どうしても最初に恩師 近藤章久(こんどう・あきひさ)先生のことに触れておかなければばならない。そうすれば、自ずから私の精神療法における姿勢も明らかになると思う。
まず型通り、略歴を紹介するなら、
1911(明治44)年、山口県生まれ。東京帝国大学 法学部、東京慈恵会医科大学 医学部を卒業後、GARIOA基金にてニューヨークに留学。アメリカ精神分析研究所において、カリーン・ホーナイに師事。鈴木大拙、大谷光紹らと交流。帰国後、目黒区八雲に近藤クリニックを開設。また、八雲学園(女子高)の校長・理事長を務め、1999(平成11)年、遷化された。
ということになるが、これでは真の人物像が伝わって来ない。
よく上記の経歴から、「ホーナイ派の精神分析家」(カリーン・ホーナイに師事)だとか、「森田療法家」(東京慈恵会医科大学卒、高良武久に師事)だとか、「禅者」「念仏者」(自らの「体験」や鈴木大拙・大谷光紹との交流)だとか、「教育家」(八雲学園校長・理事長)だとか、果ては「目黒の捨聖(すてひじり)」とまで字(あざな)されて来られたが、そのどれもが先生の一面を表した表現に過ぎない。皆、なぜレッテルを張りたがるのか。登り道はいろいろあっても頂上はひとつである。頂上の話をしなければ意味がない。
では一体どんな方だったのか。ここでまた長々と説明を始めるほど私は愚かではない。端的に先生自身の言葉を引用するに如(し)くはないだろう。今、座右にあるものから抜き出してみる。
ある少女との対話である。
私に、昔、ひとりの少女がいいました。
「先生、私は十七のときに人工流産しました。これは、お父さんにも、お母さんにもいってないんです。彼はそのときに怖がっちゃって、どっかへ行ってしまいました。自分ひとりで私は産婦人科へ行きました。あのときの心細い思いはだれにもいえませんでした。子どもを堕ろしたあとで、こんなことですよ、と出されたものを見せられました。そのとき私は、なんという罪悪を犯したんだろうと思いました」きれいごとの告白ではありません。
けれどもそこには、ほんとうにひとりの少女が身をもってぶつかった悲しみと、苦しみと、苦悶と、はずかしさと、深い自分の罪の意識を、自分の汚さをそのまま出して、しかもはっきりそれに打ち勝っている少女の姿がありました。私はすばらしいと思います。十七歳の子どもがですよ。やったことはどうか、道義的になんとでも非難してよろしい。しかしその、起きたことをその子がひとりで背負ってるんです。人間が自分を、汚かろうが、どうであろうが、間違っていようが、悪であろうが、何であろうが、そのものをそのものとして見る勇気を持つとき、人間は気高い姿を見せます。そういうのを僕は、自分を見つめる、見るというんです。
私は、良かったね、いえて良かったね、といいました。その重荷はみんな僕がもらうよ、あなたはイヤなことはみんな忘れてね、と。たったひとりで彼女は耐えてきたんです。こういったことはね、男性にはわからないものなんです。男性にはわからないけど、しかし同じように、男にもだれにもいえないものがある。そうしたものをね、ほんとうに見つめて、そのまま聴く。正しく見る。その勇気、それが大事なんだな。
この少女の場合ね、私は勇気といいました。確かに勇気なんです。どうして与えられたのかというと、この少女は仕方がなかったんです。私が勇気といったのではじめて自分で、あっ、そうかと気がついたけれども、彼女はそのとき絶望の果て、やむをえないところにまで追いつめられていた。さっきいったように、自分の欲望は他の人がかなえてくれるんだとか、自分の頭でなんでもできるんだとか、そんな思いはどっかへ飛んじゃっていた。もう自分はほんとうに無力で、何にもできやしない、そういう状態で、心のやり場がなかったわけです。人間というものは、自分の知恵だとか、傲慢だとかが消え去ったときに、かえって強くなるんですね。そして、そのときの力は自分の力ではないんです。…中略…
この少女は何もなくなったときに、自分自身の力がほんとうになくなったときに救われた。自分の力を捨てたときに、はじめて人間はほんとうに大きな力を感じることができる。これが私は一番大事だと思う。
これは本当にわかった人でないと言えない言葉である。
本当に体得している人でないと相手に伝わらない言葉である。
熏習(くんじゅう)とは、話をしてもしなくても、その人物の立居振舞から自然(じねん)と匂い立つものが、相手をして本来の自己たらしめていくという妙用(みょうゆう)・感化の働きの謂(い)いである。
それが目の前で行われる方であった。
誤解あるいは曲解しないでほしい。いくら私が近藤先生のことを語っても、深い学恩を感じても、私は近藤先生になる気はさらさらないし、また断じてなろうと思うべきではない。そんな体(てい)たらくでは、それこそ近藤先生に合わせる顔がない。
私は本当の私にならねばならぬ。
そして、あなたも本当のあなたにならねばならぬのだ。