今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」『葉隠(6)』『葉隠(7)』『葉隠(8)』『葉隠(9)』『葉隠(10)』『葉隠(11)』『葉隠(12)』『葉隠(13)』『葉隠(14)』に続いて、今回はいよいよ最終回『葉隠(15)』(上・聞書第一・二)

「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。圖に當らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上(のぼ)りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、圖に當るやうにわかることは、及ばざることなり。我人、生きる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。若し圖にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境(さかい)危ふきなり。圖にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道にて丈夫(じょうふ)なり。毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度(おちど)なく、家職を仕(つかえ)果たすべきなり。
(武士道というのは、死ぬことであると見極めました。(死ぬか生きるかの)二者択一の場では、早く死ぬ方に付くだけのことです。特別なこと何もありません。気持ちが据わって進むのです。計算通りに行かないのでは犬死だ、というのは、上方ふうの思い上がった武道でしょう。(死ぬか生きるかの)二者択一の場では、計算通りにわかることなど、人間には無理なことです。我々人間は生きる方が好きです。恐らくその好きな方に(それを正当化する)理屈が付くでしょう。もし計算がはずれて生き残ったならば、腰抜けになります。その境目(さかいめ)が危ういのです。計算がはずれて死んだならば、犬死や気違いと言われます。(しかし)恥にはなりません。それが武士道においては一人前のことなのです。朝ごとに、夕ごとに、改めて死んで死んで、常に死んだ身で生きているときは、武道においても自由を得、一生失敗もなく、家に与えられた職務にお仕えし切ることができるでしょう。)

 

我が身が可愛く、将来が自分の思い通りになるように計算をして、死にたくない、生きていたい、と思うのが偽らざる人間の我欲というものでしょう。
しかし、『葉隠』は「死ね」という。
武士道とは死ぬことであるという。
分別を捨て、私を捨て、命も捨てて、主君にご奉公することが武士道であると説くのです。

で、私はそれをさらに明確にしたいと思います。
即ち、「死ぬこと」を「我死(がし)」、我(が)が死ぬことと言いたいのです。
我を殺して、我が死んで、我を超えたものに、我を超えた働きにおまかせする。
そして大いなる働きのままに生かされ、与えられたミッション(肉体的に死ぬことも含めて)を果たして行く。
それこそが人間の真実の生き方、「自然(じねん)」=自(おの)ずから然(しか)らしめらるる(自然にそのようにさせられる)ままに生きる生き方なのではないでしょうか。

だから『葉隠』を読んできた最後に、私はこう申し上げたいと思います。
これは武士道だけのことではありません。

人の道といふは、死ぬ事と見付けたり。

 

 

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