前回の『兵法家伝書(1)』に続いて、『兵法家伝書(2)』をお届けする。
「何程(いかほど)学問をし、文字多く知りても、道くらき人あり。書に向(むか)ひてはよくよみ、古人の注のごとくよみながせども、道理にくらければ、道をわが物にする事ならざる也(なり)。…学びずして、天然と道にかなふ人も有る也。」(『兵法家伝書』殺人刀(せつにんとう) 上)
(どれほど学問をし、言葉を多く知っていても、真実がわかっていない人がいる。書物に向かってよく読み、昔の人の注釈書を読むように読み流して行っても、真実がわかっていなければ、真実の道を自分のものにすることはできない。…(反対に)学ばないで、自然に真実の道にかなう(生き方ができている)人もいる。)
期せずして昨日の拙誌の内容に通ずるものとなった。
「道」とは「何かが通るもの」ということ。
何が通るのか。
あなたをあなたさせ、万人を万人させ、万物を万物させる働きが通るのである。
従って、「道をわが物にする」=「道がわが物になる」=「わたしをわたしさせる働きによって、わたしがわたしして生きて行く」こととなる。
その「働き」を“体験”“体得”することがなければ、ただの本読み=受け売り知識集めに終わる。
それならば、受け売り知識などを求めないで、直(じか)に“体験”“体得”に励む方が真実の道にかなう場合もあるかもしれない。
それが柳生宗矩にとっての新陰流でもあったのであろう。
机上ではなく、剣の上にそれを求めた。
ならば、あなたにとっての新陰流は何なのだろうか。
求むべし。そして、実践すべし。