今までの『葉隠(1)』『葉隠(2)』『葉隠(3)』『葉隠(4)』「葉隠(5)」『葉隠(6)』『葉隠(7)』『葉隠(8)』『葉隠(9)』『葉隠(10)』『葉隠(11)』『葉隠(12)』『葉隠(13)』に続いて、今日は『葉隠(14)』(下・聞書第十一・二六)
「安藝(あき)殿子孫軍法承らざる様にと申され候(そうろう)事。『戦場に臨みては、分別が出来て、何とも止められぬものなり。分別ありては突き破る事成らず、無分別が虎口前の肝要なり。それに軍法などを聞き込みて居たらば、疑多くなり、なかなか埒(らち)明くまじく候。我が子孫、軍法稽古仕(つかまつ)るまじく。』と申され候由(よし)。」
(安芸殿は自分の子孫は軍法=兵法学を学ばないように、と言われたとのこと。「(兵法学などを学ぶと)戦場に臨むときに分別が出て、何とも止められないものである。分別が出ては(敵を)突き破ることができない、(敵の)城の入り口前では無分別が大事である。そういうときに兵法学などを聞き込んでいると、疑いが多くなり、かえって埒が明かなくなる。私の子孫は、兵法学の勉強をしないように。」と言われたとのこと。
ここでもまた(『葉隠(11)』と同じように)武士にとって「分別」が忌み嫌われています。
戦(いくさ)で、これから命のやりとりをしようというのに、分別があってそんなことができようか、という話です。
人を斬ったり、人に斬られたり、それは無分別でなければできないことです。
但し、先にも触れたように、無分別というのは、単に分別がないことをいうのではありません。
それではただの馬鹿です。
人間の分別を超えたものにおまかせすることが無分別智であり、それは軍法=兵法学などという知識を超えたものなのであります。
さて、次回『葉隠』は最終回を迎えます。
最後にいよいよ「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。」を取り上げましょう。