今までの『兵法家伝書(1)』『兵法家伝書(2)』『兵法家伝書(3)』『兵法家伝書(4)』『兵法家伝書(5)』『兵法家伝書(6)』『兵法家伝書(7)』『兵法家伝書(8)』に続いて、『兵法家伝書(9)』をお届けする。

「無刀は、とる用にてもなし、人をきらんにてもなし。敵から是非きらんとせば、取るべき也(なり)。取る事をはじめより本意とはせざる也。よくつもりを心得んが為(ため)也。敵とわが身の間(ま)何程(なにほど)あれば、太刀があたらぬと云(い)ふ事をしる也。あたらぬつもりをよくしれば、敵の打つ太刀におそれず、身にあたる時は、あたる分別のはたらきあり。無刀は、刀のわが身にあたらざる程にてはとる事ならぬ也。太刀のわが身にあたる座にて取る也。きられてとるべし。」
(無刀取りは、相手の太刀を取るためにするのでもないし、人を斬るためにするのでもない。敵が何としても斬ろうとしてくれば、その太刀を取るようになっているのである。相手の太刀を取ることを最初から目的としているのではない。よくその心持ちを体得するためである。敵と自分との間の距離がどれくらいあれば太刀が当たらないかということを知っておくことである。当たらないという感覚がよくわかっていれば、敵が打って来る太刀を恐れず、もしこちらの体に敵の太刀が当たるようなときは、当たるような分別の計算があるのである。無刀取りは、相手の太刀が我が身に当らないような距離では、太刀を取ることはできない。相手の太刀が我が身に当たる距離になって(初めて)その太刀を取るのである。斬られて取るのである。)

 

なかなかに込み入った文章である。
新陰流の「無刀取り」は、流祖・上泉伊勢守信綱(かみいずみ・いせのかみ・のぶつな)から柳生石舟斎宗厳(むねよし)が継承・完成させた、素手で相手の太刀を奪う奥義である。
その技術的な側面が注目されやすいが、無刀取りの真髄はそこにはない。
以前に「兵法家伝書(6)」において「水月」について触れた。
そこでは、遠くにあると思っていた月が、いきなり近くの水面に映るように、敵の太刀が届かないところにいたのが、スッと相手を斬ることのできる間合いに詰め入ることを述べていた。
しかもそれはあくまで覚悟を持って踏み込んで斬るという意図的なものであった。
しかし「無刀取り」は、「きられてとる」ところにまで踏み込みながらも、それが意図的に計算してはからったものではなく、自ずと行われるところにその奥義の真髄がある。
最早、斬られようと斬られまいとどうでもいいのである。
その超至近距離の状況下で、自ずと行われるのが「無刀取り」なのである。

 

 

 

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