今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」『葉隠(6)』『葉隠(7)』『葉隠(8)』『葉隠(9)』『葉隠(10)』に続いて、今日は『葉隠(11)』(下・聞書第十・八六)。
ある武士が鐵牛道機(てつぎゅうどうき)和尚(黄檗(おうばく)宗の禅僧)に仏道について尋ねた。
答えて言うには、
「佛法は分別(ふんべつ)を取ってのくるまでなり。別に何の事もこれなく候(そうろう)。士(さむらい)の上に譬(たと)へて聞かせ申すべく候。臆の字は立心偏(りっしんべん)に意の作りなり。意は分別なり。本心に分別附きたる時、臆病者になり申し候。武士に分別出来て武勇を成るべきや。これにて了簡(りょうけん)あるべし。」
(仏の教えは分別を除くだけのことです。他には何もありません。武士の話に譬えてお聞かせしましょう。(臆病の)臆の字は、偏が立心偏で、作りが意でできています。意というのは分別のことです。心に分別が付いたとき、臆病者になるのです。武士に分別があってどうして武勇を発揮することができましょうか。これでおわかりでしょう。)
分別、計算、思考が入れば、そりゃあ、保身に走る=臆病になるのが人間です。
分別などがあったら武士も、人を斬ったり、人に斬られたり、自ら腹を斬ったり、できるわけがありません。
無分別というのは、単に分別がないことをいうのではありません。
それではただの馬鹿です。
人間の分別を超えたものにおまかせすることが無分別智なのです。
それが武士道、仏道につながっていると鐵牛和尚は説いているのです。