今までの『兵法家伝書(1)』、『兵法家伝書(2)』、『兵法家伝書(3)』『兵法家伝書(4)』『兵法家伝書(5)』『兵法家伝書(6)』『兵法家伝書(7)』『兵法家伝書(8)』『兵法家伝書(9)』『兵法家伝書(10)』に続いて、『兵法家伝書(11)』をお届けする。
今回は『兵法家伝書(10)』から発展した話。
「万(よろず)の道に心懸けがつもり功がかさなれば、機が熟して大用(だいゆう)がはつする也(なり)。…熟すれば、全身全体にのびひろごり、手にも足にも目にも耳にも、その所々にて大用がはつする也。此(この)大機大用(だいきだいゆう)の人にあふては、習(ならい)のたけをつかふ兵法は、手をあぐる事もならぬ物也。見づめなどと云ふ事もあるべき儀(ぎ)也。大機の人の目にて、一目にらみたらば、その眼(まな)ざしに心をとられて、太刀(たち)をぬく手もわすれて、ただあるべし。」
(いろいろな場面において、大機大用(物の本体とそれから現れた働き)のことを心がけていれば、その積み重ねによって、機が熟して来ると、大用(大いなる働き)が発現して来るものである。…機が熟して来るにつれて、大用が全身全体に伸び広がり、手にも足にも目にも耳にも、その所々で大用が発現して来るものである。この大機大用に生きている人に出逢ったならば、習ったことだけを使う兵法では手を挙げることさえもできないものである。(そして)「見詰め」などということも起こって来るはずである。(それはどういうことかというと)大機の人の目でひと目睨(にら)んだならば、(睨まれた人は)その眼差しに心を奪われて、刀を抜くことも忘れて、そのままになってしまうのである。)
こういう話も新陰流という実践の剣法の場を踏まえて書かれているということが非常に重要である。
これを書いたからには、柳生宗矩は弟子たちの前で「見詰め」をやってみせなければならない。
でなければ、「見詰め」について書く資格がないし、口先野郎ということになってしまう。
これが実践剣法の厳しくも、良いところだと思う。
対人援助職も同じ。
我々は「見詰め」こそ行うことはないが、患者さん/利用者さん/メンバーさん/クライアントに対して、能書きだけでなく、ホンモノの支援を実践してみせなければならない。
いや、見せるも何も、その結果が患者さん/利用者さん/メンバーさん/クライアントに如実に現れる。
これもまた対人援助職の厳しくも、良いところだと思う。
そしてそホンモノの支援は、あなたの自力、我力によってではなくて、大用、即ち、あなたを通して働く他力によって行われるのである。