「父親は子どもにとって、手本ともなり鑑ともなる、一つのしっかりした像でありたいと思います。…
父親が社会の現実について、子どもにしっかりした情報を与えることができる。また人生の生きる上で、どうしたらよいかの信念を持っている。こうした父親に子どもは信頼感を持ちます。…
第二次大戦のあと…制度上も観念的にも、尊敬の対象としても父親像が一ぺんに失われてしまいました。父親の権威と権力が一ぺんになくなってしまったわけです。
それでは、いまの父親に権力意識がないかというと、ストレートには出ませんが、隠れた形であるわけです。昔はどうかというと、私の父などは、二言目には『何だお前、俺の言うことがきけないのか!』と権力意識丸出しでした。けれどもいまの親は、自分はまるで権力意識がないような言葉遣いをして、しかも裏に権力欲を持ちながら接するからおかしなことになります。
子どもは虚偽というのが嫌いです。これはほんとうは、大人でも嫌いでしょう。たとえ使っている言葉は丁寧でも、底に親の権力欲がみえ、結局自分の考えを強制的に押しつける時、子どもはそこに虚偽を感じとってしまうのです。…
男の子は男の親とほんとうに人間として真剣に対決する時があります。そうしてほんとうの男性になり、人間になっていくものです。理解だとか相互の対話なども大切なことですが、こうした対決も成長の上で必然的なことであり、それを通じて父親は子どもを鍛え、成長させていくものです。…
最近、特に親子の理解とか、人間どうしの理解が叫ばれ、たやすく『理解』という言葉を使いますが、理解などということは決して簡単なことではありません。自分の子どもですら、公平無私な愛情をもって理解するなどということはなかなかできません。…理解できないというのは互いに悲しいことであり、つらいことではありますが、理解できないことは、理解できないという事実として認めなければなりません。お互いに事実を認めることにおいて、そこに共感が成り立つのです。その時には、理解できなかった。それでは理解するために何が解決になるかというと、簡単に言えば、よく言うところの時間が解決することが少なくないものです。時間が解決するとはどういうことかというと、時間をかけてお互にいろんなことを経験し合うことによって、理解に近づいていくということです。いわゆる時熟とか時節因縁ということでしょう。
私は職業がら、親子関係がうまくゆく方法をよく聞かれます。ところが、うまくいかないのが親子関係なのです。それをうまくやろうというのは不自然なことです。うなくいかない、そこにほんとうの真剣さを要求されるものがあるのです。…
子どもが成長して、ある時期、親に刃向かってくる時があります。このような時、親はその攻撃から逃避したり、妥協してうまくやろうというのではなく、子どものために、剣道で言えばけいこ台になってやるくらいの気持がなければなりません。けいこ台であっても、いい加減に相手をすることはできません。時には激しく打ち込む場合もあるでしょう。
その時すぐには、子どもはその一撃を、親の愛情として受けとめることができないかもしれません。しかし、親にほんとうの愛情があれば、あとになって必ずわかってもらえるものです。
底流、アンダートーンという言葉がありますが、深い愛は底流のようなものです。
浅い愛は目に立つが、すべて深いものはかくれてわからないもので、あとになってからほんとうに深くわかるものです。その意味でも待つことが必要であります。はげしい対立のあとに感じられる理解のうれしさは、深く流れる底流があったればこそ味わえるものでしょう。」(近藤章久『感じる力を育てる』柏樹社より)
「子どもは虚偽というのが嫌いです。」
またもや近藤先生は大事な真理をあっさりとおっしゃるものです。
だからこそ大人が子どもに接するとき、嘘偽りのない姿勢が要求されます。
そして、親子の相互理解の難しさ。
時には激しく対立するときもあります。
そのときも親は真剣に誠実に子どもと向き合うということ。
そしてすぐに安易な解決を求めず、時熟を待つ、必要な時間をかけて本当の相互理解が深まっていくのを待つ姿勢が必要となります。
ここでもまた、思い通りにならないことを抱える力、(小児的態度ではなく)成熟した大人の力が要求され、さらに、子どもへの、心の深いところを流れるような、深い愛が要求されるわけです。
そういう時を経て、相互理解できないことに本気で苦しみ、真剣に対立した後だからこそ、味わえる深い喜びと相互信頼があるわけです。
そしてこのことは、親子関係においてだけではなく、すべての深い人間関係において共通の真実と言うことができるでしょう。