幼少期に親から虐待を受けて、児童養護施設に入り、その後、里親家庭で育ったという若い女性。
いつも、自分なんかに生きている価値はなく、年を取る前に自殺するだろう、という思いがつきまとっていた。

それでも里親家庭の姉妹たちのことはとても大切に思え、将来、結婚を考えている彼氏もいるという。
この矛盾。

即ち、この女性の「本来の自分」は、人を愛し、人から愛され、生きて行きたいと願っているのだけれども、
彼女の
生育史のせいで、後から付いた「ニセモノの自分」は、自分は誰からも愛されず、生きている価値もない、と思い込んでいるのである。

この闇を払うため、クライアントにいわゆる“愛情”を注ぐセラピーがしばしば行われる。
しかし、医療福祉関係者がよく経験しているように、また、彼女の里親や里親家庭の姉妹や彼氏もまた実感しているように、それだけではなかなか「自分なんかに生きている価値はない」という思いは払拭されない。
それどころか下手をすると関わっている人たちが、私が/オレがこんなに思ってやってるのに、と業を煮やし、否定的な言動を浴びせてしまうことになる展開も少なくない。
(こういう言動を取らせること自体が、実は彼女の無意識のワナなのである)

私も“愛情”を注ぐことが無意味だとは思わない。
むしろ大いに注いでいただきたい。
しかしそれだけでは足りない。

私はこんな場合にこそ“他者礼拝”を強くお勧めしたいと思う。
彼女の見えないところでかまわない。
むしろ見えないところで、こころの中で、彼女の存在に対して、手を合わせて頭を下げるのである。
彼女の存在に対して、彼女の生命(いのち)に対して、こころからの畏敬の念を示す。
“感情/情緒”よりも、“霊性”に響く方が深い。
それも、
一度や二度では何も起こらない。
彼女に関わる人たちが、彼女に逢う度に、彼女のことを思う度に、他者礼拝して下されば、それは徐々に影響を発揮して行く。

“愛情”はどこまでいっても“情”であり、いくら本気でも、それはどこか水物なのだ。
それに対して、礼拝は違う、畏敬の念は違う、霊性に響くものは違うのだ。
自分の存在が拝まれる、自分の生命(いのち)が拝まれる。

いやいや、彼女だけではない。
自分の存在が拝まれる、自分の生命(いのち)が拝まれることは、すべての人間に体験していただきたいと私は願っている。

 

 

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