までの『兵法家伝書(1)』『兵法家伝書(2)』『兵法家伝書(3)』『兵法家伝書(4)』『兵法家伝書(5)』『兵法家伝書(6)』『兵法家伝書(7)』『兵法家伝書(8)』『兵法家伝書(9)』『兵法家伝書(10)』『兵法家伝書(11)』に続いて、『兵法家伝書(12)』をお届けする。

今回がいよいよ柳生宗矩『兵法家伝書』の最終回である。

「摩拏羅(まぬら)尊者の偈(げ)に云(いわ)く、心(しん)は万境(ばんきょう)に随(したが)って転ず、転処(てんじょ)実に能(よ)く幽なり…
万境とは、兵法ならば敵の数々のはたらき也(なり)。其(その)一つ一つのはたらきに、心がてんずる也。たとへば、敵が太刀(たち)をふりあぐれば、其太刀に心がてんじ、右へまはせば右へ心がてんじ、左へまはせば左へてんずる、是(これ)を万境に随って転ずと云ふ也。転処実に能く幽なりと云ふ所が兵法の眼(まなこ)也。其所に心があとを残さずして、こぎ行く舟のあとのしら波と云ふごとく、あとはきえてさきへ転じ、そっともとまらぬ処(ところ)を、転処実に能く幽なりと心得(こころう)べし。幽なりとは、かすかにて見えぬ事也。心をそこそこにとどめぬと云ふ儀(ぎ)也。」
摩拏羅尊者(禅の伝法祖師の一人でインドの僧)が作った偈(仏の教えを詩の形式で表したもの)に「こころはいろいろな状況に応じて動いて行く。その動いて行くところが実に奥深い」とある。…
いろいろな状況というのは。兵法でいえば、敵のさまざまな動きのことをいう。その一つひとつの働きに応じて心が動くのである。例えば、敵が刀を振り上げれば、その刀に心が動き、(刀を)右に回せば心も右に動き、(刀を)左に回せば心も左に動く、これをいろいろな状況に応じて動くというのである。その動いていくところが実に奥深い、というのが兵法の眼目である。そこに心が跡を残さないで、僧の満誓(まんせい)の歌に「世の中を 何に譬(たと)へむ 朝ぼらけ 漕ぎ行く船の 跡の白波」(世の中を何に譬えようか。明け方に漕いで行く船の残す跡の白波のよう。)とあるように、跡が消えては次に移り、少しもとどまらないところ、その動いていくところが実に奥深い、とわきまえるべきである。実に奥深いというのは、かすかで見えないことをいう。心をそこにとどめないという意味である。)

 

漕ぎ出て行く船が作る波が、できては消え、できては消えて行くように、人の心も状況に応じて動いては消え、動いては消えて行く。どんな状況になっても心が動かないとすればそれは異常であり、それと同様に、心がいつまでも動き続けるとすればそれもまた異常であろう。異常で悪ければ、不自然と言おうか。心が、思いが、感情が、動いては消え、起きては消えて行く。状況に反応はしても、とらわれずにさらさらと流転して行く。それが心の本来の姿なのである。
ちなみにこの摩拏羅尊者の偈は、森田療法の創始者・森田正馬(まさたけ)がよく引用したことでも知られる。そのときは「心は万境に随って転ず、転ずる処(ところ)実に能(よ)く幽なり」と読まれていた(この読みの方が一般的である
ちなみに個人的には、「転」を「まろばし」と読むと、一段と雰囲気が伝わって宜しいと思う。

 

以上、12回に渡って『兵法家伝書』を取り上げて来た。
通読して思うことは、柳生宗矩が
剣術家であるということである。
『葉隠』では、思想的にバチッと明快なところがあった。
それに比し、『兵法家伝書』は、やや思想的に明快さに欠けるところがあるように思う。
しかしそれは欠点ではなく、柳生宗矩が剣術家、実践家であることによると私は思っている。
あくまで剣の上で実際に体験し、現実にやって見せることのできることを土台に筆を進めて行く。
それが剣術家・柳生宗矩の基本姿勢であり、
『兵法家伝書』が、思想書ではなく、実践書たる所以なのである。

 

 

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