念仏を「易行」(易しい行)という。
ただ「南無阿弥陀仏」の六文字を称えれば救われるのだから、易しいと言えば、とても易しいということになる。
しかし実際にやってみた方はおわかりであろうが、この念仏が意外と難しい。
念仏にどうしても行者(念仏を称える人)の我が入ってしまい、すぐに空念仏、口先念仏、はからい念仏になってしまう。
やってみてわかるのは、易行どころか、『正信偈(しょうしんげ)』(門徒の毎日の勤行に用いられる偈文)にある通り、
「難中之難無過斯(なんちゅうしなんむかし)」(難の中の難、これに過ぎたるはなし)
これ以上難しいことはない、というのが真実であろう。
「ただ念仏する」ということのいかに難しいことか。
この「ただ」がなかなかできないのである。
そう言えば、禅の曹洞宗でも
「只管打座(しかんたざ)」(ただひたすら坐禅する)
という。
この「只管」がなかなかできない。
そんなことを思っていたら
4月19日付け本欄で取り上げた
「よろずのこと みなもて そらごと たはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞ まことにて おはします」(『歎異鈔』)
を思い出した。
「ただ念仏のみぞまことにておはします」の読み方を間違っていたことに気づいたのである。
これを
「ただ『念仏』のみぞまことにておはします」
と読んでは間違いであった。
「『ただ念仏』のみぞまことにておはします」
と読んで初めて真意に通じることに気がついた。
「ただ念仏」することができるかどうかが問題だったのである。