2014(平成26)年12月28日(日)『人物を作る』
ある精神分析医の書いた本を読んでいる。
純粋に専門知識の整理のためと思って購入した本だが、読み始めて数ページで、読み続けることが苦痛になって来た。
著者は頭の良い人で、真面目な勉強家である。
多少見栄っ張りではあるが、性格はむしろ“良い人”に属するかもしれない。
だけれども、である。
哀しいかな、人間の器が小さいのだ。
そんな視野の狭い、小人物を基準にした、セコい話はどうでもいいだろう、というような話が、どうだ、どうだ、と繰り返し挿入されて来る。
うーむ。
通常、精神分析医になるための教育分析は、被分析者の神経症的な部分を問題とし、その解決のプロセスの経験が、やがて被分析者が分析医になったときに役立つ、ということになっている。
だが、そのレヴェルでおしまいなのだ。
神経症的な部分の解決で終わり。
(本当の意味での)人間的成長とか、人格陶冶などといったことは、全く目的とされていない。
私はそれを知ったときに愕然とした。
そして、だから(物知りでスキルフルかもしれないが、)こんな人格の未熟な精神分析医が多いのか[また失礼]ということに悲しい納得がいった。
私が受けた教育分析はそうではなかった。
もしそういうの方を教育分析というのなら、私が受けたのは教育分析なんぞではなかった。
むしろ精神分析的な専門知識や技術の習得は“捕捉的な部分”に過ぎず、
恩師ならではの、“人物”を作っていくための、人格が人格に、存在が存在に影響を与える“薫習(くんじゅう)”が、その指導の“中心”であった。
ああ、だから、そんな世界があることを知らない人間は、訓練分析、スーパーヴィジョン、組織的な指導などということが平気で言えるのだ。
近藤先生レヴェルの人間が二人も三人もいるわけないし、組織的指導などあり得ない。
こう言っても、多分、わからない人間からは“幻想”と言われるのが関の山だろう。
しかし、日本精神分析協会に属するあるヴェテラン精神分析医が、私が近藤先生の薫陶を受け、八雲で開業しているということを聴き、それはフロイトやユングから直接に指導を受けるよりも幸運なことだ、と言って下さったそうである。
私はそれを聴いて、近藤先生の真価のわかる人がこの世にいたのか、と思い、却って驚いた。
そんなこんなしているうちに、私が体験したことがいかに幸運なことであったかということが身に沁みて感じられて来るのである。
この著者には、精神分析の知識と技術は十二分にあっても、そういった“人物”のモデルがなく、“人物を作る”という発想もないのであった。
大変、大変、気の毒である。
私は、神経症的な部分が解決されただけの人間ではなくて、
ホンモノの“人物”になりたいと思う。
それが近藤章久という“人物”に出逢えた甲斐というものであると確信している。