かつて近藤先生がある講演の中で
「石にも生命(いのち)があるんだけどね。」
とポツリとおっしゃったことについてを書いた。
振り返るに、
人間に生命(いのち)があることは感じやすいし、わかりやすい。
また、それを動植物にまで拡大しても、そこに生命(いのち)があることは感じやすいし、わかりやすい。
しかし、それが石になると、無生物になると、感性の劣化した現代人は生命(いのち)を感じにくいのではなかろうか。
それではもったいない。
それではなさけない。
たとえそれが石であろうと、無生物であろうと、その存在を存在させしめている働きを感じれば、そこに生命(いのち)が感じられるのである。
古代においては、
小さくは、例えば、勾玉(まがたま)において、その形が胎児に似ていることもあり、生命(いのち)を感じやすいかもしれないが、実は元々、石そのものに対して、石が成育したり、数を増やしたり、自ら動いたりすることを感じる“感覚”があったのである。
これは、文字通り、見た目において、石が大きくなったり、数を増やしたり、自ら動いたりすることを意味するのではなく、その無生物の石を存在せしめている働きをリアルに感じた古代人の表現なのである。
中には、子持勾玉(こもちまがたま)といって、勾玉の周囲に小さな勾玉を付けたものまで存在する。
そして、大きくは、神の依代(よりしろ)(神が降臨あるいは憑依するもの)としての磐座(いわくら)=巨石信仰があり、和歌山・神倉(かみくら)神社のご神体・ゴトビキ岩、奈良・天之石立(あまのいしたて)神社の天の岩戸などが有名である。
特にゴトビキ岩には、岩なのに、無生物なのに、有無を言わさず、生きてると感じさせるものがあり、流石、熊野三山ができる以前からある聖地としての力を感じる。
こういうものをしっかり感じて行けば、翻(ひるがえ)って、人間において、自分自身において、自分以外の他人において、その存在を存在させしめている働き=生命(いのち)を感じることは、容易になるに違いないと思う。