「慙愧(ざんき)に耐えない」の「慙愧」という言葉がある。
また、「羞恥心(しゅうちしん)」の「羞恥」という言葉がある。
いずれも「はずかしい」気持ちを表す熟語であるが、「慙愧」の方が「羞恥」よりも深く「はじ入る」ニュアンスがある。

そしてその熟語を構成する四つの漢字、「慙」「愧」「羞」「恥」はいずれも「はずかしい」という意味であるが、これが二つのグループに分かれる(諸説あり)。

まず「慙」と「羞」。
これは自分で自分を省みて「はずかしい」と思う気持ちを指し、
それに対し、「愧」と「恥」は、
他人の眼から見て「はずかしい」と思う気持ちを指す。

となると、後者の「愧」「恥」は、いわゆる他人さま、世間さまから見てはずかしい、ということであり、厳密に言えば、「他者評価の奴隷」の域にある、ということになる。
さらに言えば、他人の眼がなければ何をやってもずかしくない、ということにもなり、他者から責めらる可能性がなければ、大災害のときに暴徒と化しても良いのであり、旅の恥はかきすて、でも良いというこことになる。
よって、私に言わせれば、「愧」「恥」の「はずかしさ」は底が浅く、あまり当てにならない。

それに対し、前者の「慙」「羞」は、自分で自分を省みて「はずかしい」と思う気持ちなので、他者不要というところからすると、こちらの方が「愧」「恥」よりも良さそうであるが、その意味はさらに二つに分かれる。

ひとつは幼少期から埋め込まれた「見張り番」=「~でなければならない」「~であるべきだ」から見て「はずかしい」と感じる気持ちである。
これは外から来たくせに、自分の価値観のような顔をして居ついているので要注意である。
それは決してあなたの価値観ではない。
そうではなくて、それらは親や大人たちから来たものであるから、実は「慙」「羞」のように見えて、限りなく「愧」「恥」に近い「はずかしさ」なのである。

従って、本当の「愧」「恥」とは、あなたがあなたとして生かされて生きて行く上で、その道を外れてた言動を取って生きているときに「はずかしい」と感じることを指しているのである。

逃げる、誤魔化す、ヘタレる、日和(ひよ)る、怯(ひる)む、媚(こ)びる、保身に走る、思い上がる、わかったような気になる、上から目線になる、威張る、エラソーになる、偽善者ぶる etc. etc.

あああああ、はずかしいっ!!!

ホンモノの「慙」「羞」でいきましょう。

それが「情けなさの自覚」の原点です。

 

 

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