電車で向かいに座り合わせた三人組の女性。
真ん中に五十代くらいの女性が座り、両脇は三十代か。
空いた車内で、聞くでもなく聞こえて来る会話。
どうやら三人は同じ職場のパート仲間らしい。
家事のよもやま話から、年配女性が語り出す。
「私、子どもたちの弁当を十八年作ったのよ。」
両脇の二人が代わる代わる言う。
「すごいですね。」
「お母さんの鑑ですね。」
五十代女性がさらに言う
「旦那の仕事も朝早くて、毎朝4時起きだったからね。」
両脇の二人も言葉を重ねる。
「信じられな〜い。」
「えら〜い。」
そして三回目。
「私、冷凍モノや買って来た惣菜は使わないから、朝から揚げ物もやってたのよ。」
そろそろ二人のうち一人が脱落して黙り、残りの一人が頑張って
「とてもマネできないわ。」
と大袈裟に言う。
ご満悦の五十代女性。
私は心中「もうやめてくれ。」と思いながら、目的駅に着いたのを幸いにとっとと下車した。
もうおわかりであろう。
全部これ見よがしの自慢話なのである。
まずそこが気持ちが悪い。
しかも当人は、私は◯◯している、としか言っていない。
「どうだ。すごいでしょ。」「これ、めっちゃ自慢です。」「褒めて褒めて。」
とは言っていないので、本人の中では自慢話をしていることを隠蔽できる(自覚しないで済む)。
その証拠に、もし誰かがこの人に、
「自慢話、やめなよ。」
と言えば、この人は真顔で
「え?なんのこと。」
と言うだろう。
ひょっとしたら、怒り出すかもしれない。
これが一層気持ち悪いのだ。
そしてさらに言えば、本人がいかにも言ってほしそうな言葉を察して言ってあげているこの二人の受け応えも問題と言えば問題である。
褒められるタネを蒔いておいて相手に褒めさせるという神経症的コミュニケーションを成功させてあげているのだから。
恐ろしいことに、対人援助職者の中に、この“よいしょコミュニケーション”を得意とする人が多く、しかも自分は良いことをしてあげているくらいに思っている。
嗚呼(ああ)、已(や)んぬる哉(かな)。
自分が神経症的なことをやらかしているのに、それに気づかないことを「無明(むみょう)」という。
全く光がない、真っ暗という感じ。
そんな人たちが巷には溢れかえっている。
それを心底情けないと思い、もうこんなことやめたい、と切実に思った人からが、私の同朋である。
一緒に話そうね。