彼は新進気鋭の仏教学者。
30歳そこそこで大学の仏教学科の講師となり、将来の准教授、教授は約束されていると言っても過言ではない。
学会での評価も高く、若手ながら各地からの講演依頼も増えている。
専門は禅。
自らも参禅し、国内の主だった禅寺だけでなく、海外の仏教、キリスト教、イスラム教などの坐禅、瞑想施設も研究のため訪れている。
そして参禅で出逢った女性と結婚し、すべてが順風満帆に見えた。
しかし勝負のときが訪れた。
結婚生活が2年目に入ったとき、若い妻からこう指摘されたのである。
あなたが熱心に禅籍を読み、参禅もし、国内外の宗教施設に行って、その体験や感動を語るところは、見聞きして来て、尊敬も信頼もしている。
でも、ふとプライベートなことになると、人からどう思われるかをひどく気にしたり、いろんな人の陰口や悪口を長々としゃべったり、こうしなければならぬ・こうするべきだにとらわれていたり、全く違うあなたが出て来る。
私も聖人君子じゃないから、同じようなことをやってるけど、少なくともそんな自分に対して死ぬほど情けないと思うし、そんな自分を超えて成長して行きたいと毎日毎日祈ってる。
でも、あなたからはそれが感じられないの。
サミーにとって(彼は妻からサミーと呼ばれていた)、禅は趣味なの?
これは痛烈な一撃であった。
形の上で禅に熱心なように見えて、具体的な日常の生きざまはただの俗人だったのである。
いや、正確に言えば、俗人なのが問題なのではなく、それを自覚し、死ぬほど恥じ、それを超えて行こうという切実な姿勢がないことが大問題なのであった。
奥さんの言う通り、彼にとっての禅は「求道」ではなく「趣味」となっていた。
「趣味」どころか、それは「思い上がるための手段」「職業としての生活の糧(かて)」にさえなりかねない。
国内外の坐禅・瞑想施設の探訪も、そういう意味では、観光旅行の延長線上と言われても仕方なかった。
サミーは茫然となった。
しかし、奥さんにはまだ二の矢があった。