昨日まで20回に渡って、近藤章久先生による『ホーナイの精神分析』を取り上げて来た。
1回目、2回目、3回目、4回目、5回目、6回目、7回目、8回目、9回目、10回目、11回目、12回目、13回目、14回目、15回目、16回目、17回目、18回目、19回目、20回目。
このままただ終わるのではもったいないので、その中から重要と思われるものを10抽出して共有して、締め括りにしたいと思う。
この『ホーナイの精神分析』が、(自分自身も含めた)すべての人の「真の自己」の実現にとって、少しでも役立つものとなれば幸いである。
[1]「彼女(=ホーナイ)の明るい洞察の眼は、人間の存在の中に、常に実現を求めて止まない成長と発展への衝動を発見し、その源泉として『真の自己』の概念を定立した」
*フロイトの悲観的な人間観に対し、ホーナイの人間観は肯定的、いや、絶対的に肯定的である。何故ならば、彼女はその臨床体験を通じて人間の中に、その実現を求めて止まない「真の自己」を(「ひとつの説」ではなく「事実」として)発見したからである。
[2]「恰(あたか)も樫の実が大木に成長する可能性を何時もはらんでいる様に、人間は、常に『真の自己』を実現して行く能力を持っている」
*どんぐりが松の木になる必要はない。なれもしないし、なってはいけない。どんぐりが樫の木に、しかも大木になっていくように、人間もまた一人ひとりに与えられた「真の自己」を実現して行く力を蔵しているのである。
[3]「Salzburg(ザルツブルク)の坑内の塩が ー Standal(スタンダール)の表現を借りれば ー つまらない枯枝を華麗な姿に変じる様に、その価値を核として、想像力が壮大な仮幻の自己を現出する」
*恋愛が枯れ枝を美しい白い花に見せるように(スタンダール『恋愛論』)、その生育史が、ニセモノの自分、「仮幻の自己」をあたかも価値あるものであるかのように思わせるのである。
[4]「分析が進むにつれて、私達が知るのは、この様な彼の態度は、彼の本来の意志ではなく、幼少の時の様々な逆境の中に自己保全の為に止むを得ず取らざるを得なかった不幸な方法であり、彼も又苦しみ悩みつつ、成長を求めている人間であると言うことである」
*小さくて弱い子どもは、精神的に生き残るために「仮幻の自己」を身につけるしかなかった。しかし、どんなに「仮幻の自己」に支配されていようとも、その奥底に「真の自己」は必ず生きているのである。
[5]「大切なのは、治療者自身が『真の自己』による成長を経験しているかどうかである」
*もしセラピスト自身が「真の自己」による成長を経験していれば、クライアントの中にある「真の自己」を信じ、感じることができるようになる。そして、それこそ治療の方向性を決める指針となるのである。
[6]「分析関係は相互的な関係と言ったが、根源的には患者の『真の自己』と分析者の『真の自己』との出会い ー 互いの呼びかけと応答の関係である」
*あなたの「真の自己」とわたしの「真の自己」との感応道交なくして、ホンモノのセラピーが成立するわけがない。
[7]「神経症的な拘束がゆるんで、患者の『真の自己』が呼吸し始めたことを意味する」
*この「『真の自己』が呼吸し始めた」という表現。これは文学的修辞ではなく、体験したことがある者にとっては紛れもなく“リアル”な表現なのである。
[8]「今迄強大な拘束力を駆使して君臨していた『仮幻の自己』にとってはその存在への危機である。危機は不安を呼び起す。そして、この時点を境として、分析治療に於ける最も大きな抵抗が生じて来る」
*引き剥がされないようにしがみつこうとうる「仮幻の自己」。その「抵抗」は大きなピンチでありながらも、正面から立ち向かって行くことができたならば、それは、間違いなく、ホンモノの成長への大きなチャンスとなる。
[9]「不安や苦しみは彼(=患者)の新しい誕生の為であることを感じる時、航海者が、正確な羅針盤を持って、安心して嵐と闘うことが出来る様に、彼は次第に確信をもって、神経症葛藤の中の最も根源的な葛藤 ー『仮幻の自己』対『真の自己』と言う決定的な戦いを闘い抜いて行くのである」
*「羅針盤」=「真の自己」からの声を感じることさえできていれば、「仮幻の自己」対「真の自己」という最大の戦いの中でも、進むべき方向を過(あやま)つことは絶対にない。
[10]「『真の自己』の成長と発展こそ人間の自分自身に対する責任であり、倫理である」
*人は何のために生命(いのち)を授かって生まれて来たのか。「真の自己」の実現以外にその答えはない。