「縄文人と方向、方角」の話。
群馬県のある縄文遺跡の中に多数の墓壙(ぼこう)が見つかった。
墓壙とは、遺体を埋葬するために掘った穴のことである。
既に遺骨は残っていなかったが、死者が身につけていた耳飾りが墓壙の同じ方向の端に片寄って残されていたことから、屈葬された遺体の頭の位置が同じ方向に揃えられていたことがわかった。
しかも、その先にはわざわざ細長い石が立てられ、さらに遠く浅間山(あさまやま)の方を向いていたのである。
明らかに縄文人は、特定の方向、方角ということに関心を持っている。
そして、その方向、方角には、重要な二つの特徴がある。
そのひとつが、この浅間山のような「山」の存在である。
しかし、「山」であれば何でもいいかというと、そういうわけではない。
それは「霊山」でなければならない。
専門家によっては、その「霊山」を、①神奈備(かんなび)式(神奈備については諸説あるが「神の隠れ住まう場所」という表現がしっくり来る)(=三輪山(みわやま)など集落に近い小型の山)と②浅間(あさま)式(=富士山などの高山大岳(たいがく))に分けるそうであるが、私はそういう形の上での分類は重要ではなく、その山の持つ霊的雰囲気が重要だと思っている。
実際、縄文人が好んで仰ぎ見て来た山が、そのまま山岳信仰の対象となり、現在「霊山」と呼ばれている。
(後に成立した神道において、三輪山自体が大神(おおみわ)神社(大和國一之宮)の御神体とされており、富士山もまた富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)(駿河國一之宮)の御神体とされている)
そして縄文人は、『縄文夜話(1) 『炉』の話』で話した「炎」を見たがるように、そういう「霊山」を見たがる。
(「縄文人と山」については、もう一度別に取り上げる)
そしてもうひとつ、縄文人が見たがったのが「太陽」、それも「二至二分」(夏至・冬至+春分・秋分)の「太陽」である。
今日のテキストに出て来た青森県の三内丸山遺跡。
そこに3本柱が並行して2列に並んでいる6本柱跡が発見された。
そしてこの2列に並んだ柱の真ん中に夏至(1年で一番昼が長い日)の太陽が昇るのである。
ということは、この2列に並んだ柱の真ん中に冬至(1年で一番昼が短い日)の太陽が沈むとも言える。
そしてさらにこの6本柱の対角線の延長線上に、春分および秋分(昼と夜の長さが等しい日)の太陽が真東から昇り、真西に沈む。
また、縄文遺跡においては、このような「柱列」よりも多く見られるのが「ストーンサークル(環状列石)」である。
特に秋田県大湯のストーンサークルは有名で、ここでは万座と野中堂という二つのストーンサークルが並んでおり、いずれも中心に細長い石を立て、周囲に放射状に石を並べるという日時計のような構造をしている。そしてこの二つのストーンサークルの中心を結んだ線の延長線上に夏至の太陽が沈むのである。
(皆さんよく御存知のイギリスのストーンヘンジ(Stonehenge)では、ヒールストーン(Heel Stone)と呼ばれる石の方向から夏至の太陽が昇る)
縄文人は日中の日の長さを年間を通して感じながら、「二至二分」の「太陽」の日の出あるいは日没を見たがるのである。
さらにこの「山(霊山)」と「二至二分」の「太陽」の両方を見たがるという欲張りな場合がある。
神奈川県の縄文時代の岡田遺跡に近接している寒川神社(相模國一之宮)は、神社から大山(おおやま)を望む方向=つまり大山の山頂に夏至の太陽が沈み、神社から富士山を望む方向=富士山の山頂に春分および秋分の太陽が沈むのである(これを寒川レイライン(Leyline)というらしい)。
御存知の通り、富士山も大山も霊山である。
こういう「山(霊山)」と「二至二分」の「太陽」の両方を兼ねたような遺跡が、国内にいくつも存在し、太陽が山頂に沈むとき、条件が良ければ、ダイヤモンドフラッシュが見えるのである。
以上が今日の八雲勉強会で取り上げたお話である。
やっぱり面白いな、縄文人は、と思う。
これからも勉強会でお話した縄文文化に関する話題を本欄で取り上げて行こうと思っている。
前回は、4月12日(日)『縄文夜話(1) 『炉』の話』。
次回の八雲勉強会は6月14日(日)。どうぞお楽しみに。