五カ月ほどかけて、岩波文庫の『葉隠(はがくれ)』(上)(中)(下)三冊を少しずつ少しずつ読み進め、ようやく昨晩読了した。
『葉隠』は、江戸時代、鍋島藩士であった山本常朝(つねとも)の話を聞き書きした田代陣基(つらもと)が編集したもので、武士道の精神的要諦を示す一書である。
『葉隠』と言えば
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」
という一文が有名であるが、今回、本書を読もうと思ったきっかけも、まさにその真意を見い出すためであった。
その結果は後日示すとして、折角読了した『葉隠』の内容を私の胸の内に留めておくのももったいないと思い、心に響いたものを何回かに渡って記すこととした。
まずは今日の一節(上・聞書第一・四七)。
「物識りの道に疎(うと)き事は、東に行く筈(はず)の者が西へ行くがごとくにて候(そうろう)。物を知るほど道には遠ざかり候。その仔細(しさい)は、古(いにしえ)の聖賢の言行(げんこう)を書物にて見覚え、咄(はなし)にて聞き覚え、見解高くなり、はや我が身も聖賢の様に思ひて、平人は蟲(むし)の様に見なすなり。これ道に疎き所にて候。道と云(い)ふは、我が非を知る事なり。念々に非を知って一生打ち置かざるを道と云ふなり。聖の字をヒジリと訓(よ)むは、非を知り給(たま)ふ故(ゆえ)にて候。佛は知非便捨の四字を以(もっ)て我が道を成就すると説き給ふなり。心に心を付けて見れば、一日の間に悪心の起ること數(=数(かず))限りなく候。我はよしと思ふ事はならぬ筈なり。」(江南和尚)
まず物知り=受け売り知識の思い上がりを戒め、「道と云ふは、我が非を知る事なり」(道というのは自分がダメだということを知ることである)、「聖の字をヒジリと訓むは、非を知り給ふ故なり」(聖という字をヒジリとよむのは、自分の非を知っている(自分がどれだけダメかを知っている)からである)、「心に心を付けて見れば、一日の間に悪心の起ること數限りなく候」(ちゃんと気をつけてみれば、一日のうちに悪しき心が起こるのは数え切れないほどである)。
即ち、私が常々申し上げている「凡夫の自覚」(自分がどれだけポンコツでアンポンタンかの自覚)のことを指摘しているのである。
時代を超えて、我が意を得たり、という言葉に出逢うのは嬉しいものである。