2012(平成24)年8月6日(火)『ロンドン五輪 〜 女王陛下のプラチナメダル 〜』

体操女子種目別跳馬で、ある国の選手が1回目の跳躍で着地に失敗し、転倒。

点はゼロの上に、足にダメージを負った。

誰もが2回目の跳躍を棄権するだろうと思ったとき、その16歳の少女は、目に涙を浮かべながら、棄権を拒否し、再びスタート地点に立った。

そのときの面構(つらがま)えは尊敬に値する。

そして会場いっぱいの声援を受けて走り出したが、ロイター板直前で回避し、胸を張ってポーズを取った後、壇上から降りた途端、床に座り込んだ。

“そのときなりの精一杯”を絵に描いたような立派な姿勢であった。

金メダルの“一番高い段”に上がる“一瞬”の“名誉心”のために頑張るのも良いけれど、その一瞬以外の人生の時間の方が遙かに長いのだから、どうか人間として健全な“姿勢”で人生を歩んで行ってほしいと切に願う。

そして、願わくば、あの女子選手のような“姿勢”の選手たちには、競技結果によらず、1ペニー硬貨大で良いから、女王陛下の名のもとにプラチナメダルを賜れないか、と個人的に思ったのであった。

いかがですかな、Your Majesty。

2012(平成24)年7月16日(火)『周防大島 夏合宿 道中記』

7月14日(土)〜16日(月)の二泊三日、総勢11名で、近藤章久先生の生まれ故郷、瀬戸内海、周防大島での夏合宿を敢行した。

◆1日目◆

最初のワークは、初日朝の東京駅集合から始まった。

小田急線が大雨で遅れ、JR中央線は急な車両点検で来ない。

で、3分前になんとか滑り込みセーフ。

…持ってる。

のぞみで出立。

新岩国駅からはレンタカーに分乗。

合宿期間中、この愉快なスリー・レディース・ドライバーズにお世話になる。

そして雨足が強まる中、大畠大橋を渡り、周防大島への上陸を果たす。

宿に着いた頃には、はるばる来た感あり。

それにしても海の幸満載の宿の料理は旨かった。

持参したクエイヒに、日本酒を注ぎ、みんなで回し呑む。

この合宿は、間違いなく慶事である。

初日最後のワーク。風呂場でムカデを仕留める。

海間近、空気に磯の香る宿で眠る。

◆2日目◆

昨夜の雨が上がった。

朝になったら、なんと晴天である。

…やっぱり持ってる。

朝ご飯をゆっくり食べて、研修会場の橘ウィンドパークへ。

受付のおばちゃんが広島出身。

おじちゃんは安下庄出身。

とっても親切なお二人である。

ここで近藤先生のビデオを観る。

4本持参したうちの2本を鑑賞。

心から笑って感動し、改めてその“風格”を感じた。

つくづくこの人に師事する僥倖(ぎょうこう)を思う。

そして庄南ビーチへ。

瀬戸内海に浸かり、海水を呑み、穏やかな波の風景をしみじみと眺める。

いろいろなことを想い、嗚呼、もう死んでもいい、と思った。

でも、まだ死ぬわけにはいかない。

ここからメンバーは3隊に分かれる。

3隊共通で行ったのは、嵩山(だけさん)と竜崎温泉。

第1部隊は、噂の早瀬を超えて、かの情島(なさけじま)に上陸。

第2部隊は、評判のカフェで旨いカレーを食い、宮本常一記念館を訪問。

私の属する第3部隊は、快念寺、安下庄小学校を回り、安下庄の海の祭りに遭遇し、闇夜に輝く謎の仏舎利塔を探検する。

そして2日目最後のワーク。

夕食時、ムカデが右足を這い上がって来たが取り逃がす。

ムカデめ。

それでも夕食はまた旨い。

◆3日目◆

有志部隊は、午前5時13分の海からの日の出を見るため、早朝から島東部の片添ヶ浜方面へ。

これもまた見ることができたそうな。

…この合宿メンバーは絶対、持ってる。

そして何故か焼きたてメロンパンを購入して帰宿。

朝ご飯をしっかり食べてから、最後の訪問先、日見(ひみ)の大仏へ。

藤原期の阿弥陀仏は良いとして、キティちゃん、ウルトラマン、スヌーピー、キョンシーなどのバッタモン石像群にはエビぞった。

大畠観光センターに寄って、新岩国駅へと向かう。

左党の方々は駅売店で地酒の獺祭(だっさい)、雁木(がんぎ)などを買い込み、ここからは参加メンバーそれぞれの予定で次第に別れ別れとなる。

最後、のぞみで東京駅に着いたときに7名になっていた。(さらに郡山に戻る2名)

それぞれに抱えて来たさまざまな問題があり、近藤先生の縁があったからこそ、私も含めて、ここまで来れた11名である。

今回も故人を偲ぶ観光旅行なんぞではなく、瀬戸内海らしい瀬戸内海という場所を得て、各人が内に湧き上がって来るものをしっかりと感じて、成長に活かす本格的合宿であった。

今回の準備は本当に大変だったけれど、やりたいことは全部やれたなぁ。

ありがとう。

お疲れさまでした。


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2011(平成23)年3月6日(火)『実験台』

東日本大震災の避難所で、某専門機関が“実態調査”と称して被災者に“アンケート”を取ろうとしたところ、

「オレたちは実験台じゃない!」と激しい怒りの反発を受けたという。

その“アンケート”が

“被災者のための調査”なのか

“研究者のためのデータ集め”なのか、

どう体裁を整えたところで、当事者が実物を読めば、一目瞭然であろう。

被災者との当たり前の一体感があればそんなことにはならないし(しないし)(できないし)、

まず目の前の痛みが私の痛みとなり(であり)、そこから始まるものがあるはずだ。

その有無が伝わる。

特に(私を含めた)“こころのケアの専門家”の方たちよ、こころすべし。

被災者の前では、本音の境地が露呈してますよ。


2011(平成23)年4月6日(水)『さくら非情』

今日の暖かさで八雲の緑道の桜は一気に花開いた。

被災地の桜もほころび始めているだろう。

かつて子どもを不慮の事故で失い、それでも咲く桜の花を見て、残酷だと言った人がいた。

桜の「非情」は、冷淡、残酷ということではない。

桜の「非情」は、情を超えた存在ということなのだ。

仏教では、こころのある存在を「有情(うじょう)」と言い、こころのない存在を「非情」(あるいは「無情」)と呼んだ。

「有情」には、我による執着が生じるが、「非情」には、それがないのである。

先の人が、最近ようやく感じられるようになりました、と言われた。

それでも桜が咲くって、残酷なんじゃなく、有り難いことなんですね。

 

草木国土悉皆成仏。

 

すべての被災地に美しき桜が咲きますように。
 

2011(平成23)年4月5日(火)『災害医療』

今回の震災支援を医療面から考えると、

震災直後は、切ったはったの外科系による手術、処置の貢献度が高いのは明らかだ。

救命救急医療の現場を見ていると、「オレも救急をしっかりやっときゃ良かったかな。」と思うときもある。

しかし避難所生活などが始まると、急速にニーズが高まるのが内科系である。

生活習慣病に感染症、今度は内服薬などの処方が必要かつ重要となる。

やがて物資の供給もひと通り満たされ、住まいも手当てされて、ひと息ついてから本格的に必要になってくるのが、こころのケアである。

勿論、当初期からメンタル面のファーストエイド的な支援が必要かつ有効なことは十分承知しているが、“その後”の息の長い、そして(マニュアル通りでない)一人ひとりに合わせた丁寧なセラピーは絶対に必要である。

例外のあることを知りつつ大雑把に括れば、

大規模災害には、短期は外科による処置、中期は内科による処方、長期は精神科によるメンタルケア。

遠く離れているようで八雲での面談でも電話カウンセリングでも出番が始まっている。

どうぞどうぞ遠慮なく精神科医や臨床心理士を活用されたし。

さぁ、出動だ。



2011(平成23)年4月2日(土)『自粛』

東日本大震災の後、全国各地でお祭り、お花見、イベントなどの“自粛”が相次いでいる。

“自粛”の意味を間違えてはならない。

こういうときには楽しむべきではない、楽しんではならない、ということから来る“自粛”であれば、それは“自粛”ではなく“萎縮”である。

周囲から“〜べきではない”“してはならない”という批判・非難を受けたくないから=低い他者評価を受けるのが恐いから、

あるいは、われわれのこころの中に埋め込まれた“〜べきではない”“してはならない”という見張り番から責められたくない=罪悪感を抱きたくないから、

周りの様子を見ながら縮(ちぢ)こまっているだけの話である。

本来の“自粛”は、読んで字のごとく、「自(おの)ずから粛(つつし)む」という意味だ。

自然にやりたくない、やったって楽しくないからやらないだけの話である。

それならば本当にやらない方がいい。

両者では、同じやらないにしても、天と地ほどの差がある。

だから、やりたいと思う人、やって楽しいと素直に感じる人は、どんどんとやればいいし、楽しめばいいと私は思う。

「家族を亡くした人がいるのに…」という批判・非難は、あたかも他人の気持ちを思いやっているように偽装してはいるが、自分の“萎縮”に他人を巻き込み、人の自然な想いを封殺する、文字通り“殺し文句”だ。

生命(いのち)はそんなにケチ臭くない。

やがてわれわれも一人残らず確実に死ぬのだ。

そのとき、残された者までも生きながら殺すような死に方をするよりも、残された者に生を謳歌してもらいたいと願うような死に方をしたいと私は思う。


2011(平成23)年4月1日(金)『八雲総合研究所発足』

八雲とは、

次々と力勁(づよ)く立ち現れては、

あなたを包み慰め守り力づけ促して、

流れ消え行く雲。

素戔嗚(スサノオ)の雲

近藤先生の雲。


本日、八雲総合研究所が発足しました。



2011(平成23)年3月21日(月)『涙の匂い』

阪神淡路大震災でも指摘されたことだが、大勢で避難所暮らしをしていると、震災で家族を亡くしている人も少なくないため、自分だけが泣くわけにはいかない、というふうに考えて、悲しみの抑圧が起きる場合が少なくない。

先日の報道でも、避難所のトイレで、家族を亡くした高齢女性が夜中に一人忍び泣きされていたという記事があった。

感情というものは、感じたときに感じただけ表現されることによって初めて健全に解消され、次に流転していくことができる。(感情が強ければ表出を何度か繰り返すことも必要になってくる)

しかし、その感情を表現することが許されず、抑圧されてしまうと必ず心の奥底に貯まり、ただ貯まるだけでなく、その抑圧された期間に応じて量的に利子が付き、さらに質的にも変性してくる場合がある。

感情が抑圧されていいことは何もないのだ。

だから、今この日誌を読んでいる人で、もしこの度の震災で大切な人を亡くした人に出逢うことがあったならば、(その人との親しさの関係にもよるが、)その人の悲しみが健全に表出されているかどうかに、ほんの少しでいいから気を配っていただきたいと思う。

多くの人は気丈に「大丈夫」と言うだろう。

それでももしどこかに“涙の匂い”がしたら、あなたの悲しみが少しでも軽くなりますようにと願っている人間がここにいることを覚えておいてほしい、と(あくまで、あなたが心からそう思ったら、だけれども)伝えてほしいと思う。

悲しみの健全な解消には、泣ける場所泣ける相手泣ける機会が必要なのである。

私自身も勿論その一翼を担っていく。

2011(平成23)年3月20日(日)『情報と人品(じんぴん)』

東日本大震災、特に福島第一原子力発電所事故に関する政府、関係機関からの発表やコメントの内容そのものよりも、それに対する一人ひとりの反応を見ていると、そこにその人のパーソナリティ(人格)が如実に現れているのがわかる。

CIAや内閣情報調査室に独自の太い人脈を持っているとはとても思えない民間人たちが、

「政府は○○と発表しているが、実際は○○に違いない。」とか、

「きっと○○という事実を隠蔽している。」とか、

「どうせ一般国民のことなんかどうでもいいのさ。」

などと訳知り顔に語っているさまは、見ていて吐き気を催してくる。

そりゃあ、某(なにがし)かの事実の隠蔽があるかもしれない。

私もすべてを鵜呑みにしているわけではない。

そうではなくて、彼ら彼女らのコメントの内容が当たっているか否かではなく、

問題は、自分たちの否定的・悲観的な人間観・世界観・価値観に(必ず否定的・悲観的だ!)他人を巻き込もうとするその病的な姿勢にあるのだ。

それがものすごく気持ち悪い。

だからね、他人の断言に感化されやすい人たちよ、彼ら彼女らの流言飛語に惑わされちゃあいけないよ。

その情報が信頼できるかどうかを判断するコツは、情報そのものの内容ではなく、その情報を発信している人間の人品を観抜くことにあるんです。

2011(平成23)年3月17日(木)『I'm proud』

ようやく被災地各地から一人ひとりの消息や状況を伝えるメールが届くようになって来た。

それらを読んで私が誇りに思うのは、

少なくとも八雲や勉強会や合宿やワークショップで深く出逢って来た人たちは、

被災地内外を問わず、それぞれの置かれた状況において、

命からがら避難しようと(頑張るのだけがいいことではない)

職場や自宅に踏み留まろうと

援助に向かう役目を担(にな)おうと

決して私心に溺れることなく

随縁任天、縁に従い、天に任せて、動いておられるということである。

ああ、間違いなく同じ感覚で歩んできた仲間たちだと思う。

それが何よりも嬉しく有り難い。

ニセモノは一人もいないぞ。

マスコミは、今自分にできることは何か考えろ、と言うけれど、

私としては、今自分が何をすべきかを感じろ、と言いたい。

天命は考えるものではない、感じるものだ。

それがこの究極の状況において実際に行われていることを私は心から誇りに思う。

2011(平成23)年3月13日(日)『呪いを断つ』

東日本大震災の被災者たちの救出の声が聴こえるようになってきた。

しかし必ずしも喜びや安堵の声ばかりではない。

「目の前で家族を津波にもっていかれた。」

「助けられなかった。」

「まだ瓦礫の下にいる。」

「遺体も見つからない。」

「どうしてオレ(私)だけが助かったのか。」

「申し訳ない。」
………

いわれのない負い目は徹底的に消されなければならない。

カメラの前でも、他人の前でも吐露できず、ずっと抱えている人たちがいる。

その人のアタマの中では、惨劇の光景と自責の念が何度も何度も繰り返されている。

救いが必要なのはまだまだこれからだ。

専門職、関係者、一般市民を問わず、この人に言えない哀しみがないかどうか、どうぞ皆が気にかけておいてほしいと思う。

呪い、絶つべし。
 

2011(平成23)年3月12日(土)『生死の実相』

大きな震災が起きる度に、私の脳裡には、

パール・バックの『大地』や

深沢七郎の『笛吹川』に描かれた光景が広がる。

一方で、報道される過酷な被害状況に心がキリキリと痛みながら、

他方で、どうなってもおまかせ、という感覚に底支えされていることは、言いようもなく有り難いことである。

前者だけでは、感情に振り回されて、悲憤抑うつに浸ることになり、

後者だけでは、感覚麻痺の悟りすましと紙一重である。

ちゃんと感じて些(いささ)かもブレない、

胸は泣いて肚(はら)は据わっている、

生死(しょうじ)をおまかせしながら、ちゃんと生きて死ぬ。

それが、われわれ人間に与えられた本来の生きざまであるとつくづく思う。

2011(平成23)年3月11日(金)『東日本大震災』

私は大丈夫です。

あなたは大丈夫ですか?

2010(平成22)年3月19日(金)『平成21年度 謝恩会』

今夜は精神保健福祉士の養成コースの学生たちが開いてくれた謝恩会に参加。

午後6時に八雲の仕事を終えてから駆けつける。

いろいろな縁で今年度(平成21年度)から教えることになり、一年のうちに何度講義準備で徹夜したかわからんが、今となってみれば、良い思い出である。

可愛い教え子たちから、想いのこもった言葉をたくさんもらった。

学生からの信頼は、講師にとっての最高の名誉だ。

ありがとう。

一度でも私が教えた以上、君たちが成長したいと願う限り、一生私の教え子だ。

迷ったら相談に来ればいいさ。

現実の職場に出たら、慣れても良いが、決して擦れるなよ。

勁(つよ)く大きく育て!

卒業、おめでとう!

2009(平成21)年1月30日(金)『『私家版 八雲便り』発刊のお知らせ』

本日、製本された『私家版 八雲便り』が届いた。

近藤先生の本を出版する際にも味わったが、何度経験しても、出来たての本を初めて開くときの気持ちはなんとも言い難く良いものである。

九十七頁の薄くて飾り気のない本。

部数も二百しか刷っていない。

本当に自分自身を見つめ、成長を願っている方に届くものにしたかった。

本棚に蔵されるよりは、求める人たちの手から手へ読まれる本であってほしいと思う。

ひとつの工夫は、イラストレーターのSさんにお願いして、一点の華を挿(はさ)むことにした。

こういう知己がいて下さったことに感謝したい。

購入された方はお楽しみに。

関心のある方はホームページの案内を参照されたし。

2008(平成20)年12月30日(火)『周防大島を往く』

昨日、念願叶って、山口の周防大島(屋代島)に渡った。

亡師・近藤先生が生まれ育った島である。

大畠から大島大橋を渡り、周防大島へ。

折りしも防予汽船が通りかかり、大畠瀬戸を大型船がゆっくりと静かに進んでいく風情はいかにも瀬戸内らしい。

まずは島の北周りの道を進み、久賀から土居へ。

この辺りは、近藤先生の奥さまがナポリよりも世界のどの風景よりも美しかったと言われた海岸線である。

子どもの頃、毎夏、同じ瀬戸内の蒲刈島で泳いでいた私は、かつて環境汚染で緑色に濁った海を想像していたが、その海の透明度に驚いた。

最近の瀬戸内海は綺麗になったと聞いていたが、そのためなのか、元々ここの海が美しいのかは知らない。

そこから南下し、トンネルを抜けて、島の南側、安下庄(あげのしょう)に出る。ここが近藤先生の育った場所だ。

なるほどいかにも海に飛び込みやすいポイントが見える。

振り返って、あの祀りの山、嵩山(だけさん)を仰ぎ見る。

浜辺へ降りる。

どこまでも穏やかな波、のんびりとした海鳥の鳴き声、ほのかな磯の香り、そして傾いてきた陽射しに金波銀波がキラキラと揺れる。

時間がとまったような世界。

私の知っているのとは別の瀬戸内海がそこにあった。

衝動抑えがたく海水を掬(すく)って飲み、貝殻を拾って、車に戻る。

橘から沖浦を経て、今度は島の南周りに、大島商船工専前を通って、大島大橋に帰った。

お土産は、大島の味噌と海鼠(なまこ)とこのしろのおから鮨。

実に実に好い日であった。

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