今までの『兵法家伝書(1)』『兵法家伝書(2)』『兵法家伝書(3)』『兵法家伝書(4)』『兵法家伝書(5)』『兵法家伝書(6)』『兵法家伝書(7)』に続いて、『兵法家伝書(8)』をお届けする。

「心こそ 心まよはす 心なれ 心に心 心ゆるすな」(沢庵宗彭『不動智神妙録』からの引用)
(妄心こそ 本心を迷わす 妄心である 妄心に本心を 本心を許すな)
「右の歌、真(しん)[まこと]妄(もう)[みだり]をいふ也(なり)。心に本心、妄心とて二つあり。本心を得て、本心の様(よう)になせば、一切の事すぐ也。此(この)本心、妄心におほはれてまがりけがれぬれば、一切のしわざまがりけがれぬる也。本心、妄心とて、黒白(こくびゃく)なる物、二つならびて各々(おのおの)にあるべきにあらず。本心と云(い)ふは、本来の面目、父母未生(みしょう)以前よりそなはりて、かたちなければ、生ずると云ふ事なし、滅する事なし。形こそは父母もうみなせ、心かたちなければ、父母の生みなせりともいひがたし。人生(うま)るれば、そなはりて此(この)身にあり。」
(右の歌は、真と妄とのことを言っている。心に本心と妄心との二つがある。本心を得て本心のままに生きれば、すべてのことがなるようになって行く。この本心が妄心に覆われて、曲がって、汚れてしまったならば、すべての行為が曲がって汚れてしまう。本心と妄心は、白黒はっきりしたものが二つ並んでそれぞれに存在しているわけではない。本心というのは、本来の面目(本来備わっている真実の姿)のことであり、両親が生まれる前から備わっているもので、形がないので、(改めて)生じるものではないし、なくなることもない。形(ある身体)は両親が産んでくれても、心は形がないので、両親が産んでくれたとは言い難い。人が生まれれば、(最初から)備わってこの身にあるものである。)

 

この「本心」と「妄心」との関係を、ホーナイの「真の自己」と「仮幻の自己」に対比すると面白い。
生まれたときから備わっていた「真の自己」。
その「真の自己」が、後から付いた「仮幻の自己」の覆われて、曲がって、汚れてしまっている。
その「仮幻の自己」に「真の自己」を許すな、というのであり、ホーナイの精神療法に大いに通じるところがある。
そして彼女が自らの臨床体験から得た「真の自己」が、(両親が生まれる前から備わっていた)「本来の面目」の境地にまで深まる前に亡くなったことは返す返すも残念である。
柳生宗矩もまた、この境地をただの文字上の知識とせず、剣の上で実現しようとしたところに彼の真骨頂がある。

 

 

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