「『こだわり』というテーマで話をすすめてきました。そこで何にこだわるかというと、男性も女性もそれぞれの価値があると思っている。価値は、自分自身を中心とする自己中心的なものです。その意味で、非常に傲慢なものです。傲慢なものであると同時に、傲慢に気づかない我々はおろか者であることもわかりますね。そうしたことを明確に認識することを私は自己認識と呼びたいんです。

それはどういうことかというと、我々は大部分の生活においていろんなものにこだわる。自分の価値に執着し、それを人に要求し、それがうまくいかなければ、恨み、憎む。そしてさらに自分の欲望の充足のためにすべての人がいるような感じを持ち、それを自分の知恵でもって、自分の頭でもってできるような妄想を抱く。そういう妄想だとか、その他もろもろの自分自身の僭越さに気がつかない、我々はそういう無知、おろかさというものを持っているということになります。
私は、いつも患者さんの訴えを聴いているときに、ちょうどそれは何か大きな音楽の流れを聴いてるような気がする。その人固有のシンフォニー。そこにはいろんな欲望の音がする。その音楽は必ずしも楽しく、美しいものではない。むしろ、どろんとした、ドロドロの泥のようなものを感じる。
そういうものをだれも持っている。もちろん私にもある。ああ人間なんて弱くておろかなのだ。そのおろかさをほんとうにわかったときに、お互いの共感の世界というものが開けてくる。人間が、きれいごとでお互いにわかりあうということは、僕には信じられないのです。

私に、昔、ひとりの少女がいいました。
『先生、私は十七のときに人工流産しました。これは、お父さんにも、お母さんにもいってないんです。彼はそのときに怖がっちゃって、どっかへ行ってしまいました。自分ひとりで私は産婦人科へ行きました。あのときの心細い思いはだれにもいえませんでした。子どもを堕ろしたあとで、こんなことですよ、と出されたものを見せられました。そのとき私は、なんという罪悪を犯したんだろうと思いました』きれいごとの告白ではありません。
けれどもそこには、ほんとうにひとりの少女が身をもってぶつかった悲しみと、苦しみと、苦悶と、はずかしさと、深い自分の罪の意識を、自分の汚さをそのまま出して、しかもはっきりそれに打ち勝っている少女の姿がありました。私はすばらしいと思います。十七歳の子どもがですよ。やったことはどうか、道義的になんとでも非難してよろしい。しかしその、起きたことをその子がひとりで背負ってるんです。人間が自分を、汚かろうが、どうであろうが、間違っていようが、悪であろうが、何であろうが、そのものをそのものとして見る勇気を持つとき、人間は気高い姿を見せます。そういうのを僕は、自分を見つめる、見るというんです。
私は、良かったね、いえて良かったね、といいました。その重荷はみんな僕がもらうよ、あなたはイヤなことはみんな忘れてね、と。たったひとりで彼女は耐えてきたんです。こういったことはね、男性にはわからないものなんです。男性にはわからないけど、しかし同じように、男にもだれにもいえないものがある。そうしたものをね、ほんとうに見つめて、そのまま聴く。正しく見る。その勇気、それが大事なんだな。
この少女の場合ね、私は勇気といいました。確かに勇気なんです。どうして与えられたのかというと、この少女は仕方がなかったんです。私が勇気といったのではじめて自分で、あっ、そうかと気がついたけれども、彼女はそのとき絶望の果て、やむをえないところにまで追いつめられていた。さっきいったように、自分の欲望は他の人がかなえてくれるんだとか、自分の頭でなんでもできるんだとか、そんな思いはどっかへ飛んじゃっていた。もう自分はほんとうに無力で、何にもできやしない、そういう状態で、心のやり場がなかったわけです。人間というものは、自分の知恵だとか、傲慢だとかが消え去ったときに、かえって強くなるんですね。そして、そのときの力は自分の力ではないんです。…
この少女は何もなくなったときに、自分自身の力がほんとうになくなったときに救われた。自分の力を捨てたときに、はじめて人間はほんとうに大きな力を感じることができる。これが私は一番大事だと思う。…

私たちが自分の悪智、悪いはからい、そういったいろんなおろかな考え方から抜けたときに、自分の無力さに気がついたときに、大きな力のなかに生かされている自分を発見することができると思うのです。」(近藤章久『迷いのち晴れ』春秋社より)

 

「おろかさ」の自覚が、自分がどんなに愚かであるかということを認めることが、決して自己バッシングに終わらない、終わらないどころか、時に「気高く」さえあり、また、他の多くの人を救うことにさえなる、ということをこの文章から学ぶことができます。
というのは、この「ひとりの少女」のエピソードを読んだ何人もの女性から、辛い体験の告白を伺いました。
そして、この少女の告白のお蔭で、またこのエピソードを書かれた近藤先生のお蔭で、何人もの人間が救われました。
いや、そこに働いたのは、この少女の力でもなく、近藤先生の力でもありませんでした。
まさに「
そういったいろんなおろかな考え方から抜けたときに、自分の無力さに気がついたときに、大きな力のなかに生かされている自分を発見することができると思うのです。
その「大きな力」を感じたとき、我々の生きる悲しみを超えた、救いの涙がありました。
近藤先生の著作の中でも、(「情緒的」感動を超えた「霊的」感動をもたらすという意味で)名文中の名文のひとつだと思います。

尚、この「ひとりの少女」のエピソードは、当ホームページの「近藤章久先生のこと」に引用しています。

 

 

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