近藤章久先生による「ホーナイ派の精神分析」の勉強も、1回目、2回目、3回目、4回目、5回目、6回目、7回目、8回目、9回目、10回目、11回目、12回目、13回目、14回目、15回目、16回目、17回目、18回目、19回目に続いて20回目となった。
いよいよ今回が最終回である。
以下に八雲勉強会で参加者と一緒に読み合わせた部分を挙げる。
関心のある方は共に学んでいただきたいと思う。
ホーナイ派の精神分析を入門的、かつ、系統的に学んでみる良いチャンスになる。
(原文の表記に多少古いものも含まれるが敢えてそのままに掲載した。また斜字は松田による加筆修正である)
※今回の最終回もまた、折角読むからには、それが狭い「治療」の話に留まらない、人間の「成長」に関わる話として読んで行っていただきたいと思う。
尚、明日、『ホーナイ学派の精神分析』全20回の中から抽出した抜粋集を取り上げる予定である。
A.Horney(ホーナイ)学派の精神分析
5.治療
b.神経症的諸傾向の観察と理解(7)
この様な経過を通じて弱まり行く「仮幻の自己」に対して「真の自己」は成長する。彼はもはや容易に「仮幻の自己」の命ずる shoulds か claim に動かされなくなり、たとえ、混迷に陥ったとしても、自分で混迷させるものを分明にすることが出来る自分の能力を感じる様になる。
分析者は彼にとって、はじめて明確に協力者、補助者として正しく認識され、理解される。彼は分析者に対する依存とか、敵意とか疎遠感から解放され、自分で自分の発展と成長をなし得る事に勇気と確信と希望を覚える。
もはや神経症的要求や尺度によって拘束されないので、彼は自分をありのままに受け入れ、徒(いたず)らな劣等感、罪悪感や無力感や、それにもとづく不安に陥らないで、自分自身について真実になり得る、そして、自分自身を吟味することを恐れない。彼の「現実の自己」は、嫌い、憎み、軽蔑するべきものではなく、それは「真の自己」の現れとして尊重すべきものとなり、ここに神経症的誇りに代って、健康な自尊心 ー 自信が生じる。
彼は世界の中に於ける自分の役割りを引受け、それに応える、強制でない、自発的な責任を感じ、それを受け入れ、果(はた)して行くところに喜びを覚え、ありのままの自然な、感情や思考や判断が、彼に自由と独立を感じせしめるのである。
この様にして、次々と、かつての神経症的悪循環に対して、建設的な成長の良循環が経験され、分析も、彼自身による成長のための厳密な再吟味と言う形を多く取る様になり、分析時間は減少し、患者が強く「真の自己」によって生きることが確実になった時、それに関する患者と分析者の相互に独立な評価が一致を見ると共に、遂に分析状況は終了するのである。
しかし、これは飽くまで、患者にとっては分析者を必要とする分析の終了を意味し、それまで患者であったのが、今や一個の自由な独立人である人間として、彼は更に大きな成長と発展の為の自己分析 ー それは治療の全過程に於て激励されたものだが ー を遂行して生きて行くのである。
と言うのは、人間の陥る過誤や錯覚の危険は不断に人生の途上に存在する。ともすれば人間の持つ色々な欲望の要求が人間を迷わせるのである。「真の自己」の成長と発展こそ人間の自分自身に対する責任であり、倫理であると Horney は言う。人間の錯誤や迷いに対して「真の自己」を闡明(せんめい)(それまではっきりしなかったことを明確にすること)し、失敗や過失から学んで成長する自己分析こそ、分析の痛苦に満ちた経過を経て、彼が身をもって学んだものであるだけに、彼の生涯を通じて止むことのない自己実現の為に役立ち続けるのである。
「現実の自己」=「真の自己」+「仮幻の自己」という図式の中で、
最初は「現実の自己」=「真の自己」であったものが、いつの間にかその生育史の中で、「仮幻の自己」に覆われて行った。
それが「仮幻の自己」からの脱却と「真の自己」の回復によって
「現実の自己」の大半が「真の自己」となり、私が私を生きることができるようになるのである。
しかも、その行程に終わりということはなく、「仮幻の自己」を引き起こす問題は尽きることなく起き、「真の自己」の成長・発展も無限だからである。
そして、そのプロセスがこそ、人間がこの世界に生きて行くということの本質なのである。
それでは最終回は、この言葉をもって締め括りたい。
「『真の自己』の成長と発展こそ人間の自分自身に対する責任であり、倫理である」
倫理とは人の進むべき道である。
読者の皆さまに佳き人生を。