別のドキュメンタリーで、息子を亡くした老母が取材スタッフに向かって、

「(結婚して孫もできたから)会って話すのは遠慮してたけど、もっと話しておけば良かった。」

「あなたもお母さんといっぱい話して、親孝行しなさいよ。後悔するわよ。」

という主旨のことを繰り返し言っていた。

私はどちらの発言も聞いていて気持ちが悪くなった。

そしてその気持ち悪さがどこから来るのか探ってみると、両者ともその独善性と一般化にあった。

前者は、自分がそうだった、という話ならわかる。

極限状況でそうなってしまう人もいるだろう。

それを責める気持ちはさらさらない。

しかし「人間って」一般化するのはやめてくれ。

そうでない人もいるのだから。

背景に一般化することによって、自分の罪悪感を軽くしようという気持ちが見える。

後者も、自分がそうだという話ならわかる。

そういうふうに後悔する人もいるだろう。

それを批判する気持ちはさらさらない。

しかし「あなたもお母さんといっぱい話して親孝行しなさいよ。後悔するわよ」と一般化するのはやめてくれ。

そうでない人もいるのだから。

ここにも一般化することによって、子どもへの執着と(恐らくは昔の)過干渉を正当化しようという気持ちが見える(だからここに嫁と孫の話が出て来ないのである)。

もちろん気づく準備のできていないこの二人に何か言おうという気持ちには全くならない。

少なくとも私の個人的意見として、自分の“当たり前”を疑ってみる姿勢がないと人間は成長しないな、としみじみ思うのであった。

2015(平成27)年8月13日(木)『自殺の多い日』

内閣府の調査によれば、1972〜2013年の42年間に自殺した18歳以下の子どもたちについて、日付別に自殺者数を集計したところ、

第1位 9月1日  131人

第2位 4月11日  99人

第3位 4月8日   95人

第4位 9月2日   94人

第5位 8月31日  92人

という結果が出たという。

一目でおわかりであろう。

1学期あるいは2学期の始まる前後に集中している(よって地域によっては学期のスタート時期が異なる場合がある)。

「またあのイヤな学校が始まる。」

そう思ったときに、子どもたちは自殺しているのである。

切なくて仕方がない。

かつて「良心的登校拒否」について書いた。

行くに値しないところなら、行くな。

君が命を懸けるほどの価値は、そこにはない。

そうでない幸せで充実した人生は、他にいくらでもある。

それをこれから君は経験する必要がある。

早まってはいけない。

そして、学校を会社に置き換え、

新学期前後を、休日明け出勤日前後に置き換えれば、

子どもたちばかりではない、これは大人にも当てはまることがわかる。

 

 

◆追伸

上記の内閣府の調査結果発表後、下記のツイートが話題になったという。

 

鎌倉市図書館@kamakura_tosyok
8月26日

もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。

 

報道によれば、

「学校教育と図書館を管轄する鎌倉市教育委員会内部で『不適切な表現では』と議論になったという。教育長や教育委員会教育部長、中央図書館長らが話し合ったところ、『投稿を削除するべき』という意見も出たが、図書館側が『子どもたちに自殺しないでほしいという思いで書いたもの』と説明、ツイートはこのまま残すことに決定した」

という。

削除なんぞすれば、教育委員会が総攻撃を受けただろう。

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