今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」『葉隠(6)』『葉隠(7)』に続いて、今日は『葉隠(8)』(中・聞書第六・一八)。
「出家は慈悲を表にして内には飽くまで勇氣を貯(たくわ)へざれば、佛道を成就する事成らざるものなり。武士は勇氣を表にして、内心には腹の破るゝ程大慈悲を持たざれば、家業立たざるものなり。…出家は数珠(じゅず)一連(いちれん)にて鑓(やり)・長刀(なぎなた)の中へ駈け入る事、柔和・慈悲心ばかりにて何として或るべきや。大勇氣なくして駈け入らるべからず。その證據(しょうこ)には、大法事の時、焼香する和尚などが、ふるはるゝなり。勇氣なき故なり。よみがへる死人を蹴倒し、地獄の衆生を引き上ぐる事、皆勇氣の業(わざ)なり。」
(出家した者は、慈悲を表に出すが、内にはどこまでも勇気を貯えておかなければ、仏の道を成就することはできないものである。武士は勇気を表に出して、内にはお腹が破れるほどの慈悲を持たなければ、お家の仕事が成り立たないものである。…出家した者は、数珠ひとつで槍や長刀の中に駆け込むことが、柔和で慈悲の心があるだけでは、どうしてできようか。大きな勇気がなくては駆け込むことはできない。その証拠に、大きな法要があったとき、焼香する和尚が震えている。勇気がないからである。甦(よみがえ)った死人を蹴り倒したり、地獄にいる衆生を引き上げたりするのは、すべて勇気のなすところである)
鍋島家・菩提寺の住持であった湛念和尚の言葉です。
槍や長刀の中に駆け込む、蘇った死人を蹴り倒す、地獄に沈んでいる衆生を引き上げる、いやいや、生半可な武士も引くくらいの迫力です。
敢えて付け加えるならば、その「大勇氣」の「大」を我力の強さとしてしまっては、人間が頑張って踏ん張ってひねり出す自力の勇気になってしまいますので、そうではなく、人間を通して働く他力の勇気であることを確認しておきたいと思います。
「大」勇気はあなたのものではない。あなたを通して授かるものなのです。
それは「大」勇氣だけでなく「大」慈悲も同じなのでありました。