「人間の心的な構造を説明する上で、無意識についての学説があります。
フロイトが、人間を基本的に動かしているのは、意識的な自我ではなく、リビドー、あるいはイドと呼ぶエネルギーの貯蔵庫、つまり自分自身でも気づかない深層の世界、無意識の世界であると唱えたのは、二十世紀初頭の大発見でした。…そしてその門下のユングは、個人的無意識のさらに深層に、われわれの祖先や人類としての経験の集積である集合的無意識を考えました。
一方、仏教の方には、すでに五世紀の頃から、唯識思想という無意識論があります。あらゆる事物は、識、つまり意識の働きに基づいて現れますが、これは仮りの表象にしかすぎません。その識の根源には、阿頼耶識(あらやしき)という無意識があります。識は、この根源から出るものですが、いろいろな感覚によって、自分を対象化してとらえます。つまり、ここで自我というものが出てくるのですが…仏教は、それに自分へのとらわれ、我見、我執、エゴイズムの起源をみるのです。
感覚には、五感といって、見たり、聞いたり、触れたり、味わったりする感覚がありますが、識は、それらを統合する働きをもちます。それで、自分はこのように聞いたとか、味わったとかという、自意識が生まれます。そしてその自意識を、あたかも実体として見、自分であるかのように感じてしまうのです。しかし、これは感覚の作用による結果であり、実体ではありません。ひとつの仮想であります。ですから、この我執、迷妄のもとである識を打破して、その底にある阿頼耶識を認識していかなければならないと考えます。自分、自我というものは識が作り出したもので、実体的にはないのだ。いうなれば無我であるわけです。この無我を自覚した時、そこに小さな我にとらわれない自由で広大な世界が開けてくる。ここに落ち着きを見出すことができます。
これが仏教の考えです。阿頼耶識、つまり無意識の底に、生命の根源があり、ここに生命の知恵が流れているのです。長い長い、生物としての、人類としての進化の過程で蓄積され、連綿として伝えられてきた、生命の知恵があるのです。その意味で生命は、私だけのものではなく、私を超えた民族や人類の、ひとつの集合された無意識に宿っているということになります。ユングはこれに注目して、コレクティブ・アンコンシャス、集合的無意識と呼びました。
ところで仏教では、阿頼耶識そのものに執らわれることも、また嫌います。もっと自由な世界、もっと広い世界を見ようとします。民族とか、人類だけではない、宇宙そのものを蔵している無意識を、鈴木大拙先生はコスミック・アンコンシャス、宇宙的無意識と呼ばれました。
いわゆる悟りの世界、大悟徹底するということは、文字通り、底が抜けることであって、自分とか、自分でないとか、小さな自我を中心とした我執の世界がぶち破られてしまって、万物と同根、天地と一体、つまり、宇宙と自分がぶっ続きになることですから、生命に生かされているということは、そういう宇宙的無意識の世界を自覚して、それと一体で生きるということになります。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

個人的無意識 < 集合的無意識 < 宇宙的無意識。
「天地と我と同根、万物と我と一体」(僧肇)
私の大好きな言葉です。
無生物にまで広がる無意識の世界。
そしてそれはただの、深さ、大きさの話ではありません。
そこに「働き」があることを忘れてはなりません。
無意識はただのブラックボックスではないのです
そこには「生かす」「育てる」「愛する」働きが満ちています。
よって唯識仏教でいう「阿頼耶識」も「阿頼耶識」のままではおられず、「大円鏡智」に転識得智すると言われているのです。
深さ、大きさだけでなく、そこにある働き、力。
是非それを感じさせていただきたいですね。

 

 

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