少しずつ“本当の自分”を取り戻し、恐い相手に以前なら言えなかった“本音”がようやく言えるようになって来たとする。
大変喜ばしいことであるが、そんなときに起こりやすいのが、ひとこと言っただけで全精力を使い果たしてしまい、「ふう。」と気持ち的に座り込んでしまう場合がある。
そうなると、最初のひとことで相手をノックアウトできたのなら良いのだが、そうできなかった場合、相手から想定外の反撃を喰らって、こっちがノックアウトされることになりかねない。
そこでやり返されてしまうと、相手からの反撃が恐くなり、以前よりも本音を言えなくなってしまうことすらある。
だから、予め申し上げておきたい。
本音の矢を射る場合には、一之矢で終わりとせず、必ず、二之矢、三之矢を次々と射る覚悟で臨むことである。
相手も一之矢に対して反撃できたとしても、まさか二之矢、三之矢まで来るとは思っていない。
仕留めるまで射続けるのである。
などと思っていたら、先月引用した柳生宗矩(むねのり)の著『兵法家伝書』の中に、このことがズバリと書いてあった。
「一太刀(ひとたち)打つてからは、はや手はあげさせぬ也(なり)。打つてより、まうかうよとおもふたらば、二の太刀は又敵に必ずうたるべし。爰(ここ)にて油断して負(まけ)也。うつた所に心がとまる故(ゆえ)、敵にうたれ、先(せん)の太刀を無にする也。うつたる所は、きれうときれまひと、まま、心をとゞむるな。二重、三重、猶(なお)四重、五重も打つべき也。敵にかほをもあげさせぬ也。勝つ事は、一太刀にて定る也。」
[意訳]一度刀を抜いて斬り込んでからは、もう反撃を許してはならない。どうしようかと躊躇(ちゅうちょ)したならば、二の太刀を敵から必ず打たれることになる。それで油断して負けになる。打ったところに心が留まってしまうから、敵に打たれ、最初の太刀を無駄にしてしまうのである。打ったところは、斬れようが斬れまいがこころを留めてはいけない。二之太刀、三之太刀、さらに四之太刀、五之太刀も打つべきである。敵に顔も上げさせないように打ち込むのである。勝つことは、一度刀を抜いたときに決まるのである。
但し、付け加えておくことがある。
自分の“我”を通すためにこれを使えば、ただの迷惑な攻撃野郎となる。
あくまで「自我」でなく「自己」、「神経症的自己中心性」ではなく「本当の自分」「真の自己」を生きるために行うことであることを忘れてはならない。