「私は、ひとの言葉をきく場合も自分の表現をする場合にも、実感というものをいちばん大切に考えます。実感しか価値がない。極端に言うと、実感に基づかない言葉はみな空語だと思います。一つの文章の中にも、他に大したものがなくても、一つか二つの実感のある言葉があったら私にはピーンと感じられます。それはありがたいことです。それが文章のいちばんの命ではないかと思います。
実感というものを感じれば、それはその人にとって疑いのないことなのです。疑いがないということは信じるということです。疑わないということが、信じるということです。そうなると自然に自分を信じ、他人を信じ、そして自分の生命を信じ、他人の生命を信じるようになります。自分の生命を信じている時に、自分自身が非常に健康に感じられます。このような時、たとえ誘惑があっても自然に打ち克つ力も出てきます。何かショックがあっても、自分の人生に絶望しない。自暴自棄にならない。悲観的にならないで済むと思います。ですから実感というものを何よりも大切にしたいと思います。実感は嘘を言いません。嘘の実感というものはあり得ないのです。
自分が自分自身に対して『ああ、俺はこういう欲望があるな、これもあるな』と、在りのままを知っていく、体験していくことが大切です。こういう実感、体験を重ねていくと、不思議なことに自分が愚かであることを知りながら、それでいて何となく落ち着いてきます。落ち着いて、しかも真剣なのです。大げさな身振りとかジェスチャーをしなくてもよくなります。自分に何か充実感が出てきます。どんな場面に臨んでも、サバサバして、不思議に自由なのです。人は自分を隠したり押さえつけたりすると、何かうしろめたい感じがするものですが、それがなくなってくるのです。他の人から『お前ずいぶん馬鹿だなあ』と言われても、『ああ、そうだよ』と平気で言えるようになってしまいます。…
人間関係でも…自分の心のありのままを認めて正直に語る時に、互いの共感が生まれます。お互いに相手の心の事実 ー 真実は認めざるを得ないでしょう。
このように考えると、何か人為的に子どもをよくしよう、立派に育てようというよりも、母親自身が自分自身を知っていて、自分の感じ方、願い、弱さ、愚かさ、強さを含めて自分の生き方などを自覚し、認識するということが、まず必要ではないでしょうか。…
現在の教育は…余りにも言葉や観念で人を導こうとする傾向がつよすぎます。しかし観念や言葉の力は実感の力には及びません。
子どもたちは、親の姿や日常の行動を、何気なく、しかも大切なところは全部見ています。親が気づかないうちに感じ取っているのです。親が家庭において、社会の中で、いかに生き生きと生きているかという、その具体的な事実が何よりも子どもの教育になるのです。子どもはその親の姿を、心に受けとめながら成長していきます。
そういう意味からも、子どもの実感を育てる、実感を共感し確認してやるという、親のほんとうの知恵にみたされた愛情がのぞましいと思います。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)
観念的な、知識偏重の教育と同じように、現代では、疑似的な体験、バーチャルな体験も、実感からの阻害をもたらしているように思います。
時には本を閉じ、ゲームをやめ、スマホを置き、タブレットを伏せて、実際に体を動かして、人と本音で出逢い、この世界を、(自分自身も他人も含めた)人間というものを直接体験したいものです。
そこから明確な実感が生まれて来ます。
そうして、親自身がまず豊かな実感を重ねて行き、それに基づいて、自分自身をよく知るということ。
それから、子どもの実感に共感し、認めてあげることによって、子どもの感じる力を育むことができるようになるのだと思います。
これは先生と生徒/学生、上司と部下、先輩と後輩、対人援助職者と利用者、セラピストとクライアントにもすべてあてはまる真実ではないでしょうか。
このかけがえのない生を豊かなものにしていくために、すべての人に、さまざまな実感、深い実感、存在の根底に響くような実感を味わって行っていただきたいと願っています。