ふと気になって『新約聖書』(文語訳)を開いてみた。

マタイ傳福音書に
「人もし汝(なんじ)の右の頬をうたば、左をも向けよ。」(第5章39節)  
「汝らの仇(あた)を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。」(マタイ第5章44節) 
「これ天にいます汝らの父の子とならん為なり。」(第5章45節) 
とある。

また、ルカ傳福音書には
「汝らの仇(あた)を愛し、汝らを憎む者を善くし、汝らを詛(のろ)ふ者を祝し、汝らを辱(はづか)しむる者のために祈れ。なんぢの頬を打つ者には、他の頬をも向けよ。」(第6章27~29節
「汝らの父の慈悲なるごとく、汝らも慈悲なれ。」(第6章36節
とある。

これ、あなた、できます?
敵を愛せますか、心の底から?
例えば、あなたの一番大事な人を凌辱したり殺したりした相手でも。
よっぽどの偽善者でない限り、できるとは言えないでしょう。

そう。
勘の良い方は、かつて小欄に書いた『戒 私論』を思い出されたのではないでしょうか。

これらの聖句が示されたのは、それを実践することは、おまえらには無理だ、自分には無理だ、ということを愚かな人間どもに徹底的に思い知らせるためなのです。

そうなると、我々が進む道はひとつしかなくなります。
自分でなんとかできないのだから、自分を超えたものにすがるしかない、おまかせするしかない。
それが「御心(みこころ)のままになさしめ給え」であり、仏教でいう「南無」なのである。
神の御業(みわざ)が迷える子羊を通して行われることを「父の子となる」「父の慈悲のごとく、汝らも慈悲なれ」と言われているのである。
そうすれば、汝の敵を愛する、という奇跡が行われるかもしれない、人間の力ではなく、神の御業によって。
(ここらを勝手に解釈できるところがクリスチャンでない私の特権である)

昔、右浅側頭静脈あたりをヒクヒクさせながら、憎い相手のことを無理矢理頑張って愛そうとしているクリスチャンの友人を見かけたことがある。
偽善者になろうとするのはおやめなさい、
自力、我力、人力では不可能なことを認めて祈りなさい、
とクリスチャンでない私が彼を説教したのでありました。
それも実は、私にそう言わせたのは、私ではないんだけどね。

 

 

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