自分が年齢を重ねるにつれ、見え方が変わって来るものに、自分も含めた年輩の人たちの姿がある。
若いうちは、未来の可能性について、無限の希望があった。
まさに『論語』でいうところの
「後生(こうせい)畏(おそ)るべし。焉(いずく)んぞ来者(らいしゃ)の今に如(し)かざるを知らんや。」(巻第五 子罕第九)
(若い人を畏れるべきだ。これからの人が今の自分に及ばないなどとどうしてわかろうか)
であり、人間への成長の期待は溢れるばかりであった。
しかし、自分が年を取って来てから、改めて年輩者たちを見ると、
「おいおい、そんなに残された時間はないぞ。」
という気がひしひしとして来る。
(中には、もう今生は諦めて来世にかけると輪廻転生を信じるならば、それもいいけれど、死んでみたら何もなかったりして(またはミミズに生まれ変わっても困る))
孔子は上掲の文章に続いて
「四十五十にして聞こゆること無くんば、斯(こ)れ亦(ま)た畏(おそ)るるに足らざるのみ。」
(四十歳、五十歳になっても、人間的成長が聞こえて来ないようでは、こりゃあもう畏れるに足らないな。)
と手厳しい。
年を取ってみてわかるのは、人生はそんなに長くない、ということである。
それが実感を持ってわかってくる。
だからこそ、生かされている間に一所懸命に成長した方がいいんじゃないかな。
自分が何のために生れて来たのか。
本当の自分を生きるとはどういうことなのか。
何をやって生きて死ぬのか。
それがわからずして死ぬのだけは、御免(ごめん)蒙(こうむ)りたい(と私は思う)。
そう思うと、蓮如の言葉もひしひしと感じられて来る。
「仏法には、明日と申す事、あるまじく候(そうろう)。仏法の事は、いそげ、いそげ。」(『蓮如上人御一代記聞書』)
(仏(ほとけ)の教えには明日ということはありません。仏の教えの真実がわかりたい人は急ぎなさい、急ぎなさい。)
ある晩、じっと鏡を観る。
映った顔が
「もういい年だぞ、おまえ。」
と言って来る。
残された時間は長くない。
そして死ぬまで成長だ。
なけなしの自力をはたいて、そして他力を頼みながら、一所懸命に成長して行きましょうね。