「父親だって昔は子どもだったのです。母親も娘の頃がありました、その頃の気持を思い起こしてみましょう。大人は若い者に対して自分を抜きにして、つい評価したり、判断したりしがちなものです。ためしに子どもを批判する評価の基準を、そのまま自分たちに向けてごらんなさい。それに耐えられますか。そんな無理なことを子どもに言ってもできるわけはありません。…
八雲学園の高校生がある校則違反をしました。あのくらいの年頃の高校生は、自分でしていることがどんなことか、ちゃんとわかっているのです。悪いとわかるけれどやめられない、という気持なのです。こういう気持は大人にもあります。するとその子が一度くらい過ちを犯しても、とがめだてするようなことは私にはできません。互いにそのような気持があるという共感の世界に立ち、しかしやっぱりやってはいけないことはやらないことだとわかり合えば、子どもも納得します。
教育ということを考える場合、教えるということは、こういうことをすればこういうことになるということを教える、つまり知識や情報を与えるということです。しかし育てるということ、教育の育の方は共感の世界でなければ育ちません。どこかに、『先生は、わかってくれる』というところがないといけません。…
少なくともひとたび信頼感を持ったら、どんなに叱っても、こちらの気持を理解してくれます。信頼や共感がないところにきつく叱っては、ただ怖いだけです。『あの先生はわかってくれる。わかった上で言ってくれてるんだ』ということが伝わらなくては、どんな言葉も役に立ちません。…
とにかく、親でも子でも、みんな同じ人間であるという気持、そして人間というものは自分も含めて完全でないということ、完全でないという悲しみを互いに感じるところから出発せざるを得ないのです。…
普通、人は大てい自分を棚上げして言っています。相手に共感する、あるいは相手を認めるということは、その人にいいところがあるから共感したり評価するというようなことではありません。そのような善悪の評価では決してありません。一般に世の中では善いことをすすめ、悪いことを罰するとよくなるという錯覚があります。人間は、他人に注意されたり教えられたりして、そう簡単に変わるものではありません。自分でいろいろ体験して、つまりいろいろな試行錯誤があって、あの人が言ったのはほんとうだと感じた時、初めて自分から変わるのです。それをしっかり感じないと、また誤りを犯してしまいます。何回か失敗して『あ、やっぱりそうですね。わかりました』とほんとうに気づいて変わるものです。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)

 

まずは「教育」の「教」と「育」の違い。
「教」は、知識や情報を与えるということ。
それに対し、「育」は、いわば、あなたもわたしも共に凡夫(ポンコツでアンポンタン)であるという「共感」のベースの上に、相手の成長を育んで行くということ。
次に、人間の変化・成長について、「
人間は、他人に注意されたり教えられたりして、そう簡単に変わるものではありません。自分でいろいろ体験して、つまりいろいろな試行錯誤があって、あの人が言ったのはほんとうだと感じた時、初めて自分から変わるのです。
頭でわかっても人間は変わりません。体でわかって、体験的にわかって初めて人間は変わるのです。
従って、それまでいろいろな試行錯誤をするのを待つ、見守るということも必要になってきます。
今回もまた近藤先生は、我々がわかっているようで実はわかっていなかったことを、明確に、かつ、わかりやすく、説いて下さっています。
この姿勢こそが、まさに私たち読者に対する(文章を通してさえ伝わって来る)「共感」の上に立った、私たちの成長を育む「愛」の実例なのでありました。

 

 

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八雲総合研究所(東京都世田谷区)は
医療・福祉系国家資格者と一般市民を対象とした人間的成長のための精神療法の専門機関です。