ちっくしょー!

コウメ太夫ではない。 

生きていれば、何かがうまくいかず、悔しい思いをするときがある。
しかし、同じ悔しい思いをするのにもニ通りある。

ひとつは、自分の思い通りにいかなくて悔しいとき。
これば、いわゆる我(が)が悔しがっているのである。
思い通りにならないのが悔しい、面白くないのである。
それでさらに頑張る(=我を張る)人もいるが、この頑張りには執着のイヤ〜な臭いがあり、もしそれで成功したとしても、そこにエラソーな自負が付いて来る。
そんな人たちはよく、悔しかったら頑張れ!という。
体育会系や熱血系に多い気がする。

そんなのは要らない。

それに対して、本来の自分を実現できなくて悔しい場合がある。
私が私でいられないのが悔しいのである。

そのときに悔しがっているのは、我々の我(が)ではなく、我々の生命(いのち)である。
そういうときの悔しさはむしろ、そうこなくっちゃ、という気がして来る。
あなたはあなたを生きるために、あなたに与えられたミッションを果たすために、生命(いのち)を授かった。
これは是非とも挽回する=自分が自分であることの幹を太くする=いつでもどこでも誰の前でも自分でいられるようになる=自分のミッションを果たせるようになる必要があるのだ。

二つの悔しさ、我(が)の悔しさと生命(いのち)の悔しさ、ゆめゆめ間違ってはなりませんぞ。

 

 

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